「博士。ちょっといいですか?」  
「なんだい助手よ。私のくつろぎタイムを邪魔するなんて、よほど大事な用件なのだろうね」  
「勤務時間中にゲームすんなや。暇ということで話を進めますが、自由電子レーザーって知ってますか?」  
「へ? そりゃまあ。自由電子のビームと電磁場との共鳴的な相互作用によってコヒーレント光を発生させる方式のレーザーだよね。電気的な操作によって波長を自由に変えることが出来るという特徴を持ち……お、おお?」  
「原子崩し(メルトダウナー)が使ってるのって、原理的にどう考えてもこれですよね?」  
「だああなんてこったあ! 誰だよビーム撃てるって言ったの! レーザーじゃん! 月にぶち込めるじゃん!」  
「やっぱ気付いてなかったんですね。やたら荷電粒子砲にこだわってるから気になって」  
「ちょっと待って。とするとなんだい、レーザーに反動はないから、原子崩しじゃ飛べないのか?」  
「まあそうですね。荷電粒子なら反動がありますから空だって飛べたかもしれませんが、普通に撃ってもぶっ飛びます」  
「いやいや待て待て……そうか、そういうことだったんだ助手よ!」  
「なんです?」  
「彼女の能力は、電子そのものを強制的に動かせる。つまり電子の波長を自在に操ることで、レーザーもビームも撃てるのだよ!」  
「な、なんだってー、て自由電子レーザーで満足しておけばいいじゃないですか。実際それしか使ってないし」  
「仕方ないだろ原作との矛盾をなくすにはこの解釈しか!」  
「何言ってるんですかあんた」  
 
 
 
原子崩しは平凡の夢を見るか6  
 
 
 
ある休日の昼間。高級ホテルの室内プールにて。  
外界は先日の雨を境に夏よりも秋に近づいていたが、暖房で満ちた室内では水着姿でいることに何の不都合もない。軽く汗ばむ程だが、水に入ることを考えれば丁度良い。  
文字通り季節外れの快適さだったが、利用している人間は多くなかった。体育館程の広さで、二十人程が泳いでいる。緩やかな音楽が流れていた。  
そんな陽性のプールサイドでむさ苦しい男が二人、備え付けのデッキチェアに寝そべって天井を見上げていた。  
トランクスタイプの水着に、片方は紺色の水泳帽、もう片方は茶髪にサングラスという出で立ちである。メイド狂ではない。  
「なあ、浜面。何時までこうしてるんだ?」  
「別にいいだろ、一人で泳ぐなりナンパなりしてこいよ」  
「もうしてきたっての。俺一人はしゃいでても馬鹿みたいじゃねえか。やっぱ一人より二人の方が成功率高いって」  
二人だからといってナンパに成功する保証など何もない、というか成功した試しなど無い。  
「あー……俺はいい」  
「ったく。大体なんで俺なんだか。滝壺誘う予定だったのに、断られたか? だったら麦野さんでも誘えばいいじゃねえか。元々あの人のチケットなんだろ」  
「っ」  
びくりと浜面が反応した。何かありやがったな、と半蔵は当たりを付ける。  
ただし、それは男二人でプールに来ることになった時点でわかっている。それに応じたのも、友人として相談に乗るつもりなのが半分、従妹から解放さゆっくりしたいのが半分だ。  
ところがどうやら浜面から問題を言い出す気はないらしい。仕方ない奴だな、と半蔵は自分の中で事情を推測した。  
とりあえず最もありそうなのは、滝壺相手に取り返しのつかないポカをしでかしたという線である。それも麦野に相談したら確実に殺されそうことを。  
となると下関係か、と適当な推測を立てる。当たるも八卦当たらぬも八卦。雑談気味に釣り針を投げてみる。  
「なんだ、勢い余って押し倒しちまったとか? いくらなんでも同意がなきゃまずいだろ」  
「してねえよ! むしろされた方だ……!」  
どすごろん、と半蔵がデッキチェアから転がり落ちた。よろよろとはい上がってきたその口は、信じられないとばかりにあんぐりと開いている。  
浜面が青くなって口を押さえるが後の祭りである。  
とりあえず、ばっしゃーんと問答無用で浜面がプールに叩き込まれた。盛大に腹を打ってぶくぶくと沈む浜面。  
友人を引っ張り起こして遠心力を加えた半蔵はデッキチェアに座り直した。やがて水浸しになった浜面が隣に戻ってきた。  
気まずい沈黙。  
「…………」  
「…………」  
「…………」  
