整頓されたスリッパに混じって並んでいた自分の靴を履き、律儀に部屋の電気を消してから戸を開ける。
開いた隙間からそっと顔を出して辺りを伺うと、そこは同じ形の扉が一定間隔ごとに設けられた細長い通路……要するに廊下だった。壁には絵が掛かっているが、窓は見当たらない。
ついでに言えばこの廊下には非常灯以外の電気も点いておらず、僅かな灯りを反射した白い壁が暗闇と混ざり青白く映っている。今が消灯時間だからだろう。どうやら外は真夜中のようだ。
人の気配が無いのを確認して、上条は後ろ手に扉を閉めた。
「……やっぱり、わからない」
場所を変えればこの建物について何か思い出すかもしれないと少し期待していたが、部屋も廊下も、結局は初めて見る光景であることに変わりなかった。
ここからでは外の様子が分からない以上、自分で歩き回って出口を探すしか状況打破の道は無いらしい。
(よし、何にせよこの階から出ないことにはな)
エレベーターも階段も、廊下の突き当たりにすぐ見つかった。壁には大きく4と書かれたパネルが貼ってある。まあ、ここは四階なのだと考えるのが普通だ。
(ふう、こいつでとりあえず一階にでも……)
行為と悪夢で憔悴した体は、自然に楽なエレベーターのボタンを押そうと手を伸ばす。
だが、その指はボタンの表面に触れる寸前で止まった。
(い、いや待て。もし万が一にでも五和が一階で同じようにエレベーターを使おうとしてたらどうする!? もし鉢合わせしたなら上条さんの居場所は袋のネズミ、どうあっても脱出、は……)
つ、と一筋の汗が首を伝って降りていく。
今の上条の中では、あの五和が某ゲームの鋏男並の恐怖の対象となっていた。
つまりは、彼女に捕まれば否応なくデッドエンドと認識しているのだ。
その『最悪の事態』を想像してしまった時、人体に最適な温度に調整されているはずの室内で、閉じた歯が小刻みに震え出す。
(くそっ、階段だ! こっちなら出くわしても逃げ道は後ろにある!)
何かを払いのけるように激しく左右に首を振り、上条は息を整えながら下に続く階段に目を向ける。
最低限のぼんやりとした灯りしかない空間は、どこにでもある上り下りの地をどこまでも不気味な闇へと演出している。
加えて、直角に曲がりながら下ろされている階段は必然的に死角も多く、降りなければ先が見えないことに恐怖は更に膨れ上がる。
(曲がった瞬間目の前にドーンと……ちょ、ありがちだけどそういうのは勘弁して下さい、年甲斐もなくマジで漏らしますよ!?)
特に怖がりではないが、怖気に鈍感なわけでもない上条はそれなりに足が竦んでいた。
(……でも、だからってエレベーターは…………っだーもう! 今はこれで降りるのが最良の選択だろうがっ!)
累乗して連鎖されていく悪夢を追い出すように激しく首を振り、上条はようやく移動の決心を固める。
どのみち助けが来る保証がない以上、待っていても同じことなのだから。
それでも、段を降りるたび踏みしめる足は弱々しく、彼は完全に吹っ切れてはいなかったようだ。
*
「ここで……二階、だな」
上条は降りたフロアの入り口の壁に、大きく『2』のパネルが貼られているのを確認した。
先程通り過ぎた三階もこの二階も、パネル以外は四階と変わらない構造のようである。当たり前と言えばそれまでだが、奇怪な事象が特に無いということに上条は数少ない救いを感じていた。
勿論、それは闇の蔓延る空間で一瞬彼を照らした、唯一つの儚い灯火に過ぎなかったが。
「あと、一階……」
幸か不幸か、ここに来るまでの間に人の気配は無く、一階へ続く階段の奥も同様である。
このまま平穏無事に此処を出られたら……と、上条は唯一つの希望を目先に置いて、再び階段を降りていく。
ようやく、少年は建物の出入り口、最下層である一階に辿り着いた。
「……?」
玄関でもあるここは、客を泊めるためだけに存在する他の階とはやはり構造が異なっている。
