窓から差し込む夕日の眩しさに我に帰るともう結構な時刻になっていた。  
 私は自分のデスクから立ち上がると窓に付けられたブラインドを1つ1つ下ろして行く。  
 そして日差しが押さえられた代わりに薄暗くなった部屋の中、私は再びデスクに戻った。  
 デスクの上ではパソコンの画面が真っ暗になっている。どうやら私はパソコンが省電力モードになっているのにも気付かずぼぉっとしていたらしい。  
「はぁ」  
 私は今日何度目……いやあの日から数え切れないほどついたため息に新たに1つを加えた。  
 キーボードをトンと叩くと瞬時に画面が立ち上がって来てとある像を結ぶ。  
 そこに映し出されたのは1人の男子生徒の経歴(データ)。書庫(バンク) を私物化するなんて上に立つ物として、そして風紀委員(ジャッジメント)として失格なのは判っているのに……。  
「はぁ」  
 何でこんなに気になってしまうんだろう?  
「白井黒子、ただいまパトロールから戻りましたですわ」  
 私の前に颯爽と現れた彼。  
「固法先輩。ただいま帰りましたですの……」  
 彼……、ちゃんとお礼も言って無いのにさっさと居なくなってしまうんだもの。  
 私はディスプレイの上に指を這わせながらそんな事を考えていた。  
 気になると言えば彼の経歴には1つ不思議な点がある。  
「無能力者……。本当かしら?」  
「無能力者がどうしましたですの?」  
「ひいッ!?」  
「ッ!?」  
 独り言に思わぬ相槌を打たれて思わず無様な悲鳴上げて飛び上がってしまった。  
 そして恐る恐る振り返るとそこには白井さんが、大きく目を見開いて硬直していた。  
「し、白井さん、何からそこに!? と言うか何時戻って来たの!?」  
「つ、つい今しがたですわ。で、どうなさったんですか固法先輩、無能力者がどうの……」  
 しまった!? ディスプレイにはまだ彼の情報が――。  
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  
 え? あれ? そんな大きな声で驚かれるとは思わなかったからちょっと戸惑ってしまった。  
 いや、でも言い訳くらいはしておかないといけないわね。  
「あ、ちょ、ちょっと、こ、これは事件の件で調べもきゃッ!?」  
 言い訳をしていたのに白井さんに跳ね飛ばされてしまった。  
 彼女にはたまに驚かされる。あの小さい身体のどこにそんな力……いやいやそんな事よりディスプレイの件を誤魔化さなくちゃいけないわね。  
 ここはちょっと怒った素振りで――。  
「白井さ……」  
 と言い切る前に向こうから先にキッと睨みつけられてしまって後ろめたさから言葉に詰まってしまう。  
 とそこへ、  
「固法先輩も助けられたんですのね」  
「は?」  
 えと、話が見えないんだけど。  
「殿が……いえ、この方に助けられたんですのよね?」  
 白井が指さす先には私が消しそびれた彼――上条当麻君の経歴と顔写真が表示されている訳で。  
 
「あ、そ、それは……」  
 咄嗟に何かを考えようとしたけれど、  
「どうなんですの?」  
「はい、助けられました」  
 私は嘘をつき通す事を諦めてあっさり白旗を上げた。  
 ああ、よりにもよってこの子にばれちゃうなんて……などと内心嘆いていると、  
「まぁぁぁああああた殿方ですの!! どおしてあの方はこうも高い確率で困っている女性の前に現れるのでしょうね!? この事をお姉様がご存じになりましたらさぞや御嘆きになるかと思うとぉ……、ふふ、うふふふふふふふふふふ……」  
 最初は何事か呆れ口調で叫んでいた白井さんが急に不穏な笑い声を上げたのでドキッとした。  
 あの両手指をわきわきと動かしている様が特に不穏だ。  
 しかもどうやら白井さんは彼の事を知っているらしい。  
 よし、ここは1つ虎の穴に飛び込んだ気持ちで聞いてみる事にする。  
「あ、あの、白井さんこの人を知ってるの?」  
「ええ。嫌という程存じ上げておりますの」  
 そう言って白井さんはディスプレイを一瞥した後フンと鼻を鳴らしてそっぽ向いた。  
 何かよっぽど嫌われているのね彼、などと考えていた私の耳に衝撃の事実が飛び込んで来る。  
「わたくしの愛おしいお姉様に付く悪い虫ですわ!」  
 ええええええええええええええッ!?  
