真夏日に比べ、徐々に空気が涼しさを帯びてくる晩夏とは言え
夏の夜にも関わらずエアコンをつけ忘れたその部屋はやはり暑かった。
そんな、思わず普段ならば手で仰いで涼しさを確保するであろう部屋の中を支配していたのは、二つの荒い呼吸音。
一つは、流石に幼い自分の体に疲労感を覚えはじめたのであろう彼のもの。
もう一つは、そんな幼い彼にされるがままにされ、その彼の行為によって乱れさせられた私のもの。
そんな、お互いの規則的な呼吸音だけがしばらくの間続いていた部屋に、金属が軽くぶつかり合うような音が新たに加わった。
彼が己のズボンにまきつけられたベルトを外す音だと……瞬時に理解できた。
(小学生でも……ベルトをするものなんだな……)
ことここに及んでそんなどうでもいい考えが頭をよぎったのは、決して私に余裕があったからではなく、むしろその逆。
そんな事しか考えられない……そんなことを考えてしまうほどに、私の頭は真っ白になっていたのだ。
……その、思考をはばむ白い霧を生み出したものはなんなのか
そしてその、払おうとすれば払えるかもしれない霧を払おうとしないのが誰なのか……私は自分でその二つを分かっていながら……恐らくそれに気づかないフリをしていた。
していた……と、思う。
少なくとも、このときの私にはそんなことを考えられるゆとりはなかったし、なによりそれを簡単に認めてしまえるほど、私の思考は素直ではなかった。
例えば、心の中にくすぶる自分では認めたくない感情があったとする。
もし、たとえ心でそれを認めていたとしても、頭でそれを理解して納得する、ということはそう簡単ではない
……そう、たとえ心底で何を想っていたとしても、それがすぐに表面化すること。『させること』はあっさりとはできない。
―――そんな、本当にみっともない悪あがきのような思考だけが、私にとっての最後の支えであった。
「……ん」
彼がズボンを下ろし、そしてトランクスもゆっくりと脱ぎ去った。
庇護するものがなくなったその場所には、やはりまだ子どもらしい大きさの……しかし
そう思えるからこそ余計にその今現在の姿に違和感を覚える、膨張し、いきり立ったものが存在していた。
「ん……しょ」
下半身の衣類の一切を脱ぎ捨てた彼はしかし、すぐに行為に移すことはしなかった。
下半身のそれと同じように、上の衣類も脱ぎ、実質的な全裸になる。
その後、彼は指だけを私の秘部へと伸ばし、軽く触れただけでくちゅりと音のするそこのぬめり具合を確かめた。
クチュ……チュ……
「ふ……ぁっ」
「……うん、ちゃんと濡れてるね」
その秘部の濡れている理由が、決してこの部屋の気温による汗だけではないということを
先ほどその身をもって証明されてしまった私の漏らす声にも意を介さず、証明した側である彼はふっ、と少し満足げに笑っていた。
しかしそれも僅かばかりの時間のことで、すぐに表情を固めた、彼はその下半身のものを私の秘部へと導くために腰を誘導しようとし……
ぎゅっ
私の脚に両側から挟まれ、その動きを止めた。
「はぁ……ぁ……ぅ……」
「脚、動くようになってたんだ、先生」
ほとんど反射のようなものであったと思う。
正直、そこに彼の行為を阻もうとする意思があったのか……そもそもそんな思考自体がまだ残っているのかどうかすら分からなかった。
ただ、私自身も気づいたのはつい先ほどだったのだ。
