今日というのは、ホントに男にとっては一年で一番辛い日だと思う。  
 まぁ世の中には、今日が楽しみで楽しみで仕方ないって奴もいるかもしらん。  
 けれど、少なくとも自分にとってはそんな少数派ではなく、大多数と一緒の……最悪の日。  
 ここは日本なんだから、んな菓子メーカーに踊らされるようなことは馬鹿なんじゃないかと思う。  
 そもそも外国のエラい人の命日だからって、なんで祝わなきゃならんのだ。  
 くだらない。まったくもってくだらない。  
 この科学の街でそんな非科学的な祭事になど、関わる必要はないのである。  
 などと言うことを、机に突っ伏しながら延々と考えている。  
 今の自分がどんな顔をしているのか。  
 ……まぁ、鏡で確認するまでもない。  
 この世の不幸を一身に背負ったような、被害妄想爆発のシケたツラなんだろう。  
 ヤケに苦い唾を飲み込み、大きく息をつく。  
 繰り返す。この科学の街でそんな非科学的な祭事など、関わる必要はないのである。  
 ――だから。  
 
「にゃはははは、なーカミやーん。ついにワイにも遅い春が巡って来たっちゅーわけやなー?」  
 
 まるで盆と正月が一度に来たような晴れ晴れとしたその様子を横目で睨みながら。  
「うっせえ青髪ピアス、いい加減落ち着きやがれ」  
 
 
 まるで覇気のない不景気な声をはき出した。  
 
 
 
学園都市七不思議 その三「おもいびと」  
 
      かいたひと:ことり  
 
 
 
 今日に限って終業のチャイムがやけに耳障りに聞こえる。  
 あの合成音の意味するところはつまり『用のない奴はとっとと帰れ』であり、まさに何の用事もない自分は、寄り道もせずそそくさと帰るばかりである。間違っても校舎裏とかは近づきたくない。  
 放課後こそが一大イベントという奴も校内には何人かいるのだろう。  
 せいぜい頑張ってくれ、と投げやりなエールを送る。  
 人の幸福をうらやんでも仕方ないが、自分の不幸を嘆くぐらいは許されるのではないか。  
 かくして今年も無事、最悪な日は終わりを告げる。  
 あとは早く帰って枕を涙で濡らすのみである。  
 世はなべて平穏、事も無し――とはいえ青髪ピアスまでチョコをもらうとか。  
 明日には世界人類が滅亡してるんじゃないだろうなと不安になる。  
 去年は一緒に肩を並べて男同士の青春を謳歌していたというのに、運命とはまったく皮肉なモノだ。  
「昨日の友は今日の敵、ってな――お?」  
 下駄箱に突っ込んだ手に、妙な感触が走った。  
 いつもどおりに靴をつかむ。  
 慣れた動作であるが故に、いちいち内部を見たりしない――が、明らかに普段と違う重量が手にかかっている。  
 これはつまり、靴がすり替えられているか――または何かが靴の上に乗っているか。  
 不自然の正体を突き止めるために身をかがめ、下駄箱の中をのぞき見る。  
 
