『聖なる夜はまだ遠く』
今は夜。
極寒のロシアの大地に、しんしんと雪が降り積もる季節、ここロシア成教『殲滅白書(Annihilatus)』所有の古びたアパートメントの鎧戸から、微かに光が漏れていた。
本部からほど近いこのアパートメントには、少女がたった1人で暮らしていた。
名をサーシャ=クロイツェフと言う少女は、今日も過酷な仕事を無事に終えて、ゆっくりとくつろいでいる所だった。
大嫌いな上司が作った、これも大嫌いな戦闘服をクローゼットにしまい込んだ少女は、シャワーを浴びてさっぱりした体に、ゆったりとしたサイズのひざ丈のナイトローブ姿で、今はテーブルに向かって何かの作業をしている最中だ。
テーブルの上にざっと並べられた、一見、大工道具とも拷問用具ともとれるこれらはサーシャの大事な仕事道具――幽霊を狩る為の強力な武器なのだ。
時折、たっぷりとブランデーを入れた紅茶を口に含みながら、入念にそれらの手入れをしていたサーシャは、手にしていたティーカップの中身が、不自然に波立っている事に気が付いた。
ティーカップを置いて、改めて自分の手を見ると指先が震えている。
サーシャはそこで、大きなため息を一つ付くと、
「第一の質問ですが、こんな夜ふけに貴女は何をしに来たのですか?」
「あらあらあらぁ? サーシャちゃんてば気が付いちゃったの? ん、もぅ。驚かそうと思ってそーっと入って来たつもりだったんだけどなぁ。これも愛の成せる技かしらね?」
振り返りもせず発した言葉に答えたのは、いつの間にか出入り口に立っていた、真っ赤な修道服を着た金髪の女性だった。
「第一の回答ですが、最近は何かと物騒なのでアパートメントに防御結界を張っておきました。補足説明しますが、侵入者があれば自動迎撃するようになっています」
そこで再びため息をつくと、椅子の上からひょいっと下りて、自分よりはるかに身長の高い、この招かれざる客人を見上げた。
「第二の質問ですが、ワシリーサ、貴女はどうやってここまで来たのですか?」
「え? 歩いてだけど、普通に」
あっけらかんと答えるワシリーサに、三度目になるため息をつく。
「第一の反省ですが、次からはもっと強力な防御結界をはるようにします」
「そうして頂戴な。私じゃ無かったら今頃、私のかわいいサーシャちゃんが襲われちゃってたかもしれないじゃない? こうガオーって」
「…………」
サーシャは、指先をかぎづめの様に曲げて襲いかかるような格好をしておどけて見せるワシリーサに、前髪の奥からシベリア永久凍土もかくやの冷たい視線を投げつける。
「第一の質問をくり返しますが、貴女は何をしに来たのですか?」
「気になる?」
「第二の回答ですが、正直聞きたくないですけれど、聞かないのもそれはそれで恐いので、質問を質問で返すなと言っておきます」
「素直じゃ無いサーシャたん萌えッ」
突然意味不明な言葉と共に、今度は口元に拳を当てて片足を跳ねあげてなしを作るワシリーサに、サーシャは無言でテーブルの上にあるハンマーに手を伸ばした。
すると、その行為を阻むようにワシリーサが、
「じゃじゃーん」
そう言って、何処からか真っ赤な布状のものをサーシャの目の前に広げて見せた。
一瞬、頭の中まで赤一色に染まったサーシャの動きが止まる。
そこから、じっと観察するようにワシリーサが手にしたものを眺めた後、
「第一の指摘ですが、いい歳して『じゃじゃーん』などと言わないで下さい。そして第三の質問ですが、これは『マロース爺さん』の衣装ですか?」
ロシアではサンタクロースの事をマロース爺さんと呼ぶのだが、確かに良く見ると、ワシリーサが広げているそれは定番の赤と白をあしらったサンタクロースの衣装によく似ている。
「第四の質問ですが、人の話を聞いていますか?」
「『じゃじゃーん』が駄目なら何て言えばいいのかしら? 『ゴゴゴゴゴ……』? いやいや『ドンッ!』かし――え? 何?」
「第三の質問を繰り返しますが、それは『マロース爺さん』の衣装ですか?」
