「助手よ。ちょっと原子崩し(メルトダウナー)改造計画で聞きたいことがあるのだがね」
「そんな怪しげなものに協賛した覚えはありませんがなんでしょう博士」
「結局、原子崩しで核爆発って起こせるのだっけ?」
「はあ? いや、彼女の能力は電子雲を剥ぎ取るだけですから、原子核自体はどうにもなりませんよ」
「ちっ! じゃああれだ。要するに彼女は生体加速器なのだろう? それならマイクロブラックホールを作れないかな」
「タコですか貴女は。あれは陽子加速器ですし、そもそも本家の大型ハドロン加速器でもまだ確認されてません」
「となると結局荷電粒子砲がベストなわけか。目から撃つか腕から撃つか、それが問題だ」
「いやそんなものつけなくても彼女はビーム撃てますから。ていうか、可能だったらウラン積むつもりだったんですかあんたは」
「ところで彼女はゴジラの親戚みたいなものなのだねえ」
「話逸らしやがった! まあ、体内で核反応起こす生物と一緒にするのはどうかと思いますが、ビーム撃つのは同じですね」
「ゴジラには放射能火炎を噴射した反動で飛行する技というものがあってね。彼女にノズルつけたら生身で大気圏突破できるのかなあ」
「せめて宇宙服着ないとくたばると思いますが。いい歳して子供みたいにきらきらした目をしないで下さい」
原子崩しは平凡の夢を見るか4
麦野沈利が意識を取り戻した時、最初目にしたのは知らない天井だった。
(…………)
灰色のタイル。自分を囲い込むカーテンのレール。電気の通っていない蛍光灯。それら全てに微妙な、のっぺりとした違和感があった。加えて、なにか圧迫されているような。
鼻を付くかすかな消毒液の匂い。頭が沈む柔らかいもの。左の大きな窓からクリーム色のカーテン越しに、陽光が差し込んでいる。空調が利いているのだろう、空気は暑くもなければ寒くもない。
どうやら自分はベッドの上で仰向けに寝ているようだった。しばらくそのままぼんやりしていた麦野だが、ふと体を動かそうとして全身に走った痛みに呻き声を上げた。
「っ……!」
苦痛というよりも驚いた。何日もぶっ続けで運動した後で筋肉痛になったような、階段から転げ落ちて全身を強く打ち付けたような、そんな痛み。
ただし、体の一部分だけは麻痺したようにその痛みが存在しなかった。顔のどこかと、左腕。
首を傾げて体の左半分を見てみると、左肩から先が布団から出て、がっちりとギプスで固められていた。反対の右腕には、点滴の管が繋がれている。
知らない天井、消毒液の匂い、全身の痛み、点滴、ギプス。ここは……病院、だと麦野はようやく認識した。
同時に、思い出す。意識を失う前に、自分が事故に遭ったことを。
『麦野――――っ!!』
最後に聞いた絶叫を。
どうやら自分は、まだ生きているようだった。
「ああ、やっと目が覚めた訳、姉貴。結局三日も待っちゃったじゃない」
右側から声。
存在に気付かなかった。慌てて、振り向く。そこで麦野ははっきりと、視界の異常を認識した。
耳がベッドに付く程首を捻ったのに、ベッドの脇に座っていると思わしき人影が見えない。
つまり、左目しか開いていないのだ。
痛みをこらえながら、右腕を動かして顔をまさぐる。左目のあるべき場所で指先が触れたのは、ごつごつとした包帯の感触だけだった。
「ちょっとちょっと、あんまり動くと点滴外れるわよ。聞こえてる? もしもーし」
「ふ……ごほっ」
麦野がなにか言おうとして、ごほごほと咳き込んだ。元々、発声とは繊細な行動である。何日も喉を使っていなかったため、うまく動かせなかったのだ。
やれやれ、と人影が立ち上がって水差しを手に取った。先端で麦野の頬をつつき、大人しくなると中身を口の中に注ぎ込んだ。こくこく、と喉が水を嚥下していく。
同時、麦野の視界に人影が入っていた。年の頃は中学生程。ベレー帽を被った金髪に碧眼という日本人離れした顔立ち。この近辺のものではない洒落た制服。猫のような雰囲気がある。
知った顔だ。正真正銘、麦野沈利の妹である。二人の母はフランス人で、妹は特にその血が色濃く出ていた。
にやにやと笑っている。美少女ぶりが台無しだ。
「久しぶり、姉貴。結局何年ぶりだっけ?」
「ごほっ……そうね、三年ぶりかしら、フレンダ」
麦野はぎくしゃくと、節々に走る痛みをこらえつつ体を起こし、ベッドの背もたれに体を預けた。フレンダが口笛を吹いて席に戻る。
「相変わらずすごい意地っ張りだわ。結局、そんなざまになっても変わってないって訳ね」
「ふう……まあね。それに、あんたと私の仲じゃない」
久しぶりに会った姉妹だが、お互いの仲はあまり良くない。いや、悪い。
少なくとも、パリに留学中の妹が、事故の一報で飛んでくるような仲ではないはずだ。心配したという理由では。
胡乱な視線が伝わったのか、フレンダが肩をすくめる。
「ここにいるのはパパとママの代理。初日は揃ってたんだけどね。結局二人とも忙しすぎるっていうか」
「ん……私、どれだけ寝てたの?」
「三日。正確にはえーと、事故ったのが土曜深夜で今日が火曜午前だから、結局二日半ね」
事故の時のことを思い出す。大型トラックにまともに轢かれたことを思えば、こうして生きていることは幸運なのだろう。
「酒の入った男と自転車二人乗りで事故ったんだって? 馬鹿な真似したよね、結局」
そう、馬鹿な真似をした。そこについては反論のしようもない。全て自業自得だ。
けれど、一つだけ後悔していないこともある。あの時、あの時
「そうだ、浜面は……私と一緒にいた男はどうしたの? 無事なの?」
「……姉貴?」
フレンダは思わずぽかんと口を開けてしまった。
にっくき姉を馬鹿にしてやろうとわざわざフランスから飛んできたのに、逆にこっちが豆鉄砲を食らった気分だった。
あの麦野沈利が、傍若無人にして傲岸不遜の姉が、自分の怪我の具合よりも、そんな男のことを心配するとは!
