「ぶっちゃけ原子崩し(メルトダウナー)って弱くない?」  
「博士、そういうのは強さ議論スレに書き込んでください。で、なんですかいきなり」  
「そもそも扱うのが『粒子と波形の中間にある電子』なんて未解明なものなのが応用力を削いでるんだよね。よくわからないものをよくわからないままぶつけるだけじゃ噂のナンバーセブンと変わらないよ」  
「あー、いや解析不能と比べるのはどうかと思いますが。素粒子工学の分野には大いに貢献してくれるかと思いますよ」  
「そんな研究室レベルの話をしてどうするんだい。やっぱり超能力者ならバトルだろう」  
「研究者としてその発言はどうよ」  
「つまり原子崩しってのは、水分を水にも氷にもせず水蒸気のまま扱ってるようなものだろう? そりゃ制御が難しいわけだよ。結果、即応性の低下に繋がってるわけで、レベル0に負けたのもそれだよね」  
「まあ運用の問題じゃないですかね。長い射程と低い防御力と広い攻撃範囲ですし、砲戦ユニットとして扱えばいいのでは」  
「? どういうことだい助手よ」  
「つまり遠距離から一方的に吹き飛ばせばいいってことですよ。そういう状況に持ち込むために運用を考えるべきでしょう」  
「そうか! つまり敵の座標を把握できるサーチ能力者と、敵の攻撃をひきつける防御系能力者を付けてやれば!」  
「……付いてたと思うんですが」  
「あ、ほんとだ。じゃあ何がいけなかったんだろう」  
「まあ、資料を見ると盛大に仲間割れをしてたみたいですし、チームワークの問題じゃないですかね」  
「え、結局最後の結論は、人付き合いが強さの秘訣なんだ? なんかパッとしないなあ。まあ、本スレに書き込んでみるよ」  
「博士仕事しろ」  
 
 
 
 
原子崩しは平凡の夢を見るか5  
 
 
 
 
朝。  
十字路の影で、一人の女が塀に背中を預けて歩道を眺めている。  
服装は近隣にある高校の冬服。上着を羽織るようにしており、左腕を隠している。右目にはガーゼ式の眼帯が当てられていた。右手には鞄。  
残暑が徐々に消えていき秋に傾いていく時期、朝の気温は過ごしやすい。今日は僅かに雲がかかる程度の良い天気だった。  
通り過ぎていくサラリーマンや学生が時折女の眼帯を見ていくが、彼女は特に気を留めることもなく歩道を眺めていた。  
ふと  
機嫌良さそうに鼻歌を鳴らしながら、一人の男子学生が彼女の横を通り過ぎていった。彼から見て角になっていたので女には気付いてはいない。  
茶色に染めた髪、アホなチンピラの雰囲気、肩に担いだ鞄、お世辞にも整っているとは言えない顔立ち、適当な身だしなみ。  
ぶらぶらと歩くその男が通り過ぎてから十秒待ち、女は預けていた塀から背中を離した。  
男の背中に小走りで追いつき、がら空きの脇腹に鞄を軽くスイングして叩きつける。いい手応えがあった。  
「ぶほっ!? ごほっ!」  
「おはよ、浜面」  
「いきなり何しやがる麦野! お前の朝は人をどつくところから始まるのか!?」  
「肩叩こうと思ったら手が塞がってたんだから仕方ないじゃない」  
体をくの字に曲げて苦しんでいた浜面だが、すぐに回復して歩き出した。打たれ強さだけは折り紙つきだ。  
麦野が追い越し、並ぶ。最近はこうして途中から一緒に登校することが多かった。  
「にしても、前は会わなかったのにな」  
「こっちが時間ずらしたからね。前はもうちょっと早く来てたわよ」  
「ふーん。あ、それより聞いてくれよ。昨日のデート、うまく行ったぜ。ありがとよ」  
「へえ、どんな感じだった?」  
「滝壺が可愛かったぜー。映画に意外と笑ってくれてさあ。うまく会話も弾んだしな」  
「あの娘と話が弾むってちょっと想像付かないわね。あんたの独りよがりじゃなくて?」  
「ちゃんと話してたっつうの。ま、いい映画教えてくれてありがとよ。誰かお勧めのC級なんぞ見てたら気まずくて仕方ないしな」  
「ま、うまくいってよかったわ。あと、あの娘の趣味が割とポピュラーでね」  
 
