「あれ」
「どうかしたかね」
「えーと……この子、意識は無いんですよね?」
「そりゃそうだろう。寝ぼけてレベル5を振り回されたらたまったものじゃないし」
「けど、ほら、笑ってませんか?」
「ん? ふむ。リラックスのために脳波を調整してるからね。適当な感情が刺激されてるんじゃないのかな」
「なるほど。でも、なんだか……楽しい夢でも見ているみたいですね」
原子崩しは平凡の夢を見るか
とある高校の昼休み。
さんさんと健康的な日の差す屋上で、陰気な男子三人がコンクリートに胡坐をかいて顔を突き合わせていた。
面子はゴリラのような大男とバンダナを巻いた痩身の少年とアホな不良である。それぞれ、駒場利徳、半蔵、浜面仕上という。
彼らは安い菓子パンと紙パックのジュースで昼食を取りながら何事か相談していた。本来立ち入り禁止の場所であり、他に人影は無い。
見たところ不良が固まって下らないことを話し合っているようであり、実際そんな感じである。
ただ、他人にとってはどうでも良くても、彼らにとっては深刻な悩みではあった。
「というわけでボーカルが抜けたわけだが」
「くそ、あの野郎! ちょっと嫌がらせしたぐらいで抜けやがって」
「……どう考えてもお前が悪いだろう、少しは反省しろ……」
ぐわし、と駒場の分厚い手のひらが浜面をアイアンクローした。うおおお、旦那ギブギブ!と浜面が悲鳴を上げる。
それは彼らが集まってやっている小規模なバンドの話題だった。ちなみにバンド名は『スキルアウト』という。
技量も人気も学生バンドの域を出てはいない。駒場がドラム、半蔵がベース、浜面がギター、そしてもう一人ボーカルがいたのだが。
「だってよ、バンドってのはチームワーク、つまり栄誉も負担もみんなで分かち合うもんだろ? だのになんであいつ一人がファンを独り占めなんだよ!」
「そりゃお前、イケメンだからだろ。まさに掃き溜めに鶴だったしな」
「……まあ、世の中の評価などそんなものだ……」
「しかも一人だけ彼女いるくせにモテまくりやがるし! 何が許せねえってそれが一番許せねえ!」
「結局私怨かよ」
「……醜いな……」
青空に向かって絶叫する浜面を蔑んだ目で見る半蔵と駒場。とはいえモテないトリオの一員としてその気持ちは痛いほどわかった。
それに免じて半蔵がまあまあ、と場を収める。
「まあ、垣根も元々助っ人みたいなものだったからな。ここらできちっと新ボーカル決めようぜ」
「……そうだな、過ぎたことにこだわっていても、始まらん……」
「おいおいおい」
許されたことをいいことに、やたら調子に乗った顔をして、浜面が親指で自分を指差した。くい。
「俺がギター兼ボーカルになればいいんじゃね?」
「うわお浜面、お前そこまで必死だとむしろ感心するぜ。間違いなく女子には引かれるだろうけど」
「……ギターで手一杯のお前に、そこまでの技量は無いだろう……」
「くそう、俺だって、俺だってたまにはもてたっていいだろっ!」
恒例の醜いやり取り。
浜面の妄想はさておいて、実際のところもう一人メンバーを用立てないといけない火急の事情もあった。
彼らのバンドは学校の同好会という体裁をとっているが、同好会として必要な人数は五名である。
この場にいない雑用の一名を入れて現在四名。幽霊でも何でも連れてこないと、生徒会によって割り当てられた部屋から追い出される。
というか、既に追い出されたからこそ彼らは屋上で相談しているのだった。鬼の風紀委員に抵抗は無意味である。このままでは練習すらできない。
「そういや半蔵。お前の彼女って歌えねえのか?」
「は? 誰だよそれ」
