日常。くだらない話に笑いあい、些細な事に思い悩み、小さな発見に胸躍らせ、明日に  
不安と希望とをそれぞれ抱きながら日々を重ねることができる幸福。  
 誰もが失わなければ気付かない程の小さな幸福である日常。日常という名の幸福。  
 
 これは、日常を手に入れるために、表と裏の二人の主人公がいかにかして学園都市統括  
理事長のプランを凍結、中止あるいは大幅な変更をさせた幸福な未来の話かもしれない。  
 あるいは、大きな事件と事件とのわずかな間の、つかの間の休息のような幕間劇かもし  
れない。  
 
 ともあれこれは、白い少年と幼い少女がともに歩み始めた、新たな日常の物語。  
 
『とある悪夢と一方通行 The_Nightmare_Before_Romance・・・?』  
 
 
 
 一方通行は、いまだ、彼の新しい日常に馴染めずにいた。  
 学園都市第一位の超能力者の彼にとっての日常とは、常に死線と隣り合わせの暗く深い  
裏の世界に絶望に喘ぎながら身を置くことで、平穏や希望といったものとは対極にあった。  
 それが今や、黄泉川宅での居候暮らし−−まるで春の陽射しに溶けかかったヌガーのよ  
うな日常が彼に訪れた。やもすれば不快に感じられる程に温く、甘ったるく、しかしどこ  
までも愛おしい。なにより、いつ溶けて消えてしまうかもわからない弱さと儚さと優しさ  
が彼の拒絶を許さない。  
 一方通行は気付いていた。守るモノができてしまったことに。もう手放すことなど考え  
られない弱さに。幸福に。  
 だからこそ殺戮者は思い悩む。世界で一番守りたいものと遺伝子レベルで同一のものを  
一万回もなぶり殺しておいて、平気な顔をして隣にいていいのだろうかと。一万の死体と  
同じ顔をした少女の側にいる資格など、とっくに失くしたのではないかと。  
 さらに皮肉なことには、妹達の代理演算という助けがなければ、能力者としてだけでな  
く日常生活もままならない。  
 彼女が望むならばと自分を騙してきたのだが、罪の意識に囚われ続けるのにもそろそろ  
−−幸せだからこそ余計に−−限界だった。  
 そして白い少年は、今夜だけでも幾度目かの赤い夢をみる。  
 
 一方通行は一晩中、何度も何度も夢と現を行き来し、ごくごく浅い眠りを繰り返した。  
 まどろむだけではけして心も体も休まることはなく、その悪夢を見るたび消耗する。し  
かし、摩耗した精神は新たにつかの間の休息を求め、また暗い奈落に落ちていく。  
 悲しい連鎖だった。  
 自室のドアが開く音で一方通行は目覚めた。覚醒しきらない頭のまま、上体だけ起こす。  
 昼も近いのだろう、カーテン越しの陽射しは少し高い角度から入り込み、目に眩しい。  
「おはよう、ってミサカはミサカはもうそろそろこんにちはの時間だけど毎日の習慣で挨  
拶してみたり。ホントにお寝坊さんなんだから、ってミサカはミサカはあなたの体調不良  
の可能性も考慮しつつ茶化してみる」  
 入ってきたのは、頭頂部から飛び出した一房の毛が目を引く、いつも通りの幼い少女、  
打ち止め。  
「……ッ」  
 少女にあたった日の光が血に濡れたように見えて、一方通行は息をのむ。  
 現実を正しく理解するまでに数瞬かかった。今の今まで夢の中で何度も“殺していた”  
から。  
「入っ……ンな、クソガキィ」  
 押し殺した声の凶悪さと眼光の鋭さは、それだけで人を殺せそうだ。  
「なになになーに、ってミサカはミサカは−−」  
 それでも打ち止めは、気にする様子もなく駆け寄ってくる。  
「こっち入ってくンじゃねェって言ってンだよ、クソガキィィィ!」  
 いらだたしげに振り下ろされた拳に、ベッドのスプリングが抗議の悲鳴をあげた。  
 その固く握りしめられた手が汗ばみ、微かに震えているのを見て、打ち止めは初め  
て驚きの感情を表した。  
 それでもなお近づいてこようとする打ち止めを見て、思わず手が出た。  
「くンなっつってンだろォがァ!」  
「く……、かはっ」  
 一方通行の長い指が、打ち止めの簡単に折れそうな細い首になんの抵抗もなく食い込む。  
 慌てて振り払うようにして手を放すが、瞳に涙をいっぱいにためて咳き込む姿が悪夢と  
重なり、嫌な記憶の断片が頭の中に奔流のごとくなだれ込んでくる。  
「う、ぐゥ……」  
 一方通行の脳裏に反復された悪夢が蘇る。暗く、黒く、赤い赤い夢。  
 頭の中の鈍い痛みに追い立てられるように目をつむった。  
 
