「ねえねえ助手よ、ねえ助手よ。超能力者(レベル5)を倒した無能力者(レベル0)って知ってるかい?」  
「それって第一位を倒したっていう噂のコードそげぶのことですか。市外の組織と提携してハーレム形成してるとか、超絶羨ましい噂の」  
「何それなんでそんなに詳しいの? いやそっちじゃなくてね、私が言っているのは原子崩し(メルトダウナー)を倒した方であって」  
「ああ、地味な方ですか。で、そのワルイージ君がどうかしたんですか」  
「君の言っていることが時々わからないよ。混乱するから以後呼称は統一しよう。えーとたしか、スケベ君だっけ」  
「H君からの勘違いなんでしょうがまた無理矢理ですね。なんとなく的を得てる気もしますが」  
「で、ちょっと理事会周辺の動きを探っていたのだけどさ、猟犬部隊に動きがあったみたいで」  
「待てや博士。一介の研究員が何やってるんですか。下手すると消されますよ?」  
「いやあ、私の貴重な理解者である潮岸氏がなんか大変なことになりそうだって小耳に挟んだものでね。場合によっては身の振り方も考えないと」  
「はあ、如際ないというか用心深いというか……そういえば猟犬部隊って壊滅したって聞いた憶えあるんですが」  
「うん。木ィィィ原くゥゥゥゥゥゥゥゥンが流れ星になっちゃったから。最近やっと再建されたのだけど、例のスケベ君の抹殺命令が下ったみたいでね」  
「え、なんでですか? だってH君はただの無能力者ですよね?」  
「だから超能力者を倒す無能力者が普通なわけないって。きっと何か変態的な技があったに違いないよ、木原くン君みたいに」  
「あれはただの油断と偶然だと思いますけどね。元々隙の多い能力ですし」  
「でも今日の昼間、街中に六枚羽が落ちたよね。あれってスケベ君がやらかしたらしいよ?」  
「ええ、ホントですか? あ、でも確か拳銃で落とせるような構造欠陥があるって軍板で見たような……」  
「スペック的にあんなもの生身で撃墜できるわけないじゃない。馬鹿なの死ぬの? きっとあれだよ、魔法とか使ったのだよ」  
「仮定にしても科学者としてその台詞はどうよ。せめて原石とかさあ」  
「とにかくスケベ君の魔法で猟犬部隊が再度壊滅させられるかもしれないわけで、これは見物だよね!」  
「まさか直に見に行く気ですか? ダメですよそんなの、ばれたら僕までやばいじゃないですか」  
「ちえっ、全くノリの悪い助手だな君は。仕方ない、監視カメラからの映像引っ張ってくるだけで我慢しよう。えーと現在地点は……23学区か」  
 
 
 
原子崩しは平凡の夢を見るか7  
 
 
 
秋が過ぎ、冬が深まり、春が訪れ  
六月、新緑の季節。  
その日は、降水確率0%の晴れ模様だった。やや汗ばむ程度の陽気だが、風の涼しさが心地よい。  
特に用事がなくても思わず外に出たくなるような日である。絶好のデート日和と言えた。  
そんな昼下がり。オープンカフェでの待ち合わせに、時間ぴったりに到着した麦野は  
「いえーい、麦野沈利復活っ!」  
「へぼばっ!?」  
既に待っていた浜面に対して左右のコンビネーションを叩き込んだ。ジャブジャブフックストレート。  
狙いは全て胴体だったが、ひとたまりもなく男が吹っ飛ぶ。どらがっしゃん。  
慌てて店員が飛んできたが、麦野は愛想よく誤魔化してその場を乗り切った。ついでにフルーツパフェを注文する。  
席について鼻歌を口ずさんでいると、浜面がよろよろと席に上がってきた。やけに不満そうではある。  
「お、お前な。出会い頭に何してくれてんだ。人を挨拶代わりにサンドバッグにするのが麦野家の家訓なのかよ?」  
「やあねえ。そんなのあんただけに決まってるじゃない。他の人にするわけないでしょ?」  
「そこはかとなく特別扱いに聞こえるが、まず人権を寄越せ、な?」  
「あはは、ごめんね。やっと腕が自由になったからさ、一度左を試してみたくて」  
「ボクサーかお前は。ま、頑張ったな」  