「……マジ?」  
「……ああ」  
「………………麦野さんか?」  
どすん、と今度は浜面がひっくり返った。あからさまな反応を確認するや半蔵は立ち上がり、再度浜面を引き上げてプールに叩き込んだ。どばしゃん。  
デッキチェアに座り直して、深々と息を吐く半蔵。明日にでも黄泉川先生にアタックを掛けようと心に決める。同レベルと思っていた友人に先を越されるのはとてつもない焦りがあった。  
ごほごほ、と咳き込みながら浜面が戻ってくる。鼻から水が入ったらしい。  
隣に座り直した浜面はしばらく言葉に迷っていたようだが、結局どう誤魔化そうが無駄だと悟ったらしい。苦々しい調子で聞いてくる。  
「どうして……わかったんだ?」  
「どうしてってな。相手が滝壺ならお前空飛ぶぐらい有頂天になってるだろ。飛べる飛べる行って来い」  
「そりゃそうだろうけどよ、だからって」  
「それに、麦野さんどう見てもお前に気があっただろ。どこが良いかはさっぱりだったけどさ」  
「は、マジ?」  
「気付いてなかったのはお前と郭だけだった。つーか、郭に鈍さで匹敵するって本気でやばいぞお前。一緒に登下校とか完璧付き合ってる行動じゃないか」  
「いや違うだろ……あれは友達だからっていうかさ」  
「お前はそのつもりだったんだろうけど、麦野さんは違ったってことだろ。お前が滝壺をどれだけ好きでも、滝壺には全くその気がないのと同じだよ」  
「おい関係ないだろそれは! それに滝壺だって俺と一緒にいると楽しいって夢で言ってくれたぞ!」  
「妄想乙」  
 
お互いにデッキチェアの上で半身を起こして話し合う。一杯一杯の浜面に対し、半蔵は突き放したようなスタンスである。友人がモテる話なんて面白いはずがない。  
「それにやっぱり違うだろ。好かれてるなんて話じゃなくて、むしろ恨まれてるんだよ」  
「そんな相手にキスなんてするわけないだろ常識で考えろ」  
「いや、だからさ……考えてみれば当たり前でさ。あんな怪我させて、友達面しようなんて虫が良すぎたんだよな……」  
「怪我させて恋人面してくれるなら俺は今すぐ黄泉川先生を殴りに行く!」  
「返り討ちに遭うだけだからやめとけ。つーかお前真面目に聞く気あるのか!?」  
「浜面ごときが深刻な主人公みたいな面してるのが馬鹿らしくなっただけだよ。女にキスされたんだから舞い上がってろよ。それも腹立つけどな」  
「そういう話じゃねえっていうの、あの時の麦野はマジ切れてたんだぞ。惚れた腫れたって雰囲気じゃなかった」  
「切れてたとしたらお前の鈍さにだよ。口じゃなんと言おうが、行動は嘘を付き辛いからな。結果だけ見れば俺の言ってる通りだろ」  
「…………」  
浜面が黙り込む。あの日、壁際に押し込まれて問い詰めを食らった時の恐怖と衝撃ははっきりと覚えている。内容も突き刺さったが、迫力だけで腰が抜けるかと思った。  
どうしてそこからキスになるのか、完全に意味不明である。今でもその二つが繋がっていない。  
半蔵の主張では、それらは全て口先だけの誤魔化しということになる。だが、そんなわけはない。あの時の恐怖は浜面の体にしっかりと刻み込まれている。  
とはいえ、あの時の口付けが嘘だったのかといえば、それも考えにくい。大体、そんな嘘を付く理由は何一つ無い。  
「ああわっかんねえ。どういうことだよ、一体」  
「俺にはお前がなんで理解できないのかわからない。麦野さんと滝壺のどっちを選ぶかが悩ましいって言うなら、わかるが」  
「どんな二択だそれ、どんな二択だそれ」  
「大事なことだな。でも遅かれ早かれそういう話になるぜ? まあ滝壺に関しちゃ選ばれる側なんだし、ここは滝壺に告ってダメだったら麦野さんと付き合ってのはどうだ」  
「できるか馬鹿! 都合良過ぎじゃねえか。麦野の気持ちはどうなるんだよ」  
「けどそれが一番合理的な戦術じゃん。お前今、人生最初で最後のモテ期が来てるんだぜ? ここ逃したら一生童貞だろ」  
「勝手に決めんな。それと前から聞きたかったけどな、お前郭のことどう思ってるんだ? さっき言ったみたいにキープ扱いかよ?」  
「生まれた時からの付き合いを今更女として見られるわけないだろお前は妹に欲情できるのか?」  
「そりゃ無理だけどよ」  