アルコールが回ったおかげでまともに力が入らず、故にここまで彼の行為に自由を許してしまった要因の一つである私の両脚が、動くようになっていた。
(だが……これは……)
結論から言えば、脚は本当に『動くようになった』というだけであった。
めいっぱい力を込められるような感覚は一切得られず、今現在の状態も、動くようになっただけの伽藍洞のような脚をせばめて
ただ彼の体が秘部へととどかぬように、その経路をほんの少しだけ狭めたにすぎない。
こんな程度の抵抗では、たとえ相手が子どもでも簡単に力負けをするだろう。恐らく、彼に脚を開かされてしまえばひとたまりもないだろう。
……しかし、何故か彼は私の脚を押し開こうとはせず
それどころかあっさりと―――そう、あまりにもあっさりと、私の脚の間からその身を引いた。
「え……」
まるで予期していなかった彼の行動に、私は呆気にとられたような声を上げてしまう。
それがまるで脚を無理やりに開かされることを期待していたように自分で聞こえて、思わず唇を引き結んだ。
しかし今までならばその反応を契機に私を責めたはずの彼の言葉も、今回は聞こえてはこなかった。
彼はただ立ち上がり、歩き、そして最終的に、私の丁度両脇下に膝が位置するように私にまたがり、仰向けの私の顔と丁度対角線になるような場所から私を見下ろしてきた。
「先生……」
その、私をただじっと見下ろす目があまりにも純粋な黒を含んでいるのが分かり
私自身も、彼の目から自分の目が離せなくなってしまう……といっても、彼から見てみれば私の瞳はさぞ曇り
元々の状態よりも伏し目がちで、しかしそのくせ大きく揺れているように見えたであろうが。
そんな状態でお互いいる不思議な沈黙がどれほど続いたであろうか……やがて彼がゆっくりと口を開いた。
「先生は……俺のこと……俺に好きって言われるの……いや?」
……そんな言い方はずるい。
……嫌なはずがない……どうすれば嫌になれるというのだ。
いつも身近にいて、多少捻じ曲がってはいてもいつも私を慕ってきてくれて。
……そして……私の事を、私の目をまっすぐと見て『好き』だといってくれる彼を……どうやって……
彼の問いかけに何も答えることができない私は、よほど情けない顔でもしていたのだろうか。
頭上の彼は少し申し訳なさそうに苦笑し、私に詫びた。
「ごめん……さっきのはずるいよね……先生は嫌なんて言わないよね……優しいから」
じゃあさ、と、彼はもう一度表情を固め、先の問いと同じく真っ直ぐな黒い瞳で私を見つめ、問うた。
「先生は……俺に好きって言われるの……嬉しい?」
内容的には先の質問をただ逆説的に聞いただけだ。
子どもが使うには少し趣味の悪い言葉遊びだと思う……しかし
普段ならばそう思うであろう言葉に私は、気づけば小さく……本当に小さくだが確かに……頷いていた。
「俺に好きって言われて……驚いた?」
小さく頷く。
「俺に体触られて……気持ちいいと思ってくれた?」
小さく……本当に小さく頷く。
「俺とするの……やっぱり嫌だと思う?……『ダメ』っていうのじゃなくて……『嫌だ』って思ってる?」
首は……動かなかった
「それとも……本当はしたいって……俺にしてほしいって思ってくれてる?」
また首は動かない……唇は沈黙を破らず、私の首から上の部位が彼に答えを返すことはなかった
その代わりに……
「あ、本当はしてほしいのに、体面を守るために、してほしくないって本当のこと隠そうとしてる顔だ」
ビクッ!