ぱたぱたと手を振る麦野の左腕には、既にギプスは見当たらない。他の肌に比べて、やや青白いのは長らく日光を浴びていなかったからである。  
麦野が事故に遭ってから既に10ヶ月が経過している。術後の経過は予定より順調に進み、数日前にギプスが外れていた。  
空洞となった右目にも、これを機会に義眼を入れてある。このことは家族とメイドしか知らないことだ。見たところ既に彼女は健常者であるし、周囲にもそのように振舞っている。  
完治の前に、彼女は高校を卒業し地元の大学に進学していた。学力的にはもっと上のランクが適当だったが、地元に残ったのは後遺症その他の事情である。  
事情のうちの一つは、目の前の男だった。折り良く、フルーツパフェが来る。手持ちのシャケフレークを振りかける麦野。  
「はい、浜面。あーんしてよ」  
「おお……って、もう両手使えるじゃねえか!」  
「えー、いいじゃない。今までずっとやってくれてたんだし」  
「お前な、公衆の面前であーんとか俺がどれだけ恥ずかしかったと思ってるんだよ」  
片腕不自由という理由があったとはいえ、当然のように周囲からはバカップルとして扱われていた。  
浜面と麦野の交際は続いている。  
豚に真珠だとか、美女と野獣だとか、割れ鍋に綴じ蓋だとか、色々揶揄されている二人であったが意外なことに順調である。  
「ぶー、浜面のけち。減るもんじゃないでしょ」  
「いや俺の羞恥心とかプライドとか世間体とかがすごい勢いで減るっての」  
「え、なに、まだそんなもの残ってたの? ていうか、彼氏彼女なんだから一体誰に気兼ねしないといけないのよ」  
「そりゃそうだけどよ……いや羞恥心は残ってるからな?」  
あーんを断られて口を尖らせる麦野に、歯切れ悪く言いよどむ浜面。  
恋人としての二人の関係は基本的に、甘える麦野に振り回される浜面という構図が多かった。以前の二人を知る人間なら目を剥いただろう。  
浜面に恋人がいること自体もそうだが、それ以上に麦野のキャラが変わりすぎである。頼りがいのあるお姉さん風だったのが、彼氏にデレデレするだけの女子大生になっている。  
受験と進学で、こうしてゆっくり会えるのは一週間に一回程度になっていたが、特に仲が冷めるようなことはなかった。以前のような気安い友人関係も一部に残っている。  
「ところで最近はどう? 新入部員は誰か入った?」  
「いや、それが全然でよ。このままじゃ廃部食らうし、せめて幽霊部員集めないとな」  
「だから私の家で練習すればいいじゃない。防音室もあるし、私も参加できるし。鍵預けたでしょ? 勝手に入っていいからさ」  
「いやいや、そんなあっさり廃部にはできねえって。せっかく旦那が作ってくれたんだからよ」  
卒業に伴い駒場と麦野が抜けて、バンド『スキルアウト』は再び存亡の危機にあった。新年度になれば入部希望者が入るだろうという楽観論は既に頓挫している。  
割と近辺ではいい感じだったと思うのだが、やはり地方ローカルバンドの実態はこんなものか。  
それからしばらく、バンドの事について話し合う。二人の馴れ初めとも言える集まりである。麦野としても気にならないはずがない。  
結局、また今度駒場を交えて話し合うべきという結論になった。地元大学生の麦野はともかく、工務店に就職した駒場とは最近ほとんど会っていない。やはり学生と社会人では生活時間帯が違う。  
 
ふと麦野が話題を変えた。  
「そういえばあんた、文化祭実行委員になったんだって?」  
「げっ、その話どこで!」  
「郭からメール回ってきたわよ。なに、HRサボってて押しつけられでもしたの?」  
「郭の奴に、一緒にやってくれって指名されたんだよ。サボってたのは事実だけどな」  
「あ、そういえば同じクラスになったんだったわね。でも何で郭が?」  
不思議そうに麦野が首を捻る。去年は郭と半蔵が同じクラスだったが、今年は郭と浜面が同じクラスになっていた。  
勿論麦野は、彼女の幼馴染べったりな態度を良く知っている。浮気など疑うべくもないが、純粋に疑問だった。  