この時浜面が頭に思い浮かべたのはC級映画好きの幼馴染である。当人が知ったら湯気を上げて怒り狂っただろう。  
ちなみにこの手の話題に関しては、同学年の土御門と常に論争が絶えない。奴は義妹至上主義だ。  
「ぶっちゃけ麦野さんをそういう対象に見たことあるだろ? あんだけ巨乳なんだし。黄泉川先生には負けるけどさ」  
「おい、麦野はバンド仲間で、友達だぞ?」  
「別に責めやしないから腹を割れよ。男として反応するのは正常だろ、旦那じゃあるまいし」  
度々話題にされる駒場のロリコン疑惑だが、言う方も聞く方も冗談として扱っている。単に子供絡みで人助けが多いだけだ。  
冗談だよな? 冗談に決まってる。確認するのは怖すぎるので冗談として済ませているだけとも言う。  
「まあ、そりゃ……あるけどよ。それじゃお前は郭に反応しないのかよ」  
「あいつはどうでもいいだろ。とにかく、反応するなら『有り』ってことだ。それで好意を示されたんだから、答え出さなくちゃダメだろ」  
「けど……けどよ。なんで麦野は俺なんだ? それが一番納得できねえ」  
「俺も心底納得できない。まあ、麦野さんの中でなんか化学反応があったんだろ。もしかしたらマゾなのかも」  
今度は浜面によって半蔵がプールに叩き込まれた。どばっしゃん。  
 
一方その頃、麦野邸では。  
休日の昼間だというのに、麦野は電気を消した自室で布団を被っていた。不健康極まる。  
片手で布団の縁を掴んで丸まり、呼吸に不自由しないだけの隙間を作っている様は蓑虫に似ている。  
「鬱だわ、死にたい……」  
先日の雨の日から彼女はずっとこんな調子だった。  
風邪を理由にしてずっと学校を休んでいるが、既に体調は回復している。つまり仮病だ。  
そんなことをしているのは何故かと言えば、先日壮大にやらかしてしまったため、気まずくて浜面と顔を合わせられないという、ただそれだけである。  
あの時のことを思い出すと  
「ああああああああ、死にたい死にたい死にたい死にたい……」  
布団にくるまったままベッドの中で身悶えする麦野。まるきりダメ人間だった。この数日、ずっとこんな調子である。  
ごんがん、と部屋のドアが乱暴に叩かれる。まるで鈍器で殴っているような音だが素手のノックである。続いて凛とした声がドアの向こうから響く。  
「お嬢様、お嬢様! 昼食ができたので降りてきてください、朝食も抜いたでしょう!」  
「……」  
麦野が返事をしないでいると、外から鍵が外された。彼女は麦野邸のマスターキーを渡されている。  
入ってきたのは、ハウスキーパーの制服を着た女性だった。歳は自称18歳、長い髪をポニーテールに纏めた長身の女性。先月から麦野邸で働いているメイドである。  
腰に手を当て、呆れたような表情をしている。姿勢がひどく真っ直ぐだった。  
「お嬢様」  
「……」  
返事がないと見るや、メイドは問答無用で布団を引っぺがした。布団にしがみついていた麦野がごろんと転がり出てくる。腕力と技量の両方を駆使した手腕だ。  
身を守る鎧を奪われた麦野は転がったまま抗議の声を上げる。左腕ギプスに右目の眼帯は良いとして、パジャマ姿に髪はぼさぼさ。キャラ崩壊も甚だしい。  
「うう、何するのよ神裂さん……」  
「食事だと言っているでしょう。冷めて良いことなど何もないですから、早く着替えて下に行きましょう」  
「いらない」  
「いい加減にしないともう片腕もへし折ってあーんしますよお嬢様。さ、立ってください」  
「むー」  
ドスの利いた声で脅されて、渋々と麦野は着替えを開始する。メイドも本業に戻って、片手での不便を補佐した。  
十分後、ダイニングで食事を取る二人の姿があった。例によって他に人はいない。  
今日の昼食はミートスパゲティ。くるくるとパスタを巻き取る麦野の向かいに、メイドが監視するように待機している。  
麦野は相変わらず陰鬱な雰囲気で、食事もあまり進んでいない。ふとメイドがため息をついて、声を掛けた。  
「お嬢様。先日のこと、まだ気にしてるのですか」  
「何よ先日って」  
「先日は先日です。あの少年がお嬢様を拾ってきた時の」  
「野良猫じゃないんだからなんて表現なのよ。なんで私があいつのことを気にしなきゃいけないっていうの」  
「ですから。えー……こほん」  