首から下の部位が見事に驚き、跳ね上がり、今までのどの反応よりもはっきりとした答えを返した。
「あ、ごめん嘘……流石にそんな細かい表情までは……」
「…………きみ」
「あ、あははは……ご、ごめんなさい」
多分、そうとうに恨めしそうな目をしていたのだろう私に対し、彼は目を反らし苦笑気味で謝罪した。
今日恐らく初めてであろう、私が優勢で、彼が劣勢な立場に立った瞬間だった。
「……でも、さっきの反応と……表情は、先生が図星をつかれたときのだって……分かるよ」
しかしそのようやく与えられた攻めのポジションも彼の言葉一つによってまたも簡単に奪い返されてしまう。
今までも散々同じようなことを言われたというのに、今になって始めて顔に熱がこもるのが分かった。
多分、さっきのやり取りで多少冷静さを取り戻し、その上で今の状況を再認識したからだろう
……結局はあまり変わっていない気がしなくもない……というか、むしろダメージが増加している気がしてならない。
「俺とするのに踏み切れないのって……俺がガキだから? それとも俺が先生の生徒だから? ……いや、その両方か」
さらにそこに追い討ちのようにダメージを加算させる彼の目はしかし、どこまでも真剣で、澄んでいて。
その目で持って、彼は私が往生際悪く最後までしがみついていた支え、それを叩き、壊していく……壊れていくのを私は感じた。
「ねえ、先生……」
そして彼も、明らかに私のそれを突き崩すつもりで私へと問いかけてきていた。
それをする彼の目、行為は彼の言う想い……彼の行動が本当に……そう、本気であるということを嫌でも私に思い知らせるもので……
「俺は……どうやったら先生に男だって思ってもらえる? 小学生のガキや、先生の生徒じゃなくて今は……今だけは、先生のことを好きな一人の男だって見てもらうには……どうすればいい?」
それら全てが、私の支えの崩壊に拍車をかけていることも、私は感じずにはいられなかった。
徐々に徐々に……少しずつではあるが今まで刻み付けられた傷がお互いにその亀裂を結び合い、その支えを壊そうとしていく。
ぴきっ、ぴききっ……と、確かに崩壊の音を立てながらその支えという名の柱に無数の罅が入っていくこと。
私はそれを止めなかった……止めようとしなかった……そして私は……
「……ほ……い」
……私はその、もうほとんど崩壊寸前の
だがしかしまだ柱としての機能は失っていない、今からならまだ修復は可能だとかろうじて思える柱の前に立ち……
「……きだと……い……しい」
「え?」
拳を振り上げ―――
「もう……一度……『好き』だと……言ってほしい」
思いっきり、その柱に振り上げた拳を叩き込んだ。
「……先生、好き」
「…………ありがとう」
何かが割れて、崩れて、倒れて、バラバラに砕け散る音を
確かにその時、私は聞いたような気がした。
ップ……くちゅ
「……ふ……ぅ」
ズ……ヌ……
「うっ……あぁ……はあっ」
ヌプ……ズププ……ニュグ……ズプププ
「うぁぁっ! ん、くぅ……ぁ……ふぁ!」
「くっ……全部、入ったよ……先生」
「っ……あ……ぁ」
久しく感じていなかった異物感を自分の中に感じながら、私は苦しげに彼の言葉に答えた。
やはり年齢ゆえに大きさはそれほどではない。しかし、だからといってその快感に耐えられることが簡単かということはまるでなく
私は私の中にあるモノが小さく脈動するたびに体を震わせ、みっともない声を上げる。
「っ!……き……つ……」
私に自分のモノを挿入した彼も、流石に今までのように私を翻弄できるような余裕はなくなっていた。
その表情は苦悶で歪み、しかし反面、与えられる快感から呼吸は激しく上気していく。
お互いにひとしきり呼吸を整えてからであろうか(といってもまだ十分に乱れていたが)……彼が意を決したように私に言葉をかけた。
「う、動く……よ。大丈夫……先生?」
「んっ……あ、ぁ……」
その問いに私は、ゆっくりと……今度は確実に頷くことで彼の気持ちへと応えた。
「っ……く……ぅ!」
ズ……チュ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ずちゃ、ぬちゅ、ぬちゅ
「んくぅッ! はぁ、あっ、はっ……やっ、んッ、はぁ、はぁっ……や」
前戯の時と同じく、大きさとテクニックの不足をカバーする力強さと速さに、私の体はあまりにも簡単に反応する。
久しく感じていなかった異物感、ストロークのたびに走る強すぎる快感。そして―――もうごまかしようがない―――拭い去ることは出来なかった背徳感に体が震える。