「半蔵の奴も実行委員になったからじゃね? あいつ休み時間ごとに半蔵のクラスに飛んで行ってたしな」  
「ああ、なるほどね。それにしても、あの二人って何時になったら付き合うのかしら」  
「あー、どうなんだろな。半蔵の奴は、女としては見れねーなんてこと言ってたけど」  
「そんなのただの逃げじゃない。押し倒しちゃえばいいのに、あの娘も変なところで奥ゆかしいのよね」  
「あれを奥ゆかしいとか表現するのもおかしいしその結論もおかしい」  
スプーンを振りながら知った顔で評する麦野。浜面に告白する前後の有様を考えると、とても人に何かを言えたものではないのだが。  
浜面としては、友の純情は放っておいてやれと言う感じである。かなり望み薄ではあるが、半蔵には狙っている相手もいることだし。  
「で? 郭が半蔵に構ってる間、あんたは一人で仕事を押しつけられてる訳ね。ご苦労様」  
「ん……まあ、そんなところだ」  
「?」  
ねぎらう麦野に対してやや歯切れの悪い浜面。麦野は少しだけ不思議に思ったが、すぐにまあいいかと聞き流した。  
話の合間にぱくついていたシャケ風味パフェが丁度空になる。デートできる日は貴重だ。  
「それじゃそろそろ行きましょ。今日は買い物に付き合ってよ、やっとまともな服に袖が通せるわ」  
「へいへい。お前の買い物長いんだよな。下着売り場だけは勘弁してくれよ」  
「何でも買ってやるぐらい言いなさいよ、仮にも彼氏なんだからさ」  
「お前の方が金持ってるじゃねえか。まあ、ここの払いぐらいは奢ってやっていいけどよ」  
「あーりがと、浜面」  
茶目っ気のある笑顔と共に、麦野が身を乗り出して浜面の頬にキスをする、振りをした。テーブル越しなので実際は届かないが。  
真に受けて、再び席から転がり落ちる浜面。どすんばたん。  
やや過剰な反応に、麦野は唇を尖らせる。  
「なによ、こんな美少女に迫られて転がるなんて、彼氏だったらタイミング合わせて顔出すぐらいしなさいよ」  
「いや、普通よけるだろあれは……まあ行こうぜ。荷物持ちでも何でもするよ」  
そうして二人はデートを開始した。  
ショッピングモールをぶらついて、目に付いたものにけちをつけて、気に入ったものを手にとって、試着して。  
歩き疲れたら露天で適当に飲み物やアイスを買って、道端に座り込んでは下らない話に興じた。  
それはごく普通の男女がするデートだったし、実際二人はごく普通の男女である。  
少し前まで、女の方は眼帯ギプスでやや同情的な視線を引いていたが、今となっては男の方が釣り合っていない。浜面は見た目も中身もただのチンピラである。  
だが麦野が浜面を見限ったり、本格的に文句をつけることはない。その心理は複合的だが、まあ要するにベタ惚れであった。趣味が悪いことこの上ない。  
逆に浜面の方が恋人としては一歩引いたような立場であることが多かった。それは、交際の発端が『責任を取る』という義務的なものから発しているせいかもしれない。  
二人がいまだに、恋人としての一線を越えてないぶっちゃけキス止まりなのは、浜面のそういった遠慮が大きい。  
 
その日も夕方頃になって、麦野邸まで彼女を送った浜面はごく自然に玄関先で別れた。夜中まで恋人の家でごろごろするとか、そういうことはない。  
「今日はありがとね。結構楽しかったわよ」  
「おう、俺もな。けど金があるからって、あんまり買い込むんじゃねえぞ」  
「わかってるわ。今日はまあ、一年ぶりで色々溜まってたのよ」  
玄関先には本日の戦利品がどっさりと積まれている。これを半日持ち歩いた浜面の努力こそ賞賛されるべきだろう。  
麦野家は裕福である。娘も親から充分な額の小遣いを貰っているが、それに振り回されるほど器の小さな人間ではない。  
ただしその器も、目の前の男と一緒にいるとついつい揺れて中身がこぼれ出してしまうらしかった。けれどそんな自分が、彼女は決して嫌いではない。  
ふと会話が途切れる、沈黙。  
麦野はそっと目を閉じ、心持ち体を乗り出す。  
「…………」  
「…………」  