わざとらしく咳をするメイド。頬が僅かに赤く染まっている。  
「あちらのリビングで、接吻などしていたことですが……」  
「ぶっ!」  
 
麦野が口に含んでいたミネラルウォーターを吹きだした。メイドは咄嗟にテーブルクロスを持ち上げてガードする。ぱたぱたと、ミートソース混じりの水がクロスを汚す。  
げふげふと咳き込む麦野と、やれやれと布巾でテーブルを拭くメイド。恥の上塗りとはこのことである。  
しばらくして落ち着いた麦野は、布巾を置いてきたメイドに食って掛かった。しかし焦りのあまり噛みまくり。  
「な、ちょ、え、な、なんで知ってるのよっ!?」  
「ドラマ風に表すなら『家政婦は見た!』というところです。ベッドメイクを終えてお嬢様を呼びに来たら、あちらのリビングで情熱的に」  
「きゃー! きゃー! きゃー!」  
顔を真っ赤にしてばたばたと片手を振り回しメイドの言葉を遮る麦野。この瞬間、主従を越えてメイドが完全優位に立った。  
しばらく錯乱していた麦野だったが、やがてぐったりとテーブルに突っ伏した。  
「死にたいわ……ホント死にたい」  
「その気持ちは痛い程わかりますが早まらないでください。不器用な恋をする乙女のための神がきっといます」  
「そうだ、お願い。神裂さん、どうせそういう指示されてるんでしょうけど、この事はパパには……」  
「伝えませんよそんなこと。危急健康に関わることでもなし。それに……片想いなのでしょう?」  
「え、いや、その……そうなんだけど、あの程度の男から相手にされてないって更に恥だし……でもよくわかったわね」  
「経験です」  
と、絶賛片想い+空回り+相手にされていないメイドが苦み走った表情で笑う。後輩その他に押されっぱなしである。  
あの光景を目撃して、これだ! と思ったのは秘密である。この無駄な武力94を今こそ生かす時。捨てなければいけない物が色々あるのが難点ではあるが。  
「なんであれ、思い人を悪しきざまに言うのは感心しませんよ。それは自分をも貶めることになります」  
「でもあいつ間違いなくダメな類よ。そりゃ良いところもあるけどさ」  
「人の話を聞いてください。そんな相手を好きになった自分に疑問は持たないんですか?」  
「持ちまくりよ……よりにもよって、何であんなのなのかしら。自分の趣味を疑うわ」  
ずーんと頭を抱えてテーブルに突っ伏す麦野。なんだろうこの子は。ダメな男に引っかかるタイプなのかもしれない。  
「休んでいたのは顔を合わせたくないからですか。やれやれ、見かけによらず初心な人ですね」  
「うう……」  
メイドの知人が聞いたらお前が言うなの大合唱だったろう。中学生よりはましとはいえ。  
しかしそんなこと知る由もない麦野としては、顔を赤くして縮こまるしかない。強烈に可愛い。  
「今すぐ決着をつけろとは言いませんが、休みが続けばお父上に報告せざるを得なくなります。週明けはちゃんと登校してくださいね」  
「うう。けど、一体どんな顔して会えって言うのよ。教えて神裂さん!」  
「わ、私ですか?」  
縋りつくように懇願するへたれ一号に、無茶振りをされて動揺するへたれ二号。所詮同じ穴の狢である。  
「そうですね。古より心頭滅却すれば火もまた涼しといいまして、ひとまず木刀で素振り二千本など如何でしょうか」  
「わかったわ!」  
かくして貴重な日曜の午後を、麦野とメイドはサンドバッグを殴ることで費やした。馬鹿ばっかりだ。  
 
 
週明けの放課後。  
部活に出るため浜面が視聴覚室を覗くと、麦野がぽつんと教壇に座り込んでいた。他のメンバーはいない。  
「よ、よう麦野」  
「は、浜面。久しぶりね」  
お互いにギクシャクとした挨拶を交わす。週末他人にあれこれ吹き込まれたせいで意識しまくりだった。  
浜面も教壇に並んで座り込む。手を伸ばせばぎりぎり届く程度の、微妙な距離感。  
部活の準備をする前に、すべきことがあるとお互いわかっていた。その気になればもっと早くに会えたのに、ここまでずるずる引き延ばしてきたのは怖かったからだ。  
これまでの関係が変わってしまうことが。  
麦野沈利と、浜面仕上。最初は殴ったり苛めたりと碌でもない関わりだったが、色々なものを経て同じ時間を過ごして、今ではお互いに良い関係を築き上げていた。  
