「きゃ」
――女湯の方から小さな悲鳴が聞こえた。
場所は銭湯である。タイル張りの湯船にまだ昼日中なので日光が差し込んできらきらと辺り一面やたらに明るい癖に、湯気がたちこめて視界は悪い。
その湯気の中でぼんやりとしながらその声を聞いた上条当麻は、隣の女湯に居るであろう同居人と担任と、
あと何故か途中で遭遇して公衆浴場という場所に興味を示してついてきた御坂妹の顔を思い浮かべた。
誰か転んだのではあるまいか。
「うぅ、転んだ、ってミサカはミサカは自分の怪我を確認してみたりー」
(……御坂妹…じゃないな、似てるけど。っつか、どっかで聞いた声のような)
などとぼんやり考えていると、隣の少女の声の、連れだろうか。男湯の方から声が飛んだ。
男女の浴場を隔てる壁は薄い上に天井付近が開いているので、さほど声を張り上げずとも隣には届く。
「――風呂場で走るな、はしゃぐな、って散々言ってンだろォが。聞かねェオマエが悪い」
「うー。だってこんな大きいお風呂初めてなんだもん、ってミサカはミサカは抑えられない好奇心を主張してみるー」
へんてこな喋り方。幼いけれどどこかあのビリビリや御坂妹に似た声。
(あ。打ち止めだ)
――いつぞや遭遇した小さな小さな「妹達」の統括個体の姿を思い出し、当麻は思わずほのぼのとした気分になった。
大きなお風呂は初めて、と言っていたか。 あの小さな「妹達」は、御坂妹や他の「妹達」に比べて感情が豊かで本当に普通の子供みたいで、だからはしゃいでいる姿も簡単に想像ができる。
「大丈夫ですか、20001号、とミサカは一応上司を気遣ってみます」
「一応って一言がすごく余計だよ10032号、ってミサカはミサカは抗議してみたり…」
「はい、立てる?そこ滑るから気をつけた方がいいかも」
「怪我はないみたいですねー、良かったです」
次いで小萌や御坂妹、インデックスの声もする。小さな、しかもそれぞれ顔見知りだったりもする少女を見かねて三人揃って手を貸しに来たのだろう。
「20001号はどうしてここに?とミサカは尋ねてみます」
「んー、おうちのお風呂が調子が悪いから。あとあの人が起きるのがすごく遅くて、色々ばたばたしてたらこんな時間になっちゃったの、ってミサカはミサカはお隣に向かってさりげなく文句を言ってみたりー」
「うるせェな。だったら芳川達と先に行きゃ良かっただろォが。オマエ一人、面倒見るコッチの身にもなれってンだ」
「あなた一人でお風呂に行くのは淋しいだろうと思って気遣ってあげたんですー、ってミサカはミサカは澄まし顔で言ってみたり。それにお風呂くらい一人で入れるもん、ってミサカはミサカは主張する!」
「20001号。ウソはよくありません。とミサカはネットワーク経由であなたが浴場で溺れた時の映像をリピートしながら告げてみます」
「わ、わー!?10032号、何でそんな昔の話…、な、内緒にしてたのに…っ、ってミサカはミサカは慌てて…違う、違うの、それは病院の話で…」
「あァ成程なァ。そンであの時俺が引っ張り出された訳かよ、今更納得したわ」
「あ、そういえばあの時、あなたってばシャンプーが目に入って――」
「…その先口にしたら後でどォなるか分かってンだろォなテメェ」
「その一件は、ミサカネットワークでも大変話題になりました、とミサカは淡々と事実を告げてみます」
「…。ほーォ。そりゃまたどういうことだろォなァおい。何であン時のことがネットワークに流れてンだよ、テメェ覚えとけよクソガキ…!」
「………うー。恨むよ10032号、ってミサカはミサカは上目遣いに言ってみる…」
「あなたとアレの問題です、とミサカは知らんぷりを決め込みます」
ミサカネットワークのことを考えると、一緒に居る奴は大変そうだなぁ、と他人事のスタンスで当麻はのんびり考えながら、ざばー、とお湯を被った。
それでなくともあの少女達は色々あってちょっと常識知らずというか、ズレているところがあるみたいだし。案外振り回されて苦労してるのかもしれない。
苦労人だ なぁ、と当麻は自分のことを棚上げして顔も名前も知らない男湯のどっかに居る誰かのことをそう評した。
「10032号ってー」
と、不意に、女湯の声が少し低くなった。こちらに聞こえないようにという配慮なのかもしれないが、あんまり効き目はなさそうだ。
