「……わかりました」  
 
 そう言って彼女は上条に背を向け、制服のボタンを外した。  
 
 ベスト、シャツ、そしてスカート。  
 
 背中から視線を当てられていることがわかる。  
 
「…………」  
 
 指が震える。寒いのではない。恥ずかしいのだ。  
 
 当たり前である―――好きでもない男性の前で、肌を晒そうと言うのだから。  
 
 時間をかけ、ゆっくりと。  
 
 少しでも『そのとき』が先になるように願う彼女だが、しかし衣類の枚数は有限で、僅少でしかない。  
   
 ぱさりと音をたてて床にスカートが落ちる。  
 
 年齢に不相応な布地の面積と厚みの少ない下着。  
   
 それをまとった年齢相応な姿が、薄暗闇の部屋に浮かび上がる。  
 
「…………」  
 
 黒子は、両手で自分の身体を抱きしめた。  
 
 んくっ、と唾を飲む。  
 
 これから振り向かねばならない。  
 
 下着が残っているとはいえ、彼の視線を真正面から浴びなければならないのだ。  
 
「どうしたんだ、白井。いつまでそっちを向いてるんだよ」  
 
 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。  
 
 そう確信できる彼―――上条の口調。  
 
(こんな殿方にお姉さまを任せるわけにはいきませんの……!)  
 
 彼が複数の女性と不適切な関係にある。  
 
 そんな情報を入手して、彼を詰問したのが、ほんの二時間前。  
 
 否定するどころか、悪びれもせずにあっさりと認めた彼に、美琴を任せられないと告げたのは、一時間ほど前。  
 
 気がつけば、二人きりでホテルの部屋だ。   
 
(……こういうときだけは、自分の察しのよさを恨みますの)  
 
 彼が笑みを浮かべながら言った『来るもの拒まず』の言葉の意味。  
 
 それが『美琴から告白してきたら拒まない』と言うだけではなく『白井でもかまわない』という意味が含まれていることに気がついたのが、すべての元凶だったのだ。  
 
「…………」  
 
 白井はすう、と息を吸い込むと、肌を隠そうとしていた腕を解く。  
   
 そして、ゆっくりと上条の方に振り向いた。  
 
「……へぇ」  
 
 軽く眉をあげる上条。  
 
 彼の声は賞賛の響きを帯びていた―――が、それは黒子にしてみれば、おぞましい感覚を呼び込むだけのものだ。  
 
「ど、どうですの。感想くらい、言ったらどうなのですか?」  
   
 どうということはない。  
 
 そう言っているような口調だが、よく見ればその身体は小さく震えている。  
 
「いや、驚いたな。白井って、こんな下着つけてたんだな」  
 
 嘗め回すように、上条の視線が黒子の肌を這い回る。  
 
 俯きそうになる顔を必死で正面に向けたまま、黒子が震える唇で言う。  
 
「……ほんとうに、約束は護ってくださいまし」  
 
 自分がなんでもするから美琴には手を出すな。  
 
 その取引に応じたときと同じ、そして美琴と接しているときでは考えられそうもないような軽薄そうな顔をして、上条が頷く。  
 
「ああ、いいさ。その代わり、白井は俺の奴隷だからな」  
 
 そう言って、彼の右手が伸びてくる。   
 
「……好きにすれば、いいですの」  
 
 目を閉じる黒子。  
   
 そして、彼の右手に―――空間移動で逃げることもできなくなる幻想殺しを宿した右手に―――肩を捕まれ、  
 
「あっ……」  
 
 ぐっ、と引き寄せられた。  
 
「んっ……ふっ……」  
 
 ピチャピチャと音がする。  
 
 薄暗い密室で男女が二人。僅かに浮かび上がるシルエットの、両者の頭同士は密着していれば、その音源は明らかだ。  
 
「んんっ……!」  
 
 ぐっ、と頭を後ろから押さえつけられ、女―――いや、少女と言うしかない体躯の黒子が、目を見開いた。  
 
 上条の右手がさらに強く黒子を引き寄せ、さらに口付けが深くなる。  
 
 口腔内の、ちょうど歯の裏くらいまでだった男の舌先の位置が、さらに奥に。  
 
「んんんっ! んんっ! んんんんっ!」  
 
 首を振り、脚を後ろに下げ、逃れようとする。  
 
 だが彼の腕力は強い。  
 
 男女の性差だけではない。  
 
 鍛えているという風情ではないが、荒事は豊富と聞いていた。おそらく、自然についた筋肉なのだろう。  
 
 それはひとつの結論を生む。  
 
 見せるために作られたわけではない彼の力からは、風紀委員として修めた格闘の技すらも封じ込めてしまう、しなやかさがある、ということ。  
   
 空間移動を封じられた黒子がどんなに抵抗しても、無駄なのだ。  
 
「…………」  
 
 いや、そもそも。  
 
 美琴のために自分をささげると決めた時点で、抵抗などする選択肢はなかった。  
 
 だから黒子は、引こうとする自分の身をその場に留め、彼の舌を受け入れた。  
 
「んっ……んぅ……んふ……」  
 
 うねうねと動く舌が自分のそれを絡み取り、唾液を攪拌するように動く。  
 
 受け入れる。だが、それはあくまで消極的なものだ。  
 
 相手に抵抗しない。それが黒子のとった選択だった。  
 
 一度あけてしまった目を閉じ、だらりと下げた両手をぎゅっと握る。  
 
(お姉さま……)  
 