 はたしてそこには――  
 
 
「……ありえん。おかしい。理不尽だ。解せぬ……」  
 とぼとぼと歩く帰り道。  
 不景気な言葉をはき続ける自分の片手には、どこかの洋菓子屋のラッピングがされた箱。  
 耳を当ててみたけれど時計の音がチクタクとするとかそういうことはまったく全然無くて。  
 包装をといていないからなんともいえないが、これはやっぱり……そういうことなんだろうか。  
 どれだけ調べても差出人が書いていない。  
 宛先も書いていないから、ひょっとしたら隣の奴の下駄箱と間違えて投函したのかも知れない。  
 そもそも自分が思っているようなモノではなくて、実は超古代の魔導文明の遺品とかなのかも知れない。  
 始末に困る余り、最後の最後に幻想殺しにすがってきた――とかなら話は通……じ、る……  
「……いかん。どーも思考が捻くれまくってる。素直に喜びゃいいんだろうけど――誰からなのかもわかんねーしなー」  
 そもそもまったくといっていいほど心当たりがない。  
 義理のひとつももらえない自分にしてみれば、下駄箱を間違えた、といわれた方がよほどしっくり来るのだ。  
 ラッピングを解けばカードのひとつも入ってるのかも知れないが、色々な思惑が邪魔していまいち踏み切れないでいる。  
 いっそ学校に戻って透視出来る奴に見てもらった方がいいのかも――  
「うわっ!」  
「きゃっ!?」  
 いきなり胸に衝撃を受ける。  
 上の空で歩いていたせいで、急な衝撃になすすべもなく、コンクリートの歩道に尻餅をついた。  
 何事かと思って前を見れば、うちの高校の制服を着た――多分下級生であろう女の子が、自分と似たような格好で地べたに座っていた。  
 いったいどこの少女漫画なんだ、正面衝突してお互い転ぶとか。  
 そんな思考がよぎるが、そんなことよりはすることがある。  
「あー悪い、ごめんな、ちょっと考え事しててさ」  
 とりあえず腰を上げ、左手でズボンを払いながら、右手を差し出す。  
 今時三つ編みにビン底のメガネとか、これまた珍しい出で立ちの娘ではあった。  
 ぱちぱちと何度か瞬きをして、彼女はようやくぶつかって転んだ、という事実に気づいたようだ。  
「え、あ、あ、すいません、私も考え事してて――すいませんでした」  
 そう言うと彼女は一人で立ち上がり、ぱんぽんとスカートのお尻をはたきだした。  
 空しく宙に浮く右手が切ない。  
「あの、ご、ごめんなさい。本当に急いでまして……本当にすいませんでした」  
 眉根を寄せて、すまなそうに少女の唇が動く。  
 ぶつかった拍子に飛んだ、鞄とちいさなラッピングを慌てて手に握って。  
 お互い様だというのに、二度、三度と頭を下げる。  
 ごめんなさい、ともう一度、言葉を残して彼女は走り去っていく。  
 懲りもせずに走る様は、相当に急いでいたようだ。  
「大丈夫かなあの子。あれじゃそのうちまた誰かとぶつか……ん? え? おい!?」  
 ひょいと自分の手荷物を見る。  
 いつもの学校鞄と――ちいさなラッピング。  
 その表面にはデパートの名前と、『片桐先輩へ』と書かれた小さなカードがついていて――  
「ちょっと待て、それ違う! キミのはこっちだって、待てええええぇぇえっ!」  
 
 かくして今年も、この日は最悪に不幸なのであった。  
 
 
 ぜえぜえと息をつく。  
 足にはそれなりに自信があったのだが、一向に追いつく気配がない。  
 あっという間に彼女は視界から消え去り、それ以降ははっきりいってただのカンで追いかけている。  
 すでにどこをどう走ってきたのかすらさだかではない。  
「な、なんつー早さだ……つか包装の色まで違うじゃねーか。これでどうやったら間違えてもってくんだ」  
 一度両膝に手を置き、欠乏気味の酸素を改めて取り込む。  
 無我夢中で追いかけてきたが、落ち着いて周りを見てみると、どうやら隣の学区まで来てしまったようだ。  
 光速超人だかエ○トマンだか知らないが、たいした脚力である。  
 もっともこのへんは居住区とは言い難い。  
 あちこちに廃ビルが建ち並び、注意深く周りを見ればガラの悪い連中がそこかしこにたむろする。  
 彼らが本格活動するにはまだ少し早い時間なのだろうが、場所の雰囲気からしてそういい気はしない風景である。  
 ……道を間違えたんだろうか。いくらなんでもこんな所に彼女がいるとは信じがたい。  
 そもそも多分こっちだろう、と適当に走ってきたに過ぎないのだ。  
 久々に痛恨の思いで空を仰ぎ見る。  
 景気の悪そうなスモッグがビルの合間の四角い空に広がっていた。  
「はぁ……どーすりゃいいんだか……中あけて調べるわけにもいかねぇしなぁ」  
 速度も落ちて、とぼとぼとコンクリートの林を行く。  
 このへんは治安も悪そうだし、いくらなんでもこんなとこにいるわけが――  
「――声?」  
 甲高い女の声がする。  
 聞こえてきた方に目をやれば、そこはビルとビルの間の路地。  
 そんなとこから聞こえてくれば、何が起こっているかは大体予想がつく。  
「……なんでよりにもよって今日なんだよ、上条さんは一日を平穏に過ごしたいだけなんですけど!」  
 口は動けど足も動く。  
 声の聞こえてきた路地を、角のビルに身を隠しながら、中をのぞき見る。  
 見れば案の定、三つ編みビン底メガネの女の子が不良に絡まれていた。  
 ……なんなんだこのベタな展開のオンパレードは。  
 軽く舌打ちしながら、冷静に相手の戦力を見る。  
 彼女に絡んでいるのが二人。後ろでニヤニヤしてるのが四人。路地の入り口側……逃げ道を塞いでいるのが二人。  
 合計八人。  
 かなり苦戦――どころではない。  
 やりあえばまず普通に負けるであろう人数。  
 自慢じゃないがそれほど喧嘩に強いわけでもないのだ。  
 真正面から向かうのは真っ先に却下。  
 とはいえ最優先すべきは彼女の安全であり――包みの速やかな交換だ。  
 いくつかのシナリオを頭に描き、おそらく最善手であろう軌跡を思い浮かべる。  
「――やるっきゃ、ねえかっ――!」  
 
