とある日の夕方。
西の空には夕日が昇り、学園都市に長い影を落としている。
そんな橙と黒に塗りつぶされた街を、一人の少年がビニール袋両手に歩いていた。
根っからの不幸体質なその少年――上条当麻は、日課であるスーパー巡りに精を出しているところである。
常に家計を圧迫する禁書目録の猛威を、僅かでも軽減する為に。
三食に間食に夜食、彼女の要求するがままに食事を給すれば、やがて生活に窮するのは目に見えている。
――節約の知恵が必要である。
調理段階で嵩を増す工夫は勿論、それ以上に材料を安く仕入れることこそが肝要と、上条当麻は結論付けた。
そんな経緯で始まったスーパー巡り。
『半額』『○○%引き』といったシールを見つけては、頬を緩ませながら籠に放り込んで行く当麻であった。
「……ふぅ。今日も今日とて、上条さんは賢い主夫な訳ですよ。
えーと、肉、野菜、菓子は買ったから……後は米か」
これが重いんだよなあ、と当麻は溜息を吐く。
これから赴く米屋は自宅から遠い。
何も持っていない状態ならば大したことの無い距離では有るが、一個5キロの荷重があれば話は別だ。
とはいえ、主食の値段に関しては妥協が許されないのが上条家の現状。
もう一度長い溜息を吐いてから、当麻は米屋へと足を向けた。
*
米屋に着くと、意外な人物が当麻を待っていた。
栗色の髪に、常盤台中学の制服、そしていつか当麻が買ってやったネックレス。
御坂妹である。
「お、奇遇だな。でもどうして米屋に? 米を買いに来たのか?」
言いながらも、当麻の顔には笑みが浮かぶ。
未だにどこか無機質な振る舞いをして見せる少女だが、実は意外に家庭的な面もあるのか、と。
だが、御坂妹は首をふるふると振り、言葉を返した。
「奇遇というのは状況的に適切ではなく、後者の問いへの答えもまた否定なので、
ミサカは首を横に振ることで一挙に両方の否定の意を示します。
ともあれ今日お会いしたのはこれが初めてなので、ミサカはあなたに『こんばんは』と声を掛けることにします」
「ああ、こんばんは。で、奇遇じゃない、ってのは一体?」
「あなたを待っていたのです、とミサカは若干の頬の紅潮を悟られぬように尽力しつつも答えます」
「俺を?」
はい、と頷く御坂妹。
どうも怪しい風向きになってきた、と当麻は思った。
周りの女性に声を掛けられて、何も起こらなかった例がないのだ。
良きにつけ、悪しきにつけ。
「そりゃまた、何故に?
……というかどうして上条さんを今日この場で待ち伏せることが出来たのか、そのカラクリも知りたいんですが」
「まずは後者に関して答えましょう、とミサカは事件解決直前の名探偵のような威厳を醸し出しつつ言ってみます。
答えは簡単、妹たちの総力を以ってすれば人間一人の生活パターンを読むなど造作の無いこと、とミサカは若干誇らしげに種を明かします。
……とはいえ、ここまで単純な行動サイクルだと読むも何も無いんですが、とミサカはやや呆れを込めて一人ごちてもみます」
「思いっきり全力で丸聞こえだし、貶されてる気がしてならないんですが?
って上条さんは上条さんは疑問を露にしてみたり」
軽い口調ではあるが、それなりに沈んだ様子で当麻が言う。
しかし御坂妹は全然気にする素振りも見せず、
「それは全くの気のせいでしょう、とミサカは極めて大人の対応をします。
ところで先ほどの問いですが、あなたは雇用者の最低賃金を知っていますか?
とミサカは疑問文に疑問文で答えてみます」
「あんまり自信はないけど、確か700円ちょっとじゃなかったか?
この街は金払いのいいバイトが多いし、あんまり意識することは無いけどな」
田舎では普通に最低賃金を下回っていたりするコンビニでさえ、学園都市ではそれなりの収入が見込める。
とはいえ、強盗やチンピラの危険さも外とは比べ物にならなかったりするのだが。
ちなみに、治験の類は最後の最後まで敬遠しておくのが賢明だ。
「正確には東京都なので766円ですね、とミサカはあなたの知識に若干の驚きを示しつつも訂正してみます。
それで、問いの答えですが」
御坂妹は米屋の中を指差し、
「とりあえず先に目的のものを購入してください、とミサカは発言します。
用件はそれから伝えましょう、とミサカは提言してみます」
「……で、用件ってのは?」
両手にビニール袋を提げ、背中に米袋を負ぶった当麻が尋ねた。
シルエットだけならば、子を負う母の図である。
「片方持ちますよ、とミサカはここぞとばかりに気の利く女アピールを実行します」
問いには答えず、御坂妹は素早く当麻の左手のビニール袋を奪う。
それから自分の財布を取り出すと、それを開き、ふと思い出したように顔を上げた。
「ところで、ここからあなたの自宅へはどのくらい掛かりますか、とミサカは尋ねてみます」
「ああ、大体30分くらい――っておい、何ですかこのお金は!?」
当麻が言い終わるか否かの内に、御坂妹は当麻の空いた左手に300円玉を押し付けていた。
「これはアレですか、哀れみですか?