「――あんまり胸、ないよね、ってミサカはミサカはお隣のシスターさんと見比べてみたり」
「なっ」
珍しく動揺した風な御坂妹の声。少し得意げなインデックスの声。
「…そういえば確かに最近ちょっとおっきくなったかも」
そそそそうなんですかインデックスさん。
いえ別にその、だからどうだって訳でもないんですが。と、当麻は無駄に動揺する。
「ほら、少し寄せたら谷間が出来るようになったんだよえへへー」
嬉しそうなインデックスの声に当麻はついつい耳を澄ましてしまう。いやいやその、何だ、不可抗力です。聞こえて来るんだから。これは不可抗力。
「でも、これはこれで結構困ってるかも」
「そうなんですかー?シスターちゃんは見た感じまだまだ成長期ですし、成長するのは健康で良いことなのですよ」
「成長」というものを完全にどこかに置き忘れている小萌先生が言うとやけに重たく感じるのは何故だろうかそのセリフ。
「うん、確かにその、おっきくなるのは嬉しいんだけど…私の服が、その、」
同居人の服装を思い出して当麻は何だかこうとても居心地の悪い気分になる。
主に当麻のせいで、彼女の服というのは「一度ビリビリに破けた布きれを安全ピンで無理やり留めた」という大変パンクな代物と化しており、そのため、動きまわるとちらちらと白い素肌が覗いて色々な意味で危なっかしい。
「…む、胸が見えちゃいそうで、困るっていうか…」
――ああしまった聞くんじゃなかったくそう。意識しちまうじゃねぇか。今度から意識しちまうじゃねぇか。やっとあの格好慣れてきたのに。プチ不幸だ。と当麻は思いながら煩悩を振り払うようにまたお湯をかぶる。
「じゃあ新しいお洋服を買えばいいんじゃないかと先生思いますけどねー」
「うーん。でもあれじゃないと色々困るかも…」
「それじゃ何かアンダーウェアを着ると……ところでそっちの二人は二人でどんよりして、どうしたのですか?」
「……よく考えたら、ミサカは将来10032号みたいになるんだよね、ってミサカはミサカは落ち込んでみたり」
「自分で指摘して自分で落ち込んでどうするんですか、とミサカは上位個体のドジっぷりに言葉もありませんがどうも地味に傷つきました。
…矢張り男性は大きい方が良いのでしょうか、とミサカは悩みます」
「統計的には大きい方がいいらしいっていう結果が出てる、ってミサカはミサカはネットワークのデータをお届けしてみたり…」
ミサカネットワークは一体何をしてるんだろうかと当麻は思った。
何かもっとこう、膨大な演算能力があるらしいし、有意義な使い道が他にありそうな気もするんだが。
まぁ平和的な利用方法といえばそう言えなくもないので、別にあれはあれでいいのかもしれない。
「…ところで上位個体の場合は、アレに直接好みを聞けばよいのでは、とミサカは提案します」
「あ、そっか。じゃあ訊いてみようかなってミサカはミサカは――」
皆までは言わせず男湯の方から鋭く突っ込みが入る。
「公衆の面前で何を口走ろうとしてンだオマエはァ!っつーか俺に何を答えさせる積もりだテメェら!!」
「ですから胸のサイズの好みを」
「ふざけンのも大概にしとけよ…!!!」
何だか大変そうだなぁ。当麻はがしがしと頭を洗いながら苦笑いした。あの少女達にはいまいち羞恥心という概念が薄いようで、それに巻き込まれる側はそりゃたまったものではないのだろう。
「ミサカ大真面目なんだけどなぁってミサカはミサカは口を尖らせてみるんだけど、あなたがそうまで言うなら仕方ない、ってミサカはミサカは引っこんでみる」
「…随分とあっさりですね、良いのですか20001号、とミサカは尋ねますが」
「うん。後でこっそり訊く事にする、ってミサカはミサカは言ってみ…あ、これシャンプーは赤と緑、どっち?」
「こっそり訊かれても答えねェぞ。緑の方だ」
「ケチー。ってミサカはミサカは言いつつ一人で髪をわしゃわしゃしてみたりー」
流す時はきっちり流せよ、オマエよく泡残してるだろ、と、大層面倒臭そうな調子でどこかの誰かが言う。
うん大丈夫、と軽く請け負う打ち止めの声にかぶさる様に小さな溜息が響いたのは多分、あの小さな女の子がどれくらいきちんと髪を洗えるものか、あんまり信用していないのに違いない。
打ち止めとどういう関係なのかさっぱり分からないけれど、会話を盗み聴いている限り小さな女の子と彼女に懐かれている保護者役のお兄さんといったところか、微笑ましいやり取りだなぁ、と自分は湯船につかりつつ当麻が思っていると、