そうだ、頭を打ったに違いない。いやあ事故って怖いなあ、本当。
「あ、うん。結局怪我はなかったみたい。まあ、停学二ヶ月と自宅謹慎二週間と反省文山程食らったのが無事って言えればだけど」
「そう……そっか。私の方も同じ処分出てるの?」
「姉貴はもっと軽いんじゃない? 結局酒は飲んでないし、相手の信号無視だし、こんな重傷だしさ」
「待て」
今なんて言った。
「酒が入ってないって?」
「じゃないの? そーいうことになってたけど」
「……」
言うまでもなく、あの時の彼女には酒がしこたま入っていた。
重傷を負って病院に運び込まれた彼女がアルコール検査を免れたのは想像に難くない。
だとしても、もう一人の当事者に問いただせば状況は明らかのはずだ。
もう一人の当事者。
(……あの馬鹿っ!)
浜面が自分を庇ったのだ。そうとしか思えない。
警察相手に虚偽証言など、ばれたら洒落にならない。事故についてはどうやら実刑は免れたようだが、あまりにもリスクとリターンが合っていない。
いや、むしろリターンなどない。飲酒運転の方が重罪なのだ。わざわざ自分で責任を被っているとしか思えなかった。
馬鹿だ馬鹿だと胸中で罵る。次に会ったら絶対に文句をつけてやる。
そんな風に考え込んだ麦野に、ふとフレンダが冷ややかな声をかけた。
「結局、それが姉貴の人生な訳? 好き勝手に生きて、下らない男とつるんで、最後は自滅して。結局さ」
「いきなり何言ってんの?」
「あんたはもう終わりだってことよ!」
突然、悪意を剥き出しにしてフレンダが叫んだ。
昔から、彼女にとって姉はジャイアンのような存在だった。子供らしい我侭を拳骨で黙らされたことは一度や二度ではない。しかも口喧嘩でも一度足りとて勝てた試しがなかった。
行うこと全てをそつなくこなす姉に、周囲も親も期待した。妹はみそっかすだった。「麦野の妹の方、なんて言ったっけ。フレ……なんとか」とか言われる始末だ。金髪碧眼なのに。
だからフレンダはたった一つでいい、姉に勝るものを求めた。彼女がそのために選んだのは音楽であり、そのためにひたすら努力をした。
母からのしごきにも耐えたし、友達を作るよりもレッスンに没頭した。突然留学といわれても文句を言わなかった。日本語オンリーのなんちゃって外国人なのに。
藁人形も打ったし、ミサンガも大量に擦りきった。周囲から小馬鹿にされても挫けなかったし、仕返しに靴へガラス粉を入れたのがばれてフルボッコにされたこともある。
そういう諸々の恨みをこめて
「結局、右目は損傷がひどかったから摘出したってさ。残念。もう二度と見えないね」
「……」
「それに左腕、数箇所で粉砕骨折。結局治ったとしても、前みたいには動かないってさ」
「……」
「つまり、あんたは二度とピアノを弾けないのよ。それどころか、並の人間よりも劣る存在になった。結局そういうことよ!」
悪意の込められた薄笑いを浮かべて、フレンダは告知した。絶望し打ちひしがれる姉の姿を見るために。
麦野は
その言葉を聞いて、目を閉じ右手を顔の包帯に当てた。その下に、在るべき眼球は既にない。退院しても完治しても、もはや永遠に隻眼のままだ。
だけれども、それは絶望している風ではなく。なんだろう、何か、ひどく達観したような仕草だった。
フレンダが戸惑っていると、ふと麦野が目を開けて、ひどくどうでもよさげな表情を見せた。
「ていうかさ、なによピアノって。私はもうそんなものとっくに捨ててるんだけど。あんたまだ拘ってたわけ?」
「っ!?」
「まあ確かにピアノに関しては、もうあんたの方が上かもね。よかったわねー……だから何? て感じだけど」
「くっ……あっ……!」
フレンダが胸をがりがりとかきむしって苦しんだ。今まで血道を上げてきたことが、あっさりと否定されてアイデンティティの危機に直面してるのだ。
え、なに、無駄……? 結局ノー眼中だった訳? それじゃ、私の人生って一体……
いや、まだだ! こんなのただの勝ち逃げだ。お互い現実に生きているなら、まだ比べるべきことはある。
「ふっざけんな! どんな詭弁をしたって、結局あんたが負け組だってことは変わらない!」
「――――」
「私は違う。私は誰にも認められる栄光を手に入れる! ねえ姉貴、これから先も生きててよね。結局私が勝ったって、最後に唾を吐きたいからさ!」
憎憎しげにそう言い捨てる。フレンダは乱暴にナースコールを押して病室を出て行った。
それを最後まで見送ってから、麦野はずるずるとベッドの背もたれからずり落ちた。看護士が来るまでの僅かな間に、ふう、と深いため息をつく。
それから数時間、麦野は検査を受け、問診を受け、食事を取り、検査を受け、包帯と湿布を交換し、やっと病室に戻ってきた。
ごろりとベッドに転がり、一息つく。午前中に起きたのが、もう午後を回っている。
しかしその甲斐あって、状況は概ねつかめていた。
麦野が入院しているのは地元の市立病院にある個室の一つらしい。結構いい部屋。両親が手配してくれたものだろう。
今日は火曜日。事故に遭ったのが日曜未明だから、58時間ほど意識を失っていたことになる。夢は見なかった。
(それにしても、変わってなかったわね)
ベッドに横になって、窓の外を眺めてぼんやりと思う。三年ぶりに会った妹のことを。
背は伸びたし、体の各部も色々と成長していたが、根っこの部分は何も変わっていない。誰かに対する敵愾心が生きる糧のようだった。
(ったく。こっちはダメージ受けてるんだから、いい加減甘えてくるなっての)
妹は大成するだろうと麦野は思う。
フレンダが抱えているものは、見下してやるとか、覚えていろとか、でかい面しやがってとか、そんなろくでもない負の感情ばかりだが、それを努力に変換できる性質なのだ。
麦野沈利にはそれすらない。程々に悪意を受け流して、程々に悪意を発散するだけだ。つまり並の人間である。
そんな麦野がフレンダに対して出来る最大のことは、乗り越えるべき敵として振舞うことだと彼女は心得ていた。
別に妹想いというわけではない。それが最も効率的な付き合いであると判断しているだけだ。
