やっぱり我が家が一番落ち着くな。
旅行から帰ってきたりすると、多かれ少なかれ大概の人は、このような感想を抱くだろう。
上条ももちろんそんな、小市民的思考の持ち主だ。
慣れ親しんだふかふかのベッドの上。
とても落ち着く。
だけれど上条は白い天井を眺めつつ、なんだか複雑な表情をしていた。
そのままキョトキョトと、辺りを見回して見る。
テレビ。
ベッドの横にあるテーブル。
そこにある数冊の本。
パイプイス。
備え付けの洗面台に置いてある、お泊りハミガキセット。
小さなロッカー。
ハンガーラック。
部屋にある物どれ一つをとっても、上条には見覚えのないものなどなかった。なにより――違和感がなかった。
だけど。
それでも。
この部屋は上条の本当の部屋ではない。
インデックスと住んでる部屋ではない。
(病室でこんなに落ち着くつ〜〜のも、何気にいやなもんがあるなぁ)
そこはいつもの部屋。
そこはいつもの病室。
カエル顔がにこにこ笑いながら冗談交じりに言っていた。
『足繁く通う常連さんのきみのために、あの部屋は常に綺麗にして空けてあるから』と。
(ちっくしょうめ。んなの全然……)
嬉しくない。
最近は病院も空き部屋が、ほとんどないと聞くから、上条はその気遣いを有り難くもあったが、素直に喜ぶ気にもなれなかった。
ただ、
「……不幸だ」
口癖になってしまってる定番の台詞を呟きつつ、上条はテーブルに置いてある数冊の本に手を伸ばす。
見舞いの品。
青髪ピアスがこっそりと持ってきてくれたものだ。
ぱらぱらとページをめくる。
こうして一人の空間を提供してもらえるのは悪くない。
無言でめくるたびに、どんどんと、上条の顔がだらしなくにやけていく。
シマリのない表情。
とてもあの少女にはお見せできない。
だからだ。
インデックスと一緒に住んでいて、疎ましいと感じた事は一度としてない。
だが一人になりたいと思う事はある。
それも結構頻繁に。
もうそれは仕方がない事だ。
思春期は発情期。
インデックスが好きだとか嫌いだとか、決してそういった次元の話しではない。
いや、好きだからこそ、一人になりたいのだ。
万が一にも見られたくない。
上条の右手が神の奇跡だけではなく、億単位の、己の分身を解放し殺している現場を、少女に見られるわけにはいかなかった。
風呂場。
トイレ。
学校内。
などなどで、上条はインデックスの目を盗むように処理してるわけだが、やはりこういうのは、ゆっくりと落ち着いた場でしたい。
今日の健診はもう終わっている。
ほぼ一日中入り浸っていたインデックスをはじめ、見舞い客もさっき帰った。
「よしっ」
と、そんなわけで。
お膳立ての揃った上条の右手は、布団を払いのけると、勢いのままズボンも下ろし、今か今かと出番を待っていた股間へと伸ばされる。
ステイルの炎剣の温度は三千度らしい。
しかし上条の勃起してる股間の剣も、ガッと握ると、それに決して負けずとも劣らずで熱かった。
(おっ? この娘いいなぁ)
はたと手の止まったページでは、オッパイの大きいモデルが、うっすらと肌に汗を浮かべて、気だるげに寝そべっている。
ため息が聴こえてくるみたいだった。
トロ〜〜ンとしてる目の焦点が、いまいち合ってない。
まるでほんの少し前まで、ナニかをしていたみたいで、その姿はナニか、上条のナニかに滅茶苦茶訴えかけてくる。
(ん? 何かこう微妙に、誰かに似ているような?)
誰だろうか?
どう見てもこのモデルは上条よりも年上なので、インデックスということはありえない。
小萌も失礼ではあるが必然で論外。
美琴や白井や御坂妹でもないだろうし、同年代の姫神や吹寄や風斬でも、ちょっと無理があるかなと思う。
モデルに西洋の血が入ってる感じもない。
ということは、オルソラやアニェーゼ、いや、後者になると体型的にも違うし。
「…………」
はて?