機嫌の良い浜面に釣られて、麦野も顔をほころばせた。二人は談笑しながら歩いていく。  
話題はおおむね滝壺の可愛らしさを称えるものであり、浜面の恋路が順調に進んでいることを示していた。  
「けど学校で話せないのはやっぱきついって。なあ麦野、あいつらどうにか追っ払えないか?」  
「あんたそれあの子達に聞かれたら殺されるわよ? あんたから守るためにやってるんだから」  
「げっ! もしかして俺って女子から嫌われてるのか?」  
「あんた気付いてなかったの? ゴキブリ好きな女子高生はいないでしょ」  
「扱いがひでえな! やっぱり俺の天使は滝壺だけか」  
「なんか頭の中でどんどん美化してない? あの子だって出すものは出すのよ?」  
「俺の滝壺はトイレなんていかねえ!」  
「キモッ!」  
そんな下らない会話をしながら歩く。呆れたり、ジト目になったり、時には怒り出したりしながら、麦野は基本的に楽しそうだった。  
高校に近づくと周囲に同じ制服姿が増えていく。歩くペースを考えれば到着は始業前、一番人の多くなる時間帯だ。  
その中にふと、浜面は知った顔を見つけた。よう、と手を振るとあちらも気付いて合流した。半蔵と郭の二人だ。  
「おはようございます、麦野さん。浜面と一緒っすか」  
「なによ。まあ、途中で一緒になってね。そっちだって毎日一緒でしょ?」  
「はっ! 私と半蔵様は365日おはようからお休みまで同伴しております故!」  
「ちょっと聞くと羨ましいんだが、それって要するにストーカーだよな」  
「失敬な! 私と半蔵様の絆はそのような不健全なものではありません。もっとこう……」  
「そーだな。例えるなら、一度食いついたら死ぬまで離れないスッポン的な何かだな」  
「恐悦至極!」  
「何故喜ぶのかしら」  
「スッポンつまり食えれば最高、精もつくし夜もハッスルあなたもうひとり欲しいのよーしお父さん頑張っちゃうぞ的な!」  
「おい浜面。朝っぱらから壊れ……いや元々か」  
「で、ありますね」  
予定通り高校に着いた四人は昇降口で別れた。麦野は一人、階段を上って三年の階へ。  
途中、ちりちりと視線を感じながら自分のクラスに入る。  
そのまま教室の後ろを通って、窓際にある自分の席に鞄を下ろし、ふうとため息をついた。  
始業前のクラスは大半の席が埋まっており、生徒がそこかしこで雑談に興じたり参考書を睨んでいた。が、麦野に挨拶するものは一人もいない。  
ただし、ちらちらと視線は感じる。その中の一つを見やると、熊のような男子生徒がこちらをじっと見つめていた。会釈をすると、あちらも会釈を返す。これは例外だ。  
麦野は床に置いた鞄から、一冊一冊教科書類を抜き出して机に収納していき、最後に参考書とノートを一冊ずつ机の上に広げて置いた。  
続けてペンケースを取り出しながら、指で器用に金具を外す  
「あ」  
外そうとして、反動で中身がぱかんと飛び出してしまう。無精するんじゃなかった。  
席から立ってしゃがみ込み、シャーペンと蛍光ペン、消しゴムにボールペンと一本一本右手で纏めていく。視線が集まっているのを感じたが、特に口出しも手出しもなかった。  
ペンケースの中にシャーペン以外を納めて参考書に向き直る。幾問か参考書の例題を解いていると、始業時間になって担任教師が来た。  
それまでもその後も、麦野が話しかける相手はいなかったし、話しかけてくるようなクラスメイトもいない。  
彼女は授業を淡々とこなし、当てられても淀みなく答え、休み時間は参考書と向き合うか頬杖を付いて窓の外を眺めている。  
それが、ここ最近で麦野沈利に身に付いた行動パターンであり、特に何か無ければそれが放課後まで続くはずである。  
異変が起きたのは三時間目の休み時間だった。  
「あ、あの麦野さん」  
女子の一人がおっかなびっくりといった体で麦野に話しかけてきたのだ。メガネを掛けた気の弱そうな少女である。普段から話すような仲ではない。  
麦野は少なからず驚いて隻眼でじっと見つめてしまう。女生徒が少なからず怯んだ。陽光の下とはいえ、包帯で固めた姿にはひどく病的な雰囲気がついて回る。  
「なに?」  
「そ、その。下級生の子が呼んでるよ?」  
女生徒が視線を向ける方を見やると、確かに。入り口の廊下側から、睨むように見つめてくる一人の少女がいた。上履きの色から二年生とわかる。  
知った顔だった。  
 
「あなたね、何ハブられてるのよ。それともまさか、イジメまで食らってないでしょうね」  
麦野を階段の踊り場まで連れてきた少女は開口一番そんなことを言った。  
彼女の名は結標淡希。  
長い髪を無造作に背中で纏め、切り詰めた制服をざっと着こなしている。上級生の麦野に対して敬語を使う気配もない。  
常にコルク抜きや軍用懐中電灯(警棒兼用)を持ち歩いているとか、実家はヤクザで下着の代わりにサラシを巻いているとか、無類のショタコンでノンケでも構わないで食っちゃうとか。  
色々噂はあるが、彼女は何より結標グループのリーダーである。校内では有名人だ。  
結標グループ自体は、十数人の平凡な男女生徒が属する集まりでしかないのだが、鉄の結束を誇ることで有名だった。一人が攻撃されれば全員で反撃し、トラブルはかなり深いところまで踏み込んで助け合い、仲間はけして裏切らない。  
全く今風ではなく、むしろ古めかしい不良グループのような存在であり、閉鎖的で異質な集団。  
それを束ねるのが結標であり、その性格は『姉御』という通称、そして極道教師ドラマを見て本気で感涙し進路を決めたと言うエピソードから推して知るべし。  
麦野とは有名人同士程度の面識しかない。いやむしろ対立気味と言えた。ボス猿同士の仲がいいわけがない。  
「はあ? いきなり人を呼びだして何の話をしてるのよ」  
「何をじゃないわ、見ての通りよ。あなたがグループから追い出されてハブにされてることに関しての話よ」  
「別にわざわざ無視されてる訳じゃないんだけど」  
夏休みが空けてからの一月で、麦野は女子グループのリーダーではなくなっていた。  
決定的なことがあったわけではない。ただ、周囲から人が少しずついなくなっていき、最後は一人になっていただけだ。  
麦野の言うように、これはイジメではなく、ハブにされているわけですらなく。  
「単に、私に価値が無くなったってだけでしょ」  
ひどく面倒くさそうに、たった一言で彼女は説明した。元々麦野の周りに人が集まっていたのは彼女が優秀だったからである。そうでなくなれば、自然と人はいなくなる。  
例え引き留めたところで結果は同じだっただろう。根にあるのが利害である以上、利が無くなれば離散する。  
だが、結標はとても納得した様子はなかった。鋭い視線で麦野を見つめている。仲間を信じ、仲間に信じられる自分であろうとする目だ。  
若いなー、と麦野は心中で呟いた。何か一つでも心底信じられるものがあったなら、自分もこんな目をしていたのだろう。  
「私はあなたが無価値だとは思わない」  
「ありがと」  
「社交辞令じゃないわ。あなたが失ったものは何? 右目? 左腕? だとしても、そこらの女子より劣る存在になったとは思えないわ」  
「空気よ」  
「空気?」  
「そ。私は何だって出来る、無敵の超人だって空気。それがペンケース開けるのにも四苦八苦してるんじゃ、カッコつかないでしょ」  
ふふ、と麦野は笑った。ひどく疲れたような笑みだった。  
結標は眉根に深い皺を寄せて話を聞いている。  
「誰だって難しいことに責任は持ちたくないの。自分の代わりに答えを教えてくれる、自分より偉い誰かが欲しいのよ」  
「そんなのは仲間じゃないわ。ただリーダーに寄生しているだけの集団よ」  
「そうかもね。でもま、どっちにしろそういうことだから」  
「けど、だからといってハブにされてる理由にはならない。元々敵が多かったんだし、いじめられてるんじゃないの」  
「違うわよ。ただみんな距離の取り方がわからないから遠巻きにしてるだけ。見ての通りのざまだしね」  
左肩をすくめ、右目を一瞬だけ閉じる。  
「それで、新しい関係を作るよりやるべきことがあるのよね。私達は受験生だからさ。イジメなんてしてる暇なんて無いわよ」  
「そう……それは、わかったわ」  
「っていうかさ、なんでそんなこと聞くわけ? 私達、別に仲良しこよしじゃないでしょ」  
 