(そういえば、浜面のこと彼氏だと思ってたみたいだけど、なんでかしら)
深夜に同伴していたのだ。状況的に勘違いしてもおかしくはないことではあるが。
(それにしても、あの相談は結局無駄になったわけか)
本来なら二日前にデートだったはずだが、二週間も謹慎を食らってはそれどころではないだろう。
ただし謹慎を食らって尚、外出するだけの馬鹿でなければだが。
(いや、まさかいくらなんでもそこまで高レベルの馬鹿じゃないでしょ……)
そんなことを考えた、まさにその時
ばたばたという足音。がらりと病室の扉を開けて、男が一人飛び込んできた。荒い息を吐きながら、叫ぶ。
「麦野、起きたのかっ!?」
「このレベルの馬鹿だったー!」
ちゃらっちゃちゃらちゃらー(浜面のレベルアップする音)
適当に染められた髪、安っぽいピアス、アホなチンピラの雰囲気、間違いなく浜面仕上本人である。
何故か野球帽にサングラスという怪しんでくれと言わんばかりの装備をしていたが、それはすぐに脱ぎ捨てる。
浜面はわたわたと近づいてきて、まるで割れ物を触るかのように両手で麦野の輪郭をなぞっていく。多少くすぐったかったが、為すがままにされる麦野。
「大丈夫か? 意識ははっきりしてるか? 痛いところないか? これ何本に見える?」
「三本。大丈夫よ。体はあちこち痛いし五体満足とも言えないけど、これ以上の悪化はないわ」
「…………よかったあ〜〜〜〜」
麦野の言葉を聞いて、浜面がへなへなとその場にしゃがみ込んだ。あまりの安堵に膝が抜けたらしい。
大袈裟な、と麦野は笑おうと思ったが少し考え直した。何しろ自分は三日も意識不明だったのだ。そのまま目覚めないかもしれないと思えば心配も無理はない。
ましてや事故の当事者ならば。
「っていうかさ、あんた謹慎食らってるんでしょ? なんでこんなところにいるのよ」
「心配だったからに決まってるだろ。大丈夫だ、今なら家に誰もいないからな、抜け出したってばれやしない」
「あの馬鹿な変装でよく言うわ。見つかったら下手したら退学よ? あんた元々素行悪いんだし」
「……俺のせいでこんなことになったんだ。家でじっとしてられるわけないだろ」
思い詰めた目で見つめてくる浜面。別にあんただけのせいじゃないでしょ、と麦野は言おうとしたが揉めそうな話題なのでやめておいた。正直、今日は検査検査で疲れている。
疲労を意識すると、ふあ、とあくびが出た。
「ん……ごめん。せっかく来て貰って悪いんだけど、ちょっと休んでいい?」
「おう、わかった。静かにしてるから寝てていいぞ」
おい、出ていくつもりはないのか?
それを肯定するように浜面はベッド脇の椅子に座り、慣れた手つきで携帯テレビのスイッチを入れて音量を最小にした。
反射的に文句を付けようとした麦野だったが、まあ別に良いかと考え直した。この状況で襲われるもなにもあるまい。
それに、誰かに見守られて眠るのなんて何年ぶりだろう。相手が浜面だというのはいまいちだが。
背もたれからベッドへ横になると、浜面がタイミングを計って布団を掛けた。片手では少し手間取ったかもしれない。ありがと、と呟いて目を閉じる。
不意に思いついた。こいつ、もしかして。目を閉じたまま聞いてみる。
「もしかして浜面、昨日も一昨日も来てた? 部屋抜け出して」
「ん、ああ、まあな」
道理で、フレンダが『あんな男』と強調するわけだった。同じ部屋で目が覚めるのを待っていたのだ、知り合っていないわけがない。
麦野は知る由もなかったが、この部屋に駆け込んできたのもフレンダからメールを受け取ったからである。
妹の性格からして浜面のことはあからさまに見下しているはずだ。一体三日も何を話していたのか、ちょっと気になった。
が、そんなことより。布団の中でもごもごと呟く。
「ばーかばーか。自宅謹慎食らってる癖に何やってるのよ……そんなことなら滝壺とデートしてれば良かったのに……」
「できるわけないだろ。お前なあ、あの時すごい血塗れで、本当に死んだかと思ったんだからな」
「ちょっとトラックに轢かれただけじゃない。ラノベのキャラならこれくらい平気でしょ……」
「お前寝ぼけてんだろ? 早く寝ろ寝ろ」
「うん……」
しばらくして、麦野は寝息を立て始めた。以前もそうだったが、寝ている彼女からは険が抜ける。
テレビを消す。ベッドの上で眠る麦野の姿は、この三日間、ずっと浜面が見てきたものだった。
顔の右半分は包帯に覆われ、左腕は肩からがっちりギプスで固められている。他にもあちこちの擦過傷には包帯が巻かれ、痛々しい姿だった。
じっとしていると、まるで戦死体のように見える。心配になり、人差し指で頬をつつくと嫌がってぐにぐにと身をよじらせた。反応があったことに安堵する。
そのまま浜面は椅子の背もたれに両腕を載せて、安らかに寝息を立てる麦野を、面会時間が終わるまでずっと眺めていた。
入院してから一週間程が経った。
麦野は相変わらずベッドの上の住人であり、浜面は今日も自宅謹慎を抜け出して病室に来ていた。
「はーまづらー。暇だからなんかしてよ」
「いきなりだな」
昼下がり。机の上に置かれた携帯テレビの、小さな画面を気怠げに眺めていた麦野はそんなことを言った。
まだ内蔵が傷ついているとかで運動を禁止され、部屋から出ることもできず、テレビ番組はつまらなく、彼女はいい加減退屈だった。
同じくテレビを見ていた浜面が、脇の棚をごそごそと漁ってオセロ盤を取り出す。彼が自宅から持ち込んだものだ。
テレビをどかし、盤を机の上に広げる。ぱらぱらとマグネット式の石がこぼれ落ちた。その内四つを盤の真ん中に並べて準備をする。
「えー、白と黒どっちが先だったか」
「黒が先。私から打つわね」
麦野が一枚右手で取って、じっとオセロ盤を見つめた。彼女はこれを勝負ではなく、遠近感の訓練と位置づけている。
多くの生物は二つの眼球で対象との距離感を確保している。片目での距離感を掴むために、升目の入った盤はいい訓練道具になるはずだ。
ぱちん、と狙った場所に石を置く。上手く目標の位置に置くことができた。一枚、白が黒になる。