女湯の方からあんまり微笑ましくない言葉が飛んでくる。
「ところでそういえば、ミサカも直に胸の好みについて尋ねることができるはずでした、とミサカは今更思い出してみます」
「……上条さんもその答えについては拒否させて頂きたいんですがよろしいでしょうかー…」
ホントにこの子達は。
もう少し羞恥心を覚えるべきです。
その後も女湯の方からはわしゃわしゃとかばしゃばしゃとか、身体を洗っているような音とか、そういうのに紛れて会話が聞こえ続けていた。女の子たちは積もる話がたくさんあるらしい。会話はなかなか途切れない。
「最近急に大きくなったのには何か訳があるのでしょうかとミサカは分析を試みます」
「うーん。特に変わったことはしてないよ?…単に成長期なだけかもー」
「ね、牛乳を飲むと大きくなる、っていうのはホントかなぁ、ってミサカはミサカはどこかのミサカが雑誌で読んだ知識を思い出してみたり」
「残念ながらそれは迷信なのですよー。でもあなたくらいの子は牛乳をいっぱい飲むと身体にはいいですから、先生としてはオススメです」
「…あれは迷信だったのですか…とミサカはここ数日飲んだ牛乳の量を思い出しながら愕然とします…」
「……10032号、みんなに内緒でそんなことしてたの、ってミサカはミサカはちょっと呆れてみたり…」
「あなたのような小っこいのにこの苦労は恐らく理解できません、とミサカは小さな上位個体に頭からお湯を被せます」
ざばー。
きゃー。という小さな悲鳴も一緒に響いた。
「ぷはっ…あう、目にお湯入った…ってミサカはミサカは涙目になってみたり…」
「アレの言葉通りだった、という点が多少腹立たしくはありますが、確かに20001号は髪を洗うのが下手ですね、とミサカは評価します。
髪は女の命だと言いますし、手入れは重要ですよ、とミサカはお姉さんぶって言ってみます」
「あ、髪の毛って言ったらミサカ、そっちのシスターさんの髪触ってみたいんだけどいいかな、ってミサカはミサカはどきどきしながら言ってみるー。
なんだか気になってたの、ってミサカはミサカは興味津津に言ってみたり」
「人の話を聞きなさい、とミサカは…はぁ、もういいです…」
「え?私の髪?うん、いいよー。ちょっと待っててね、流すから」
またざばー。という水音。ざばざば。何度も何度も頭からお湯を被っているらしい音がしてから、
「はいどうぞ」
と、ちょっとくすぐったそうな声がする。あの同居人さんは髪の色を褒められたのが嬉しかったのかもしれない。
ぱちゃん、と水音と、跳ねるような足音と、それからふふ、と嬉しそうに笑う幼い声。
「わ、すごーい、ほんとに銀色だー。あの人の髪の毛も面白いし綺麗だけど寝てる間にこっそり触って観察してた時にそう思ったけど、あの色とはちょっと違うんだね、ってミサカはミサカは思い出しながら比べてみたり」
「………あのガキ、人が寝てる間に何してやがンだ…」
湯船の端っこの方でそんな声がしたが、あんまり低かったので女湯には響かなかったようだ。
「きらきらしてて綺麗、ってミサカはミサカは羨ましくなっちゃったり」
「え、そうかな、えへへへへ…」
インデックスの髪の色は確かに綺麗だ。夜に見ると薄闇で光が映えるせいか、殊更に綺麗だ。と、当麻はそんなことを思い返して一人で気まずくなって湯船の中で目を閉じた。
別に盗み見ている訳ではない。深夜に時々顔を出したらそんな感じに見えるのだ。
「とーまはあんまり私のこと褒めてくれないし、考えてみたら、髪の色を褒められたのは、初めてかも」
「そうなの? 残念だね、折角綺麗なのに、ってミサカはミサカは髪の毛を触りながら言ってみる」
何だかちくちく胸の痛む当麻であった。――ごく普通の、あんまり恋愛経験なんてありもしない、一介の高校生には、女の子を真正面から褒めるなんてのは結構ハードルが高い。
まぁそもそも上条当麻は記憶喪失なので恋愛どころか人生経験もろくにありもしないのだが。でも頑張って一言二言褒めるくらいはした方がい いのかもしれない。
インデックス嬉しそうだし。それはもう、声だけ聞いていても笑っているのが分かるくらいに嬉しそうだし。
などと湯船の中で悶々と一人考え込んでいると、隣が段々と不穏な気配に包まれ始めた。
