宗教の中に現れる神や悪魔、この他図鑑に記されぬ生き物達。
それらは妄想の産物であり、虚像に過ぎない。と、科学の元に生きる者たちが悟るのは必然と言えよう。大半の人々が、らしき物にすら邂逅することなく一生を終えていくのだから。
だが、古くから大切に語り継がれてきた史実に、果たして真実は欠片も無いとまで言い切れるだろうか。
いにしえの魔術に手を染めた者はやがて、創造されし者の名が今なお現代に残されている意味を知るだろう。
夢魔(淫魔)『サキュバス』。
男の精を糧とする、実体の無い悪魔。姿かたちは、獲物となる男が理想とする女性の姿へと臨機応変に変化する。
夢精の原因を説明するべく生まれたとされ、実在はしないと伝えられる。
しかし、夢を創造することは、科学にも出来ないこと。
前兆も無く夢の中で突如たぎらされた興奮が、自身以外の何者かのせいではないと誰が断言出来ようか。
【とある上条の淫魔騒動】
……分析は終わった。
生まれを遠く離れた土地で見つけた、この上無く上質な匂いを漂わせた獲物。
獲物として目をつけられた少年は、若気の至りを迸らせる種に困らぬほど遭遇しているにも関わらず、同居する少女を気にかけて一度も自らを慰める行為を働いていなかった。
そんな人間の男が居ると知った『彼女』の興奮は、赤い布を前にした雄牛にすら劣らぬほどであった。
彼の生殖の器には、いったいどれほどまでの精気が凝縮され、封じ込められているのだろうか。
「……久々の、食事」
それは満月の晩の出来事。少年の住む建物の屋上に、姿無き者の呟く声。
影も形も無いのに、確かに『意識』は存在していた。
「極上。ああ、味わいたい……でも、間もなく、間もなく私は……!」
言葉を切るごとに、声は大きく、甲高くなり、並行するように空間に歪みが現れる。
その中心から黒い影が伸び、枝分かれするように四肢を、五体を顕現させていく。
やがて影が人の形をとると、その背中から蝙蝠のような羽がゆっくりと広がり、臀部から鞭のような艶のある尻尾が伸びた。
初めは、興奮に押されるままに少年の精液を搾り尽くしてやろうとした淫魔。ところが実行の直前、少年には異能に関わるものを全て打ち消す力があると耳にする。
キリスト教やら宗教伝承の出身の悪魔であるサキュバスにとって、このまま真っ直ぐ突っ込めばその謎の力によって、自身が消滅してしまう気がしてならなかった。
あくまで推定なので、いっそ気にせず突っ込もうとも考えたが、やはり自身の存在に関わる問題となればどうにも躊躇ってしまう。
しかし、この数百年でもまれに見る極上の獲物。諦めるには非常に惜しく、長い時間を少年についての調査や分析、作戦考察に費やした。
無論彼に気付かれるような大ポカは晒すわけがない。
結果、結局その謎の力についてはよく分からなかったが、収穫はあった。
それは、少年に思いを寄せる異性の存在。しかも調査した限り彼女たち全てが、同族のインキュバスなら狂喜乱舞したであろう上質な精気を匂わせていた。
これを利用しない手はない。と、ついにサキュバスは一つの作戦を編み出す。
幸いにもかの淫魔には魅惑の能力と、女性であろうと精気を奪い取る技術の心得があった。
「フフ……。奥手な子羊さん達には、私の味わう精液の『受け皿』となってもらいましょう」
容貌を暗闇に隠された淫魔が、呟きながら緩慢な動作で羽ばたく素振りを見せる。
(ターゲットは、あのコのことを意識する全ての雌。年齢、国籍は関係無しで全体にやってしまいましょうか)
すると、淫魔の全身から炎にも似た白濁色のオーラが立ち昇り始めた。
(今宵は、人々を魅了する魔性の満月。いいわね、この私が動くのにこれほど相応しい夜はない)
淫魔は誰かを招き入れるように両腕を左右に大きく広げ、少なくともこの国の言語ではない文句を唱え始める。
《求めなさい…………汝の求める男の体を。
奪いなさい…………女を知らぬ、若々しき貞操を。
奪われなさい…………汝が思いを寄せる者、雄の欲望に応えるために》
◇○◇
変わらぬ朝日が迫り、東の地平線に近い空が明るい青色を帯びてきた頃。
上条当麻の目を覚まさせたのは、定時に設定された目覚まし時計ではなく、頭の傍に置いた携帯電話だった。
習慣でまだ覚醒する必要は無いなと目は閉じられたまま、それでも音を止めようと手探りで携帯電話を開いて耳に押し当てた。
「ふわぁい。朝っぱらから誰れすかあ?」
あくびを噛み殺すこともなく、間抜けな口調で応対する。
だらしなく開いた口からは若干ヨダレまで垂れている始末。
『俺だ。早くに起こして悪いがカミやん、緊急事態だ』
電話の口調は寝ぼけのねの字すら感じさせないほどハッキリしていた。
「土御門ぉ? いったい何がどうしたってんだあ?」
一方、まだ心地よい安眠の世界を脱しきれない上条の声は、未だ緊張感のない間延びしたものだった。
『いいかカミやん、説明は後でするから一刻も早く部屋を出ろ』
「???」
土御門の声には焦りが混じり、普段の猫っぽい語尾が欠けている。