「……じゃ、またな!」  
「……うん」  
口付けはなかった。  
その場の雰囲気を振り払うように、浜面が手を上げてきびすを返す。麦野は心持ち残念そうに後姿を見送った。  
別れ際にキスをするのはデートを締めくくる儀式のようなものだった。中々ステップを進めない麦野からの、精一杯のアプローチでもある。  
それを今日は、避けられた。そういえばデートの最中も全体的に、恋人としてのスキンシップからはやや距離を置きがちだったかもしれない。  
(……ま、いいか。時間はたっぷりあるんだし、焦らず行けば)  
麦野は焦っていない。  
あの日、交際のきっかけとなった言葉が同情から出たものだとしても、それは自分の努力次第でいずれ本物の好意となるのだと信じている。  
今の彼女は、人生をひどく前向きに捉えていた。これが幸せというのかもしれない。  
周囲から期待され、その期待に応えられず見捨てられてきた彼女が、やっと自分自身で欲しいと思えたもの。  
陳腐なものだが、それは居場所だ。ありのままの自分を認めてくれる場所。肩肘を張らずとも、背中を預けて甘えさせてくれる相手。麦野沈利が周囲の期待する麦野沈利でなくなったのだとしても、変わらず接してくれる誰か。  
かつて妹が言っていた『浜面程度が似合いだ』という言葉も、今となっては苦笑混じりに受け入れることができた。  
それは堕落なのかもしれなかったが、元々彼女には確たる目標など無い。ただ優秀に生まれつき、自尊心を持たざるを得なかっただけの人間だ。  
少なくとも今の自分を、彼女は結構気に入っていた。  
――――と  
『核融合炉にさ〜、飛び込んでみたら〜♪』  
軽快なメロディと共に麦野の携帯がワンフレーズだけ鳴った。メールだ。  
いい気分のところを邪魔されて、ちょっと不機嫌になりながら片手で携帯を開く。メロディの設定からして家族や浜面ではない。  
では誰かというと、滝壺理后からだった。  
?  
夏休み明けから、麦野が女子グループから外されていくに従って、彼女と話す機会は失われていった。  
というか、元々頻繁にやりとりしていたわけではない。メールなど、麦野にボーカルを頼んだあの時以来ではないだろうか。  
勿論浜面からは滝壺絡みで幾度も相談を受けてはいたが、彼女本人とは夏休み以降殆ど話していない。卒業してからは尚更だ。  
まるで、随分前に卒業した母校から同窓会の誘いが来たような感覚。  
一体何の用件なんだろうと、麦野が首を捻りながらメールを開き  
「……え」  
貼付された写真を見て、ぽかんと口を開けた。  
 
その前日。  
土曜の放課後、浜面は人気のない廊下で大量のプリントを抱えてひいひいと歩いていた。  
「くっそあの女……ちょっと考え事してたぐらいでこれかよ。生徒会長だからっていい気になりやがって」  
原因は、一時間前まで三年の教室で行われていた文化祭実行委員会である。  
郭に推薦されて委員となった浜面だったが、元々付き合いであってやる気はなかった。  
今の浜面にとって大事なのは翌日のデートであり、このままでは廃部を免れないバンドの現状である。委員会など聞いていない。  
もっとも郭の方も『これで半蔵様と一緒にいられるいやっふう!』という調子だったのでやる気がないのはお互い様だ。実際に委員会の最中は他の目を盗んで雑談ばかりしていた。  
やる気がない委員二名は必然的に文化祭の足を引っ張るはずだったが、そうはさせないのが仕切屋の生徒会長である。  
会議が終わった後、三人を呼び出してどさりと生徒会の雑用を押しつけたのだ。半蔵はとんだとばっちりだろう。  
とはいえ、その仕事の大部分が文化祭配布プリントのコピーやら、去年文化祭に対するアンケートまとめだったので、けして無関係でもない。  
半蔵の片割れ委員も合わせて四人でついさっきまでそんな雑用をこなしていたのだった。  
浜面が今抱えているプリントを、生徒会室に置いていけば終わりである。  
「ああ、にしても腹減ったなあ、ちくしょう」  