それが心底不思議ではあった。結標の詰問は、態度こそ悪いが心配と呼ばれる類のものである。  
結標が大事にする仲間相手ならともかく、麦野とはほとんど赤の他人である。それどころか仮想敵ですらあった。  
「言ったでしょ、私はあなたが無価値だとは思わないって。そして、私は価値あるものが不当な扱いを受けてると腹が立つのよ」  
「つまり、ただのお節介?」  
「美意識よ」  
ぷい、と結標がそっぽを向く。その耳は僅かに紅く染まっていた。愛すべき間抜けだ。  
きっと結標グループの人間もこんな彼女を慕い、助けることを厭わないだろう。結標が事故に遭ってもそれは変わらないはずだ。  
対して麦野の構築してきた関係というのは、概ね浅く広いものだった。前提が崩れた今となっては何も残っていない。  
元々そういう人間なのだから当然なのだと、麦野はそう割り切っていた。  
「じゃ、ね。心配してくれてありがと」  
「……あなた、やっぱり変わったかもね」  
「そう?」  
「前は、なんて言うのかしら。なんだかものすごく怒ってて、こいつとはいつか戦うことになると思っていたのだけれど」  
「なにそれ、私が何に怒ってたって?」  
「さあ、わからないわ。けど今は、あまり怒ってないみたいね……そろそろ休み時間も終わりね、それじゃ」  
「何が言いたかったのよ、結局」  
そうして二人は話を終えて、別れた。  
最後にもう一度、結標は麦野の背中を見送った。教室に向かうその姿はなんだかかしおれた花のようで、以前のような覇気は感じられない。  
結標は眉根を寄せる。不当な扱いというものが気に食わない彼女ではあるが、本人が何も言わないのなら、仲間でもない相手にこれ以上言うべきこともなかった。  
 
授業が進み、放課後になる。麦野は視聴覚室で部活動を行っていた。  
バンド『スキルアウト』のレベルは、以前に比べれば格段の進歩を遂げていた。個人の技術もそうだが、主にチームワークの面が強い。  
各人がなんとか合わせようと四苦八苦していた不協和音も、今は演奏の体裁を整えている。  
指導者である麦野も口喧しく罵るようなことは減り、通しで演奏した後に注文を付けるような形になっていた。  
「うん、今のは良かったわよ。感覚を忘れないようにね。一旦休憩にしましょうか」  
「そですね。あー喉乾いた。おーい郭、麦茶持ってきてくれ」  
「はっ、半蔵様! この通り人肌で暖めております!」  
「お前何してんだ!? この暑いのに秀吉ごっこなんかするな!」  
まだまだ残暑が厳しい季節。騒音対策のために締め切った視聴覚室の中は、高い湿度と温度で溢れかえっていた。  
各自上着を脱ぎ、袖をまくり、胸元を開いている。郭などは体操服にブルマである。それでも足りないのか魔法瓶をアイスノン代わりにしていたらしい。  
ともあれタオルで汗を拭い、窓を開いて風通しを良くする。各自適当に座り込んで、麦茶で水分補給を行った。  
ぱたぱたと下敷きで自分を扇ぎながら浜面は愚痴る。なんとなく、浜面麦野駒場で固まっていた。  
「あー、それにしてもあっちいな。この部屋冷房ついたりしねえかなあ」  
「……無理を言うな。それに、どうせ冬になれば凍り付く程に寒くなる……」  
「ここで身体測定した時は裸足だったしねえ。ほんと、足が張り付くかと思ったわよ」  
「まじかよ。職員室にはエアコン着いてるのに不公平極まるぜ。配線いじって同じ目に遭わせてやりてえ」  
「……そういうものだ、諦めろ。俺達は我慢したからな……」  
「それにしても暑いわね。ちょっと浜面、こっちも扇いでよ」  
「おーう」  
麦野の要請に応じて浜面が下敷きをそちらに向けると、彼女はシャツの胸元に指を突っ込んで手前に引いた。片手しか使えないのだ。  
ぶはっ、と浜面がのけぞりひっくり返った。鼻腔から血が垂れている。瞬時にして彼の乳スカウターは麦野のサイズを計測していた。  
「80……85……90……馬鹿なっ!? まだ上がるだと?」  
「ちょっと何やってるのよ浜面。暑いんだから早く扇ぎなさいよ」  
「だ、だからやめろってそれ! うおお身を乗り出すんじゃねええええ!」  
「……落ち着け、浜面、鼻血を止めろ。麦野も、女子なのだからあまり胸元を開くな……」  
浜面から下敷きを奪った駒場がぱたぱたと麦野を扇いでやる。豊かな胸元を前にしても巌のような表情には罅一つ入らない。さすがロリコン、何ともないぜ。  
首筋をとんとんと叩きながら浜面は顔を洗うために視聴覚室を出て行った。前屈み気味なのは触れてやるな。なんとなくそれを見送る麦野。  
「なによ、気にしちゃって。滝壺一筋じゃなかったの?」  
「……男とは、そういうものだ。察してやれ……」  
「そう言う割に、駒場はぜんぜん無反応じゃない」  
「…………」  
ノーコメント。真性か? 本当に真性なのか?  
少しして、駒場が全く関係のないことを言い出した。これが話を振ったということなら、極めて異例な出来事である。  
「……最近、情緒不安定ではないか……?」  
「はあ? えーと何よいきなり。不安定って、誰が?」  
「……教室と部活で、随分感情の揺り幅が大きいようだが……」  
「そりゃ、つまらない授業と好きでやってる部活じゃテンション違うでしょ」  
「……そう、か。ならば、いい……」  
駒場がまた黙りこくり、ぱたぱたと扇風機のように風を送る。  
麦野は明後日の方を向いたまま、ありがと、と口の中で呟いた。  
 