次は浜面。あまり考えずに、ぱちんと打って石をめくっていく。
「そーいえばさ」
「おう」
「パパとママに久しぶりに会ったわ。一昨日、お見舞いで」
「ふーん。よかったじゃん」
ぱちんぱちん
「あんまり良くなかったわね」
「なんでだ?」
「離婚するかも」
「ぶっ」
ぱちん
「ほら、止まってるわよ」
「お、おう」
ぱちんぱちん
「……マジ?」
「なんかさー、とっくの昔に冷え切ってたみたいで、気付いてないのは私だけみたいな。見舞いの時もすっごい余所余所しかったし」
「そっか……」
「まあそれだけ。退院したら弁護士交えて話し合いがあるみたい」
「ふーん……大変だな、色々」
ぱちんぱちん。
結局オセロは、多少のミスはあったものの麦野が圧勝した。元々の知能が違う。
勝った方は負けた方に言うことを一つ聞かせる取り決めをしていた。実質、麦野が浜面を顎で使うための約定である。
「はーまづらー。ちょっとお腹が減ったからなんかちょーだいよ」
「勝手に食っていいのかよ? お前内臓がどこうこう言ってなかったか」
「あんな不味い病院食じゃ足りないっての。体が栄養を求めてるのよ。シャケ弁持ってきなさいシャケ弁」
「へいへい、わかったよ。缶詰でいいよな。なにがいい?」
「てきとー」
浜面がごそごそと棚を漁る。フレンダの持ち込んだ缶詰は、夏でも越す気かと思うほどに大量に存在した。適当な一つを取ってラベルを確認。
「サバカレー? つか、なんかこれだけたくさんあるな。こんなのが好きなのかよフレンダの奴」
「うわ懐かしー。あの子野球好きだったっけ?」
「何だってそこで野球なんだよ」
「え、知らない? 昔そういうドラマがあってさ。結構あのドラマ好きだったなあ。ヒロインに感情移入しちゃってさ」
「よくわからんが、じゃあこれでいいのか?」
「いいわけないでしょ。そんなものせめて加熱しないと食べれないわよ。コンロか何かないの?」
「そういやフレンダが加熱剤みたいなもの使ってたな。病室でそんなもの使うのはどうかと思ったが。けどここにはないぜ」
「じゃあ他のね」
ごそごそ。
浜面が次に取り出したのは、やや膨らんだ楕円形の赤い缶詰だった。英語?のラベルが張ってある。
「なんだこれ。Surstromming……おーい麦野、これでいいのか?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。こっちに持って来ないで。何でそんなものが病院にあるのよ、バイオテロじゃない!」
「は? よくわからんが、結局これ食わないのか」
「っていうかここに置かないで、持って帰っていいわよ。その赤い缶全部。にしてもフレンダ、こんな地雷を仕込んでおくなんて……恐ろしい馬鹿」
不審げな顔をしながら膨らんだ缶を脇に置いておく浜面。珍しいみたいだし半蔵にでもやるか、と考えていた。後の大惨事である。
結局、パイナップル缶を見つけてOKが出た。膝に乗せ、きこきこと缶切で蓋を切っていく。それを眺める麦野。
「缶詰も一人で開けれないって、片腕って結構不便よねえ」
「ま、これくらいなら俺がいつでもしてやるからよ」
「じゃあ何かあったら呼ぶから犬笛に反応するようにしておいてよ」
「携帯でいいだろうがっ」
缶が開く。浜面が用意してあったフォークを刺して、一枚を引き上げる。
それを、麦野が横から首を伸ばしてぱくついた。あんぐり、と大きく口を開けて果肉を一齧りにしてしまう。
「うおっ、行儀悪いぞお前。フォーク渡したのに」
「へふへふ」
「ああ汁が垂れてるじゃねえか。ほれ、拭いてやるからこっち向け」
浜面が棚のタオルを取って口元を拭う。もぐもぐと果肉を頬張っていた麦野が、不意に顔をしかめた。
「うー、すっぱーい。丸ごとなんて食べるんじゃなかったわ」
「つか、だったら横から食いつくなよ。待ってりゃフォークごと渡したのに」
「そんなものベッドの上で受け渡してたらシーツがべとべとになるわよ。看護士に言い訳しなきゃいけないじゃない」
「だからってなあ……お、ほんとだ。酸っぱいな、これ」
「でしょー」
けらけらと麦野が笑う。何か、子供に戻ったようなリアクションに浜面は戸惑った。
だがまあ、暗く沈むよりかはよほどマシだろう。これでいて麦野は色々抱え込むタイプだ。怪我が治るまでは出来るだけ支えてやらないとな、と浜面は決意を新たにした。
入院してから二週間程が経った。
その日、麦野と浜面が例によって病室にいると見舞いが来た。バンドメンバーの3人である。
「ちーす麦野さん。具合どうすか……ってゲエーッ! 浜面なんでいるんだよ!」
「はっ! まさか麦野女史が弱っているのと機会と見て夜這いをかけたのでは。成敗!」
「……落ち着け、今は昼だ。しかし……それにしても、どうして自宅謹慎中のお前がいるのだ……?」
患者そっちのけで浜面に集まる視線。せっかく重傷の麦野の立場がない。というわけで、一言で浜面は弁明をした。
「そりゃ俺のせいでこんな怪我させちまったんだしよ。せめて退院するまでは手助けしないとな」
「へ?」
何故か麦野が豆鉄砲を食らった。が、他の面々はそれで納得した模様。
「へえー。そりゃ感心だが、謹慎中ぐらい家で大人しくしてるべきじゃね?」
「確かに。ぱっと聞くと美談ですが、教諭に見つかったら一躍大問題でありますね」
「……謹慎は、あと一日か。まあ、来たのが俺たちで良かった、というところだな……」
「でも二週間も誰も見舞い来なかったって薄情じゃね? それとも麦野って意外と嫌われてんのか?」
「いや、聞くだにかなりの重傷だったからな。お見舞いってのは、快方に向かってから来るもんなんだよ」
「げ、そうだったのか? やべえ」
「……まさか浜面。お前、翌日から既に来ていた、とかいうのではないだろうな……」
「ははは、駒場氏。いくら浜面氏が馬鹿の極みでも、自宅謹慎を初日から破って重傷者の元に押しかけるなどと、そのようなギャラクティカ馬鹿な真似は」
「馬鹿で悪かったなこんちくちょう!」