タオルを取らなかったのは正解だったかな、と、天井を霞む視界に収めながら頭の隅で思った。
彼には申し訳ないが、もしこれがなかったらやはり自分の体は彼との交わりを拒否したかもしれない。
彼の真摯な思いを受け取れなかった時のことを思い、おこしたその選択に安堵した……もちろん、自分のための選択であったことも、もはや否定のしようがなかった。
「はっ、しきゅ……突き上げられ……んあッ! はあ、んく、はぁっ……」
「せんせっ……!締め付けすぎ……もうちょいっ、力……抜いて」
「は……ぁ、く……無……理……ひゃぁあっ!」
彼が腰を振るたびにぐちゅぐちゅといういやらしい水音が私と彼の結合部から響き、それがまた聴覚から私の感覚を刺激する。
それはどうやら彼も同じであるらしく、最初に比べ速度もだんだんと上がっており、心なしかより大きく音が出るようにしている気がした。
「せん、せ……先生……!」
「あっ、ひあっ、んくぅっ……言って……く、れ……お願……ぁあっ!」
「先……生……好きっ、大好きっ、……はあっ、はあっ……愛して……る」
「もっ……と……もっとぉ……っ」
「先生……可愛い、綺麗……くっ……好き……本当に好き……」
「は、んっ……あぁぁぁぁっ!!」
彼の言葉を聞くたび、私の体はまたも恐ろしいほどに反応を示す。
愛液の量が増し、それに伴って飛沫の量も増す。
目は焦点を定められず、そこからは涙がこぼれ、口はもはや閉めることなど叶わず、口の端からはだらしなく涎を垂れ流していた。
いつの間にか先よりも動くようになっていた脚は彼の体を固定し
お互いの繋がりをより強固なものに……もしくはこれ以上の快感を与えられてすぐに達してしまわないようにする。
そこには、先ほどまで目の前の彼と交わる事を拒否していた教師の姿はなかった。
ただ、愛してくれる男の言葉に酔わされ、激しく乱れて彼と彼の言葉を求める女がいるだけだった。
「先生……俺……もうっ!」
限界を感じたらしい彼が私の目を見つめ、許可を乞うてくる。
私はそれに、彼と同じように彼の目を見て、今作り得る限りの笑顔で答えた。
「はあっ、わたっ……しも……き……て……んぅっ……一緒にっ」
「う……ん、先生……先生っ!」
最後の加速とばかりに、彼の腰の動きが激しくなる。
それとともに彼のものはより大きく脈動し、私の秘部もまた大きく収縮した……次の瞬間。
ドプッ……ビュッ、ビュルルルルッッ
「! はっ、あっ……出てっ……ふあぁああぁぁぁぁっ!!」
「っあ……あ……くうっ……あぁぁぁっ!!」
絶頂を迎えた私の中に熱を持った白濁液が流れ込み、下腹部を満たしていくような感覚を私に与え、数えて今日二回目の絶頂へと私を誘った。
その後、すぐ……私と、恐らく彼の意識は、白い闇の中へと吸い込まれていった。
爽やかな朝、というのはいいものであると思う。
この顔立ちのせいかどうにも低血圧に見られがちだが、私は朝、眩しい陽光の中でその光に瞼を刺激されて起きるというのは嫌いではない。
それが、なにか研究の成果が上がった後などならそれはもはや至福の時といっても差し支えない。
だから、私は爽やかな朝が好きだ。
窓から差し込む光に、聞こえてくる鳥の囀り……もしこれを聞くのが今日(土曜日)のように休日ならば、その気持ちは一層強くなることであろう。
だが今日の私は、上のほぼ全てに当てはまる状況で目覚めたというのに、どうにも浮かない気分であった。
それはどうしてだろうか……決まっている。
本来爽快な気分を与えてくれるはずの爽やかな朝の景色に、似つかわしくないものが紛れ込んでいるからである。
「…………えっと、だな」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
『トランクス一丁で土下座する小学生』というのは何故こんなにも見ていて哀しくなるものなのだろうと思う。
なんなんだろうか、この身のうちに溢れて止まらないやるせなさや歯がゆさや切なさやetc…は。
シャツのボタンを一つ一つ留めながら、私はベッドに腰掛けて彼が床におでこを擦り付ける様をなんとも言えない気持ちで眺める。
彼が持ってきてくれた清潔な衣類の全てを身に纏い、彼の口から発せられる「ごめんなさい」が
そろそろ150回を越えたかなというところで私は小さく息をつき、彼に―――正確には彼の後頭部に―――言葉をかけた。
「顔を上げなさい、もういいから」