「お姉様? え? この人御坂さんとお付き合いしてるの?」  
 瞬時に私の頭の中には上条君と御坂さんが手を取り合って寄り添う姿がイメージされる。  
 お、お似合い……?  
「と、ととと、とんでもない事ですわ!? そんな事この黒子が許しませんですのよ!!」  
「きゃ!? ちょ、ちょっとッ、し、白井ッ、さん落ち着いて!?」  
 ぼぉっとしていたから反応が遅れてしまった。  
 何だか興奮した白井さんが突然意味不明の言葉を発しながら掴みかかって来たわ。  
 どうしたの白井さん!?  
「これが落ち着いていられますかですわ!? 大体、この黒子めが何時も御側に居りますのにあのような不埒で不遜で無自覚にフラグを立てる類人猿如きッ!」  
「る、類人猿?」  
 教科書に出て来る人類の祖先の事よね。  
「そうですわッ! あのような節度の無い猿がわたくしたちと同じ人間の筈が御座いません! 現に恋敵であるわたくしにまで手を、手をおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」  
 あうあう、ってコラッ、何をあなたはそんなに興奮しているの!?  
「ちょ、コラッ! ゆ、ゆさ、揺さぶるのを止めなさいッ!!」  
「おごッ!?」  
 あ、ごめん。思わず殴っちゃった。  
 音もすごかったし白井さん頭抱えてしゃがみこんじゃったけど……。  
 いや! そんな事より……と私は白井さんに背中を向けるとブラウスのボタンを外して迷う事無く中に手を突っ込む。  
 もう! 今日は非番だったからおしゃれなんかしたのがアダになったわね。完全にカップがずれちゃってる……うう、嫁入り前なのにハズカシイ……。  
 何て顔を真っ赤にしてブラを直している間に白井さんも復活したらしく、  
「いつつつ……。今更固法先輩に拳骨を落とされるとは思いませんでしたわ」  
「私も今更あなたの頭に拳骨を降らせる羽目になるとは思わなかったわよ。で、少しは落ち着いた?」  
「取り乱しまして申し訳ございませんでしたわ」  
 
 そう言ってぺこりと頭を下げたのを見て一応安堵……とは中々行かないみたいで、  
「所でですの」  
「ん?」  
 何かしら、改まって。  
「先輩はいつこの類人猿とお会いしたんですの?」  
「ぶッ!?」  
 固法美緯一生の不覚!  