 小さく呟いて、廃ビルの中へと駆け込んだ。  
 
 
「だーからよー、恵まれない俺たちにちょっと愛の手をさしのべてくれねーかなー、なんてよー」  
 下品としか形容の出来ない声。  
 狭い路地には嘲笑じみた笑い声が響く。  
 散らかったゴミがかすかに悪臭を残し、胸の気分を更に悪くする。  
「あ、あの……わた、私本当に急いでるんです、お願いですから、あの、その……」  
 声が出せるだけたいしたもんだ、と思う。  
 まるで借りてきた猫のようにおびえきった彼女は、涙目になりながら壁を背にしていた。  
 ――頃合いか。  
 覚悟を決めて、両腕を振りかぶる。  
 狙いはやや入り口寄り。  
 うまくいってくれよと、歯を食いしばりながら祈る。  
 ピンを抜くと同時に、叩きつけるように放り投げた。  
「おわっ! な、なンだこりゃぁ!?」  
 中身を盛大にまき散らし、古い消火器ががらんがらんと暴れ回る。  
 奥にいる奴らは反応さえしていない。  
 石灰を吹き付けるタイプの消火器は、うまく狙い通りに煙幕の役目を果たし、辺り一面を白い煙に覆ってくれた。  
「くそっ! だれだナメた真似しやがって! 出てこいオラァ!」  
 けほ、けほと、可愛い咳を聞きつけ、全力でそこへ向かう。  
 がし、といきなり捕まれた事に驚かれたが、人差し指を口に当て、静かに、とジェスチャーを送る。  
 あとは身をかがめ、元来た方向へ向かった。  
 いまだ消火器は煙を吐き出している。  
 このまま走って逃げてしまえば、顔も見られていないことだし逃げ切れるだろう。  
 古い廃ビルだから消火器なんてモノが残ってるかどうか怪しかったが、都合良く残っていてくれて良かったと心底思う。  
 路地を出たら全力で左へ曲がって――  
「なにしてんだオメェ。随分面白いことしてくれんじゃねーの」  
 ――ざ、と足が止まる。  
 路地を出たところに、ガラの悪いのが3人、こちらへ寄ってくる。  
 口ぶりから察するにあいつらの仲間、なんだろう。  
 しくじった、と軽く唇をかむ。  
 どうする。後ろの連中もじきにこっちへくる。  
 3人なら何とかならないわけではないが、女の子を守りながらなんて不可能に近い。  
 ぱっぱっと消去法で一つ一つ消していき――最後に残った作戦を実行する。  
 決めたら後は動くだけだ。  
「キミ、これ間違えて持ってったろ。それ俺のなんだ、返してくれる?」  
 目は不良を見据えたまま、後ろの女の子へ話しかける。  
 多少びっくりした様子の彼女は、慌てて包みを見る。  
 差し出された包みと見比べて、ぼっと顔が赤くなった。  
「ん、確かに返したよ。悪いけど、ここからは一人で逃げてくれるかな」  
 会話の内も不良はじりじりと距離をつめてくる。  
 誰からかもわからない贈り物を、大事そうに、窮屈な制服のポケットに詰める。  
 今日もまた帰りは遅くなるかも知れないな、などと思いながら。  
 ふっと息を吐き出し、目の前の三人のうち、左の不良に飛びかかる。そんな行動を想定していなかったのか、多少面食らった風で。  
 都合がいい、と内心ほくそ笑む。  
 右手を大仰に振って、相手の注意を引く。  
 もちろんフェイント。当たり前のように不良はかわすが、引き手の反動を利用して、そのまま左足を踏み込む。  
 自然回り込む形になって、そのまま左肩を突き出すと、バランスを崩した不良に当たって、ダメージもないだろうが軽く倒れ込んだ。  
 