「ひゃうんっ!? い、いきなりそんなとこ触ったら…!」
ごずん。と、当麻は盛大にタイルの壁に頭をぶつけた。何だ今のすごく形容しがたいピンク色の悲鳴は。
声の主はインデックスのようだが、次いで、御坂妹の淡々とした声も響いた。
「む。矢張り本物ですか。以前より確実に大きくなっているので、もしや偽物かとも思ったのですが、とミサカは触り心地を確かめます」
「ひゃ、や、やめ…!」
うわぁちょっと勘弁して下さい何をしておられるんですかあなたたち。
耳を塞ぎたいような塞ぎたくないような、いややっぱり塞ぎたいような、そんな衝動で板挟みになりながら当麻が内心で悲鳴をあげていると、更に小さな悲鳴が重なった。
「わわ、いきなり何するんですかー!?」
「こっちの小さな女性の胸に比べればミサカの方がまだある部類に入るでしょうか、とミサカは確認してみます」
「こもえの胸は確かにちっさいかも…うん」
「し、失礼ですね二人して!先生はこれでも大人の女性で…ひゃん!や、やめ…、んっ!…も、もう、怒りましたよー!?大人の女性を怒らせると怖いんですからねー!」
「わわわ、こもえが怒っ…は…ひぁ…っ!」
「ん…っ、な、何を、くすぐった…」
何を始めたんですか先生。いやもうホント何なんですか。そもそもここは公衆浴場です。と、当麻は内心で悲鳴を上げていた。
「どうせ女湯には私達しか居ないのですしもういっそ存分に色々やっちゃいますよー!」
「せんせいいいいいい!!!落ち着いてください部外者さんいますからぁあああああ!!!」
が。
その肝心の部外者さんは巻き込まれるのを嫌ったか、それとも単にそういうタイミングだったのか。
「10032号が相手してくれないしミサカ先にあがって待ってるね、ってミサカはミサカは隣のあなたに声をかけてみたりー」
「湯船つかったのか、オマエ」
「うん、ちゃんと言いつけどおり肩までつかって10数えました、ってミサカはミサカは胸を張ってみる。
ちゃんと約束守ったから、フルーツ牛乳飲んでもいいよねー?ってミサカはミサカは尋ねてみたり」
「…髪しっかり拭けよ。湯冷めして風邪ひいたとかで文句言われンの俺なンだからよ」
「はーい、って言いながらミサカはミサカは脱衣所に一直線っ」
「走ンなっつったろォが!」
そんな感じで、騒ぎなんてどこ吹く風で、小さな少女を伴ってさっさと出て行ってしまったのでした。
**
「あ、出てきた出てきた。フルーツ牛乳買ってーってミサカはミサカはあなたに飛びついてみたりー」
「髪濡れてンぞ」
びしりとチョップされて打ち止めはぱちりと目を瞬いた。自分の髪の毛の先をつまんで、納得いかないみたいな顔をする。確かに滴がぽたぽた落ちて肩を濡らしているが、本人は結構頑張って拭いた積りだったのである。
「…フルーツ牛乳はー?ってミサカはミサカは口を尖らせてみたり…」
「その前にドライヤーだドライヤー。ったくこのクソガキ、手間かけさせやがって。だからオマエと来ンのは嫌だっつったンだよ…」
濡れた髪のせいで肩まで冷えている打ち止めを、とりあえず手元にあったタオルで適当に拭う。
目を細めながらも打ち止めはしっかりと、一方通行の服の裾を握った。気を引くように指に力を込める。
「ミサカは色々面白くて楽しかったよ、ってミサカはミサカは言ってみる」
「何がだよ」
「例えば、あなたとお風呂場の壁ごしに会話するのは楽しかったし。あ、ここであなたが出て来るの待ってるのも何だかすごく楽しい、ってミサカはミサカは思い出してみたり」
そんな言葉の後に、フルーツ牛乳も楽しみ、としっかり付け加えておく。忘れたふりをされたらかなわない。
「また来たいなー、ってミサカはミサカはあなたにおねだり」
べしり。
今度は普通に頭を叩かれた。
「そういう台詞は、一人で風呂くらい入れるよォになってから言いやがれ」
「むー。…確かに今日は10032号とか、知ってる人がいて助けてもらったけどー、ってミサカはミサカは言い募ってみるんだけどー…」
口を尖らせて、諦めの悪い幼い表情。
「――でもやっぱり、あなたと一緒にまた来たいから、せめてシャンプーくらい一人で出来るようになる、ってミサカはミサカは決意してみたり」
「……諦め悪ィなァ、オマエ」
「そこは呆れるんじゃなくって褒めるところだよ?ってミサカはミサカは指摘しとく」