 脳裏に浮かぶのは、敬愛して止まない美琴の姿。  
 
 けっして本気で言っていたわけではない―――しかし、夢を見なかったわけでもない『お姉さま』にはじめての唇をささげる行為。  
 
 それを彼女を護るためとはいえ、こんな風に屈辱的に奪われるとは。  
 
 黒子の目じりに涙が浮かぶ。  
 
 それでも抵抗だけはしない。ここで自分が抵抗すれば、美琴が自分と同じ行為に晒されてしまうだろう。  
 
 それだけは我慢できない。そうなるくらいなら、このまま自分が汚されたほうがマシだった。  
 
「ふ……ん」  
 
「ん……え……?」  
 
 そんな彼女の決意を見透かし、そしてあざ笑うかのように、男が唇を離した。  
 
 不思議そうに男を見た黒子と、薄く笑っている男の舌の間にかかった唾液の橋が、ぷつりと切れる。  
 
「つまらないな」  
 
「ど、どういうことですの?」  
 
 男の物言いに、黒子の薄い胸の奥に嫌な予感が巻き起こる。  
 
 まさかここまできて、約束を反故にするというのだろうか。  
 
「そうじゃないさ」  
 
 だが男は黒子の疑念の視線に、苦笑を返しながら首を振った。  
 
「じゃあ……」  
 
 黒子の詰問口調が、途切れる。  
 
 頭を押さえつけていた彼の右手、その親指が、彼女の口元をぐっ、とぬぐったのだ。  
 
 ぬるり、と唾液の感触。  
 
「……確かに抵抗はしてないけど、それだけじゃあな」  
 
 上条がニヤリと笑う。  
 
「っ・・・!」  
 
 その笑みに、黒子は底知れない何かを感じた。  
 
 上条は年上と言っても、そう何歳も違わないはず。しかし彼の身にまとう雰囲気と威圧感は、もはや少年と表現していい範疇を超えている。  
 
「な、なにをしろとおっしゃるんですの」  
 
 胸から湧き上がった忌避の感情を押さえ込むように問い返す黒子。  
 
 だが彼女の言葉尻は震え、膝も笑っている。虚勢を張っているのは明らかだった。  
 
 それは覚悟とは別にある、彼女自身の恐怖。  
 
「はは」  
 
 誰かのために、ではなく、自分が怖いという理由で向けられた視線に、上条は部屋に入って以来、初めて声を出して笑った。  
 
 これが見たかった。  
 
 覚悟、犠牲、献身。そんなものではなく、ただ、この黒子という少女自身の負の感情が。  
 
 気高さをもって身を汚されるのでは足らない。この少女を汚すには『彼女自身』というものが必要なのだ。  
 
 だから彼は言う。  
 
 その気高さを奪うために。  
 
「俺がしてるみたいに、お前からも舌を絡めてくれよ」  
 
「そんなっ!」  
 
「別におかしかないだろ? お前が何もせずにされるがままだったら、俺も詰まらないし、お前もいやだろ? だったらせめて、一緒に愉しもうぜ」  
 
「ば、ばかを言わないでくださいまし! わたくしは確かに弄ばれることは了承しましたが、それはあくまで」「それに、さ」「…………」  
 
 黒子は沈黙した。彼が、口元に歪んだ笑みを浮かべて目を覗き込んできたからだ。  
 
「俺、満足できなかったら、美琴のところに行っちゃうかもな」  
 
「…………」  
 
 ギリッ、と黒子の歯が鳴る。  
 
 だがそれも一瞬のこと。  
 
 黒子は眦を決すように目を閉じてから、  
 
「わ、わかりました」  
 
 と言った。  
 
「ん、よし。じゃあ……」と、上条が満足気に笑う。  
 
「でも」  
 
「?」  
 
「でも、絶対約束してください。わたくしで満足させることができたなら……」  
 
「ああ、安心しろって。美琴には手を出さないよ」  
 
「……ならいいんですの」  
 
「ははっ、そんな信用してない声を出すなよ。俺、こう見えて情が深いほうなんだからさ。がんばってくれるお前との約束を破ったりなんかしないさ」  
 
 そう言って笑う彼の手が、再び黒子の顎先に添えられた。  
 
「…………」  
 
 黒子は諦観の浮かんだ瞳を瞼で隠し、くっ、と踵を持ち上げる。  
 
 さらに彼女は上条に身体を密着させ、両手を彼の背に回した。  
 
(ははっ)  
 
 上条は目を細め、内心で笑う。  
 
 自分から求めさせなければならない。逆らえない理由があってもいい。まずは彼女自身に受け入れる体勢がなければ、心を汚すことなどできはない。  
 
 いまはまだ美琴のためだ。だがそれを徐々に、彼女自身のため、美琴のせい、という風に置き換えてやればいいのだ。  
 
「…………」  
 
 唇がちかづく。  
 
 その唇は、舌を受け入れる心つもりを示すように、薄くだが開いていた。  
 
 

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