 
部活が終わる頃には日はすっかり暮れていた。麦野と浜面は並んで下校する。  
こうして浜面が麦野を送るのは夏休みが明けてからの習慣だった。  
多少は大回りもするが家が同じ方向であることと、何より事故の責任感だろう。  
今日は登下校共に一緒だったことになる。  
道すがらの雑談。話題はまた滝壺のこと。  
「次どこがいいかなー、連続で映画ってのもなんだしなー」  
「そうねえ。いっそ泳ぎにでも行ったらどうかしら」  
「おい、さすがに今の季節に海は無理だろ。そりゃまだ暑いけどよ」  
「プールに決まってんでしょ、室内プール。隣町のホテルにあるのよ」  
「ホテル? そ、そういうのって入れるのか? 泊まらないとダメなんじゃね?」  
「金払えば入れるわよ。たしか、パパが仕事柄その手の優待券を貰ってたはずだから、探しておく?」  
「お、マジ? 恩に着るぜ麦野! それにしても、諦めかけてたがこれで滝壺の水着が拝めそうだな!」  
「そういえば水着買ってたわね。でもあの子ってそんなにプロポーションいいかしら?」  
「俺の乳スカウターによると……Dだな! いわゆる着痩せするタイプ、隠れ巨乳だ!」  
「今更確信したんだけどあんたホントに馬鹿なのね」  
そんなことを話している内に、住宅街を通り過ぎて麦野邸に到着する。  
自宅には明かりが点っていた。誰かがいるはずだ。  
「なあ、お前んちのメイドさん、やっぱ見せてくれないのか? 若いんだろ? 美人なんだろ? いいじゃねえか」  
「あんたバニーフェチでしょ? 土御門とかいうメイド狂に頼まれたの?」  
「いや、奴とは一線を画しているというか、あいつはよりにもよってロリメイ……」  
「心底どうでもいいからそれ以上下らないこと喋らないで。それじゃまた明日ね」  
「おう、プール頼むぜ」  
うきうきと浜面が去っていくのをじっと見送ってから、麦野は自宅に戻った。  
家の中は明かりこそ付いているが、がらんとして人気がない。ダイニングを覗くと、書置きと共にラップをかけられたカレーが湯気を立てていた。ルーとご飯は別の器だ。  
つい先程出かけたばかりのようだった。明かりを消さなかったのは防犯対策だろう。  
『申し訳ありませんが、後輩が抜け駆けしそうなのでしばらく席を外します。食器は流しに置いてください』  
メイドが残した書き置きの内容はそんなものだった。無駄に達筆だ。  
麦野邸に派遣されてきたメイドは、時々この手の私用で飛び出していく。家事の腕前は並程度、特技は武道合わせて三十段という無意味なスキルである。  
正直ハズレを引いた感は強いが、元々麦野は介護を当てにするつもりはなかった。多少不便なこともあるが、逐一監視を受けるよりはよほど気が楽だ。メイドにもその旨は伝えてある。  
離婚の協議は進んでいるはずだが、さしあたり彼女の生活には殆ど変化はない。父親は相変わらず帰ってこないし、夕食はいつも一人だ。  
黙々とカレーを食べる。味は普通だ。自分で料理が出来れば、もうちょっと上手に出来るだろうけど。  
食べ終わり、食器をシンクに浸けておく。シャワーでも浴びたいところだが、その前に麦野はリビングの戸棚をがさごそと漁りだした。  
えーとたしかこの辺りに、チケットや優待券の類は入れてあったはずだけど……ああ、あったあった。けど誰か整理しなさいよ。  
引き出しの一つに無造作に積み重なったチケットの山を前にして、一瞬メイドに後で任せようかと思ったが、気を取り直して作業にかかる。  
片手では選り分けが難しかったが根気よく一枚一枚分類していくと、半分程で目的のチケットが一枚見つかった。もう少し進めると一枚、更に一枚。  
全て整理し終える頃には計五枚のプールチケットが手元に残っていた。期日を確認するとまだ使えるのが三枚。腰を叩きながら体を伸ばし、二枚はゴミ箱に入れておく。  
「くあ……あー腰痛い。立ったままやるんじゃなかったわ」  
棚から適当な封筒を探して、二枚のチケットを入れておく。そのまま鞄の中へ。これを明日の朝渡せばいい。  
残った一枚は、引き出しに戻すかどうか少し迷って、結局制服のポケットに入れておいた。特に深い意味はない。ないったらない。  
 