「……郭のことを言っているのだと思うが……」
「ふっざけんななんであいつが彼女なんだよ! 奴はただの幼馴染だ!」
突然ヒートアップする半蔵。突き放した態度が持ち味の少年なのだが、何か琴線に触れるものがあったらしい。浜面ですら引いている。
「わ、わりいわりい。だ、だってなあ、旦那」
「……まあ、バンドの雑務もよくやってくれているし、甲斐甲斐しく世話をしているし、なにやら半蔵には様付けだしな……」
「おはようからお休みまで全自動でついて回るのはストーカーって言うんだよ。大体俺は黄泉川センセ一筋だ!」
「趣味悪っ! つうか、巨乳はどっちも同じじゃねえか。いったい何が不満なんだ少し分けろ」
「……浜面、最後に本音が駄々漏れているぞ……」
乳しか見てない男、浜面仕上である。
変な方向にトリップした半蔵はしばらく体育教師の黄泉川愛穂の良さを語り続けたが、二人は全く興味の無い話題なので適当に聞き流した。
それどころか半蔵の菓子パンを拝借して勝手に食べたりする。友達甲斐万歳。
しばらくして落ち着いた半蔵に、浜面はさりげなく確認してみる。
「で、結局郭ちゃんはボーカルとして使い物になりそうなのか?」
「ジャイアンレベルだな」
ダメじゃん。
勝手に菓子パンを食われたことに気づいた半蔵を中心に、恒例の醜いやり取りを繰り返す。まるで成長していない。
「……とにかく、ボーカルは必要だ。誰か当てはあるか……」
「それで思ったんだけど、やっぱりなんだかんだ言って、ボーカルはバンドの顔だろ? ぶっちゃけ、うちのバンドの人気も8割垣根のおかげだったと思うんだよ」
「おいおいおいおい、じゃあ俺のテクニックはどれくらいなんだよ?」
「あーと……−1割ぐらいか?」
「マイナス要素かよ! つーかまたイケメン入れたら人気独り占めじゃねえか却下だ却下!」
「……浜面、だから少しは反省しろと……」
「いだだだだだっ、ギブギブギブっ!」
がっちりと頭を掴まれてみっともなく手足をばたつかせる浜面。
こういう様を見ていると、彼女なんて夢のまた夢だと確信できる。
とはいえ、半蔵としても今回と同じことの繰り返しは避けたかった。
「まあ、チームワークのためにも浜面の意見を取り入れるのはやぶさかじゃない」
「え、まじ?」
「……しかしボーカルはバンドの顔だと言ったのはお前だろう。それは、どうするのだ……」
「ああ、わかってるって旦那。あるぜ。二つの問題を一度に解決する妙案がな」
得意気に人差し指を立てる半蔵。
「美女をボーカルにすればいいだろ?」
おお、と浜面が感心したように手を叩き
ふう、と駒場が呆れたようにため息をついた。
「それだ半蔵お前天才! やっぱ男4人なんてむさいのは今時流行らねえよな! そして生まれる紅一点とのラブロマンス!」
「だよな!」
がっちりと互いの腕をクロスさせるバカ×2
「……ただでさえ当てがないのに、わざわざ自分から難度を上昇させてどうする。俺達に女子の知り合いなど……」
「悲しいこと言うなよ旦那」
「そうだそうだ。それに、俺は黄泉川センセを誘う気だぜ?」
「ぶはっ!? てめえどんだけ勇者だよ! 教師誘うってのもダメだがあの脳筋に歌とかできるわけねえだろ!」
「てめえ俺の黄泉川センセを馬鹿にするんじゃねえ! じゃあお前は誰なんだよ」
「俺か? そりゃ俺の滝壺に決まってるだろ」
「え、お前まだあの娘狙ってたのかよ。やめとけやめとけ、世界が違う」
「何でクラスメイト誘うのにそんなこと言われなくちゃならねーんだ。てめえの方こそ教師狙いとか、よほど無理があるじゃねえか」