 完全に忘れている自分もどうかしているけれど、  
「ま、まだ続いていたの?」  
「当然ですの。それをお聞きしませんと固法先輩の汚染深度が図れませんの」  
「汚染て……」  
「殿方に助けられた乙女たちは皆その心に、か、く、じ、つ、に、フラグを立てられるんですの。これはまさに精神汚染、もしくは洗脳ですわ」  
「それはちょっと大げさじゃない?」  
 私はその時彼女が何を言っているのか判っていなかったので、汚染と言う言葉に眉をひそめて相槌を打った。  
 所が白井さんはそれを遮る様にバンとデスクを平手で叩くと、  
「大げさなどではございませんですわッ! 聞く所によるとそのフラグの数はとうに4ケタを超えたとか」  
「4ケタ……」  
 それにしてもさっきからフラグフラグって何かしら? 心に旗が立つ? それが4ケタって……よく……判らないわね。  
「ねえ白井さん」  
「何ですか固法先輩。今からお話の佳境に入る所ですのよ?」  
「えと……、その前に聞きたいんだけど……」  
 私は今更でちょっと恥ずかしいなと思いつつ、  
「フラグって何?」  
 そう聞いた瞬間、白井さんはデスクに向かって派手に額を打ち付けた。  
 ゴンてものすごい音がしたけど大丈夫……あ、フラフラしてるけど自力で置き上がって来たわ。  
「し、白井さん……?」  
「イツツツ……危うく固法先輩の天然ボケで死ぬ所でしたわ」  
「何を言っているのよあなたは? あなたが勝手にデスクにぶつかって行ったんでしょ? で、大丈夫なの?」  
 彼女の掌の額はみるみる赤くなって行くけれど、  
「ご心配には及びませんですわ。それよりもご質問の件ですが……」  
 私の心配をよそに白井さんはそう前置きをすると、  
「フラグと言うのはまあ色々な用途に使われるのですけれど、殿方に関して申し上げれば『恋愛フラグ』となりますわね」  
 恋愛フラグ……? ふぅ……ん……、ん?  
「私がッ!? ちょ、ちょっと待って! あなたは一体何を根拠に!?」  
「その根拠が知りたいからお話をしておりましたんですの。で、固法先輩」  
 白井さんがズイっと身体を寄せて来た。  
「な、何?」  
 彼女の座った目が何となく怖い。  
「殿方さんとの間に何があったのか教えて下さいまし、ですの」  
 結局白井さんの気迫に押される形で私はあの時の話をする事になった。  
 
 
 それは先日、警備員(アンチスキル)と連携して連続恐喝犯を追って路地裏に入りこんだ時の事だった。  
 単独行動だったのはチームの仲間が怪我を負ったせいだった。  
 その時点で下がれば良かったのに、犯人を追いかけてしまったのは明らかに判断ミスだったと思う。  
 それでもあの時の私は、あくまで犯人の足取りを追って位置を特定するまでが仕事――の筈だったのに。  
「きゃ!?」  
 私は見えない壁の様なものに頭からぶつかって、そして弾き飛ばされた。  
 しかも弾き飛ばされた拍子に、  
「ッ!?」  
(足首が……)  
 どうも転び方が悪かったのか、気付いた時には右の足首はパンパンに腫れ上がって立てる様な状態では無くなっていた。  
 更にそこへ悪いことが重なった――連続恐喝犯の男が戻って来たのだ。  
 あいつは片膝をついた私を無表情な目で見下ろしながら、  
「何だお前? 怪我でもしたのか?」  
 その抑揚も歯切れも感情も無い声に鳥肌が止まらなかったけれども、私はそれらを押し殺して銃を構えて睨みつけた。  
「諦めて投降しなさい。もうすぐ警備員もこちらに来ます」  
「そうなのか? じゃあお前と遊んでる時間はねえなあ」  
 男はやはり無感情にそう言うと、私に向かって右掌をかざした。  
 その異様な動きに咄嗟に撃ったゴム弾は、男の顔を捕える前に見えない壁にぶつかると、弾けて何処かに飛んで行ってしまった。  
「ッ!?」  
 咄嗟に男から離れようと身を翻した私だったけれど、それよりも早く男の指が動く。  
 すると男の手が触れていないのに首がギュッと締めつけられた。  
「ぐっ!?」  
 それは人の手と言うよりも太い蛇の胴体の様なもので、手で掴む事は出来ても外す事は出来なかった。  
「ふっ、ぐぐぐぐぅ……」  
 それが一段と締まるとまず目が霞み、そして音が遠くなって行く。  
 息苦しくて、それを補いたくて空気を吸いたいのだけれど、口からも鼻からも入って来る量はとても少なくて。  
 そんな状況だけでも最悪なのに、まだまだ不幸は続く。  
「!?」  
 顎――いや頭全体がさっきの見えない蛇に持ちあげられる様な感覚。  
(浮く!? 宙吊りに……されるッ!?)  