舐めるなよ、いくら貧しくったって心だけは気高く! それが俺の幻想だ!
こんな300円ぽっち……――ああっ……! それにしても金が欲しいっ……!」
崩れ落ちながら、くねくねと奇妙な動きを見せる当麻。
見下ろす御坂妹の目は冷たい。
「……独りでお楽しみのところを大変申し訳ありませんが少しいいですか、とミサカは婉曲にその動きを止めろと要求します。
ついでに誤解を正しておくと、これは哀れみではなく、労働の対価の前払いなのです、とミサカはあなたに簡潔に説明します」
自らの体を抱きしめ、ざわざわしながら蠢く当麻を前に、少し呆れの篭った声で御坂妹が告げた。
告げられた当麻は訳が判らず、労働? と首を傾げるばかりである。
そんな当麻のポケットに300円を強引に突っ込ませると、御坂妹は僅かに微笑み、
「これで、帰宅までのあなたの30分をわたしが買いました。
労働内容は帰宅までのエスコート、返品するつもりはないので悪しからず――
と、ミサカは上機嫌で宣告します」
「ちょっ、いきなり何を――!?
しかも何故俺の帰宅のエスコート!? 普通逆じゃない!?
っていうかそもそも最低賃金を割ってるような気がしてならないんですが――!?」
言うが早いか、当麻の手を握り、ずんずんと歩き始めたのだった。
*
「…………あ」
「……着いたな」
思った以上に会話は弾み、気付いた時には既に上条宅の近くまで来てしまっていた。
当初の契約に従えば、ここで別れてまた今度、というのが筋である。
だが、話が盛り上がっていたところでもあり、どこか名残惜しい空気が漂っていた。
暫く無言が続いた後、そんな空気を振り払うように、御坂妹は努めて明るく声を発した。
「300円にしては存外楽しめました、でもアンタと一緒だったから嬉しいなんて訳じゃないんだから勘違いしないでよね!
……とオリジナルのお株を奪ったところで、では、とミサカはクールに去ります」
それでは、と御坂妹は踵を返す。
当麻は暫くその背中を見つめていたが、やがて自宅へとその足を進めていった。
「30分の猶予を与えられながらこの体たらく、とミサカは自己嫌悪に陥ります」
御坂妹の足取りは重い。
たった一言、一言が伝えられれば。
そう思い、自分でも少々強引か? と思いつつ、でも周りの女性も大概滅茶苦茶だし大丈夫だろう、と実行してみた計画だが。
言い出すことが出来なければ、返事を貰うことなど出来るはずもなく。
一世一代の覚悟を以って挑んだものの、結果は不戦敗であった。
「休日は大抵他の女の邪魔が入る、だから敢えて平日、更に夕方、下校直後は避けて買出し直後に――
条件は完璧だった筈なのに最後の詰めが甘い、とミサカはミサカの不甲斐なさに惨憺たる思いです」
これで駄目だということは、いくら策を弄しても無駄だということである。
自分に足りないのは、最後の一歩を踏み出す勇気。
ならばこそ、この先どんなシチュエーションが訪れようと、成功はあり得ない。
「話したことと言えば、オリジナルと妹たちのことだけ……。
それでも今日は楽しかった――いえ、そこで妥協したらお仕舞いだ、とミサカは自分を奮い立たせます。
いつか上条当麻にガツンと一発かましてやらねば、とミサカは己の決意を新たにします」
「――えーと、さっぱり記憶に無いんですが……
上条さん、何かお前に不味いことでもしましたか?」
何故、と思う前に、体は振り向いていた。
そこには息を切らし、困ったような顔で笑う上条当麻。
「……何故ここに、そしていつから、とミサカは当然問われるべき疑問を口にします」
「ん? いや、ずっと何か言いたそうにしてたからさ。
来たのは本当に今さっきだ。『ガツンと』のあたりだな」
そう言うと、100円玉を御坂妹の手に握らせる。
手が触れた瞬間、紅潮したのがバレなかっただろうか、と御坂妹は狼狽するも、上条当麻が気付くはずもなく。
頭を掻きながら、「これで10分間、お前の時間を買った訳だな」と続けた。
「間食を置いてきたけど、インデックスなら10分で限界だろうな。
――まあ、それは置いといて、だ。
言いにくいことなのかも知れないけど、良かったら話してみろよ。スッキリするぜ? 多分」
でもキツいのは勘弁な、と笑う少年。
御坂妹は一つ深呼吸をすると、
「では言わせて貰いましょう、覚悟はOKですか、と宣言することでミサカは自らの退路を断ってみます。
いいですか、ミサカは、上条当麻のことが――」