しかし、上条が面食らったのは、そんな当たり前のことではない。
「誰も、いない……?」
夜中に消灯をするホテルでも、防犯やトラブル解決のためフロントには常に関係者が待機しているものである。
だが、それらしきカウンターを含めたこの一階は他の階と同様電気が消え、誰が見張っている様子もない。
広い空間に自分以外が存在せず、静寂なる闇が周りを包む。上条はこの感覚に覚えがあった。
「人払い?」
それは、記憶を失った後の上条にとって最初に体験したといえる単純明快な魔術『人払いの結界』。名の通り、使えば周囲の人間を『自然に』遠ざけることができる。
本来は、公共の場での戦闘で一般人を巻き込むのを防ぐ手段などに使われる術式であるが……。
「何の、意味が……?」
何事も起きていないロビーには、そんな魔術が使われる理由が見当たらなかった。
首を傾げてみても、何か分かるはずもない。
それとも、これから何かが始まるのだろうか。
「!」
そこに思い至って、上条は益々警戒を全身に張り巡らした。
(もしかすると、此処に五和のおかしくなった原因も……)
またこの右手の仕事になるか、と、臨戦態勢を整える上条。
いつでも目前に幻想殺しをかざせる体勢で、とりあえず受付から調べようと一歩踏み出して、
トン、と。
肩を叩かれた。
「……っ!」
頭上で氷入りのバケツをひっくり返されたような気分だった。
愕然とするあまり声すら出ない。
見開いた目と目の間を、滴となった冷や汗が皮膚を伝って滑り落ちていく。
背後の確認を怠った……と、後悔するがもう遅い。
(……ま、さ、か)
相手が敵なら、こちらが振り向く前にやられる状況……いや、後ろの者はもはや生殺与奪の権を手中にしてしまっただろう。
これまでに命の危機は何度も経験していた少年も、先の悪夢で心が挫けかけている今、立ち向かう勇気が湧くわけがない。
ただ、考えるほど押し寄せる恐怖を受け止めるしかない。
否定しようとするほど考えてしまう。後ろにいるのが、もし、濁った瞳の少女であったなら……
「…………!!」
一筋の救いもない状況に、絶望の淵に立たされたその時、
「私です、上条当麻。当麻?」
……耳から入って来た声が、転落しようとする上条の意識を踏みとどまらせた。
その声は、自分を壊そうとした少女の声ではなかった。
違う。
後ろにいるのは味方だ。
そう自身に言い聞かせ、それでも吹っ切れずぎこちなく振り向いた先には。
「……かん、ざき…………」
顔色を伺うように、こちらの顔を至近距離で覗き込んでくる神裂火織が居た。
彼女は上条の反応を見ると僅かに頬を染め、
「……プライベートの時は、下の名前で呼んで欲しいですね」
と付け足した。
皆の前で毅然と振る舞うこの完全無欠な聖人は、二人きりの時には妹のような甘えたがりと化す。
自分だけが見ることのできる彼女の姿に……上条は、凍てついた背筋に暖かみが戻っていくのを確かに感じた。
終わりどころか、救いの手であったとは。
この孤独の暗闇の中で、初めて上条がホッとできた瞬間だった。
神裂は、放心気味な上条の手を取って、
「行きましょう、間もなくあの子が戻ってきます」
毅然とした女教皇の顔に戻し、そう言ってみせた。
威厳を秘めた瞳。
例え彼女が聖人やらの肩書きを何ら持たないただの女であっても、今の上条にはとても頼もしい存在に思えたに違いない。
震える足も、いつの間にか止まっていた。
「……ありがとな、火織」
まず、駆けつけてくれたことへの感謝。
真っ直ぐ目を見て言うと、すぐに硬い表情を崩して照れたような微笑みを返してきた。
返事はもらえた。
だが、これだけでは終われない。
想いに応えるために、謝罪しなければならないことがあるからだ。
「……許してくれなんて、思わない。俺、本当は五和と――」
「見くびらないで下さい」
しかし、その先を言おうと動いた唇は、白く長い人差し指に押さえ込まれた。
他の女との肉体関係。