誰か忘れてる気がするが?
思い出せない。
「……まあ、いいか」
と、もう少し考えれば思い出せただろう上条だが、今は自分の全てを妄想に廻すべきだと、脳内検索を早々に打ち切ってしまった。
「とりあえず、幻想を終わらせてやるぜ」
過去に上条の右手に殴られてきた、数々の魔術師や超能力者。
彼ら彼女らが聞いたらば、その場にへたり込みそうになる台詞を呟いて、猛然と右手を動かそうとする。
カチャッ
そのタイミングに合わせたように、病室の静かにドアが開いた。
「上条当麻、身体の具合はどうで――!?」
「!?」
この部屋が病室である以上、隠しようもないほど、ベッドは一番目立つ位置にある。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
上条当麻。
神裂火織。
二人の間に言葉はいらなかった。
神裂は顔から一切の表情を消失させると、腰に差してある七天七支刀、その黒鞘を淀みなくゆらりと払う。
刀身がギラリと、妖しく光った。
彼女の得意は抜刀術なので、それはいくばくかの、上条に対する優しさなのかもしれない。
「でも嬉しくねぇっ!!」
ほとんど瞬間移動。
入り口から上条のいるベッドまで、神裂は目にも映らぬスピードで到達すると、大上段に振りかぶり、微塵も迷わず一閃させた。
墓碑には馬鹿ここに眠ると彫られるだろう。
アーメン。
そのぐらいなら神裂も、曲がりなりにも神の子羊、渋々とはいえ唱えてくれるはずだ。
だが祈りの言葉よりも先に、
パシンッ
殺意と共に剣が振り下ろされるのとほぼ同時、刹那すらも間を置かずに、子気味いい会心の音が部屋に響く。
(じ、自分で自分を褒めてやりたい)
真剣白羽取り。
達人どころか聖人の神裂の剣を受け止めるとは、上条当麻の幸運は、このときのために、預金みたいに取ってあったのかもしれない。
ただ、
「……往生なさい」
「できません!!」
もう全額下ろしちゃってる。
覆い被さるように体重を掛けてくる神裂。
拝むように踏ん張る上条。
刀身がじりじりと、額に照準を定めて、確実に降りてきていた。
マジでヤバい10センチ前。
このままでは幻想より、上条が終わってしまう。
「だ、大体お前が、うぅう……、ぐぅおお!? い、いきなしドアを、を、ををを!? あ、開け、NO〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
迂闊。
しゃべったら走馬灯が見えちゃう5センチ前まで、一気呵成に押し込まれてしまった。
けれどそこで、少し神裂の力が緩まる。
「まさかあの娘にも、あんなものを見せてるわけでは、ないでしょうね上条当麻」
「あ、あんなものって?」
「あんな……」
言いつつチラッと神裂は、剥きだしのまま放っぽり出されてる、この特異な状況にいつもより、色んな意味で興奮してしまってるのか、
血液が収束され過ぎて、グロテスクなほど黒くなってる元気な勃起を見てしまった。
「や、ややや……」
視線を浴びてぴくんぴくんと動いてる。
「やはり死になさいっ!!」
耳まで真っ赤にさせた神裂が、情け容赦なく、遂にはトドメを刺しにきた。
とはいえ。
百戦錬磨の魔術師も、かなり動転していたのだろう。
それとも。
上条当麻の幸運、残高が残っていたのかもしれない。
「!? お、おりゃっ!!」
どんなに凄い剛速球だって、タイミングさえわかれば、打つのは難しくはない。――かもしれない。
身体を神裂の力に合わせて捻る。
「あっ!?」
つんのめるようにして神裂の身体が上条の上へと、どうにもできない死に体なのに空中で抵抗したが、結局はどさりと倒れ込んできた。
ゴトンッ
いい具合に力が抜けたのか、テーブルが綺麗に真っ二つになってる。
でも二人は
「…………」
「…………」
そんなものを、
「…………」
「…………」
まるで見てはいなかった。
「…………」
「…………」
時間が止まってる。
「…………」
「…………」
至近距離。
二人の身体はぎりぎりのところで、ぴたりとはくっいてはいない。
その隙間わずか数ミリ。
不用意に動いたりすると、色々な部分が触れてしまう。
「…………」
「…………」
例えば唇とか。
ピトッ
「えっ!?」
「えっ!?」
二人の声がハモる。
目だけをお互い動かすと、脇を絞ったTシャツのおなか、その白い肌に、異端審問の焼きごてのように熱い勃起が触れていた。
上条の顔が恐怖に引き攣る。
「こ、これは不幸な事故なん――」
チキン万歳。
考えるよりも先に、口は言いわけの言葉を紡ぐべく、無意識に動いていた。
ゴッ!!