それを壊したくはなかった。既に掛け替えのない物になっていた。もしもあの日のことを無かったことにできたのならと、思わずにはいられない。  
だが同時に、彼女には嘘偽ることのできない気持ちがあった。それがある限り、どの道同じだったのだろう。  
「好き」  
「――――」  
「あの時、他に言ったことは忘れて。別に今更、あんたのことは恨んでないわ。ただ、あの時は色々重なって、八つ当たりしちゃっただけで。ごめん、浜面」  
「ん……いや、けどよ。やっぱり俺は恨まれても仕方ないことしてるって。すまん、無神経で」  
「やめてよ。同情なんかで優しくされても嬉しくない。ううん、嬉しいけどさ。その後ですごく空しくなる」  
「……」  
「好き、だから」  
お互い、視線を合わさずに交わしていた言葉が途切れる。視聴覚室がしんと静まりかえる。  
あれだけ狼狽えていたのに、不思議と麦野の声音は落ち着いていた。本人を前にして、素直な気持ちを伝えた時、自分の引きずっていたものが全て外れたようだった。  
ちらりと隣を見ると、彼女の顔がリンゴのように赤く染まっていた。こんな状況でなければ、風邪じゃないかと心配しただろう。  
がしがし、と浜面が頭をかく。  
「……わっかんねえんだ。なんで俺なんだ? 自分で言うのも何だけど、麦野の眼鏡に適うような奴じゃないだろ?」  
「そーね、それが本当、不思議なのよ。自分でもさっぱりわからないわ。そこまで趣味悪くなかったと思うんだけど」  
「おま、お前自身わかってねえのかよ! ああ週末悩み込んで損した!」  
「ま、私の趣味がおかしくなったのよ。実際こんなざまだし、色々あったしね」  
ふりふり、と左手のギプスが振られる。右目の眼帯も加えて、幾ら態度が気楽でも痛々しさは否めない。  
そもそも以前の彼女が、痛々しさとは正反対とも言えるリーダー的な存在だったのだ。イメージの落差が大きすぎる。  
浜面は少しだけ奥歯を噛みしめて、腹の底から声を出した。  
「なあ、麦野」  
「うん」  
「腹を割って、本音で答えてくれ。本当に……本当に、俺のこと、恨んでないのか?」  
「……」  
視聴覚室に、再度沈黙が落ちる。  
それは彼女の迷いだった。本当のところを話すことは出来る。しかしそれはあまりに卑怯だ。ついさっき、同情されたくはないと口にしたばかりなのに。  
けれど腹の底から頼まれて、嘘を付きたくはなかった。そう思ってしまうのが、きっと甘えなのだとしても。  
言葉を選びながら、語る。  
「……この目や、腕のことで嫌な思いをしたり。教室で一人ぼっちでいるときに、ふと空しくなったり。そんな時に、ね。  
 自分に苛ついて、何もかもが嫌になって。そういう時に、少しだけ浜面のことも恨めしく思うわ。  
 私をこんなにした責任、取りなさいよ、って」  
腕だけではなく、目だけではなく、心の変容も含めて。嫌いなわけではないけれど、歪となった形に対して。  
少しだけ、なじるように語る麦野。  
浜面はそんな彼女に返す言葉もなく、ただ石を呑むように聞いている。そうするしかなかった。  
 
「ま、でもさ」  
深刻な雰囲気から不意に、麦野がおどけた。空気がほんの少し軽くなる。  
「やっぱ一番きつかったのはデートの相談かな。何が悲しくて、好きな男と他の女のセッティングしないといけないのよ。ねえ?」  
「……すまねえ」  
「あ、嘘嘘。いいのよ、私が勝手に自爆してただけだし。やっぱり、頼られるのは嬉しかったしさ」  
それに、と麦野が続ける。  
「あんたが滝壺を大好きなのがよーくわかったから。ああ、やっぱり私の出る幕なんてないんだな、って」  
「麦野」  
「ほんと、馬鹿な真似してごめんね。ずっと隠しておくつもりだったけど、あの日は色々重なっちゃって、我慢し切れなくて」  
「麦野!」  
おどけたまま一方的に話し続ける麦野を、浜面が床に向けて怒鳴りつけ、止めた。  
うなだれたまま、声を絞り出す。男にとって恋とは陽性のものであり、人生を素晴らしいものにしてくれるスパイスのはずだった。  
「人を好きになるのって、そんな、我慢しなきゃいけないことじゃないだろ……もっと、良いことのはずだろ……」  
「でもさ、あんたは滝壺が好きなのよね」  
顎を上げて、片目を細めて、麦野が笑う。幼子に物事の道理を教えるように。  