 
一方その頃。  
自室に戻ってきた浜面が目の当たりにした、自分のベッドで少年雑誌をごろ見する少女の姿だった。  
歳の頃は三つ下。ミニのワンピースで足を部屋の入り口に向けているので太股が凄いことになってるが、絶妙な角度で中身が見えるのは阻止していた。  
浜面が呆れた顔でぼやく。いい加減慣れたというか諦めた調子である。  
「うおい絹旗。人の部屋に勝手に入ってくるなってあれほど言ってんだろ。何、滅茶苦茶くつろいでるんだよ」  
「いいじゃないですか、おばさんには断ってますし。あ、夕飯も御相伴に超預かりましたよ、お兄ちゃんの分を」  
「なんかおかずがないと思ったらてめえだったのか!」  
先程一人侘びしく茶漬けで夕食を済ませたところである。  
浜面のベッドでごろごろしているのは絹旗最愛という、近所に住む少女である。いわゆる幼馴染みだが、歳の差もあって兄妹のような間柄だった。  
彼女の家庭は片親かつ帰りが遅く、昔から浜面家に遊びに来て時間を潰していることが多かった。要はその関係がずっと続いているだけで、色気のある話は何もない。  
ばさりと絹旗が少年雑誌を放り出す。  
「お兄ちゃん、今週のジャンプもう出てるはずですよね。超早く買ってきてくださいよ」  
「じ、ぶ、ん、で、か、え」  
「超嫌です。場所食うし、部屋汚れるし、大体読みたい連載が三つぐらいしかないし」  
「俺だってそうだよ、俺だってそうなんだよ」  
「しかも私が面白いと思う連載に限って超打ちきられていくんですよね。編集部は超何もわかってません」  
「いや、お前のツボが一般人とはかけ離れてるだけだろ、そりゃ。気合い入れた作品がこけるの大好きだもんな」  
入り口に突っ立っていても仕方ないし、ベッドは占領されているわで、仕方なく浜面は椅子に座った。背もたれに体を預ける。  
一方絹旗は視線の推移に合わせてガードポジションを保ちつつ、ころんと起きあがった。ベッドの上に女の子座りになる。  
「それにしても、最近超遅くなりましたよね。バンドの他になにかやってるんですか? おばさんが愚痴ってましたよ」  
「ああ、家まで送ってる奴がいてな。ちょっと遠回りなんだよ」  
「え、それって例の滝壺さんですか? どうせお兄ちゃんじゃ超釣り合わないんだからやめておけばいいのに」  
「何を根拠に言ってやがる。あのな、滝壺とは順調に交際中なんだぞ? また今度もデートに誘うんだからな」  
「超ダウト。遊びに行ってるだけで付き合ってるわけじゃないですよね。しかも私の超お勧め映画は却下するし」  
「お前の趣味なんてどうせ香港あたりの超C級ゾンビ映画だろうが。馬鹿なのか?」  
「あのチープなところが超最高だと思うんですが。それじゃ一体どこに行くんですか」  
「隣町のホテルに付いてるプールだとよ。ダチが割引チケットくれるんでな」  
「ホテル!? お兄ちゃんの分際で同級生をそんな超いかがわしいところに連れ込むとか、このファッキン巨乳好き!」  
「お前は一体何を想像してるんだ。いや俺も想像したけどな」  
実は上に部屋が取ってあるんだ、どうだい夜明けのコーヒーでも一緒に的な。  
想像しておいてなんだが、あまりの似合わなさにお互いげんなりした。そんなムーブをするのはもはや浜面ではない。  
「にしても隣のホテルですか。私も聞いたことはありましたが、超興味があったんですよね」  
「ダメだからな」  
「私も連れていってください、お兄ちゃん」  
「人の話を聞きやがれ」  
「いーいーじゃないですかー! 減るのはお兄ちゃんの財布の中身ぐらいじゃないですか私も超行きたいです!」  
「俺はデートに行くんだぞ子供連れで行ってどうすんだよ。家族サービスする父親か!」  
「両手に花じゃないですか。それにガキ扱いは超心外ですね。私これでも同年代ではプロポーション良い方ですよ?」  
「黙れパンチラ要員。お前がナイスバディなら、麦野あたりはビッグバンだ。チビが粋がるのも大概にしろ」  
「お兄ちゃん超ぶっ殺す!」  
うなりを上げて飛んできた少年雑誌を浜面はまともに食らってひっくり返った。  
てめえ何しやがる! そんなんだから女子に超嫌われるんですよブサ面とか言われて! 以下醜いやり取り。ベッドの上でどすんばたんと取っ組み合う。  
 