「おいおい、お前マジかよ浜面。郭じゃないが、馬鹿だ馬鹿だと思ってたが非常識にも程があるだろ」
「……まあ、事故の当事者だからな。心配するのも無理はないだろうが……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あんた私が退院するまで居るつもりなの?」
麦野が慌てて浜面に問い質した。初耳である。毎日病室に来るのでなんとなく受け入れて駄弁っていたが、まさかそこまで通い詰めるつもりであったとは。
「そういえば麦野さん、退院いつ頃になりそう、って聞いていいのか?」
「八月末。だからまるまる夏休みが潰れるわ。最悪よ、全く」
更なる地雷である、左腕と右目の現状ついて浜面は知らない。話さないで心底良かったと思う麦野である。
「それは全く以て御愁傷様ですね。高校最後の夏が病院のベッドの上とは、まるで盗んだバイクで走り出した末路のようです」
「……確かに浅慮だったかもしれないが、何故郭はここで喧嘩を売るのだ……?」
「すまん、悪気だけはないんだ。代わりに謝るから許してください」
「しっかしあと一ヶ月半かー。昼間はここにいるとしても、夜はバイトでもするか。停学中にバイトしていいんだっけ?」
「さあ。そもそもみんな無届けでやってるしな。関係ないと思うぞ」
「だから待ちなさいよ。あんた怪我人でも病人でもないのに、夏休みの間ずっとこんなところにいるわけ? 馬鹿なの?」
「つっても仕方ないだろ。やっちまったもんはさあ」
「なにやらそれだけ聞くと出来ちゃった婚をするカップルのようでありますね」
「誰かその女を黙らせて」
「OK郭、ちょっとこっち来ようか」
「半蔵様、何をなさるのですかっ。も、もしや、昼間からかようなところで!? ああ待ってください、心の準備が!」
ずるずると郭と半蔵が退室する。
「話は戻すけど。夏休みにやりたいことなんて色々あるでしょ? バンド活動だって一番やりやすい時期じゃない」
「……あー」
「…………」
突然黙りこくる浜面と駒場。いやでかい方は普段からか。
バンドの話を振った麦野自身、その手の反応は予期していた。何しろメインボーカルがこの状態である。
それでもいくつか方法はある。例えば、他のボーカルを調達するとか。
以前の経緯を考えれば無理難題にも思えるが、彼女には一応当てもあった。
「あのさ、今うちの妹でフレンダってのが帰省してるのよね。で、夏休み一杯なら駆り出せると思うんだけど」
「あいつかよ。いや、そういうんじゃなくてだな、その」
「……実は同好会も活動停止を命じられていてな……今は個別練習が精々だ」
「あー……それもそうよね。ごめんなさい、私のせいで」
ライブのために夜更けまで行動していたのが事故の一因ではあるが、そうでなくても活動停止はさせられていただろう。学校とは集団行動と連帯責任というものを学ぶ場でもあるのだから。
「……まあ、どちらにしろボーカルが動けないのなら同じことだ……個人技術を磨いておこう」
「変える気はないの? 私こんな成りだし、ビジュアルイメージ台無しじゃない」
「お前が辞めたいってなら別だが、あれだけ苦労して今更変えるとかある訳ねえじゃん。それに、仲間だろ?」
「……そういうことだ……」
「……そっか。ありがと」
眼が欠けても腕が折れても唄は歌える。
少しだけ、ほんの少しだけ、麦野は壊れた自分に残っているものに触れた気がした。そのことに、礼を言う。
仲間というものにも。
入院してから三週間程が経った。
この日麦野は浜面を病室から追い出しておいた。女子の知人が何人か見舞いに来る予定だったからだ。携帯の通話は禁止だがメールは可能なので打ち合わせはそれで行った。
病室に浜面が常駐していることを知られたら何を言われるかわかったものではない。彼女たちにとって浜面仕上とは常に生理的嫌悪の対象である。ゴキブリを飼っていたらどういう目で見られる?
「こんにちはー」
「お邪魔しまーす」
「麦野さん、お久しぶりー」
「こんにちは、むぎの」
「うん、いらっしゃい」
病室を訪れたのは三年生一人、二年生二人、一年生一人の計四人だった。最後の一人は滝壺理后である。
既に夏休みに入り、三人はそれぞれ薄手の私服に身を包んでいる。ただし滝壺だけは何故か学校指定のジャージだったが。
ひとまず見舞客は麦野の惨状に驚いた。顔の半分程に包帯を巻き、左腕をギプスで固め、薄緑の病院着でベッドの上に半身を起こしている彼女の姿。それでも毎日薄化粧は欠かしていないのは女子高生の矜持である。
彼女たちの知る麦野沈利とはまるで違う、悄然とした姿だった。二年生の一人が「AYANAMIスタイル!?」と叫んだが意味は定かでない。
「お土産、ありがと。あっちの花瓶に活けておいて」
「あ、はい」
黄色の花弁も鮮やかな向日葵が窓際の花瓶に活けられる。幾分か病室が明るくなったようだった。
それからしばらく、よくあるやりとり。痛かったですか? すごくね。退院はいつ頃? 八月末。うわあ大変ですね。最悪よ。
不便なこととかないですか? 結構あるわよ。あ、テレビとかゲームあるんですね。それ妹が持ち込んだのよ。妹さんいるんですか? うん、たまに来るわよ。
ところで
「あの、麦野さん。ちょっと噂で聞いたんですけど、例のチンピラと付き合っているってホントですか?」
「ぶっ。それって浜面のこと? ないない。なによそれ」
「違うって。そいつが麦野さんを事故に遭わせたんだって! 最悪、殺したい!」
「あいつが轢かれれば良かったのに!」
悪口で意気投合する女子達。どうやら浜面のモテ願望に更なる困難が加わったようだった。まあどうせ0に何を掛けても0だ。
御愁傷様、と麦野は胸中で呟いておく。殊更に否定しないのは、浜面の供述と食い違ってもまずいからである。
話を変える。
「ところであんた達は、夏休みは何か予定あるの?」
「はい。今度みんなで海に行こうと思ってるんですよー」
「そうそう。それで今日はこのあと、水着を買いに行こうと思ってて」
「滝壺さんなんて学校指定の水着しか持ってないらしくてー」
「そう。日焼け対策はしっかりね」