「そうそう、良く判ったわねぇ。シーズンに合わせて作ってみたのよ。かわいいわよぉ」
「第五の質問ですが、『冬祭り』にはまだ早いと思うのですが?」
冬祭りとはクリスマスの事――ロシアのクリスマスは、成教の習いに従いユリウス暦の十二月二十五日に当る、一月七日に行われる。
今は、十二月に入ったばかり。
確かに少し早いと言えば早い。
「何言ってるのよぉ。来年なんてすぐそこじゃ無い?」
そこで考え込むように一拍置くと、
「年末年始は、忘年会に、新年会に、大掃除に、年越し蕎麦に、『今年も最後までカナミンをよろしく』と『今年もカナミンをよろしく』の豪華2本立て観なくちゃいけなくて、もうホント大忙しなのよねぇ」
困ったわぁ、とでも言いたげに頬に手を当てるワシリーサに、お前はいつ仕事をしているのか、と喉元まで出かかったサーシャだったが、やぶへびになる事を恐れて怒りを飲みこむ。
それでも、くだし切れない怒りは、押し殺すように口を真一文字に引き結んで耐える。
(そんな何かを必死に我慢する健気な姿も萌えなのよねぇ)
などと思われているとはつゆ知らず、乗せられまいと平静を装って話しかける。
「第六の質問ですが、それは誰が着る衣装ですか?」
「もちろんサーシャちゃんに決まってるじゃなーい! プレゼントよ。プ、レ、ゼ、ン、ト」
満面の笑みを見せるワシリーサに、サーシャは気付かれないように視線を走らせて逃げ道を探す――正直もうこの馬鹿上司に付き合っていては身が持たない。
一応、ワシリーサの動きも警戒しているが、その本人は、何だかご満悦の様子で持って来た服の説明を始めた所だった。
「まずは見て見てこれ! 一見、何の変哲もない定番の毛皮のマント。でも中はふかふかのムートンになってて、とぉーっても暖かいのよぉ」
確かにマントの中は暖かそうだが、サーシャには、その奥にチラリと見えた何に目が釘付けになっていた。
(第一の憶測ですが、あのおぞましい形状にいささか見覚えがある気がします)
そして、その視線に気づいたワシリーサは、これ以上ないくらい口元に笑みを浮かべると、マントに隠されていたそれを取り出して見せた。
一見すると、ミニスカート状のバレオの付いた、セパレートタイプの水着のように見える。
しかし、ブラに当たる部分の、白いムートンをあしらった赤い布地が、サーシャの戦闘服のベルトよりもっと細かったり、パレオから覗くパンツ部分が完全に紐だったりと、とんでもない代物なのだ。
今の戦闘服より酷い! そんな裸の方がマシな衣装を私に着せるつもりなのか!?――その事実に全身総毛だっている最中もワシリーサの喜々とした説明は続く。
「ね? 一見セパレートの様に見えるでしょこれ。でもこれ新素材の超極薄シースルー生地のワンピースになってるのよぉ。だからフィットアンドヒートでサーシャちゃんのお腹が冷える心配無し!」
テレビショッピングの司会の様に、変態水着――サーシャ命名――を誇らしげに見せるワシリーサを前に、サーシャは足もとに視線を落とすと、わなわなと肩を震わせる。
「あれ? 肩なんか震わせちゃってどうしたのかしらぁ? あ!? も、もしかして私のプレゼントに感動してくれてるとか!?」
ワシリーサが場違いな言葉を発した次の瞬間、サーシャは、テーブルの中にずらりと並べられた武器から、最も破壊力のありそうなバールを手に取ると、
「第三の回答ですが、今度こそ本当の本当にクソ死にやがれこの馬鹿上司!!」
「プギュ!?」
渾身の力で振り下ろした一撃は、ワシリーサの脳天を直撃した。
轟音と破壊音は建物の外まで響き渡り、その衝撃でワシリーサの脚は、床板を突き破って膝の辺りまでめり込んでいた。
天井から剥がれた漆喰がパラパラと音を立てて落ちる中、もしやしとめたか!? とにわかに期待の視線を送った先では――――、
「びっくりしたぁ……って、もう! また壊れちゃったじゃ無いお部屋。一応大事な備品なんだからさぁ、もう少し丁寧に使って欲しいわ」