「ほら、いけ!」  
 出口の左側。  
 つまり俺の後ろがあいて、逃げ道ができた。  
 最初からこれが狙い。どうせ二人で逃げ切れやしないんだ。  
 だったら――不幸だけど、これしかねえだろう!  
「え、あ――ご、ごめんなさい、ありがとうございます!」  
 俺が何のために動いたのか、察してくれたのだろう。  
 多少危なっかしい足取りで、ふらつきながら。  
 それでも彼女は後ろを振り返らず、ここを去っていった。  
 この区域を抜けるまでは心配だが、自分に出来るのはここまでだ。  
 願わくば、どうか無事で。  
「くっそ、この野郎、調子に乗ってんじゃねーぞ」  
 尻餅をつかされた不良が、悪態をつきながら立ち上がる。  
 路地奥を見れば、げほげほと咳き込みながら、さっきの連中がぞろぞろと出てきた。  
 ……11人かぁ。  
 いつもなら逃げられるかも知れないが、ここは地理もよくわからない見知らぬ街だ。  
 くわえて立ち位置が悪すぎる。  
 不意を食らった不良達は完全に表情を変えて、慎重ににじり寄ってくる。  
 見れば中にはバタフライナイフを取り出す奴もいた。  
 使い方なんて知らねーんだろうなぁ……また下手な傷作りそうだ。  
 目が覚めたときはまたあの医者のお世話になってるかも知れないな、などとため息をつきながら。  
 一人が振り上げた鉄パイプを、どこか諦めた目で見てた。  
 
 ごん、と衝撃が走る。  
 
 音はまるで地面をふるわせて、さながら地震のようにあたりを揺らした。  
 強い力で吹っ飛ばされた体は軽々と宙を舞い、鈍い音を立ててビル壁へと突き刺さった。  
 そのままがくりとうなだれ、ぴくりとも動かなくなる。  
 一撃で完全に気絶していた。  
 
 ――その『不良の一人』は。  
 
「いけねーなぁ、そんな人数でよってたかって健全な青少年をよぉ。お前らもうちっとプライドってモンを持ったらどうだ?」  
 あまりにも唐突に、飄々と。  
 自分にもよくわからなかった。  
 ただ見えたのは、目の前の長身の男が、ものすごい早さで回し蹴りを放った、『かもしれない』、ということ。  
「……っ、何してくれやがんだテメェ! 俺たちが誰だかわかってやってんのか!?」  
 ドスの効いた声を放たれても、男はまったく動じない。  
 呆れたように息を吐き、わずかに口を開く。  
「……知らねぇよ」  
 片手に持った紙パックをぐいっと上げ、中身を喉へ流し込む。  
 ぷは、っと一息ついて、男は再び口を開けた。  
「俺が言いたいのは、だ。そんな大の男何人もつるまなきゃ、女の一人も口説けないのか、ってことと……やっぱ牛乳は武蔵野牛乳に限る、ってことよ」  
 そういって男は、カラになった紙パックを脇へ放る。  
 こき、こきと首を何度かならして、周囲を改めた。  
 残り、10人。そんな数を目にしても、男の様子は何一つ変わらず、顔には笑みを浮かべたまま。  
「ん、の……ふざけんなクソが!」  
 その場の空気に耐えられなくなったのか、不良がナイフを振りかざして突進していった。  
 扱いも知らない不良は、まるで長剣のように上から下へと切り下ろそうとしている。  
 避けるのは簡単だった。だが。  
「んぐ、ぼぇ……!」  
 カラカラと、不良の手を離れたナイフが転がっていく。  
 男は一歩も動かずに、ナイフをさばいて強烈な右フックをお見舞いし、大の男の体重を軽々と吹っ飛ばした。  
 