お互いに肘関節を取り合っていると、軽快なメロディが部屋に響いた。浜面の携帯電話だ。  
すわ滝壺か、と幼馴染をアイアンクローで引き剥がしながら携帯を掴む。  
「もしもし!?」  
『……俺だ。今、良いか……?』  
駒場利徳だった、がっかりである。  
「まあいいけどよ。なんだい、旦那。バンドの話か?」  
『……ある意味な。麦野のことだが……どう思う?』  
「ん? まあダチだぜ。大した奴だと思うし」  
『……あいつのこと、助けてやってくれ。やはり色々と、大変なようなのでな……』  
「やっぱ色々不便だよな。けど、旦那の方がよくね? 同じクラスなんだしよ」  
『……できる限りはな。だが、俺では無理だろう……』  
「お? って、ああ。そういや旦那も受験生だったな」  
『……ああ、すまんな』  
「いや、麦野には色々世話になってるし、責任もあるしな。適当に気をつけておくぜ」  
その後少し雑談をしてから通話を切ると、絹旗が超ジト目を向けて来ていた。  
「麦野って、お兄ちゃんが夏休み前にトラックへ超放り込んだとかいう女ですか?」  
「人に殺人未遂の濡れ衣を着せるな! まあ、大体合ってるっていやそうだけどよ」  
「でも毎日毎日、私を超無視して病院に通ってたじゃないですか。加害者じゃないなら、もう責任ぐらい果たしたんじゃないですかね」  
「まだ怪我治ってねえんだぞ。それに、それ抜きにしたっていろいろ借りがあるんだよ。バンドのボーカルとか相談とかな。プールチケットもあいつの伝手だし」  
「貴様も私の超敵かー!」  
「いきなり叫ぶな! 近所迷惑だしお袋が飛んでくる!」  
そうして今日も浜面仕上の夜は更けていく。  
 
 
翌日は朝から雨だった。  
未明に降り出した雨は街の気温を下げ、残暑気味だった昨日から一気に季節が進んだようだった。  
麦野は十字路の影で大振りの傘を差し、顔を隠すようにして地面を見つめていた。  
鞄はストラップを伸ばして右肩にかけ、同じ腕で傘を差している。加えて雨の圧力が、ずっしりと体を重くしているようだった。  
先程から彼女は迷っていた。  
今まで麦野はこの場所で一旦浜面をやり過ごし、偶然を装って合流していた。しかし流石に、傘まで差していては通り過ぎる前に気付かれる可能性が高い。  
別段、見つかったとしては大したことではないのかもしれない。おはよ、待っててやったわよ、はいチケット。と、そ知らぬ顔をしていればそれでいいのかもしれない。  
けれど、今日は一際気分が重い。  
そ知らぬ顔をする自信がなかった。  
ふと、自分はなにをしているのだろう、と思う。  
他人の恋路を手助けして、見返りは聞きたくもない惚気だけで、それまで持ち得たものを全て失って、こうして雨に打たれている。  
体が重い、心が重い。行動しているときは麻酔でも打ったように気持ちを切り替えられるが、一度止まると疲労がどっと押し寄せてくる。  
それで尚更、僅かな安らぎが欲しくて彼の恋路を応援などしてしまう自分が嫌だった。その結果は、更なる痛みでしかないのだから。  
典型的な悪循環だ。  
……やはり先に行こう。チケットを渡すのは放課後でいい。教室で一人じっとしている時間は延びるだろうが、ここで惨めに立っているよりはましだ。  
壁から離れ、歩き出そうとした、そのとき。クラクションを鳴らしながら水溜りを撥ね、大型トラックが目の前の道を通り過ぎていった。  
染み付いた恐怖でびくりと体が強張る。踏み出そうとした瞬間の、不安定な体勢なのが災いする。  
ばしゃりと水溜りを撥ね、彼女は叩きつけられるように転倒した。  
 
「あぐっ!」  
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。  
体が冷たくなり、ついでジンジンと左肩から鈍い痛みが伝わってくる。左目に泥水が入り、刺すような痛みと共に視界が奪われた。  
目を開けられない、自分がどんな体勢をしているかがわからない。傘はどこかに飛んで行ってしまった。冷たい雨が体を打つ。  
何かが切れたような気がした。  
「う……く……」  
堪える。  
痛みが少しだけ和らぐのを待ってから、地面の方向を確認する。どうやら横倒しになっているようだった。  
体を転がし、片肘と片膝を立てる。何とか四つん這い(三つん這い)になることが出来たが、信じられないほど体が重い。まるで突然重力が数倍になったようだった。  
膝に砂利が食い込んで鋭い痛みを発する。唇を噛み締め我慢する。水溜りの中で転がったせいで、更に水浸しになった。  
そのまま、重心を後ろに動かし、ゆっくりと起き上がっていく。ぺたんと、地面に女座りの体勢になった。あっという間に体温が奪われていく。カチカチと歯が鳴り始めた。  
何はともあれ視界の確保だ。手のひらの砂利を制服で拭って、スケートのポケットを右腕で探る。指先に触れたハンカチは泥水に浸って完全に濡れていた。ダメだ。  
パニックにならないよう不安を押さえつけながら、胸ポケットに手を入れる。指先に、まだ濡れていない紙の感触。そっと引き出し、慎重に左目を拭う。  
柔らかい紙ではなかったが、なんとか目に入り込んだ泥水を吸収してくれた。  
目を開くと、水溜りの中に座り込む自分と、泥水だらけになった制服と、手の中でぐしゃぐしゃになったプールチケットが視界に入った。  
ああ。  
「く、うっ……」  
堪える。  
雨水が目に入らないよう、髪をかきあげる。鞄は水浸しになって、ストラップ部分が体に巻きついている。重い体の原因はこれだった。  
傘は少し離れた歩道に転がっている。それから、視線。十字路を行く人間が、彼女を一瞬だけ見ては視線を逸らして通り過ぎていく。  
手を出す人間はいない。そこにあるのは、ただの憐憫と同情だけだ。いつもの通り。  
右手を地面につき、ゆっくりと立ち上がる。再び手のひらに砂利が食い込む。よろよろと傘に近づき、拾い、差す。雨を凌ぐよりも、自分の姿を隠したかった。  
全身泥水だらけになり、左肩を中心に体のあちこちが痛み、体温の低下は歯をがちがちと鳴らしている。  
鏡があれば顔色の悪さに驚いただろう。これ以上ないほど、惨めな気分だった。  
「……は、あ……」  
堪える。これからすべきことを整理する。  
家に帰り、制服を脱ぎ、シャワーを浴びる。学校に連絡を入れ、休む旨を伝える。風邪薬を飲んで休息を取る。痛みが引かない様なら病院にいく。  
それから、もう、やめにしよう。  
もう嫌だ。  
自宅に向かってゆっくりと歩き出す。一日分の体力を、今の数分で使い切ってしまったかのように、足が重い。  
この場でぐずぐずしていればいつもの合流時間になってしまう。こんな姿を浜面にだけは見られたくなかった。  
見られたくはなかったのに。  
「麦野? ……おい、麦野か!? どうしたんだよ!」  
五分も行かないうちに、なぜか進行方向から歩いてきた浜面に見つかった。  
駒場の電話と朝からの天気で、麦野邸に寄っていた浜面と鉢合わせたのだが、そんなことは知る由もない。  
返事をする気力もなかった。そのまますれ違い、数歩進んだところで急に体が軽くなった。鞄と傘を奪われたのだ。  
「俺も行く」  
麦野は何も言わなかったし、浜面もそれ以上何も聞こうとはしなかった。  
 