空き腹を抱えて廊下を歩く。昼食抜きで作業していたのもすこぶる機嫌が悪い一因である。  
生徒会室に辿り着いた浜面は膝でごんごんと扉を叩いた。しばらくして生徒会長が顔を出す。部屋には彼女一人のようだった。  
「お疲れ。今度からしっかり参加しなさいよね」  
「あーはいはい。んで、どこに置けばいいんだ」  
「手前の机に置いて頂戴」  
にやにやと笑う生徒会長に腹を立てながら、どさりとプリントの束を降ろす。確かに会議を聞いてなかったのは失態だが、それだけで二時間も雑用を押しつけられてはたまらない。  
ともあれこれで終わりだ。腰を伸ばしてから文句を言うため振り返ると、ふと生徒会長がトーンを変えて声をかけてきた。  
「ところであなた、麦野と付き合ってるんだって?」  
「へ? いやまあそうだけど。知り合いか?」  
「まあちょっとした、ね。それで最近どうなのよ、麦野は。元気にしてる?」  
「元気も元気。もうすぐギプスが外れるから、人を殴りたくてうずうずしてるぜ」  
「ふうん……そっか」  
つまらなそうに呟く生徒会長だったが、僅かに息をついたのを浜面は見逃さなかった。なんてことはない、麦野の身を案じていたのだ。  
会話はそれきりで浜面は生徒会室を追い出されたが、雑用を押し付けられた憤懣はいくらか収まっていた。  
廊下を歩きながら思うのは麦野のことである。  
(あいつは、俺しかいないなんて漏らしてたけど。結構、人と繋がってるんだな)  
事故をきっかけに女子グループから外され、浜面べったりになった麦野だが。  
彼が知るだけでも金髪碧眼の妹、腕っ節の強いメイド、仕切り屋の生徒会長、そしてバンドメンバーは、形はどうあれ麦野のことを心配していた。  
それは人徳というものではないだろうか。  
交際をはじめてから半年。折につけ砕けた話をするうちに浜面は、彼女には多分に自虐的な部分があることに気付いていた。  
両親に見限られ、妹に憎まれ、友をなくし、誇れるものもなく、だからこんな場所に落ち着いているのだと。  
こんな自分を相手にしてくれるのは浜面しかいないのだと、そんなことを言うときもあった。  
だけどそれは違うだろう。  
麦野沈利を心配する人間はまだ何人もいるし、浜面はその内の一人でしかない。  
壊れかけていた彼女をどうしても放っておけなくて、いわば責任感で交際を始めたが  
麦野が周りの関係に気付けば、その『応急処置』も不要になるだろう、と。  
「……それはそれとして腹減ったぜえー」  
物思いに耽っても空腹は膨れない。明日のデートのためにもあまり無駄遣いはできなかったが、残業仲間と一緒に安めの買い食いでもしていくか。  
そう考えながら作業をしていた教室に戻ると、待っているのは三人ではなく一人だけだった。  
「ああ? 半蔵と郭の奴、もう帰ったのかよ。薄情な奴等だな」  
「帰りにラーメン食べるって、言ってた。はまづらに、よろしくって」  
「郭の奴、絶対これ狙ってたな。ああ畜生、腹減った」  
「お弁当、あるけど、食べる?」  
「マジ!? 食う食う」  
即座に食いついた浜面に、餌を見せつけるように滝壺が弁当箱を取り出す。  
そう、半蔵と同じクラスの実行委員は滝壺理后だった。  
 
特に不思議はないのかもしれない。彼女はいかにもクラスの面倒ごとを押しつけられそうな人間だし、浜面達三人と比べればよほどそれらしい。  
浜面と滝壺は随分話していなかった。  
麦野と交際を始めてから、浜面はそれまでのアプローチを全て取りやめ、極力普通に接するようにしていた。彼女持ちになったのだから当然である。  
だが、それまで惚れていた女に突然普通に接するなど無理がある。どうしてもぎくしゃくとした会話になってしまい、次第に話す機会は減っていく。  
学年が上がって違うクラスになったこともあり、最近は顔を合わすことさえなかった。  
委員会で再会しての会話も最初はやや不自然だったが、半蔵や郭を交えて作業している内に、自然と言葉を交わせるようになっていた。  
二人は勝手に帰ってしまったが、それでも普通に話せている。それはきっと喜ぶべき事だ。  