愛した男の罪深い隠し事を知った上で、彼女は聖人……いや、聖母のごとく微笑みを浮かべたままだ。
「その程度で貴方を嫌うような、気の小さい女ではありません」
ゆっくり人差し指を離すと、豊満な胸の谷間に少年の頭を抱え込む。
「誰も平等に見捨てず、望めば望むだけ愛してくれる……そんな貴方に、私は惚れたのですから」
大きな乳房に顔を挟まれる少年。
しかし、不思議と劣情はこれっぽっちも湧いてこなかった。
子供が母親に抱きしめられているのと同じで、邪な考えが微塵も過ぎらなかったからだろうか。
(……ああ…………)
今一番近くにいる女性の大きさ。
背が高いとか、強いとか、そんなことを差し引いても。
背中に回されているのは僅か二本の腕なのに、上条は全身を包み込まれているような錯覚を覚えた。
(暖かい……)
熱すぎる故の痛みに全身をボロボロにされた上条には、この人肌の温みが身にしみた。
本当に、心からホッと息を吐く。
気持ちに余裕が戻ると、この女性のことを更に感じたいという欲が生まれてきた。
(もっと、強く……)
今度は自分から、目の前の細くくびれた腰に腕を回して引き寄せる。
ぎゅっと抱きしめると、神裂の抱きしめる腕も更に強くなって、
「あら、お 熱 い で す ね え」
……耳に届いた、第三者の声が。
全ての甘い幻想を、再び凍てつかせた。
誰の声? …………確かめるまでもない。また震えだす足が、全て教えてくれている。
二人ともを選んでしまった哀れな男へ、当たり前の結末が下される。
【当然の苦しみを、運命が誘う。震えだす足が覚えてる、確信に】
――来た。
――壊しに、戻ってきた。
――また、あの狂った宴を始めるために?
「ッ……!!」
次の瞬間、力尽きていた上条の股間が、激しい痛みを訴え始めた。
脳が失神するほどに絞り尽くされた生殖器官の、これ以上は危険だ助けてくれと泣き叫ぶ危険信号。
声を聞いただけで、こんなに怯えなければならないのに、
乾いた足音が一歩一歩、だんだん大きくなりながら繰り返されるのが聞こえてくる。
――こちらに、来る。
――どこから? ……見えない。顔が包み込まれたままだから。
(仕方ない、何もかも後回しだ畜生!)
少年の両腕が、馬謖を斬る思いで聖人の体に突き立てられた。
抱き合ってる場合じゃない。
逃げろ、早く、
ここから、
……早、く。
(…………え?)
上条は、何が起こったのか分からなかった。
必死に全力で突き立て、突き飛ばす気で力をこめたはずだった。
それなのに。
(……そんな、)
掴んで、引き剥がそうとしても。もがいて、振りほどこうとしても。
頭の後ろに回された、聖人の腕は。
鉄のように、硬く、強く。
――捕らえた獲物を、離さない。
(…………うそ、だ)
腕から、足から、全身から力が抜けていった。
間もなく、アレが戻ってくるから、一緒に逃げるのではなかったのか。
「行きましょう。これからの宴は、あの子と共に」
このとき、暖かく柔らかく、快かったはずの抱擁の感触は、どんなに強い抵抗も虚しく吸い取る悪魔の拘束に変わってしまった。
「愛しているなら、平等に。私にも、あれくらい激しく……させてくれますよね?」
――疲れ果てた羽虫が、これ幸いと舐めた極上の蜜。
――その蜜に含まれた麻痺毒は、羽虫を消化液の海へ突き落とす。
「一通り【オモチャ】は揃いました。それにしても、先に見に行って下さって助かりました女教皇。危うく逃げられちゃうところでした」
「この人の生命力は侮れませんから……それと、今は対等な女同士ですよ五和。さっき啖呵を切ったように、私のことは名前で呼びなさい」
「フフ……そうですね、火織。これからが楽しみです」
(だ、れ……か……)
鼻と口が、胸に押し付けられていた故の酸欠が、ここにきて上条の意識を閉じにかかった。
最後に助けを求めたのは、誰に対してであったか。
しかし、具体的に顔が思い浮かぶ前に。
少年の意識は、再びブラックアウトした。