 ……強い。  
 ごくりと喉が動く。  
 この状況も忘れ、素直に見入る。  
 堰を切ったように、何人かが飛びかかるが――右からのストレートをダッキングでかわし、鋭いアッパーで蹴散らすと、そのまま反転して背後に足払いをかます。  
 つんのめった不良の背中をどん、と強く踏むと、ぐぇ、と情けない悲鳴を上げて、そのまま昏倒した。  
 それを隙と見た不良が鉄パイプを振り上げて殴りかかるが、すっと上体を反らせて軌道を外すと、腕をつかみ、そのまま背負い投げの要領で遠くへ放り投げる。  
 どすん、と音がすると、そのまま動かなくなった。  
 ……この間に10秒もたっていない。  
 何なんだろう、この男は。  
 黒い革ジャンを羽織り、チリチリの短髪はまるでライオンのたてがみのようで。  
 威風堂々としたその態度は、まさに王者の風格。  
 こんな街の片隅で、一体今、何が起こっているのか。  
 数の上で圧倒的に勝る連中を、まるでものともせず、まるで枯れ木のようになぎ倒していく。  
 自分はただ、見とれるばかりで――  
「ん、の――ナメくさって……」  
 ゆらり、と影が動く。そいつは慎重に死角へと移動し、気づかれることのない最小限の動きでナイフを構えると、声もなく突進をかけて――  
 
 どごん、と音がした。  
 
 それは俺の蹴り上げた足と、不良のアゴが激突する音。  
 理由も何もなく、ただ体が動いた。  
 頭の中が沸騰したように熱くなって、気がつけば走り出し――不良に一撃を見舞っていた。  
 ナイフを持っていたとか、そんなものは関係なく。  
 ただ、『危ない』と思ったときにはもう、体が動いていた。  
 ヒュー、と口笛の音がする。  
「へえ、やるじゃねぇか兄ちゃん。助かったぜ」  
「助けてもらって黙ってるなんて、できないんでね」  
 目配せをして、お互いに笑いあう。  
 ざっと後ろへ飛び、背中合わせになった。  
 騒ぎを聞きつけた仲間であろうやつらが、ぞろぞろと集まってくる。  
 ――残り、十五人。  
 対してこちらは二人だけという絶望的な状況にもかかわらず。  
 
 
 
 ――なぜか、まるで負ける気がしなかった。  
 
 
 
 コンビニのビニール袋に入った牛乳を渡す。  
 1Lのパックを2本。  
 それを見た男は、満足そうに笑った。  
「いやぁすまねぇな、こんな事してもらっちまって」  
 人なつっこそうな笑顔。  
 これが本当にさっきまで、鬼神のような強さを誇っていた男と同一人物だろうか。  
「いや、こっちこそ助けてもらってサンキューな。こんなんでいいなら、喜んでするさ」  
 と、腰に戻した右手に、堅い感触がする。  
 ポケットに入れてあった箱だ。  
 ひょっとしたら、万が一、奇跡のような確率で中身がチョコだったりしちゃったりする場合、中身が粉々になってたりしないだろうか。  
 慌てて取り出して、委細を確認する。  
 開けてみないことには結局わからないが。  
 ……ううう、結局は不幸だ。  
「へぇ、『ラクーン』の包みとは随分高級品だな……ああそうか、今日はそう言う日か」  
 箱を見た男が、目を丸く開いて驚いた。  
「……ラクーン?」  
「イギリスだったかどこだかの、有名な菓子ブランドだよ。日本じゃ学舎の園にしか出店してねぇって話だな」  
 へぇ、と声を上げ、箱をしげしげと眺める。  
 そうはいっても甘い物にあんまり興味がない自分には、いまいちピンとこない。  
「そんなもん送ってくるんじゃ、案外本命かもな。どこの誰だか知らねぇが、大事にしてやんな」  
「ほ……!?」  
 吹き出して、思わずむせる。  
 げほ、げほと咳をして、目の前の男を睨む。  
「ははは、怒るなよ。そんぐらいそこの菓子は値が張るのさ。昔そこに食べに行こうってねだられてなぁ……メニュー見て目ン玉飛び出たもんさ」  
 一転して男の肩が下がる。  
 見た目と違って、この男も案外苦労してるのかもしれない。  
 なんとなく親近感を感じて、力なく微笑んだ。  
「さって、じゃ俺は行くよ。兄ちゃんも達者でな」  
「あ、ちょっと待ってくれよ、俺、上条当麻ってんだ。あんたの名前は?」  
 背中を向けて去ろうとする男に、慌てて声をかける。  
 そういえばお互い名前も知らないのだ。  
 さっきは背中を預けた仲だというのに。  
「ああ、俺は黒つ……じゃねぇや、今は名無しなんだ。そうだな……『クロ』でいいよ。そう呼んでくれ」  
「……クロ? 猫かよ、なんだそれ」  
 いぶかしげに見る視線に苦笑いして、男がまた背中を向ける。  
「猫なんだろうなぁ、俺は。居場所を無くした、ただの野良猫さ」  
 それを最後に、背中越しに2、3度手を振ると、そのまま振り向くこともなく、今度こそ男は去っていった。  
 