そしてそれはなにも、上条ばかりではない。
神裂の身体も無意識に動いている。
ただしそれは言いわけするための口ではなく、固く握り締められた拳という違いはあるが。
声もなく上条の身体が、豪快に吹っ飛び宙を舞う。
お見事。
もつれ合う不自由な体勢で放たれたのに、その速度と威力はさすがで、短時間とはいえ、天使とも互角の聖人なだけはあった。
だけれど上条も負けてはいない。
修羅場の経験値。
伊達に素人の高校生の身でありながら、ここ数ヶ月というもの、誇張なしで生死の境を何度もくぐり抜けてる。
主人公補正もあるが、思いの他丈夫だった。
顎をさすりさすりしながらも、
「つ…が……ツ。い、痛ってぇなぁもう。あんさ神裂さん、俺が入院患者だって事、あなた、覚えてらっしゃいますか?」
ダメージらしいダメージはなさそうである。
むしろ上条に背を向けて、
「い、いいから早く、…………、早くそれをしまいなさいっ!!」
何故かベッドの上で正座してる神裂。
この無愛想で凛々しい年上のお姉さんの方が、あらゆる意味で鈍い年下の少年よりも、はるかにダメージは大きかったようだ。
声にもいまいち迫力がない。
微かにではあるものの、ぷるぷるとしてるその後姿は、限りなく間抜けでシュールである。
それと、
(……可愛い……い?)
エロカッコイイという印象が先行する神裂。
この頼れる怖いお姉さんは、可愛いという属性からは、上条はまるっきり真逆の人だと思っていた。
今だってその氷華、じゃなく評価は、あまり変わってない。
だがこれは、改めないわけにはいかなかった。
だがこれは、認めないわけにはいかなかった。
「ん?」
「!?」
窓ガラスに映る上条と目が合うと、ササッと、慌てて逸らしたりするその仕草。
「うんうん」
正統派である。
これなら俺も殴られた甲斐があったと、上条は一人納得顔で目を瞑ると、深く深く何度も何度も頷いたりしている。
だから気づかなかった。
落としては上げ落としては上げ、神裂がチラチラと、視線を忙しく動かしてる。
聖人も好奇心には勝つのは難しい。
これでもまだ十八歳の麗若き乙女なのである。
「…………」
(あんなに膨らませて、だ、大丈夫なのですか? あ、あれは?)
