――学校の敷地内に突然響いた大きな声。  
 職員室に残って1人雑務に追われていた月詠小萌の耳にも、その声はちゃんと届いた。  
 自分の頭よりもうず高く積まれた書類の山から、くるりと椅子を半回転させて窓の外に視線を送ると、つい先ほど自分を訪ねてきた生徒が、同じく一緒に来ていた女子生徒と一緒に走って行く姿が見えた。  
「上条ちゃんたちは今日も青春してますねー」  
 紫煙と共にそんな言葉を呟いてみる小萌。  
 思えば上条に初めて会った頃は、自分に気が有るんじゃないかと勘違いしそうになる程、本当に色々な事が有った。  
 後で気が付いたのだが、彼は性別『女』であれば見境無くフラグを立てて回る体質の様だ。  
 この学校内だけでも女生徒はおろか、女性教師、はては食堂のおばちゃんにまでファンが居る。  
「女の子を相手にするくらい、頑張ってお勉強してくれると先生も嬉しいんですけどねー」  
 上条から言わせれば好きでフラグ立ててる訳じゃ無い、と言うかもしれないが、小萌からすれば、そんな事よりちゃんと勉強して皆一緒に仲良く卒業して欲しいのだ。  
 何処かへ走り去った上条たちの事も忘れて書類の山と格闘する事しばし。  
 机の上を手探りで探し当てたタバコのケースは小萌の小さな手の中で簡単にくしゃりと潰れた。  
「あら、タバコが終わり? うーん、今日はこの位にして帰りましょうかねー」  
 そうと決まれば、仕度は早い。  
 山盛りの灰を専用の吸いガラ捨て場にポンと放り込み、重要書類は鍵の掛かる引き出しにポイポイっと突っ込む。  
 その他持ちかえり分の書類はノートパソコンと一緒に鞄に放り込んで背中にヨイショっと担いだ小萌は、戸締り、消灯を確認すると、部屋に施錠をして職員室を後にする。  
 そのまままっすぐ帰れば車が止めてある駐車場に近いのだが、鍵を守衛所に帰さないといけない。  
「小萌ちゃんだぁーっしゅ!!」  
 誰も居なくなった薄暗い廊下を小萌は守衛所目指して走って行った。  
 
 
 無事守衛所に鍵を返し終えた小萌は、何故か守衛所のおじさんがくれた飴玉を口の中でコロコロと転がしながら帰って来た。  
「何ろかこれで口寂ひいのも我慢れきまふねー」  
 うちに帰れば買い置きの1カートン一〇〇〇円の激安煙草が待っている。それまでの辛抱だった。  
 と、自分の車の側まで辿り着いた小萌は、自分の車の側に佇む大きな影を見つけた。  
 良く見ればそれは、真っ黒なマントを着た、真っ赤な髪をした大きな人だった。  
 向こうも此方に気付いたのか、煙草を持った右手を高く上げて挨拶して来る。  
「ステイルちゃん!?」  
 そう叫んで小萌が走って来る間に、ステイルは煙草の残りを一気に吸い込むと、残りを手の中で灰も残さず消し去る。  
「何時こちらに来たんですかー? 先生ステイルちゃんが来るだなんて全然知りませんでしたよー」  
「ごめん小萌。急だったんだ」  
 素直に頭を下げるステイルに、小萌は暫しキョトンとその顔を見上げて居たが、急ににこにこと笑顔を浮かべると、  
「ステイルちゃん。ごめんなさいって思うんだったら態度で示して欲しいですねー」  
「態度って?」  
 今度はステイルがキョトンとする。  
 この皆から先生と呼ばれる小さな女性は、何時も自分の考えの斜め上を行く。  
「ご挨拶がまだなのですよー? ちゃんと教えたじゃないですかー。お、と、な、の、ご、あ、い、さ、つ」  
 その言葉に、最初は「あっ」と思い出して声を上げたステイルだったが、そのまま顔を強張らせると、  
「あ、あれって本気だったのか……」  
「当たり前なのですよー。先生は何時だって本気なのですー」  
 相変わらずにこにこ笑っている小萌に、きっと彼女のお尻には悪魔の尻尾が生えてるんじゃないかとステイルは本気でそう思った。  
「あ、あの……」  
「いけませんねー。ステイルちゃんは英国紳士なのですから、レディーをあんまり待たせるものではないですよー?」  
 その一言にステイルは顔を引き攣らせる。  
「こ、ここで?」  
「当たり前なのですー。そんな事よりあんまり待たせると、後が怖いですよー?」  
「わ、判った!! 判ったって!! 僕の負けだ!!」  
 怖いですよーの辺りに微妙なニュアンスを感じてステイルは慌ててアスファルトに立て膝を付くと、小萌の両肩に手を置く。  
 すると自然と小萌が両の瞼を閉じた。  
 その頬が微かに赤い。  
 肩に置いた手からは微かに震えが感じられた。  
 ステイルはごくりと喉を鳴らすと、小萌の顔にそっと自分の顔を近付けて行き――唇を重ねた。  
 初めはちょんとついばむ様に、続いて少しだけ唇を強く押しつける。  
 すると自然に小萌の唇が開いてお互いの吐息が混じり合う。  
(甘い)  
 ステイルの感じたそれは先ほどから小萌が舐めていた飴玉の味だった。  
 
 この世界にどっぷりと身を置いてから久しく味わった事の無い甘ったるい感じに、ステイルは遊び心を擽られる。  
 するりと開いた唇に舌を忍び込ませると、まだ残っていた小さな塊がそこにあった。  
 小萌の口の中で飴玉を溶かすと、小萌が必至になってそれを喉の奥に流し込む。  
 それに合わせてステイルは、自身の唾液を小萌の口の中に流し込んだ。  
 すると小萌は何も言わずにステイルの唾液も嚥下して行く。  
 背徳感を伴う暗い炎がステイルの中に燃え上がる。  
 今夜はこのまま帰るつもりだったが、この後、いやいっそこの場で――、  
「けほっ」  
 ステイルが妖しい妄想に囚われたのを現実に引き戻すかのように小萌が急に急きこんだ。  
「ご、ごめん!?」  
「けほっ、けほっけほ」  
 ステイルが咳込む小萌の背中を優しくさする。  
 すると、  
「ス、ステイルちゃん!!」  
「は、はい!?」  
 涙目に鼻水ずるずるで、百年の恋もいっぺん冷めそうな姿の小萌が、キッとステイルを睨む。  
「チャンセラーなんて吸うなんていけないコですねー!! さ、先生に直ぐ渡しなさい!!」  
 そう言って小さい手を突き出した小萌の姿に、ステイルは思わず顔を手で覆って天を仰ぐと、  
「ジーザス……」  
「ジーザスじゃありません!! 早く煙草を先生に渡すのですー!!」  
 もう一度自分に向かって手を突き出した小萌の姿を指の間からチラリと見たステイルは、  
「無い」  
「え?」  
「さっきので最後」  
「えぇええええええええええええええぇぇぇえぇええええええええええええええええええええ!?」  
 小萌の大絶叫が駐車場の木霊する。  
 ああ何てこの人は自身の欲望に忠実なんだろう――なとど悠長な物思いにふけっていたステイルは、突然胸倉をグイッと掴まれて我に帰る。  
「ステイルちゃん!!」  
「は――」  
 ステイルは返事が出来なかった。  
 それは小萌に強引に唇を奪われたから。  
 薄れゆく意識の中で、次にここに来た時のお土産には必ずチャンセラーの煙草を持参し様と心に誓うステイルだった。  
 
 

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