あるいは、泣くのを堪えていたのかもしれない。  
「どうしようもないじゃない。私と付き合ってくれるの? 好きでいさせてくれるの? 無理でしょ、そんなの」  
対して、麦野にとって色恋沙汰というのは益体もない印象が強い。惚れた腫れたのトラブルを延々と繰り返す女子グループの中で、その調停に苦労した経験がそう思わせるのか。  
それとも単に、最初から成就を諦めてしまっているのかもしれない。  
彼女は他人より優秀に生まれついたし、その分他人の負担を背負って生きてきた。  
自分の荷物など自分で負うのが当然以前だったし、そのことを褒められたこともない。  
そんな彼女が、たった一人にだけ、自分の重荷を明け渡しても良いと思ったのだ。自分で立つのに疲れ、他人に寄りかかりたいと初めて思ったのだ。  
疲労から来る挫折。自立の放棄と依存心の肯定。たまたまそこにいたというだけの選択。  
それが、麦野沈利の恋だった。  
……そんなものが、上手くいくはずもない。  
不意に、麦野が立ち上がった。まだ他のメンバーは来ない。そんな状況でこんな話をしていたのもどうかと思うが、流石に遅すぎだった。  
「ごめん、今日はもう、帰る。明日からは、また元の私に戻っていると思うから、だから……今回のことは、忘れて」  
「っ!」  
そうして麦野は小走りに、視聴覚室から逃げ出した。後にはぽつんと、浜面だけが残される。  
バンドメンバーは来ない。おそらく二人が話し合っている最中、空気を察して引き返したのだろう。この問題を知られてしまったのかもしれない。だが知ったことではない。  
歯を食いしばり、呟く。  
「忘れられるわけ、無いだろ……」  
無かったことになど、できなかった。  
 
視聴覚室から逃げ出し、しばらく当てもなく走っていた麦野は昇降口を通り過ぎ、人気のない階段まで来ていた。普段使わない側だ。  
壁に片手を付き、息を整える。ほんの少しの距離しか走っていないのに、ひどく心臓が跳ねていた。やはり緊張していたのだ。  
しないわけがない。生まれて初めて惚れた相手に好きといったのだ。ひどく歪ではあったが、あれは告白以外の何物でもない。  
その結果は無惨なものだったが。  
(まあ……私には似合いの末路よね)  
自嘲気味にそう分析する。ろくでもない男を好きになって、その理由が疲れて折れた時に、たまたまそこにいたから、なんて。  
それも、相手には既に惚れた女がいると充分以上に知っていたのに。特攻もいいところだ。  
気持ちを切り替えよう。明日には、元の通り気楽な態度に戻らなくてはいけないのだ。  
けれど今日くらいは、泣いていいかもしれない。  
「う……く……」  
壁に手を当てたまま、ずるずると膝が折れる。放課後の階段は靴音もなく静まりかえっている。  
帰るべき人間は帰り、残るべき人間は残っている時間帯。普段から人気のない場所だ。  
嗚咽が漏れた。  
「うあああああああああああ……」  
堰を切ったように、長い小さな呻き声が響く。  
麦野はその場にうずくまって、掻きむしるように胸を押さえ、左目と眼帯から涙をぼろぼろと流した。  
胸の奥から絞り出すような嗚咽。  
長身の彼女だが、そうして体を丸めて弱弱しく震える姿は、ひどく小さく見えた。  
その背中を、息を潜めて階段の踊り場から見下ろす影が三つある。  
部活に出ようとしたら修羅場に遭遇して、こんなところまで避難して時間を潰していた駒場、半蔵、郭である。  
三人とも出る機を失って、気まずげに顔を合わせている。  
「……どーするよ、これ」  
「……どうするもこうするも、見つからないうちに立ち去るしか、あるまい……」  
「二階を回っていくのでありますね。しかし麦野女史があそこまで取り乱すとは」  
「まあ、あの反応はあれだろ……振られたんだろうな、間違いなく」  
「麦野女史がですか? なんという命知らずな。して、相手は?」  
「お前さっきまでの話聞いてなかったのかよ!? 浜面だっての」  
「……あまり声を出すな。気付かれる……」  
「おお、浜面氏でありますか。しかしこう、納得しかねる思いがむらむらと湧き上がってきますね」  
「安心しろ、珍しく同感だ」  
「……しかし、まさか麦野があそこまで泣きじゃくるとはな……」  