「……というか、声を出して歌えるような女子には思えないだけではないか……?」
「いいじゃねえかよ。じゃあこうしようぜ。それぞれ当てを当たってみて、放課後また集まって結果報告で」
「ああ、いいぜ。男半蔵、当たって砕けろだ」
「……何故、そこまで自信満々なのか。というか、俺も女子に声をかけねばならないのか……」
半蔵と浜面はまじまじと駒場を見直す。岩のような顔、分厚い手、ゴリラのような体躯。
小学生にはリアル着包みとしてむしろ人気だが、それ以上となると下手すれば逃げられる悲劇である。本人は気は優しくて力持ちの典型なのだが。
示し合わせたように半蔵と浜面が頷き、駒場の肩をぽんと叩く。
「まあ、旦那はいいんじゃね?」
「だな、大体趣味がロリコンだしな」
次の瞬間、駒場の分厚い拳が二人を吹っ飛ばした。
放課後。
駒場が屋上の鉄扉を開けると、男二人がorzの体勢で蹲っていた。言うまでも無く半蔵と浜面である。
「ちくしょう、笑って拒否られたぜ……反射的に笑って返しちまった自分に腹が立つ……」
「まだいいじゃねえか。俺なんて一言も返してくれなかったんだぜ。ちょっとしつこくしたら周りの女子に追い返されるしよ」
どうやら盛大に玉砕したらしい。当然予想された結果だった。
この馬鹿二名をどうしたものかと駒場は思案したが、後ろから小突かれて脇にどいた。
屋上に出てきた四人目は、あら、と状況を察すると。蹲る二人をサッカーボール風に蹴っ飛ばした。
「ぐはっ!」
「げぼっ!」
「ちょっとちょっとお、せっかく私が来てやったのに何辛気臭い空気出してんのよ」
ごろごろと屋上を転がった二人のうち、浜面が自分を蹴り飛ばした相手を見上げる。
日の光を背に、両手を腰に当てて、無意味に偉そうに踏ん反り返っているのは、彼も知った相手だった。
「げえっ、麦野っ!」
「やっほー、浜面。相変わらず不景気な面してるわね」
「て、てめえ一体何しにきやがった!」
「何ってあんたね、バンドで人が減って困ってるんじゃなかったの?」
「ああそりゃそうだが……って、まさかてめえが旦那の呼んできた助っ人か!?」
浜面が嘘だと言ってくれ的な視線で駒場を見る。
とはいえ彼も無言で肩をすくめるだけだった。同じクラスとはいえほとんど会話したこともない。声をかけてきたのは麦野からである。
浜面と麦野の間に面識があったのは、以前に接触する機会があり、以降不倶戴天の間柄が続いていたからだ。
常に女子のリーダーシップを取る彼女と、アホな不良の浜面では対極というにも器が違う。性格的にも相性最悪だし。
そんな彼女が一体どうして、浜面のいるバンドのボーカルなど引き受けようというのか。
「んー、なんか滝壺から、あんたに協力してくれってメールが来てたのよね」
「え、マジ? おお滝壺、俺の愛が通じていたんだなー!」
立ち上がって両手を突き上げ、青空に向かって絶叫する浜面を、何こいつマジキモいという視線で見やる麦野。
「何こいつマジキモいんだけど?」
というか言っている。
滝壺理后と麦野沈利の間柄は、やや複雑なものだった。ただ少なくとも現状は、麦野がリーダー格を務める女子グループの一員ではある。
なので滝壺の頼みで麦野が動いたとしても特に不思議ではない。駒場についてきたのは道案内程度であろう。
とはいえ確認しなければいけないこともいくつかある。復活した半蔵が聞いてみた。
「つうか、麦野さんは歌どうなの、上手いの?」
「カラオケとかじゃ、かなり点数取ってるけどねえ。ま、百言は一聞にしかずってことで」
言って、麦野は目を閉じて胸元に手を当て、爪先で数歩リズムを取り
