―俺は何故、こんな所で息を切らせている?
そんな訳の分からない思考を抱えながら、浜面仕上はコンテナに背中を預け座り込んだ。
ジャケットの下の薄手のTシャツは既に汗に塗れ、全力疾走を続けた足は鈍痛を訴えている。
息を付きながら上を向くと、中天に指しかかろうとする赤い三日月が目に入った。
「……何が、どうなって、やがるんだ……?」
殆ど治まらない荒い息と共に呟きを吐き出し、浜面は視線を下に下げる。
と、大分離れた―と言っても精々数百メートルほどだろう―所で白い光が瞬き、特徴的な破壊音が立ち並ぶコンテナの間を渡ってきた。
その轟音に一瞬身体を竦ませた浜面が、再び口を開く。
「何で、麦野が……」
鼻梁を伝い落ちようとする汗を右手で拭い、出そうになった咳を飲み込む。
現在より大体三十分ほど前のことだろうか。
滝壺と絹旗のために増やした夜間のアルバイトの帰り道。
途中のコンビニでパックの牛乳と朝食の材料を買い、近道である倉庫街の角を曲がった直後、背後から浜面に声が掛かった。
「ようやく来たんだ、浜面……」
馴染み深い、そして二度と聞くことが無いだろうと思っていた、若い女の声が。
悪寒に背筋を粟立たせながらも、ゆっくりと振り向いた浜面の視界に、秋物のコートを着た女が入り込む。
失くした筈の左腕を軽く上げ、挨拶するように微笑む女―麦野沈利。
その左腕の、黒い手袋をはめた指先に純白の光が宿り始めた瞬間、絶句していた浜面は脱兎のごとく駆け出した。
恐怖による反射の行動の中でも手縫いの買い物袋を手放さない浜面の背中を見つめながら、麦野の笑みはますます深くなる。
笑みが最も深くなった瞬間、純白の閃光を湛えた左腕を僅かに動かした。
既に数十メートルを稼いでいた浜面の真横にあったゴミ箱に閃光が突き刺さり、特徴的な音と共に破壊する。
一瞬歩調を乱しながらも足を止めず、角を曲がって見えなくなった浜面に語りかけるように、麦野が口を開く。
「……鬼ごっこの開始だね……必死で逃げ回ってよ、浜面」
頬を上気させ、口角をより吊り上げながらの台詞の直後、麦野は走り出した。
三十分前からの恐怖を回想し、頭を抱え込む浜面。
戦おうにも、その手段が無い。
以前の戦いでは決定打となったレディース用の拳銃は部屋の机の底にしまってあるので手元には無い。
何か投げようにも迎撃させるのが落ち。
素手でやろうにも接近する間に撃たれれば終わり。
「畜生が……どうすりゃいい」
滝壺か絹旗に連絡を入れようにも、逃走の途中で携帯電話は落としてしまっていた。
八方塞の状況に浜面が呻いた瞬間、それは真上から降ってきた。
軽い音を立てて肩にぶつかり、そのまま地面へ落下した長方形。
疑問を抱いた浜面が、そちらに目を向ける。
目に映ったものは。
落としたはずの携帯電話だった。
異常に気がつき、臨戦態勢をとる浜面。
何故、落としたはずの携帯電話が上から降ってくるのか。
その答えに気がついた浜面が、上を向く。
コンテナの上端から真っ赤な三日月が見えた。
いや、三日月のように吊り上った唇か。
「みぃつけた、浜面ぁ……」
三日月の光を背景に、コンテナの上から顔を出していた麦野が微笑んだ。
目に被さっていた髪が垂れ下がり、綺麗に治療された傷と真紅に光る義眼が覗く。
慌てて立ち上がり、身を翻そうとした浜面にコンテナから飛び降りた麦野が覆いかぶさり、やがて左手で浜面の首を鷲掴み持ち上げコンテナに押し付けた。
背中を強打した浜面が空気の塊を吐き出す。
苦しげにもがく浜面の身体をより強くコンテナに押し付けて押さえ込み、左手に込めた力を強める麦野。
―こいつって、こんなに背が高かったか―などと浜面の脳内で妙に冷静な部分が呟く。
長身に分類される浜面の身体を易々と持ち上げるほどの力も、こんな異様なほどの腕の長さも無かったはずだ、と続ける冷静な部分が、
僅かな駆動音を捉えた。
小さなギアなどが動く、ごく小さな音を。
その正体に気づいた浜面が呻き声を上げる。
「麦野……おまえ、義手……」
「うん、そうなんだ。浜面のせいで失くしたから。他にも目とか内臓のいくつかとかもね……ねえ、浜面。責任は取ってもらうよ?」
私の所有物にしてね、と嫣然と微笑んだ麦野が、空いていた右手をぐったりとした浜面の胸元へと伸ばす。
汗でびしょびしょになったTシャツを引き裂き、逞しい胸を撫で回す。
首を押さえられているがゆえに、浜面の意識が段々と遠のき始める。
その意識が完全に落ちる寸前、浜面の耳に麦野の言葉が届いた。
「もう、誰にも渡さないから、ねぇ……」