 夢の始まりはいつも暗闇からだった。深い漆黒の中で佇んでいる。  
 いつの間にかスポットライトがあてられたように狭い範囲がぼんやりと明るくなり、自  
分が上から下までベットリと血で汚れているのに気付く。身体のどこにも痛みは感じられ  
ないので、これは自分の血ではないと思う。  
 次に気付くのは、足元に横たわる壊れかけた血塗れの人間。放射状におびただしい血が  
流れている。まるで、全身の血を逆流させて切り裂かれたかのように。  
 その出血量を見ただけで、誰だってその人間が助からないのがわかる。第一、助けの呼  
び方なんかわからない。  
 過去の“実験”がフラッシュバックしてるのかもしれない−−瀕死の傷に微かに呻いて  
いるのが、赤く染まったキャミソールを着た幼い少女ではなく、有名校の制服を着た成長  
期の少女だったらそう思っただろう。  
 はっきりとした違いは、服装や体格よりも、むしろ瞳。過去に幾度も見た感情のないま  
ま光を失う瞳とは違い、一方通行を見つめる二つの眼ははっきりと感情を、悲しみの色を  
映していた。  
 定まりきらない視線に責められているように感じる。  
 そして気付く、というより解る。この少女を死の淵にまで追いやったのは紛れも無く自  
分であると。理屈ではなく漠然とした事実として自分の中に確かにある。  
 そうしている間にも、目の前の命はゆっくりと弱まっていき、ついには消えてしまう。  
遺言として、自分に向けられた怨みの言葉を呟きながら。  
 血に濡れるのも構わず膝から崩れ落ち、少女の亡骸にすがる。  
 大切なものを失ったことを心から歎き、自分が殺したことに恐怖し、どうあがいても戻ら  
ないことに絶望する。  
 一方通行は自らの精神が闇に蝕まれ、狂い、コワレていくのを確かに感じていた。  
 あと一歩で自分が自分でなくなるというところ、最後の最後に、やっと全て夢だと気付  
いて目覚めることができるのだ。  
 
 耐え切れなくなったように、一方通行は目を開けた。  
 打ち止めはベッドの上、すぐそばまで来ていた。  
「……大丈夫? ってミサカはミサカはちっとも大丈夫そうじゃないあなたに−−」  
「うるせェ、退け……」  
「で、でもっ」  
「退けって言ってンだろォがァ!……がはっ」  
 急激に襲ってきた頭痛と吐き気に身を二つに折り、呻きを漏らす。  
 疲弊は着実に肉体にまで及んでいる。  
「えっと、だ、大丈夫!? じゃないのはわかってるんだけど、平気? もおんなじだ……、  
ってミサカはミサカはパニックに陥りつつ、どうにもならないと思うけど慌ててあなたの  
背中をさすってみる!」  
 潤んだ瞳が乾かないうちに、加害者の心配をするなんて、健気にもほどがあるだろう。  
 それは必死過ぎてむしろ滑稽な程で、笑えてくるのに泣きたくなる。  
 自然、声色は静かで優しいものに変わる。  
「オマエなァ、どォして……」  
 その先が続かない。問い詰めたいことは山ほどあるのに、訊いてしまったら、答えられ  
てしまったら、全てが終わってしまうような気がしたから。  
 そんな一方通行の心情を全て察しているかのように、打ち止めは宣言する。  
「あなたと一緒にいたいから、ってミサカはミサカはビシッとバシッと言い切ってみたり」  
「“誰か”じゃなくてかァ?」  
「そう、“誰か”じゃなくて“あなた”がいいの、ってミサカはミサカは繰り返してみた  
り。むしろあなたじゃなきゃダメなの、ってミサカはミサカは勝手に結論づけてみる」  
「……、趣味悪ィ」  
 一方通行は僅かに顔を歪ませたが、それはヘタクソな笑みであったかもしれない。  
「あなたにだけは言われたくないかも、ってミサカはミサカは頬を膨らませてかわいらし  
く抗議してみたり」  
「言ってろ……」  
 
「あとねあとね、ミサカはあなたを許してあげるってミサカはミサカはお節介をやいてみ  
たり」  
 はァ? と、一方通行は気の抜けた声を発した。  
「あなたはもう十分に苦しんだはずで、ミサカ達のために動いていたのも知ってるから、  
ミサカはあなたにこれ以上苦しんで欲しくない、ってミサカはミサカは本心を述べてみる」  
「そりゃァ……、ありがとよォ」  
 この幼い少女がどこまでわかって言ってるのか皆目見当もつかないが、聖母のような笑  
みと澄んだ瞳には全て見透かされているのかも知れない。  
 一方通行は打ち止めの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわして、そっぽを向いた。あまりにも  
拙い照れ隠しだったが、打ち止めには十分だった。  
「じゃあお腹も空いたしお昼ご飯を食べよう、ってミサカはミサカはあなたを誘導してみ  
る。今度はごちそうさまも一緒に言ってくれるよね? ってミサカはミサカはお願いして  
みたり」  
 答えは、ない。  
 一方通行の端正な横顔は、再び枕に沈んでいた。小さな子供のような邪気のない安らか  
な寝顔で。  
 一方通行は能力全盛期と同じくらいに、いや、それ以上の安眠を手に入れた。  
 肩の荷が下りたのではなく、どんなに重い荷物を背負っていても歩けることを教えられ  
たから。  
 一緒に歩いていけることがわかったから。  
 この少女のためならば、潰れそうに重たい荷物を背負ったままでだって、どこまでも歩  
いていけると確信したから。  
 
「むぅ、やっぱりあなたに睡眠は鬼門かも、ってミサカはミサカはひとりごちつつお邪魔  
しまーす」  
 打ち止めははだけられた毛布を手にとると、かけてあげるのでなく、毛布とともにダイ  
ブした。  
 一方通行はよほど疲れていたのか起きる気配はなく、やがて打ち止めも優しい眠りに落  
ちた。  
 残されたのは、静かな寝息が二人分。  
 保護者二人が心配して様子を見に来るまでのわずかな間のほんの一睡ではあったが、確  
かに少年と少女は、幸せな幻想(ゆめ)をみたに違いない。  
 
fin.  
 
 
 
 
 
「様子を見に来たら、コレ、ね……」  
「仲がいいのは良いことじやんよ」  
「そういう問題かしら?……立派な同衾よ」  
「あとでたーっぷりからかってやるじゃん♪」  
 

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