歌いだした。
曲は先週発売されたJPOP。伴奏も無く風の強い屋上はお世辞にも良い環境とはいえなかったが
それでも彼女の、伸びのある歌声は三人の観客の耳を通して心に届いた。爪先は完全にメロディをなぞり、幻聴を覚えるほど。
目を閉じて歌っている最中の麦野は、普段の勝気な態度さえ忘れるのならまるで女神のようだった。駒場ですら、ぽかんとしてその姿に見入る。
きっちり歌い終えた後の余韻まで済ませた彼女は、そこで再び切り替えるように自慢げな笑顔を取り戻した。にっと。
「どう?」
「……技量は充分のようだな……」
浜面ですら文句のつけようが無かった。かろうじて駒場がそう評しただけだ。
半蔵の頭の中でかちかちと計算が働く。麦野の容姿、声、技量、人気、どれをとっても抜けた穴を埋めるに余りある。
ただし同じ轍を踏んではならない。浜面といがみ合うのは目に見えているのだし、そもそも彼女は自分たちのような人種を毛嫌いしているはずだったのでは。
「でもいいのか? 俺たちみたいなのと一緒にいたら、麦野さんのイメージダウンにならね?」
「おいおい半蔵何下手に出てるんだよ! こんな奴のイメージなんぞどうせ猫被ってるだけなんだからげぶっ!」
麦野がローキックからの流れるようなコンビネーションで浜面を吹っ飛ばした。打撃系格闘技をかじってる動きである。
ふあさ、と髪をかきあげる彼女。
「ま、ちょっとした借りがあるしね。それに、他人がケチをつけれないぐらい見事にやればいいだけでしょ?」
何一つとして失敗する要素は無いとばかりに、麦野沈利は不敵に笑った。
麦野沈利と滝壺理后は、かつていじめる側といじめられる側の関係だった。
滝壺の協調性の無さと奇矯な言動、そして陰気な雰囲気はそういう対象となるには充分な素質だった。
とはいえ直接の面識があったわけではない。麦野が三年、滝壺が一年で学年すら違うのだから(ちなみに半蔵と浜面は一年、駒場は三年)
麦野をリーダー格とする女子グループの一年生が、滝壺に目をつけて陰湿ないじめを行っていたというだけである。
ただ、麦野はそのことを知っていたし、取り立てて止めようと思わなかった。
そんなのは人が集まる以上『よくあること』なのだと割り切っていたし、その認識は滝壺ですら同じだっただろう。
ただ、ある時、それについて文句をつけにきた馬鹿がいた。
その馬鹿は、取り巻きをつれた麦野のところに真正面から乗り込んできて、麦野にパンチを食らわせ、反撃でリンチにされた。
それが麦野と浜面の縁である。
浜面とて『よくあること』に対して正義感を燃やしたわけではない。何しろ彼は不良の類である。単に滝壺に惚れただけだ。
それから色々あり、麦野は滝壺に頭を下げ、いじめの首謀者をグループから外し、代わりに滝壺を入れて庇護した。
浜面の方はといえば、女子全体からも毛虫のように扱われ、滝壺にすら満足にアプローチをかけられなくなった。だが、そのことを後悔はしてはいない。
そうして、麦野沈利と浜面仕上の間柄はずっと険悪なままだった。
「で、どういう風の吹き回しなんだよ、これは」
それからしばらく経ち、日が暮れ始めた頃。胡乱な顔をして浜面は問いかけた。
屋上では冷たい風が吹き始めている。問いかけられた麦野は、そ知らぬ顔でスカートを抑え、夕日を眺めていた。
駒場と半蔵は既にいなくなっていた。ある意味で気を利かせたというか、個人的なわだかまりは解決しておけという男同士の呼吸である。
浜面と麦野の間に確執があることは、彼らを知る人間なら誰でも承知のことであり、それは勿論浜面自身も含まれる。