シスコン軍曹は、完全にシリアスな多重スパイにクラスチェンジしていた。
『必要な物資は全てこちらで用意するから、お前は着の身着のままでそこを出ろ。あと、インデックスには絶対気付かれないようにするんだ』
「いや、何言ってんのかさっぱり……」
『インデックスだけじゃない。よく聞け、お前が知り合った女は全員敵の兵士だとでも思ってくれ。万が一見つかったら全力で逃げろ』
「おーい、土御門ー? 聞けば聞くほど意味不明なんですが。だいたい何ですかその昨日の友は今日の敵っぽい理論は」
『さっきも言っただろ、説明は後でしてやる! とにかく、携帯電話は切らないでそのまま家を出ろ、次の指示はその後だ』
まだ惰眠を貪りたい上条だったが、こうも真面目に言葉をぶつけられると少しばかり危機感が沸いてきた。
何となく、寝ているのが落ち着かなくなってくる。
「……分かったよ、何だか知らないがとにかくここから出て欲しいんだろ? 朝飯の用意もしてあるんだろうn………」
目を開けた上条は、次の瞬間目の前に飛び込んだ光景に全身、思考を同時に凍りつかせた。
「……え?」
寝床のバスタブの中に、少年の下半身にしがみつくような格好の銀髪少女が居た。
『どうした?』
突如喋りの途切れた上条を訝しむ土御門の声が、上条の右から左へ突き抜けていった。
百聞は一見にしかずという言葉がある。
電話で聞いた緊急事態っぽい話より、目の前のコレに危機感を覚えるのは当然である。
少女が、何かを口に咥えながら頭を上下に動かしている。それも、上目遣いでこちらに向ける瞳に切なげな潤みを浮かべて。
というか、彼女は今、何を咥えているんだ?
さっきから感じる、下半身の尋常じゃない心地よさは一体何だ?
「ず……ちゅ、くぷ……ちゅぱっ。……あ、おはようなんだよ、とうま」
「い、い、インデックス…………お前、何を、して……!!」
『まずい、もう【食いつかれて】いたのか!? カミやん、桃色なイベントに水を差して悪いがそれを最後までやったらバッド、それもデッドエンドだ!
何とか振り切って出て来い!』
「だ、だけど、やばい、下半身、力、が……」
「ン・・・とうま、いっぱい出してね………はむっ」
[インデックスは いきなり おそいかかってきた!]
「うわあああああああああ、ななななにやってんだインデックス!!!1」
「なにってとうまのナニを食べてるんだよ…ずずっ……じゅっ」
「一体どこでそんな言葉を覚えて…ってうひゃあ」
ピンチである。いや性的な意味で。
居候の女の子にナニをなめられている。ピンチとしか言いようがない。貞操の。
『カミやん!しっかりしろ!気を確かに持て!死ぬぞ!』
土御門の声が頭に響くが、上条は射精を堪えるので精一杯だ。
(くっそっ………やばい…!)
何故かはわからないがインデックスの口淫は上手だった。頭の中の魔導書に、それに関する知識があったのかもしれない。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。一刻も早く対策を打たなければ、欲求不満気味な体が暴走してしまうかもしれない。
自家発電をすることさえままならない状態が長く続いていたため、上条のそれは随分敏感になっていた。もう射精まで時間もない。
何かこの状況を打開するアイテムはないか!?と周りを見るが、上条宅のユニットバスにそんな便利な物があるはずがなく、せいぜいタオルが数枚落ちているだけーーー
(…………仕方ねぇ!)
その布切れを見た上条に、閻魔様もびっくりの残虐な知恵が下りてくる。
だがなりふりなど構っていられない。その知恵を実行するため持っていた携帯電話を放り出して手を伸ばし、左手でタオルを、右手でインデックスの服を掴む。
少女の服が、弾け飛んだ。
「うひゃっ!?」
突然素っ裸にされたインデックスが仰け反り、上条の体から離れる。
「すまん!」
一言詫びを入れ、浴槽の底にインデックスをうつ伏せにねじ伏せた。そのままタオルで腕と足を拘束し身動きを封じる。
「え?え?」
混乱するインデックス。無理もないが。
一方、上条は放り投げた携帯電話を拾いつつズボンを履き直していた。結構さわやかな笑み。後ろを向かないのは狼さんの暴走を防ぐためである。
「ふう。なんとか切り抜けたぞ」
『おお、やるなあカミやん。一体どうやってーー』
「とうまー、これって何?あ、もしかしてほうちぷれい?」
「んじゃー今からそっち行くわ」
『ちょっと待て!お前マジでなにやったんだ!?』
「インデックス、ちょっと出かけてくるから留守番しといてくれ」
「ん……わかった。でも、はふぅ……早めに……帰ってきて…ね」
携帯の叫び声を無視して玄関へ向かう上条は、決して後ろを振り返らない。
だって後ろには、全裸で尻丸だしで四肢を拘束されている状態で床に体擦りつけて自慰をしている少女がいるのだから。
玄関の前に立ち、ちょっとだけため息をつく。
今日も不幸になりそうな、そんな予感がした。