 
浜面が麦野邸に入るのは二度目である。  
一度目は忘れもしない、夏休み前のあの日。どちらも厄介ごとを伴っている。妙なジンクスでも発生しているのか。  
浜面は広いリビングで、ソファに腰掛けて所在無さげに天井を見上げていた。大きな窓から、ざあざあと雨音が聞こえてくる。  
ここまで付き添った麦野は、自宅に入るなり飛んできたメイドによって浴室に連れられていった。耳を澄ませば、雨音に混じって微かなシャワーの音が聞こえてくる。  
とりあえず、あとはあのメイドに任せておけばいいのだろう。メイド服ではなかったのは残念だが、胸は大きかったし美人だった。  
出会い頭、景気良くぶちのめされたりもしたが根に持ってはいない。どうやら主人に狼藉を働いた張本人と思われたらしく、かつ麦野よりも数段強かった。その間僅か二秒。顎をさする。  
時間を確認すると、高校ではそろそろ一時間目が始まる頃だった。既に自分の遅刻と麦野の欠席については学校側に伝えてある。  
今から登校すれば二時間目には間に合うだろう。出来ることもほとんど残ってない。だが一応、彼女が落ち着くのを確認するまでは待っていようと浜面は決めていた。  
天井を見上げたまま呟く。  
「……泣いてたのかな、あいつ」  
頭からずぶぬれで、歯をがちがちと鳴らして、そうだとしても見分けが付かなかったろう。  
加えて、麦野沈利が泣くなんて見たことも聞いたこともないし、想像すらできなかったが。  
それでも、あの姿は、まるで子供が泣き出すのを必死で堪えているようにしか思えなかった。  
(なんか嫌なことでもあったのか……いや、そりゃあったよな)  
トラックに轢かれて重傷を負い、右目と左腕に後遺症を残し、夏休みを丸々潰して、両親は離婚するという。理由は山程ある。  
一つ一つは耐えられても、重なるとどうしようもなくなることある。その時は耐えられても、どんどん溜まっていくものはある。  
駒場が連絡してきたのも、そういうものに気付いたからだ。対して浜面は、友人と目しておきながら全く気付かなかった。  
自分の鈍さにほとほと呆れる。  
(俺が麦野のためにしてやれることって何があるんだろうな……)  
怪我を治すことは出来ないし、家庭のこともどうにも出来ない。  
同情めいたことを口にしても、相手が彼女では逆に傷つけるだけだ。  
普段通りに接するしかないのかもしれないが、正に今までそうしてきたのだ。出来れば、他に支える方法が欲しかった。  
(やっぱり聞き出すしかねえな。俺だって麦野に散々相談してるんだ。そうでなきゃ、不公平だろ)  
悩み事は、他人に聞いてもらえるだけでも楽になる。そのことを浜面は良く知っている。他でもない、麦野に恋路の相談をし続けていたのだから。  
そう、決めた矢先。  
がらりと、リビングの扉が開いた。気付けば、シャワーの音は止んでいる。  
無地のパジャマを着て、包帯と眼帯を替え、麦野沈利がリビングの入り口に立っていた。  
まだ乾いていない髪の下で、片目がじっと浜面を見つめている。裸足だ。  
まるで幽霊のようだった。  
「お、おお、麦野。落ち着いたか?」  
「……」  
無言。目線だけでリビングを見回した麦野は、ぺたぺたと隅に置かれた鞄のところに歩いていった。  
「と、とりあえず鞄はそこ、カサは玄関に置いておいたぜ。中身とか見てないから、安心してくれ」  
「……」  
無言。ジッパーを引き、右手で中を漁る。目的のものはすぐに見つかった。ふやけた封筒。  
「あー、と、ところであのメイドはどうしたんだ? メイドの癖にメイド服着てないなんて服務規程違反じゃね?」  
「ベッドメイク」  
「あ、そうか。今日はもう寝た方がいいぜ。幾ら受験生でもよ、たまにはゆっくり休まないと」  
「これ」  
「お、おう」  
突き出すように差し出された封筒を、面食らいながら浜面は受け取った。封筒は水気を吸ってしわしわになっている。  
封はされていない。水気でくっついた口を爪で開きながら中を覗くと、チケットらしきものが二枚入っていた。思い出す。  
「もしかして、プールの券か? そりゃありがたいけど、別に後でも……あ、いや。ありがとよ」  
何もこんなときに、と一瞬思った浜面だったがすぐに考え直した。こんな時に、善意の行動を無碍に扱うのはあんまりだ。  
ありがとよ、ともう一度呟いて封筒をしまう。  
それから腹をくくった。  
麦野沈利の事情に踏み込む覚悟を。  
「……なあ、麦野。何か、嫌なことがあるならさ……俺にも相談してくれよ。聞くだけでも楽になることってあると思うし、できる限りのことはするからさ」  
 