なので、麦野がこの場にいることに、最も懐疑的なのは浜面だった。
「言ったでしょ。滝壺から頼まれたんだって。まだ借りが残ってるしね」
「借りってあれか、イジメの件か」
「そ」
「それもさ、納得いかねえんだが。なんで滝壺がお前らのグループに入ってんだよ? お前らイジめてた側だろ?」
「女子には色々あんのよ。納得しときなさい」
「できねえよ! おかげで俺は、助けようとした相手に梯子外された状態じゃねえか!」
「そこは嘘でも『滝壺が幸せなら俺はそれでいいんだ』とでも言っておきなさいよ、決まんない男ね」
所詮浜面である。スケベな彼としては女子に毛虫扱いされるのは大ダメージらしかった。
「で、俺の滝壺はどうなんだ?」
「話してみると結構面白いわよ、不思議ちゃん系としてならやっていけるんじゃないかしら」
「あれはどう考えても天然だろ。まあ、それならいいけどよ……あ、俺のことなんか言ってなかったか?」
「さあ? 聞いた覚えないわね」
「ちくしょおおおお!」
夕日に向かって吼える浜面。俺の滝壺とか普段から言っておきながら、現実は非情である。
麦野は頬を掻きながらその様子を眺めていたが、ふと聞いてみた。
「ところであんたって、滝壺のどこがいいの?」
「聞きたいのかよ。しかたねえな。そう、あれはまだ桜の残る季節だった」
「ちょっとちょっと、あんたのキモイ体験談なんか聞きたくないのよ。結論から話なさいよ」
「んだとこら! まあいいや……要するにさ。俺みたいな奴相手でも、普通の態度で接してくれたっつうかさ」
茶髪、ピアス、不細工と浜面はどう見ても雑魚チンピラであり、実際やってることも大差ない。麦野の件が無くてもどうせ女子には避けられていた。
ただ単に滝壺が、度を越したマイペースで接しただけの話である。そんな程度で麦野に喧嘩を売ったのだから、馬鹿にも程がある。
案の定、麦野は『はあ?』という顔で溜息をついた。
「なに、私があんたに殴られたのはその程度の理由なわけ? 今度はそこから突き落としていい?」
「死ぬわっ! それにお前が殴られたのは自業自得だろが。自分のチームぐらいきちっとルールを通しとけよ」
「ま、そりゃね。だから滝壺の頼みもこうして聞いてるんじゃない」
つまり、麦野もそれなりに滝壺へしたことに対して負い目を感じていたということか、と浜面は納得した。
でなければ不倶戴天の相手に協力などするはずも無い。ましてや、この女は泥臭さを嫌う性質である。
そう考えれば浜面としても麦野を許さないでもなかった。多少、気安い調子で声をかけてみる。
「にしてもやっぱ意外だな。お前みたいな女はもっとスタイリッシュなのが好みだと思ってたぜ」
「あのさ、私に対するあんたのイメージってどんなものよ」
「えーと、ミーハー女の親玉みたいなげはっ!」
綺麗なフォームでミドルキックが脇腹に入った。くの字に体を折って蹲る浜面。
その際、舞い上がったスカートの隙間からちらりと下着が見えた。うお、白か。予想外。脚線美がすばらしい。
どこか満足そうな顔で脇腹を押さえる浜面を、腰に手を当ててジト目で見下ろす麦野。
「誰がミーハー女よ……っていうかなに、そのそこはかとなく満足げな表情は」
「き、気にすんな。つーかてめえ、俺が答える前に既にキックのフォームに入ってやがったな!」
「どうせろくでもない答えが返ってくるのは確定じゃない」
ま、さておき、と話を戻す。
「確かにダサいのは勘弁だけどさ。それも含めて、私があんたたちを指導すればいいだけじゃない?」
「俺達の方がお前の趣味に合わせろって? 経験者を相手に何様のつもりだ、おい」