「はーい」
「今年は残念でしたけど、来年は麦野さんも一緒に行けるといいですねー」
「楽しみにしてるわ」
社交辞令である。来年の今頃、既に麦野は卒業しているはずだ。
その時、がらりと扉が開いて金髪碧眼の少女が病室に入ってきた。ベレー帽に洒落た制服。背中には缶詰で膨らんだリュックサックを背負っている。
「姉貴ー、結局暇だから来てやったわよ。感謝しなさい。あと浜面ー、一緒にゲームしてやるわよー」
「きゃああああかわいいいー!」
「なにこの娘フランス人形みたい!」
「やーん可愛い、撫で撫でしたいー! ぎゅってしてあげたいー!」
「ひいいいいっ!?」
「あー、それが妹。好きにしていいから」
「やったー!」
突然女子に襲われたフレンダは泡を食って逃げ出した。麦野に許可を貰い可愛いものハンターと化した女子三人は怒濤のごとく追跡を開始する。病院ではお静かに。
ばたばたという騒がしい音が遠ざかり、病室には麦野と、滝壺だけが残された。
滝壺は先程から会話には加わらず、少し下がったところで様子をぼうっと眺めていた。おそらく普段もそんな立ち位置なのだろう。
仕方ないなあ、と麦野が口を開き掛けたタイミングで、滝壺がふと聞いた。
「はまづらが、いるの?」
「へ?」
「さっきの娘、はまづらのこと、呼びに来てた」
「あー」
本当にあの妹は役に立たない。まあ、滝壺になら話してもいいか。
「うん、まあね。責任感だかなんだか知らないけど、毎日来ては病室でだらだらしてるわよ。あいつ暇人過ぎるわ。今日は追い出したけどね」
「どうして?」
「どうしてって、あんなのと付き合ってるなんて誤解されたら困るじゃない」
「付き合ってないの?」
「はあ? なにあんたまで真に受けてるのよ。事故った時あいつと一緒にいたのは、バンド絡みで相談受けてただけよ」
実際は恋愛相談だったのだが、その張本人である滝壺に言う訳にはいかない。
そういえば、これはいい機会なのかもしれなかった。病室から追い出した浜面は、どこかで時間を潰すと言っていた。今は夏休み。デートの時間はいくらでもある。
それに滝壺自身、浜面のことを真っ先に聞いてきたのだから意外と脈はあるのかもしれない。どこがいいのかはさっぱりわからないが。
「あの馬鹿だったら屋上かどこかにいるんじゃないかしら。気になるんだったら探してみたら?」
「いい。今日はむぎのの、お見舞いだから」
多少意外な答えが返ってきた。
正直、麦野にとって今日の見舞いは意外だった。
滝壺にとって麦野のグループに加わったのはそれなりに利があるからだとしても、それで感情が割り切れるわけではない。
麦野は滝壺を苛めていたグループのリーダーである。恨まれているくらいが妥当だろう。
そこまで考えてふと思った。なるほど、この弱った状態で二人きりというのは、復讐するなら最高の機会かもしれない。
滝壺はじっと、茫洋とした視線を麦野に向けている。
「なに、聞きたいことでもあるの?」
「むぎのは、はまづらと、付き合っているの?」
またか。何だろう、嫌がらせか、それとも嫉妬かこれは。
それにしたってあんな男のどこがいいのか。
「だからないって。大体、なんであんな男と付き合わないといけないのよ」
「どうして?」
「質問に質問で返すなって教師に教わって……ていうか、逆に浜面ごときと付き合うどんな理由があるってのよ」
「むぎのが、楽しそうだから」
質問に対する質問を質問で返したら意味不明な答えが返ってきた。
大型トラックに轢かれて重傷を負い、後遺症付きで入院して楽しそうに見えたら大したものである。
流石に言葉が足りないと思ったのか、滝壺が補足した。
「むぎのが、はまづらのこと話すとき、楽しそうだったから」
「はあ?」
片目を大きく開いて麦野が心外、という表情をした。実際、ひどく心外である。
浜面仕上など病室に常駐していては美観を損なうことこの上ない。どう頑張っても不細工なペットを飼っている誹りは免れない。
対して、役に立つのかといえばひどく微妙なところだ。よく気が回るわけでもなし、上手い話術があるわけでもなし。
けれど、腕が二本使えるというのは思ったより便利なものだし、退屈を紛らわせる相手としてはぎりぎり及第点と言えた。
それにあの顔だって慣れればどうってことはなくなる。ブスは三日で慣れるとはよく言ったものだ。
総合すると、いないよりマシ、ではあるか。それに
『それじゃあ私たちって何なのかしらー』
『そりゃあ――――ダチだろ!』
あの時のことを憶えている。忘れるものか。
なるほど、確かに自分は楽しそうに見えたのかもしれない。麦野沈利はそれを渋々認めた。
「まあ……友達、だしさ」
「ともだち?」
不思議なことを聞いたように滝壺が呟く。実際それはひどく意外なことだろう。あまり表情は変わらなかったが。
麦野沈利と浜面仕上では住む世界が違う。ましてや、ここまで重傷を負った一因ではあるのだから恨んだとしてもおかしくないところだ。
ぽかんとした滝壺を前に、麦野はなんだか照れくさくなって、しっしと追い払うジェスチャーをした。
「はいはい、これくらいでいいでしょ。そろそろ浜面のところにでも行きなさいよ」
「どうして?」
「この前デートの約束したでしょ。結局御破算になっちゃったし、埋め合わせぐらいしてあげなさい」
「埋め合わせ、するの?」
「普通は男がするんだけどね。そういうもんよ」
どこか納得しかねる表情で滝壺が病室を出て行った。最後にぺこりと一礼して。
一人になった麦野は、ごろりとベッドに転がった。右腕を頭の下に敷く。
夏休みを丸々潰され、左腕を一年以上も使えなくなり、右目を完全に失ったというのに。
たしかに、そう。滝壺の言うとおり、悪い気分ではなかった。
入院してから一ヶ月と一週間程が経った。
今日も今日とて、麦野と浜面は病室で暇をもてましている――――ということも、なかった。
病室に、ぽろんぽろんと弦の弾かれる音が響く。浜面が壁際に座り込み、ギターを抱えるようにして弾いていた。
曲目はフレンダが持ち込んでいた練習用の譜面。麦野は声を出さず、何かを書きながら鼻歌でリズムを取っている。