ともあれ、机を挟んで滝壺の持参した弁当をぱくつく。やや大きめの箱の中に、食べやすいサイズに握られたおにぎりが並んでいる。一人分には大分多い。  
付け合わせは漬け物。塩気の効いた米に浜面は舌鼓を打った。  
「やっべうめえ、まじうまい。こういう時はシンプルイズベストだな。滝壺料理うまいな」  
「これくらいなら、誰でも、できると思う」  
はむはむと、両手で一つのおにぎりをかじる麦野。口元を隠すような食べ方は、兎かリスに似ている。  
その仕草の中にリラックスしたものを感じ取って浜面は安堵した。以前のように話さなくなってから半年。彼女の性格からして一人で難儀しているのではないかと心配したが、杞憂だったようだ。  
彼女ができたとしてもかつて惚れていた相手である。胸に支えていたものが一つ、取れたようだった。  
「むぎのは、ごはん、作ってくれるの?」  
「いや、あいつ片腕ギプスじゃん。本人曰く、結構な腕前らしいけどな。時々悔しがってるぜ」  
「悔しがる?」  
「ああ。一緒に外食したと気にさ、自分で作ればもっとうまいもん食わせられるってさ」  
「むぎのらしい」  
浜面と麦野の交際は周囲の人間は大抵知っていた。もちろん、滝壺も。  
けれどそのことを彼女から言及したことはなかった。あの日、わざわざ頼み込んで『振られた』ことについても。  
「そっちはどうだ? 友達とかできたか?」  
「ううん」  
「女子連中は? まさかハブにされたりしてないだろうな」  
「よくしてくれている。でもやっぱり、あの子たちといると、少し疲れる」  
「あー、かもな。なんだかんだ言ってあいつらうるさいし、話も合わなそうだしな」  
「うん」  
「んじゃ半蔵、つってもあいつは男だしな。しかも厄介なオプションまでついてくるし……どうしたもんかな」  
「私は」  
ふと、滝壺がおにぎりを下ろして目を細めた。  
心の底からリラックスするように。今、この瞬間を何かに感謝するように。  
昼下がり、ゆったりとした時間の流れる教室で、半年振りに二人で過ごして  
「私は、やっぱり、はまづらと一緒にいる時が、一番いい」  
「……」  
沈黙。  
滝壺は再び両手で持ったおにぎりに、はむと噛みつく。釣られて浜面も食事を再開する。  
しばらく無言の時間が流れた。何かがすれ違っているような、微妙な空気。  
浜面は旺盛な食欲を発揮して、八個の内六個のおにぎりを完食していた。滝壺は二個。小食な彼女にはそれで充分らしい。  
滝壺が弁当箱を仕舞い、浜面は水筒のお茶を啜る。  
沈黙を破ったのは滝壺だった。  
「はまづら」  
「……ん」  
「どうして、むぎのなの?」  
どうして、と。  
滝壺は静かな視線で、真っ直ぐに浜面を見る。まるで心の中を覗き込むような静謐さ。  
その答えは、言ってしまえば同情である。  
壊れかけて自分を頼る麦野をどうしても見捨てられなかった。責任を取る方法はこれしかないと思った。  
恋愛感情はなかった。今は、彼女に対しても愛情めいたものはあるが、少なくとも交際を開始したのは同情と責任感である。  
それを、言えなかった。  
麦野を侮辱することになる、それもある。  
だが、それより今は、目の前の滝壺がそれを言わせなかった。  
「あの時、はまづらは、私に振ってくれって、頼んだよね」  
「……ああ」  
「私は、意味がわからなくて、はまづらのお願い通りにしたけれど。意味を知っていたら、絶対に頷かなかったと、思う」  
滝壺は、じっと浜面の目を覗き込んでいる。  
思えば当時  
滝壺に対して果敢にアタックする浜面に対して、友人達は相手に脈はないと口を揃え  
浜面自身も抗弁しながら、何となくその評価を受け入れていた、が  
本当に、そうだったのか。  
もしも、そうでなかったなら。  
 
「はまづら、写真、撮っていい?」  
「へ? 写真?」  
ふと、滝壺が視線を外して話題を変えた。微妙な空気が、若干軽くなる。  
けれど、写真?  