「あんたらのバンド見たことあるけどさ、全体の雰囲気と、曲と、歌がちぐはぐなのよ。どっかに合わせなきゃいけないなら、私の方がセンスはいいわ」
「唯我独尊だなあおい! お前が俺たちに合わせろ……ってちょっと待て、ライブに来たことあるのか?」
彼らのバンド『スキルアウト』は弱小である。近所のライブハウスを借りてのライブは、一ヶ月に一度か二度あれば良い方。
チケットを捌ききれなくて自腹を切ることも多い。その場合、ボーカルは抜きにするのが常だった。客の八割は彼目当てで来るのだから。
ぷい、と麦野が顔を背けた。その頬は夕日を抜きにしても赤く染まっている。一瞬訝った浜面だったが、すぐに納得した。
「はっはあ、てめえさては垣根を見に来てやがったな。なんだやっぱりミーハーじゃねえか。残念だったな、奴には彼女がいるんだぜ。なんかいつもドレス着た中学生だが」
浜面が何かを口にできたのはそこまでだった。何故なら麦野のハイキックが側頭部に決まり、意識を外に跳ね飛ばしたからである。
ぱんぱん、と麦野は両手を払って溜息をついた。足元には気絶した浜面が転がっている。
今しがたハイキック一閃で気絶させたのは他でもない彼女である。決まった瞬間に下着が見えたかもしれないが、それは気にしないことにする。
「全く……結局肝心のことは言えなかったじゃない。デリカシー無さ過ぎよ、あんた」
呟きは冷たい風に溶けて消えた。
屋上からは、稜線に沈みかけている夕日が良く見える。
麦野沈利は、別に突然改心したわけではない。
イジメの類は必要悪だと思っているし『よくあること』でしかないと割り切っている。
滝壺に対しても、頭を下げて庇護に入れたことで大部分は帳消しだ。彼女もリーダーとして、リスクを背負って仲間を守っているのだから。
滝壺がそれに対して『ふざけるな』と思うのならば、麦野のグループに入らなければいいだけだ。彼女は別に突然改心したわけではない。
ただ、少し物の見方が変わっただけだ。
「うりうり。ばーかばーか」
とんとん、と屋上に転がった浜面の体を爪先でつつく。反応は無い。
殴られたことで何かが変わったわけではない。ニュータイプじゃあるまいし。
反抗されたことで何かが変わったわけではない。その手の抗争は慣れたものだ。
ただ、惚れた腫れたとかそんな程度で、自分の身も省みずに向かってきた馬鹿は初めて見た。
麦野の信じる、利害と地位を基盤にした人間関係の中では有り得ない馬鹿だった。
結局その馬鹿は、利害と地位を基盤とした人間関係の中でハブにされていった、つまり敗北したわけだが
(ちょっと待ってよ。別に、あんたは間違ってないんじゃないの?)
麦野沈利はそう思う。
惚れた女のために、一切の利害を抜きにして(手段はともあれ)行動する。そういう人間の在り方が、残っていても良いんじゃないのか。
そういう価値観があることに気付いて。そういう価値観が淘汰されていくことに気付いて。
(あんたは間違ってないんだから、もっと堂々としてなさいよ)
でなければ、麦野の感じた正しさはなんだったのか。
このままでは殴られ損だ。腹が立って仕方がない。
だから
「あんたにはまだ借りが残ってんのよ。きっちり返さなきゃ気持ち悪いったらないわ」
よいしょ、と麦野が浜面の上に座る。ぐえ、と男が呻き声を上げた。まだ目は覚めないようだが。
そうして沈み行く夕日を眺める。その色合いは今までとは少し違って、目の奥に染みるようで。
そんな風に感じる自分を、彼女は決して嫌いではなかった。
自然、口の端が上げる。穏やかな笑顔で、麦野沈利は夕日を眺めていた。