曲がクライマックスに差し掛かり、一際リズムが激しくなるところで、ふと鼻歌が途切れた。
「はいやりなおし。一小節ずれたわよ」
「うおおお、指追いつかねえって!」
実際のところピアノの譜面を流用しているのでギターでは無理があるのだが。
しばらく前から、二人は病室でこんなことをしていた。暇を持て余した浜面がギターを持ち込み、練習に麦野が文句をつけたのが発端である。
どうせライブ活動は禁止されているのだ。可能なのは練習だけで、それなら二人揃っているのだからちょうどいい。
マンツーマン練習の成果で、浜面のギタリストとしての腕前は着実に上がりつつあった。正式な訓練を受けたことのなかった浜面は妙な癖が付いてたが
「だからなんでそこで握り方がおかしくなるのよばーかばーか! 脇は締めて、顎は引いて、手首は20度以上曲げない!」
「わーった、わーったよ!」
罵倒交じりの指導によってそれも直りつつあった。浜面に言わせればロックが足りない!だそうだが。
再び、病室にぽろんぽろんと弦を弾く音が響き始める。麦野もまた、ノートにシャーペンを走らせる作業を再開した。
麦野が書いているのはバンドでやる曲の歌詞、つまり作詞活動である。
開いた窓からは弱い風が吹き込んでいる。その向こうは抜けるような青空。
穏やかな時間が過ぎていく。
ふと麦野が口を開いた。
「そういえば滝壺とデート、どうしたの?」
「どうしたって……中止になっただろ」
「違うわよ、その後。病院で会ったでしょ」
「あれ、お前の差し金かよ。なんか変だと思ったぜ」
「そーよ。人が気を利かせてやったんだから、ちゃんと生かしたんでしょうね」
「あー」
演奏を中断し、浜面がごりごりとピックで頭をかく。
思い切り目が泳いでいた。実際、あの日病院の屋上で、遊びに行かないかと誘われたのは事実であるが
「断った」
「なんでよっ!?」
「仕方ねえじゃんか。遊びに行ったらここに来れねえし」
『何言ってんだこいつ』的表情をしていた麦野が、ぽかんと口を開けて『頭おかしいんじゃないのこいつ』的表情になった。
浜面は決まり悪そうにピックで頭をかいている。
実際おかしな話である。浜面仕上の思い人は滝壺理后であり、誘われたなら脊髄反射で天国に舞い上がるのが正しい行動のはずだ。
それに、どうせ毎日病室には来ているのである。それを一日デートに当てたぐらいで麦野が激怒するとでも思ったのか。そんなわけがない。
浜面の表情からしてそれがおかしな行動であることは自覚しているのだろう。
つまり、理解不能である。
「あ、あんた馬鹿あ!?」
「うっせえなどうせ馬鹿だよ!」
ちゃらっちゃちゃらちゃらー(浜面のレベルアップする音)
呆れ果てた麦野が額に手を当ててベッドにぱたりと倒れこみ、浜面はふてくされながら演奏を再開した。
ぽろん、ぽろん。
再び、病室に弦が弾かれていく音が響く。カーテンで弱められた夏の日差し。緩やかな風。ゆっくりとしたリズム。
穏やかな空気が流れていた。
「……俺は、お前に助けてもらったんだからよ。せめて、それくらいの埋め合わせは当たり前だろ」
「……ばーか」
ぽろん、ぽろん。
それからまた、しばらく時間が過ぎ
額に手を当てて、ベッドに転がったまま、麦野が声を上げた。
「はまづらぁ」
「なんだよ」
「私の右目と左腕、完治までは結構時間がかかるのよ」
「ああん?」
「数箇所粉砕骨折でね。ギプスが外れるのは一年ぐらいかかるかしら」
「……マジかよ。だったらなんで退院なんてするんだ?」
「一年もベッドの上なんて冗談じゃないわよ。退屈で発狂しちゃうわ」
それは本心ではあったが、今となってはそれだけではない。
「でさ。パパが人を雇って、身の周りの世話に充ててくれるんだってさ」
「おおお、なんだそれ。メイドか? メイドか?」
「ばーか、そんなのおばさんに決まってるじゃない。まあ、そういうわけだから。退院したらもういいからね」
「ん……でも学校にいる間ぐらいは手伝うことあるだろ?」
「別にさ、他にも友達はいるからそんなべったりじゃなくてもいいわよ。学年も違うし」
「そうか? でもなあ……」
しばらく浜面は歯切れ悪そうにしていたが、結局無理やり納得させた。これでよし、と麦野は胸中で呟く。
それから少しして、彼女の退院予定日は二週間後に決まった。
入院してから、一ヶ月と三週間程が経った。
彼女は一人、病室のベッドから窓の外を眺めている。
「…………」
術後の経過は予定よりも順調に進み、退院予定日は明日に変更されていた。顔の整形手術も済み、傷跡はほとんど消えている。
病室に持ち込まれていたボードゲーム、携帯テレビ、ゲーム機、缶詰、ギターといったものは既に運び出されている。
とはいえ左腕はギプスでがっちりと固められているし、右目には眼帯が当てられている。両耳にゴムを引っ掛けて通気性のいいガーゼを当てるタイプ。
それらは完治期間の桁が違う、あるいは永遠に失われた部位だ。ベッドの脇には、袖が通るように工夫された洋服が置いてある。
浜面はいなかった。面会時間まであと一時間程ある。
窓から吹き込む穏やかな風が麦野の髪を揺らす。彼女は物思いに耽っていた。
考えるのはこれからのこと。
(正味46日間、か。長いようで、短かったわね)
当初はひどく退屈なものになると予想された入院生活は、実際はひどく穏やかな休息だったと思う。
傷ついた心と体をゆっくりと癒す時間。
重傷を負い、片目を失ったこと。左腕がもう二度と以前のようには動かないこと。この先の人生において大きく暗い影を落とすだろう、深い烙印。
そのことを恨んでも良いはずだった。自分を轢いたトラックを、その運転手を、事故に巻き込んだ浜面を、自分をほったらかしにして喧嘩をする両親を。
いや、むしろ恨むべきだったのだ。今まで何一つとして明確なものを手にしたことのなかった彼女が、ようやく手に入れたものなのだから。
それは、右目の形をしている。それは、左腕の形をしている。限りなく明確な、憎悪の形。
だが、その憎悪を和らげてくれる馬鹿がいた。