「あんたが言わないでよ」  
浜面が、心の底から差し伸べた言葉は  
不意に、ひどく冷たく無造作な言葉で叩き落された。  
「何もかもあんたのせいでしょ。あんたのせいで、私の人生は滅茶苦茶よ。悪いと思うなら返してよ。元の私に戻してよ」  
裸足で麦野が浜面に近づき、どんと胸元を右腕で突き飛ばした。  
よろよろ、と浜面が後ろに下がる。冷たく鋭い何かが麦野の手に握られていて、それで突然突き刺されたような気がした。  
「あんたのせいでこんな怪我するし、ずっと不自由なままだし、家族はばらばらになるし、夏休みは潰れるし、妹には馬鹿にされるし、教室ではぼっちだし、濡れるし、寒いし、痛いし、最悪。ホント最悪よ。  
 知ってた? あんたのせいで私、女子のグループから外されたの。もうリーダーでもなんでもないのよ。  
 当たり前じゃない。こんな成りになって、前のままでいられるわけないじゃない。気味悪がって誰も近づいてこないわよ。  
 普通に見えたって? あんなの演技に決まってるわ。あんた本当に気付かなかったの? 駒場には口止めしておいたけどさ、我慢してたのよ、ずっと。  
 それをあんたは、幸せそうに自分や滝壺のことばっかり話して。聞いてた私がどう思ってたか教えてあげようか。ムカついてたのよ。  
 あんたのせいでこんなことになったのに、あんただけ幸せになろうなんて、そんな虫のいい話があっていいわけないでしょ!」  
どん、どんと麦野が浜面の胸を突き飛ばす。浜面は唖然として、抵抗も出来ず下がり続け、とうとう背中が壁に突き当たった。  
麦野もまた開いた距離を詰めていき、片腕で浜面の胸倉を掴む。二人の背丈は同じ程度だ。真正面から、壁に押し付けるようにして締め上げた。  
「う……ぐ……」  
「悪いと思うなら返してよ。この腕と目を元に戻してよ。無理でしょ?   
 張本人の癖にできないこと言ってんじゃないわよ。何様のつもりなのよ。  
 全部、全部あんたのせいなのに!」  
轟々と、何かが麦野の目の奥で燃え盛っていた。その炎は、憎悪にも似ている。  
浜面には何も言えなかった。言えるはずもなかった。  
事故の責任は感じていたが、そこまで恨まれているとは思っていなかった。思いもしなかった。  
以前通りの関係で、気安い間柄で、これからもやっていけると信じていた。  
多少のトラブルがあっても許し許されるような、自分達はそんな友人同士になれたのだと。誇らしい気持ちさえあったのだ。  
違った。そんなものは勝手な思い込みでしかなかった。麦野の本音に気付いてやれなかった。  
自分がどれだけ能天気で鈍かったのか、考えると本気で死にたくなる。  
「……すまん。すまん、麦野」  
謝ることさえ侮辱になる。麦野が望んでいるのは謝罪ではないのだから。  
それでも浜面には、それしか出来なかった。言わずにはいられなかった。  
麦野沈利が泣いていた。  
顔を真っ赤にして、歯を食いしばって、表情を歪めて、左目と、そして眼帯の下から涙を零して。  
瞳を無くした眼窩からでも涙が溢れるのだと、彼女本人ですら初めて知った。そして浜面にしてみれば、はるかに大きな衝撃だった。  
何時だって強く、自立して、ある種の尊敬すら抱いていた彼女が、こちらをじっと睨みながら泣いているのだから。  
謝罪しか、口に出来なかった。今の麦野には、言わずにはいられなかった。  
けれどそれすら、すぐに言えなくなった。  
「謝れ、なんて言ってないわよ。私はただ、返して欲しいだけ。浜面、ねえ返して。返しなさいよ!」  
「すまん……本当に、すまん、麦……」  
「何も返せないなら、せめて私に全部ちょうだいよ……!」  
 
そうして麦野沈利は  
襟首を掴んだ腕を引き寄せ  
かかとを僅かに浮かせて  
瞳を閉じ、首を傾け  
浜面仕上に口付けた。  
 
「――――」  
「…………!?」  
 
10秒、20秒。  
時間が止まったように思えた。無限に感じた。  
ただ唇を重ねるだけのキスだった。  
目を一杯に見開いて硬直した浜面の視界は、涙で濡れた眼帯に大きく占められていた。  
広いリビングの中を、再び外からの雨音だけが支配した。  
30秒、40秒。  
麦野がそっと、唇を離した。二歩三歩と下がり、右手で口元を隠す。  
その頬は涙に濡れ、片目はぎゅっと閉じられ、顔は耳まで赤く染まっていた。  
 
「……ごめん、浜面」  
 
「今日は……もう、帰って……」  
 

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