元気溌剌な勃起。
頷く主人と一緒になって、律儀に何度も何度も揺れていた。
さらに角度が急勾配になり、びたんびたんと、若さを誇示するようにお腹を叩いて、それはそれは物凄い事になっている。
人を殴ったら殺せそうだった。
て、
「……そうではなく。上条当麻っ!! 早くしまいなさいっ!!」
「うおぅ!?」
身体はしっかりと前を向いて、正座してる体勢のまま、神裂が刀を後ろにいる上条へと一閃させる。
刃先は勃起ぎりぎりで止まっていた。
あと少しで、天使のように、性別を失くすところである。
「御仏の顔は三度だそうですが、神の顔にだって、限度というものはあるんですよ」
「は、はいっ!! 仕舞いますですっ!!」
殺気。
低く落とされた声のトーンに、死の匂いを敏感に感じ取った上条は、そりゃあもう急いでパジャマのズボンを元に戻した。
でも、
「小さくしなさいっ!!」
「無茶言わんでください」
立派なテントを張ちゃってるのは、上条にはどうにもこうにも何ともしがたい。
威風堂々な勃起。
まだびくんびくんしてる。
その様子は布地を今にも突き破らんばかりだった。
「……さっきは訊きそびれてしまいましたが、まさかあの娘の前でも、そんなものを出してるんじゃないでしょうね?」
「してるかつ〜〜の」
「本当でしょうね?」
疑いの眼差し。
カチンとくる。
勃起したまま。
溜まってたものが爆発。
「インデックスが居るとできねぇから、こんなとこで、その、…………オナニー、…………してん……だよ、…… 悪りぃかよっ!!」
上条当麻。
言わなくてもいい事まで一気に言っていた。
勃起したまま。
後半は涙目の告白である。
好きで背負い込んだ苦労だが、否、苦労とも思ってないが、それでも、人知れない努力なしには、あの少女との生活は語れないのだ。
それなのに
それなのに、
「それなのにっ!! ノックもしねぇで勝手にドア開けておきながら、いきなし問答無用で人に切り掛かってくる奴はいるし」
「うっ!?」
「オカズの本なんて見ろっ!! しっかりと三冊全部ぶった切ってやがるじゃねぇかっ!!」
「あっ!?」
真っ二つになったテーブルの残骸。
それに紛れて六冊になった本が散乱していた。
「借りなんてどうでもいいからさ、まずは本を返してくれよっ!! そんで頼むから一人にしてくださいっ!!」
!!
この短い時間だけで何回使っただろう?
それは魂の慟哭だった。
ぶっちゃけて二十四時間の内二十三時間は、エロで頭がいっぱいいっぱいの、思春期直球ど真ん中ストレートの青少年。
人間の三大欲求。
食。
眠。
性。
どれが独走状態かなんてわかりきってる。
食べるのを邪魔されるよりも、眠るのを邪魔されるよりも、オナニーを邪魔されるのが、一番腹が立って仕方のない年頃なのだ。
こうなったら怖いものなど何もない。
優しさだけである。
「…………返せと…………言われても…………」
それは異様な迫力だった。
世界で二十人ほどしかいない聖人である神裂炎織が、世界で一人しかいないだろう幻想殺しの少年に押されていた。
良心の呵責。
Salvare000(救われぬ者に救いの手を)の誓い。
そんな感じなくていいものを。
思い出さなくてもいいものを。
あまりにも根が優し過ぎる神裂は、感じてしまったし、思い出してしまったからかもしれない。
「ハァ……」
「…………」
かなり恥ずかしいだろう心情を、勢いのまま吐露した少年が、溜息なぞを一つすると、お姉さんは長身を申し訳なそうに小さくする。
暴走はした者勝ち。
二人の立場がそんなわけで逆転していた。
「もう本当に今日は帰ってくれ。見舞いに来てくれたのに悪りぃんだけど」
「…………」
「俺、これからセロハン職人になって、無残な姿になった本の修繕に、チャレンジしなきゃいけないからさ」
「…………」
窓ガラスに映る上条の肩は、がっかりとうな垂れていた。
日本人の手先の細かさで直しても、どうしたところで、本にベタベタと張られまくるセロハンテープは目立ってしまう。
視覚が命のエロ本。
それは致命的なまでの欠陥といえた。
上条もそれはわかってる。
わかっているけど、いつまでも神裂にキレてたって、どうにかなるもんでもない。
「ハァ……」
「…………」
「今度また見舞いに来てくれる事があったら、ノックだけはちゃんと忘れずにしてくれよな。あと本を買ってきてくれると――」
「代わりがあれば、…………いいでしょうか?」
上条の言葉は神裂に遮られた。
それは大きな声ではない。
だがすでに決意を完了してる強い声。
「……え?」
「…………」
ガラス越しにそっと上条を見ていた神裂は、小さく頷くと、ゆっくりとベッドから降りて、顔を俯かせたまま無言で脇に立つ。
「約束してください」
「は、はい? 何でしょうか?」
目まぐるしい。
立場がどうもまた逆転したっぽい。
「本の代わりである以上は、…………見るだけ…………ですからね」
「えっ?」
脇の絞ってあるTシャツの結び目を、神裂は小刻みに震えている指先で解いていた。