認める、認めよう。浜面仕上の存在は、麦野沈利にとって癒しだった。
あの馬鹿で不細工な男がこの病室にずっといてくれたから、彼女は絶望と憎悪に囚われないで済んでいた。
この病室は一つの優しい揺り篭だった。
(どっちでもよかったのよ。恨むことに生き甲斐を見つけても、変わらないままの自分でも。けど少なくとも今の私は、あんたに感謝すべきなんでしょうね)
だが、それも終わりだ。閉じた揺り篭は終わる。
終わらせない手段もあった。左腕と右目のことを浜面に突きつけて、酷くなじれば。左腕が完治するまで入院していれば、あの穏やかな日々はまだ続くのかもしれない。
けれど、それは買い被りというものだろう。そんなことをして、浜面との好ましい関係が壊れてしまうのが怖かった。というか、それは友達に対する仕打ちではない。
滝壺とのデートを断った件を見ても、浜面にとってあの日々は負担でしかない。
だから、そう。壊れる前に終わらせるべきなのだ。自分はもう大丈夫だから、心配することもないと嘘を付いて。
そうしたことに後悔はない。むしろ感謝する。最後に礼を言って別れよう。
(浜面相手にこんな風に思うなんて、噴飯ものよね、ホント)
麦野がぼんやりとそんなことを考えていると、がらりと扉が開く音がした。
まだ面会時間ではない。慌てて体ごと振り向くと、妹が中指を立てていた。下品な真似は慎みましょう。
「なんだ、フレンダじゃない。まだ面会時間には早いわよ」
「裏から忍び込ませて貰ったのよ。とりあえず退院おめでと、姉貴」
「一日早いけど?」
「私はもう帰るから。これから飛行機ね」
よく見ると確かにフレンダは旅装だった。やや厚手の服装に、背中にはごろごろとしたリュックサック。スーツケースは空港に発送済みだろう。
となると次に会うのは何年後か。離婚協議が進んだら、もしかしたら十年以上離ればなれになるのかもしれない。
まあ、お互い別れを惜しむような仲でもないが。
「あ、そうだ。あんたさ、浜面その他に私の腕と目のこと、言ってないでしょうね」
「いくらなんでも家族以外にべらべら話さないし。何、弱み? 仕方ないわね、貸し一つってことで。これは大きいからね」
「もしも言い触らしたら私と同じ目に遭わせるから」
「殺人宣言!?」
「死にはしないわよ。死ぬ程痛いけど」
ガクブルと震えるフレンダであったが、逃げるのではなく病室の椅子に腰掛ける。缶詰一つを取り出して片手に取った。
なにやら疲れた顔をしているのは床に降ろしたリュックの重みだけが理由ではなさそうだった。
「結局姉貴は浜面に惚れてる訳?」
「はあ? あんたらね、いい加減しつこいのよ。どうしてそう、私とあんな男をくっつけたがるわけ?」
「別に茶化してるとか馬鹿にしてる訳じゃなくてさ。割れ鍋に綴じ蓋だっけ? 結局、それが一番いいんじゃないって思うだけよ」
「ねえ、誰が割れ鍋だって?」
「姉貴よ姉貴。結局その通りじゃん。元は高級品だったかもしれないけどさ、割れちゃったら誰も見向きしないわよね」
それは初日にもフレンダが罵倒混じりに告げた悪意ではあったが。
缶詰のラベルを眺めながら、どうでもよさげに語る彼女は、悪意も抜きにやはり同じことを言う。つまりそれは本心なのだ。
「割と本気で、似合いの相手だと思うけど。確かにあいつは凄い馬鹿だけど、裏切りそうにはないじゃん」
「あんたさあ、結局私が落ちぶれてくのを見たいだけでしょ? あんなの彼氏にしたらどれだけ笑いものよ」
「正直ざまあって気持ちもあるけどさ。でも結局、落ちぶれた先が姉貴の居場所だったってことじゃないの」
「っていうかあんた、浜面を兄貴って呼びたいの?」
「うげえ、それはありえないでしょ……まあ結局その頃には縁切ってるだろうからさー」
離婚のことだろう。フレンダがドライなのは、昔から家族が滅多に揃わなかったこと、ここ数年別居状態だったこと、それから母の本音を近くで聞いていたからだ。
長女だけはそのことを知る由もなく、衝撃も受けたが、その痛みも穏やかな空気の中でゆっくりと癒されていった。
麦野はそのことに感謝をしている。感謝しているからこそ。
「あのね。そもそもあいつには他に惚れた女がいるんだし、私それ応援してるのよ?」
「え、そうなんだ? ああ、それなら納得したわ。結局勝てない勝負はしないって訳ね」
「何よ勝てない勝負って」
「だから姉貴よ姉貴。傷物なんだから完品に勝てる訳ないあいたたたたたっ!?」
「さて、もう一回聞くわよ。誰が傷物だって?」
右腕一本で妹の頭を掴み、ギリギリと締め上げる姉。悶えながら缶詰を振り回して抵抗するフレンダ。
姉妹のじゃれあいは数分、続いた。ぐったりとベッドにもたれかかってフレンダが毒づく。
「くっそこの女、私相手にだけ態度でかくなりやがる……」
「それがあんたのキャラでしょ」
「ああもう、稀に心配してやったのに結局それかよ! 死ね、くたばれ、下半身引き千切れろ!」
「それはあんたの方が気をつけた方がいいと思うわ、なんとなく」
最後に罵倒を撒き散らしてフレンダは去っていった。途中で看護士に見つかったのか「ちょっとまだ面会時間前よ!」「やべっ!」等と聞こえたが強く生きろ。
次に会うのはいつになるかもわからなかったが、多分元気でやってるだろう。上下分断しなければ。
フレンダが暴れて放り出した缶詰を拾ってラベルを眺める。サバカレーだった。いらない。
暇潰しに成分表を眺めているうちに面会時間となり、しばらくしていつものように浜面がやって来た。
最後の一日。
「ねえ」
「んー?」
「夏休み。一週間余るんだけどさ、どうしよっか」
「そーだな。みんなでどっか行くか?」
「いいけど、どこによ。泳ぐのは嫌よ、こんなだし」
「じゃあ山だな。キャンプ場でバーベキューでもしようぜ」
「安直ー。まあいいけどね」
「んじゃ、後で半蔵と旦那に連絡入れておくぜ」
「ついでに滝壺も誘いなさいよ。それで男女比半々になるし」
「おおそれだ! サンキューな、麦野」
「ううん。こっちこそ。ありがとね、浜面」
「何がだ?」
「ん、それは……色々、色々よ」