「でっ、でも俺……俺、酒の勢いに任せてあんなこと……俺……ごめんなさいぃぃぃぃぃっ!!」
「……いや、それはもういいから」
……つまりはそういうことらしい。
昨晩、アルコールを摂取した彼の思考は、ぱっと見には気づかれない程度に……
しかし大きく彼の正気と理性をそぎ落としていたらしい(昨晩からずっと分かっていたことではあったが、やはりあれが全ての元凶だったようだ)。
明後日、出勤してからすぐにでも責任者に報告をしようと私は強く心に誓っていた……顔もよく覚えておらぬ保険教諭(恐らく女性)の泣き声が聞こえた気もするが、
そのあたりは流石に自業自得だと思っていただきたい……いや、少なくとも今この場ではそれはどうでもいいことだ。
眼下に目をやると、そろそろおでこから煙が出るのではないかというほどに激しくこすりつける彼の姿があった。
彼にとっての不幸は、彼が、酔ってもその間のことをはっきりと覚えているタイプの人種であったころだろうか。
もし彼が酔ってこの行動をしているのなら
起きた時、色々理屈をつけてごまかそう―――馬鹿みたいに、そう思うと胸が少しばかり痛んだが―――という考えは、昨晩の交わりの時からぼんやりとはあった。
もしこのことを忘れられるのなら……それが彼にとっても自分にとっても一番よいことだと分かっていたからだ。
……まあもっとも、起きてすぐに彼が私に見せた真っ青とも真っ赤とも何色とも形容しがたい顔色の彼を見て
一瞬でその計画が沫と消えたことは理解できてしまったのだが。
「でっ、でも……」
「本当にもういいんだ……いや、そもそも昨晩のことは私にも大いに責任があった……こちらこそ済まなかった。」
「や、やめてよ先生! 悪いのは俺……」
「いいや、君にはなんの責任もないさ。そんなに小さい体でアルコールを摂取したんだ、むしろ予測不可能なことがおきることを私が想定しておくべきだった」
我ながら矛盾した言い回しだな、と軽く自分を嘲り、言葉を続ける。
「今回のことは、君の意志はまったく関係のない不慮の事故だ。早く忘れるのがいいだろう」
そう。今回のことはただ不運なことが重なってしまっただけの事故だ。
この先こんなことはもう起こりえないであろうし、ここでお互いが今回のことを忘れてしまえばそれで全てが解決する。
酒で勢いに任せて犯してしまった過ちなど、早く忘れてしまうのが幸せなのである。
酒に苦しめられることなど、それこそ二日酔いぐらいの期間で丁度よいのだ。
ましてそこに誰の意思も……誰の望みも汲まれてはいないのならば、逆に覚えている必要などどこにあると……
「……なくないよ……俺が先生のこと好きなのは、本当だもん」
息が……止まるかと思った。
否、僅か数秒ではあるが、その間私の呼吸は確かに止まっていた。
脳が呼吸をしろという体への命令を忘れさせてしまうほどに、その時の私の頭には、昨晩の彼の言葉が強くフラッシュバックしていたのだ。
『なんなら全部終わった後で確認してくれてもいい。そのときも先生のこと好きだって言うよ』
彼の本心というものを疑っていたわけではなかった。
だがしかし、結局はアルコールのせいだと、あの時あの状況だったからこそ言った言葉なのだと、やはり私は心のどこかで思っていたのだ。
今この時が過ぎれば、もう彼が私にそのような言葉をかけることも、私がそんな言葉に一喜一憂することもなくなる。
それを寂しいと、哀しいと思う気持ちがあったことをもはや否定する気はなかった。
だがしかし、忘れるのが当然であり、義務だという想いを強く自分の中で固めていたのだ……固めていたというのに―――
「あ、あの……俺っ、まだガキだけど! 色んなこと分かってないしかっこよくないけど! 勉強だってそんなできないけど! ……俺、いつか背も先生より高くなって!
いい仕事について先生に楽させてあげられて! 先生に似合うような男になって、先生と……けっ、結婚したいって本気で思ってる!」
子ども特有のませた考え方だと思った。
計画性もなく、その大口を支える論拠もなく、ましてや女性一人を守る力すらもまだ持っていない子どもの言葉。
あえて悪い言葉を使うのならばそう『子どもの戯言』。取るに足らない、寝言と大して変わらない、聞く価値のないもの。
こんなもの真面目に聞く必要も、ましてや聞こうとする姿勢をもとうとする必要すらもない。
ただの、左の耳から右の耳へと流れていく雑音……そう思ったなら―――そう思うことができたのならばどれほど楽だったであろうか
「だっ、だからそのっ! 俺、今回のことの責任は取りたいって思ってるし!