 
 俺はただ、その背中を見送るばかりで。  
 
 
「とうまとうま、何これおいしそう、ってラクーンの限定チョコ! ちょうだいちょうだいひとつちょうだいっていうか全部食べるーっ!」  
「うっさいわバカシスター! そもそもお前は家主であるこの俺に義理でも何でもチョコを渡すとかそう言う考えはないのか!?」  
 今日も元気に怒号が響き渡る。  
 案の定帰るなり、この欠食児童は目をぎらぎらさせて飛びついてきた。  
 日本に来る前の記憶はないって言ってるが、本当にそうならラクーンだかなんだかも知らないはずじゃないんだろうか。  
「だめです、おあずけ! これは俺がもらったの!」  
 釘をさして、食卓の上に包みをぽんと置く。  
 まぁ、そうはいってもこのシスターさんが食い物を目の前にして我慢などできるはずもないだろう。  
 一個ぐらいは分けてやるかな、などと考えつつ、がさがさと包みを開いていく。  
 テーブルにかじりつきながらよだれをだらだらと垂れ流すシスターを横目に。  
「んー、やっぱカードもなんも入ってねーな。これホントに俺宛なのかなぁ」  
 差出人不明。誰宛なのかも不明。すごくいいチョコレートの香りがするが、中に毒とか入ってたらどうしよう。  
 そんな恐ろしいことも一瞬頭によぎる。疑うことならいくらでも出来る。  
 この上条さんの不幸具合はハンパではないのだ。  
 知らせもなくウィルス兵器の実験台にされているのかも知れない。  
 などと睨んでいると、横から手が伸びてきて、ひょいぱくとインデックスが口の中へと運んでしまった。  
「あ、あ、うあ、おい、インデックス!?」  
 自分の声に驚いたか、いたずらを見つかった子供のように、ばたばたと手を振るインデックス。  
 一生懸命に違うとでも言いたいのか、首をぶんぶんとふって。  
「ち、ちちちちち、違うんだよ! いいい今のは手が勝手に動いて! きっとネリガルドゥグオムの呪いに違いないんだよ!?」  
「無茶苦茶ないいわけすんな馬鹿シスター……いやまぁなんともないならいいけどよ。断りもなく食った罰にお茶入れてこい」  
 あうう、と情けない声をあげながら、インデックスが力なく台所に向かう。  
 視線をまたチョコに戻して。  
 表面にうっすらとパウダーのかかった高級そうなチョコをひとつ、口に放り込む。  
「……へぇ……!」  
 おもわず声が出た。  
 甘い物はそんなに好きではないのだが、これはさすがに別格だ。  
 まるで粉雪が口の中でゆっくりと溶けていくような、舌先に感じる恍惚。  
 チョコレートとか馬鹿にしていたが、極まった物はここまで美味しいのか、と素直に賞賛した。  
「すげーなー、さすがに学舎の園で売ってるようなものは格が違……学舎の園?」  
 そんなとこに知り合いなんてそうはいないのだが。  
 さらにこんないいチョコをくれる人となると、まるで心当たりがない。  
 ひょっとしたら本命なのかもしれないのに。  
「……ま、心当たりがないんじゃしょーがねーよな、せいぜい感謝しつつ頂くとするか」  
 
「とうまとうま、紅茶がいい? コーヒーがいい?」  
「あー、俺はなー」  
 
 2月もなかば、まだ肌寒く。  
 けれど街のそこかしこに、暖かい光が灯る。  
 灯の一つ一つに、寄り添いあって生きるつがいの鳥がいるのだろう。  
 冷たい風にさらされながら、身を寄せ合って。  
 精一杯に、歌を歌う。  
 この夜だけの、愛を歌う。  
 明けるまでずっと、ずっと――  
 
 
 
 
 
 
「お姉さま、何を固まってますの」  
「……カード……入れ忘れた……」  
「は?」  
 
 
 ――この日だけの、聖なる夜に。St. Valentine's Day.  
 
 
             fin.  
 

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