「とりあえず後で浜面を殴ろうぜ」  
「は、殴りましょう」  
三人でがつがつと拳を合わせる。駒場が本気で殴ったら入院ものだが知ったことか。  
それだけ、今の麦野の姿は心に来るものがあった。大体、彼等にとっても彼女はれっきとした仲間なのだ。  
階段を上り、小さくなってしゃくり上げる麦野を後にする。二階の廊下を歩いていく三人の表情は揃って暗い。  
浜面を殴ると決めはしたが、本当は誰も悪くないことはわかっている。ただ、なんというか、間が悪かっただけだろう。  
「……なかなか、上手くいかないものだな……」  
「ま、仕方ないさ。浜面の奴には元々惚れた相手がいるし、それは麦野さんもわかってただろうしな」  
「むしろ浜面氏には勿体ない女性だと思うのですが……しかしつくづく、何故麦野女史は浜面氏などを」  
「マジわっかんねえ。せめて旦那なら良かったのになあ。ストライクゾーンからは外れてるんだろうが」  
「……人の好みとは、本人にもままならないものだ……」  
「滝壺!」  
不意に  
渦中の人間の声が聞こえて、だべりながら歩いていた三人はびくりと立ち止まった。  
一年の教室が並ぶ廊下。郭が先行して忍び足で教室の一つを覗くと、浜面と滝壺が二人きりで話しているのを発見した。  
ぱたぱたとハンドサインでやりとり。まずいでござる、封鎖されたでござる!  
『……落ち着け。階段まで引き返して三階を通ればいいだけだ……』  
『しかし三階では殺人事件が発生しているかもしれませぬ!』  
『アホか! しかし浜面の奴、麦野さんを振ったその足で滝壺と密会とは、どういう神経してやがるんだ』  
『はっ、これは私と半蔵様と麦野女史の三角関係フラグ!?』  
『……仲間意識だろう。まあ、浜面もいい機会だと思って告白する気になったのかもしれないな……』  
『そういえばなにやら湿っぽい雰囲気ですな。どれどれ』  
『やめろって。浜面殴るのは後にするとして、馬に蹴られたくなきゃこっちこい』  
ごそごそと三人は立ち去り、日が暮れる前の教室には浜面と滝壺だけが残された。  
冷たくなった風を受け、二人は何かを話している。  
「……なあ。滝壺。頼みがあるんだ」  
「うん」  
「――――――――」  
「……え」  
 
 
翌朝。  
人気のない通学路を、麦野は一人とぼとぼと歩いていた。  
普段より一時間も遅い時間帯。既に始業時間を過ぎており、学生も大人も歩道には見かけない。  
このまま登校すれば二時間目の始めに着くことになり、随分注目を浴びるだろう。が、それでもよかった。  
こんな時間に歩いているのは、ひとえに浜面と顔を合わせたくなかったからだ。  
あれから  
階段でひとしきり泣いた後、麦野は自宅に戻ってまた泣いた。メイドには気付かれていただろうが、彼女は見てみぬ振りをしてくれた。  
おそらく何があったのか察したのだろう。申し訳なさそうな顔をしていたのは、自分が焚きつけたせいだとでも思っていたのか。  
関係ない、自業自得だ。  
目がしょぼしょぼとしていた。胸の中の未練を押し出すよう、一晩中泣いていたせいだ。涙はとめどなく溢れてきた。跡は化粧で誤魔化している。  
けれど、それで気持ちが切り替えられたかといえば、とてもそうは言えなかった。平静でいられる自信がない。  
浜面との付き合いの中で、今まで培ってきた友情以外のものは、全て捨てなければいけない。  
それがあまりに大切で捨てられないのなら、捨てたフリをしなければならない。  
かつての麦野沈利に戻らなければいけない。  
おかしな話だった。自分を偽らなくても良い場所を望んでいたはずなのに、今度は自らに無理を強いるような真似をしようとしている。  
それでも、できる機がした。やらなければいけない。恋とは理不尽なものだ。  
とぼとぼと、いつもの十字路に差し掛かる。  
「――――え」  
とさりと、片手に持った鞄が路上に落ちた。どくん、と心臓が高鳴る。  
いつもとは逆に、浜面仕上が待っていた。  
男は塀に背中を預けて、目の前の道路をぼんやりと眺めていた。手には冷たくなったコーヒー缶を持っている。  
いつからそこで待っていたのだろう。一時間以上もそこにいたのだろうか。休むかもしれなかったのに。  
ふと、浜面が麦野のほうに顔を向けた。彼女の存在を察したのではなく、数分ごとに繰り返している機械的な動作だった。  