 その事実に戦慄した時には私のお尻が地面から離れる所だった。  
 咄嗟に地面に足を着くが、その足もすぐに地面から離れて、  
「馬ッ、鹿な、真似は、止めッ……」  
 それが精一杯だった。  
「くはッ!! か、かか……」  
「色っぽい声だなぁ。へへへへ俺の股間にグッとくるぜえ」  
 他の音は聞こえないのにあの男の気持ち悪い言葉だけはハッキリと耳に届く。  
 そしてその男は何を思ったのか、私のブラウスの胸を鷲掴みにするとそのまま無造作に引き裂いた。  
「ッ!?」  
 布地やボタンが弾け飛ぶ感じと共に胸元が微かに楽になる。  
 だが楽になったと言う事は胸がさらけ出されたと言う訳で、私はその事にあからさまな恐怖を感じていた。  
 それを表す様に霞む瞳からボロボロと涙がこぼれる。  
 
 そんな状況の中、男は私の胸をこねくり回す。  
 指で押したり、カップの隙間に指を突っ込んで大事な部分を悪戯したりとやりたい放題だ。  
「もったいねえよなあ。ああもったいねえもったいねえ」  
 やっぱり男の声だけはハッキリと聞える。  
 それが更なる恐怖と絶望を私に植え付けて行く。  
「あ、そお言や時間がなかったんだよなあ? それじゃあ名残惜しいが」  
 止めて、と叫びたかったが声も出ない。それは首を絞められたせいか、それとも恐怖のせいか。  
 とにかく男の言葉が合図だったように首が一段と締まる。  
「ク……カ……ァ……」  
 私の喉から自分でも信じられない様な声が漏れる。  
 そして電球が切れたかのように明暗が点減し辺りが暗くなるり、嘘の様に息苦しさが和らいで行く。  
 しかしそれが私の終わりである事を良く理解していたから、  
(た、す、け、て)  
 駄目だと判っていても何かにすがりたかった。  
 それが本当に届くだなんてその時は信じていなかったのだけれど。  
 
 
 気が付いた時には目の前に彼の顔があった。  
「大丈夫か?」  
 最初に何を聞かれているのか判らなかった。  
「おい、俺の声聞こえてるか?」  
 それに返事をしようとしたのだけれど、第一声は咳込んでしまって上手く出なかった。  
「おい大丈夫かよ? 無理させて悪かったな。今何か飲み物でも」  
 そう言って立ち上がろうとした彼のTシャツの胸を、私はギュッと掴んで放さなかった。  
「だ、大丈夫、だから、側に」  
 何でそんな事を言ったのか今考えても判らない。  
 だが彼の肌から感じる温もりはとても心地よくて、それは今どんな事をしても失いたくないと思った。  
「あ、ああ」  
 彼の顔がちょっとだけ戸惑ったが、すぐに優しい顔になる。  
 その顔を見ているだけでホッとしてしまう。  
 でも、あれ? 何かとても大切な事を忘れている様な気が……。  
「あああああああがあああああああいいいいてええええええ!! くくくそおおおおてめえななな何しやがる!!」  
 唐突に上がった叫び声と破壊音。  
 そして私はその声を聞いた瞬間全てを思い出した。  
「いやぁ」  
 自分でも驚くほどのか細い声で上条君にしがみ付く。  
 寒くも無いのに手足はどんどん冷たくなり、身体もガタガタと震えだす。  
 死の恐怖――初めてそれに触れた私は今まさにその存在に囚われようとしていた。  
 でも、  
「大丈夫だ。俺に任せろ」  
 その言葉は暗雲を吹き飛ばす風のように力強く、それを聞いただけで私の心から単純なくらい不安は無くなっていた。  
 彼は立ち上がる。そして同じくゴミの山から立ち上がった男に向かって行く。  