先生が望むこと、先生に認められるために必要なことならなんでもするよっ! だから……だから俺のこと男とし……先生?」
あまりにも長い間、私の反応がなく、そんな私の様子を伺うために恐る恐る顔を上げた彼は、後にこう証言している。
『ゆでだこがいた』
と。
「……先生?」
顔が真っ赤なのが分かる。顔が熱いのがわかる。顔以外のあらゆるところが熱いのがわかる。そのせいなのかそうでないのか体中が汗ばんでいるのがわかる。
頭がぼんやりするのがわかる。まともに息が出来ていないのがわかる。心臓が跳ね上がっているのがわかる。目の前が真っ白になっているのがわかる。
彼が本気で私を、正気である今も心から私のことを好きだということがわかる。
その言葉によって、今確かに……『嬉しい』と『言ってくれてよかった』と喜んでいる自分がいるのが―――
「先生?」
「うわぁっ!」
ホワイトアウトから帰還した目の至近距離に、突然彼の顔が存在していた。
それにより、年甲斐も色気もない叫び声を上げてしまう。
「あの……どうか……した?」
「いっ、いや……」
(なっ、鳴り止め心臓! 早く正常な色に戻れ顔! ええい嬉しがるな私!)
叫び仰け反った勢いで彼から顔を背けた体勢のまま、私は私の異常だらけの体をなんとか少しずつ正常に戻そうとする。
……もし、このとき私が彼の顔だけでも見る事をやめていなかったのなら
「? …………!……なる」
というように、疑問符を浮かべた後で、名案を思いついた悪魔のような笑みをした彼の表情が垣間見えたはずだ。
もっとも、このときの私にそんな余裕など本当になかったわけであるのだが。
「ねね、先生」
「……ん?」
もしも余裕があったのなら、こんなにも分かりやすいカマかけにはせめて乗らなかったであろう。
「……先生、俺がおっきくなったら……俺のお嫁さんになって」
ボン!
その音が、自分の頭の中で響く爆発音だと気づいたのは
私のそのあまりの面白(かったらしい)い顔を数秒間見続けた彼が、思わず我慢できずに吹き出してすぐだった。
「……きっ! き〜〜〜み〜〜〜はぁ〜〜〜っ!」
「ああぁあぁぁあぁあぁ、ごっ、ごめんっ、ごめんってぇ!」
彼の小さな頭を両側から鷲?みにし、ぐりぐりと髪の毛ごとわしゃわしゃする(かなり強めで)。
「ちょっ、ちょっと新しい武器が手に入ったカナ? って思ってちょっと試し撃ちをしてみたかっただけで……あいだだだだだ!」
「っく! …………うぅっ!」
前 言 撤 回 。
やはりまだ彼は子どもだ。
大人としてみるには、そういった言葉をかけられて胸を高鳴らせる相手として正式に認証するにはまだ早い。
ん?さっきまで違ったではないか? そんなものは知らない。とにかく撤回と言ったら撤回なのだ
「ごめんってばぁ〜先生ぃ〜! 好き!大好きだから許して!バーラムユー!」
「アイ・ラブ・ユーだろうぅぅぅぅぅ!」
……ただ、確かに跳ね上がりはする心臓の鼓動を感じながら、私は少し……ほんの少しだけ思った。
もし本当に彼が、この先も私にその想いを変わらず伝え続け、彼の言うとおりに私よりも背が高くなり、私が支えてほしいと思えるほどに頼りになる男に本当になったのなら
そんな日が本当に来たのなら、その時は……
既に世間一般で言われる『おばさん』と呼ばれるようになっている私でも……それができるのならば
……彼のそのささやかな願いを、叶えて上げないということもない。
そんなことを少し……本当に本当に、ほんの少しだけ……そう、思った―――
―――もちろん、そんな日が来ることは、永遠になかった。