それがやっと目的の人間を捉えて、お、と目を見開いた。ぐいとコーヒーを飲み干して足元に置く。  
そこでようやく、麦野は我を取り戻した。それまではぽかんと開いた口を、閉じるのを忘れるほど唖然としていた。驚いていたのだ。  
どうしてこんなところに浜面がいるのか。どうしてこの男は、人が会いたくないときに来るのか。どんな顔をすればいいのか。  
我を取り戻したのは、すべきことがあると思い出したからだ。慌てて鞄を拾い、ぎこちなく笑顔を作る。うまく笑えているか、まるで自信がなかった。  
だが、以前の通りに笑わなければならない。  
「お、おはよ、浜面。なに、サボり? そういえばあんた不良だったわね、一応」  
「麦野」  
浜面は無視した。  
麦野に歩み寄り、少し迷ってから、彼女の体を抱きしめた。  
ギプスが胸に当たるごつごつとした感触が。とさりと、鞄が再び路上に落ちた。  
麦野は驚愕のあまり硬直し、浜面が耳元で呟くように  
「っ!?」  
「今まで、すまなかった、麦野。俺でよければ……責任、取らせてくれ」  
そ、れ、は  
それは前日麦野が行った告白に対する  
応諾の返事だった。  
その事実と言葉が麦野の脳に染み渡るのに、しばらくかかった。一秒、二秒と空白が過ぎる。三秒目に意味を理解した彼女は咄嗟に  
「ごふっ!?」  
反射的に浜面を突き飛ばしていた。ごすごすごす、とヘッドバッドを入れ肘を突き刺し肩を叩きつけた。  
たまらず浜面が吹き飛ぶ。体ではなく心の反射だった。  
鼻を押さえてよろよろと起き上がる浜面に、麦野が顔を真っ赤にして捲くし立てる。  
「あ、あ、あんた馬鹿あ!? 何言ってんのよこんな往来の真ん中で、朝っぱらから何やってんのよ!?」  
「あたた……お前こそ人が真面目にやってるのに何格闘技ぶち込んでんだよ」  
「だ、だって……いきなり……」  
 
一瞬前の状態を思い出して、麦野の勢いが失速する。台詞の末尾はごにょごにょと口の中で消えた。  
はっきりと言えば悪い気分ではなかった。いや、嬉しかった。好きな男に抱かれたのだ、嬉しくないはずがない。  
けれど認めるわけにはいかなかった。そうだ、認めるわけにはいかない。  
この男には  
「せ、責任って、あんたには滝壺がいるじゃない! 気でも狂ったの!?」  
「滝壺は……」  
そこでまた、浜面は逡巡した。ただし今度は迷いではなく、痛みを思い出すような仕草だった。  
「滝壺には、振られた」  
「はあっ!?」  
正確には、振られて来た、である。  
前日の教室で、半蔵たちが目撃していた場面。あの時、浜面は滝壺に頼み込んだのだ。  
『頼む、滝壺。俺を……振ってくれ!』  
『……え』  
滝壺を唖然とさせるなど、早々できるものではない。  
そうして浜面は振られた。それは彼の中で区切りをつけるために、必要なことだった。  
振った滝壺の方が理解していたかどうかはまた別の話である。  
そうして麦野にしてみれば  
とうとう、この男の頭が狂ったとしか思えなかった。  
「な……え……だって……」  
そもそも浜面仕上は滝壺理后を好きであり  
そのことは、何度も恋愛相談を受けることで彼女の中で確固としたものとなっており  
自分の恋は決して届かず  
これまでの人生と同じように、これからの人生も一人で生きていくことになるのだと  
そう、諦めようと思ったのに  
いいや。昨日、一晩中泣いて、それでも諦められなかったのに  
こんなのは反則だ。  
「だって……うっ、く……」  
「麦野」  
「うああああああ……」  
往来の真ん中で、とうとう麦野は泣き出した。  
胸の中がぐちゃぐちゃになって、感情が溢れ出したようだった。  
けれども、それは昨日のような後悔と諦念の涙ではない。  
泣きじゃくる麦野を、もう一度浜面が抱き留める。  
今度こそ、抵抗はなかった。  
 
「ばかあ……こんな美人、何度も泣かせるんじゃないわよ……」  
「わりい、色々鈍くて……けど、これからもよろしく頼むわ」  
「うんっ……仕方ないから、付き合ってあげるわよ……」  
 

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