滝壺が疑問に答えるよう、鞄から手の平大のデジタルカメラを取り出した。滝壺とデジカメ、不自然な組み合わせである。  
デジカメには学校名のシールが大きく張られている。どうやら高校の備品らしい。  
「文化祭、撮る用。委員に渡されてる」  
「いやいやけど文化祭なんてまだ始まってないだろ?」  
「準備も含む。これも立派な、文化祭の思い出」  
「委員会をサボって押し付けられた雑用がか?」  
「うん」  
デジカメを手にじっと見つめてくる滝壺を相手に、浜面は一瞬躊躇した。  
飯まで食わせてもらったのだ。写真の一枚ぐらい快く撮らせるべきだろう。大体滝壺は友人だ。  
けれど一種の後ろめたさもあった。これは麦野に対する裏切りではないだろうか。  
何故なら、浜面は嬉しかったからだ。  
半年振りに再会して、話をして、一緒に作業をして、弁当を食べて。  
一緒にいると安心できると言われて、嬉しかったのだ。  
その喜びは、好意から発生するものだった。  
やはりまだ、浜面仕上は滝壺理后を好きなのだ。  
半年経過して弱まっていたが、そういう気持ちがまだ残っていたのだ。  
それを抱いたまま写真を撮ることは、恋人へ裏切りになるのではないだろうか、と。  
浜面は一瞬だけ迷ってから頷いた。  
「ああ、いいぜ。んじゃ撮るか」  
「ごめんなさい」  
席を立って二人並ぶ。背景はなんてことのない教室。写るのは二人のみ。  
滝壺が慣れない手つきでデジカメの設定をして、もたもたと前の机に置いて位置を調整する。その仕草に和む浜面。  
(俺ばっかり変に意識して、滝壺はいつも通りなんだよなあ。友達もいないみたいだし、これからは声かけてやらないと)  
どうしようもない。  
タイマーと角度を調整した滝壺がとことこと戻ってくる。  
浜面の横に収まる。背丈は頭半分ほども違う。  
ぐい、と袖を引かれた。  
ん? と浜面が横を見下ろす。  
それに合わせて、滝壺は浜面にキスをした。  
「――――」  
「――――」  
不意打ちだった。  
背伸びをし、両手で袖を掴み、瞼を閉じ、無心に口付けをする滝壺。  
目を見開き、驚愕に硬直する浜面。  
既視感。浜面仕上が女性から一方的にキスをされるのはこれで二人目である。へたれにも程がある。  
カシャリと、デジカメから合成音が響いた。  
滝壺が背伸びをやめて唇を離し、瞼を開く。その瞳はひどく潤んでいた。  
浜面の体に縋りついたまま、囁く。  
 
「ねえ、はまづら。兔は寂しいと、死んじゃうんだよ」  
 
「私も、すごく、寂しかったんだよ……?」  
 

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