新たな感情 In_the_Dream
何もない。
空も、太陽も、雲も、地平線も風も建物も街灯も木も人も色も音も。
ただ、自分だけがいる。
ただ、自分だけが見える。
(……、ここは――――――)
肩まである茶髪、半袖の白いブラウスにサマーセーター、灰色のプリーツスカートという格好の少女は、辺りを見回しながら考える。
(――――――、どこですか、とミサカは自分の立っている場所に疑念を抱きます)
検体番号(シリアルナンバー)一〇〇三二号、御坂妹。
とある少女のクローン体だ。
彼女は思考を巡らせる。
昨日の夜までは病院にいたはずだった。
いつも通りのベッドでいつも通りの時間に就寝し、それ以降は記憶がない。
ましてや、どこかに運ばれる感覚や、立っている感覚もなかった。
だとすると、ここは何処だろう?
と、考え込んでいた御坂妹の目の前に、不意に人影が現れた。
御坂妹はその人物を凝視する。
俯いている為、顔はよく見えないが、黒いツンツンの髪には見覚えがあった。
そう、かつて御坂妹と、残り九九六八人の妹達(シスターズ)を『実験』から救い出してくれた、あの少年だ。
「 、 。」
少年は何かを呟いたが、御坂妹は聞き取れなかった。
「あなたは 、とミサカ――――――ッ!?」
御坂妹は思わず口を押さえる。
声が、出ていない。
それも、一部分だけ。
(どうなっているのですか、とミサカは驚愕します)
訳が分からないまま、御坂妹は言葉を紡ぎ出そうとする。
「こ 、 の 、 カ 。」
言葉の大部分は、御坂妹の心の中だけに響く。
と、今まで微動だにしなかった目の前の少年が、急に御坂妹に背を向け、歩き始めた。
「―――ッ!待っ 下さ 、とミサ 呼び す」
御坂妹は必死に叫ぶが、少年は止まらない。
少年と御坂妹の距離が開いていく。
「ま 、 が !!」
最早、その声は少年には届いていない。
(待ってください、とミサカは心の中で呼び掛けます)
その思いも、少年には届かない。
ついに少年の姿は消えてしまった。
いやだ。
こんな世界で。
何もない世界で。
自分しかいない世界で。
一人で。
いやだ!
おいて行かないで!
こんなところで!
一人にしないで!!
御坂妹は目を覚ました。
「はっ……、ハァ……!」
コンクリートの天井に蛍光灯、窓から差し込む太陽の光。
いつも通りの病室だ。
ふう、と御坂妹は呼吸を整える為、深く息を吐く。
夢だった。
自分が今までいた空間は、夢の中だった。
御坂妹は悪夢を見ていた、ただそれだけの話。
それだけの話のはずだった。
冷静な自分が悪夢だけでここまで動揺するものだろうか?
呼吸はもう整ったものの、動悸は激しく身体中に嫌な汗がまとわり付いている。
さっきまで見ていた夢は……、とここまで考えたところで、視界の端に人影があることに気付いた。
「目覚めたかな?御坂妹サン?」
御坂妹は声のする方へ顔を向ける。
カエル顔の医者。
御坂妹は本名を知っているが、ここではこう表現しておこう。
彼はカルテを片手にドアの傍に立っていた。
「……。いたのですか、とミサカはリアクションを取ることも忘れながら言います」
「もう定期健診の時間だからね?だいぶ魘されていたみたいだけど、大丈夫かい?」
御坂妹は壁に掛けてある時計を見る。
十時ジャスト。
定期健診の時間だ。
定期健診は一週間に一度のサイクルで行っている。
いつもは大体、九時ごろには起床し、着替えも済ませていた状態でやっていたのに、今日は違った。
「あまりよくないことだね、ストレスでも溜まっているのかい?健診が終わった後外出許可を出すから、気晴らしに散歩でもするといいよ?」
「そう、ですね、とミサカは冷静に考慮してみます」
御坂妹は言いながら上半身を起こす。
結論を出すのはいつでもいいだろう。
すぐに出掛ける気はないし、暫く考え事をしたいと思っているので、今は黙っておくことにした。
(それにしても……)
御坂妹は夢の中でのことを思い起こす。
少年が去ろうとした時、彼女は心の中から込み上げてくる痛みを感じた。
これはかつてあの少年が御坂妹を助けるために、戦場に踏み込んだ時の感覚と似ていた。
しかし、その時の痛みとはまた別の痛みだった。
御坂妹には、それが何なのかはよくわからない。
(……、あれは何だったのでしょうか、とミサカはあの時の自分の心理状態に疑問を抱きます)
窓の外を見る。
小鳥が一羽、青い空の中で飛んでいた。