そう言いながら何事も無かった様に、よいしょっと床から脚を引き抜くワシリーサの姿に、サーシャは構わず追撃を加える。
ごうっという風斬り音と共に、バールが再びワシリーサの胴を横に薙ぐ。
だが、
「ところで、ここに来た理由って、まだ答えて無かったわよね?」
「!?」
これも何事も無かったかのように、ワシリーサはサーシャに笑顔を向けると、バールを構えた腕を掴んで、自分の懐に引き寄せた。
掴まれた所から、瞬く間に全身に痺れが走る――体の自由を奪われたサーシャの手からバールが滑り落ちて、床の上で硬い音を立てた。
そんなサーシャを、慈しむように胸の中に抱き込んだワシリーサは、妖艶に微笑みながら少女の顎に指を当てて上向かせると、喘ぐように息をしている顔を覗き込む。
「カッとなると見境の無くなる所なんか直した方がいいわよ。命取りだから、ね?」
「だ、第一の命令ですが、はなせ、こ、このばかじょう、しぃ……」
必死に抵抗しようとするサーシャだが、自由になるのは、目と、口と、舌だけ。
しかもその舌すら、徐々に呂律が回らなくなってくる始末に、
(第二の反省ですが、またしても勝てませんでした。補足しますと、一矢報いる事が出来ると考えていた事事態が甘かったです)
すっかり弱り切って、徐々に瞳からも力が失われつつあるサーシャを前に、ワシリーサは小さくため息をつく。
「ま、私が言うのもなんだけど、もう二度とサーシャちゃんを危ない目に合わせるつもりは無いから。慈しみ、育むために、私は全てを捧げるわ。その為なら、御使いだろうと神だろうと、邪魔するものは、狩る――」
呟きにしては、あまりに鮮烈な、胸に突き刺さる言葉に、サーシャの瞳が大きく見開かれる。
(第一の疑問ですが、冗談が呼吸している様なワシリーサがそのような事を言うはずが無い!?)
「だ、い、な、なの、しつ、もん、です、なんの、はな、し……、して、る……」
さらにたどたどしくなった言葉で、何とか今の言葉の意味を聞き出そうとする。
しかし、
「一応、採寸しないといけないと思うのよ。うん。いつも見てるとは言え布越しとかブイじゃ判らないでしょ?」
もう、そこにいるのはいつものワシリーサだった。
「さあ、サーシャちゃんに質問。私はこれから何をするのでしょうか?」
「く、ぅ。だ、い、よ、ん……、かと……、わし、り、さ、かんが……る、ろくな、こ、あ、アッ」
悲鳴を上げてサーシャがのけ反る。
良く見ると、ワシリーサの手が、ナイトローブの袖口の奥に消えている――。
「あら? 下着は着けない主義だっけ? あ、でも、ブラはそろそろ必要かもね」
「クゥ……ン……」
服の中では何が起きているのか?
まるで子犬が甘える様な声を上げるサーシャの姿に、ワシリーサはにっこりとほほ笑む。
「ふふふ。心身共に管理をするのも上司の務め、とか何とか言ってみちゃったりして――きゃー、私ってカッコ良すぎっ」
「キュ……ゥ……ン……」
軽口を叩きながらも、手指は休む事無く、服の中でサーシャの体にいけない悪戯を繰り返す。
やがて、サーシャが腕の中でぐったりとするまで堪能したワシリーサは、上気して朱に染まった少女の体を軽々と抱き上げた。
「さぁー、サーシャちゃん。ベッドで続きちまちょうねぇ」
「……ゥ……ン……」
「ッ!? カ、カワユスギル」
呆けたサーシャを前に、言語が若干怪しくなったワシリーサは、嬉々としてサーシャをお姫様だっこしたまま部屋を出て行く。
だれもいなくなった部屋の中に静けさが訪れる。
その静けさはまるで聖夜のようであった。
後日、ワシリーサ所有のとある一枚の写真により、冬祭りの夜に殲滅白書の本部施設が全壊すると言う前代未聞の騒動が起きるのだが、そこで起きた事を語るものは誰もいない。
ただ、ワシリーサが発した、『あの夜の出来事を胸に思えば、私は世界を敵に回しても戦えるわ』と言う言葉が、とある少女の心をいたくかき乱したのは事実である。
ロシアの大地に真の静けさが訪れるには、まだまだ時間がかかりそうだ。
END