 私はいつからそうなっていたのか、彼のワイシャツをギュッと胸に抱きしめた。  
「丈夫なんだなあんた」  
「ななな、な、に?」  
 
 ここから彼の顔は見えないけれど、男は明らかに彼の言葉と存在にのまれている感じだった。  
「じゃ、もう一発イッてみるか?」  
 そう言って彼が一歩を踏み出すと、  
「ざざざざけんじゃねえテメエ!! おおおおお前はもうおおお俺には指一本触れえええええええええええええええええええええ!!」  
 男は狂った様に叫びながら、彼に向かって私にした時と同じように右手を突き出した。  
 しかし彼はそれら全てを意に介さないとばかりに懐に飛び込むと顔面目掛けて拳を放つ。  
 その時男の顔には勝利を確信した笑みが浮かんだ様に私には見えたのだけれど、  
「ぽがッ!!」  
 顔面に彼の拳がめり込んで、男は地面と平行に数メートル飛んだ後、汚い路面に頭から落ちてそれ以上ピクリとも動かなくなった。  
 その後を彼はゆっくりと追いかけて行くと、  
「おまけ」  
「ぐぺッ!」  
 遠くて良く判らなかったが男の蛙の様な叫び声から何かをしたらしい事が判る。  
 そして彼は何事も無く戻って来ると、私と目線が合う様にしゃがみ込んで、  
「大丈夫かあんた?」  
「え、ええ」  
 すると心配そうな顔が笑顔に変わる。  
 そんな彼にドキッとしてしまった私は慌てたように、「あ、ありがとう」とだけ言葉を返した。  
 本当はもっと別の言葉が言いたかった気がしたのだけれど、まだ頭の中がごちゃごちゃしていて上手くまとまらないでいたから。  
 と、そんな私に対して彼は急にバツが悪そうに顔を背ける。  
「あ、あんま礼はいいよ。むしろ俺の方が謝らないといけないかも……」  
「え?」  
 訳が判らず聞き返すと、彼はとても言いにくそうに頬を掻いている。  
 そして今度はしゃがんだ姿勢のまま蟹の様に私の側から離れて何をするかと思ったら、  
「ごめん! あんたの呼吸がヤバかったから……その……あの……」  
 地面に額を擦りつける彼の言葉を反芻してみる。  
 そう言えば私はあの男に首を絞められて呼吸困難になっていたんだった。  
 だから多分彼が来た時に呼吸に異常があってもおかしくは無いと思う。  
 それで呼吸を整える手っ取り早い方法と言えば……。ああッ!!  
「あなたまさか!?」  
「ごめんなさい!!」  
 私は思わず唇を押さえて……、そんな、やっぱり……。  
「あの……、ハンカチ、とかはぁ?」  
「持ってませんでした!!」  
 ががああああああああん!? と言うのがその時の私の気持ちの全てだった。  
 ああ、見ず知らずの男の人に気付かない内に唇を許してしまうなんて。  
「嫁入り前の体なのに……くすん」  
「ごめんなさい!!」  
 いやそれ以前にもっと酷い目にあっていたのだが、そんな事などとうの昔に頭の中から吹っ飛んでいた。  
 今もショックは殆んど無くて、これも彼の能力の一旦なのだろうか? そんな能力聞いたこともないし、彼、無能力者の筈なんだけど?  
 とにかく、彼は私の命の恩人では無いか!  
 そんな彼に土下座をさせたままにしておくのも流石に私の良心がとがめる……と言うか正直に言うとハズカシイ。  
「もういいですから顔を上げて下さい」  
「許してくれるのか!?」  
「許すもなにもあなたは私を助けるためにしてくれたんでしょ?」  
 
 そう私が言うと彼は音が出そうなくらいに首を縦に振る。  
 それがツボにハマって私はくすりと笑うと、  
「ほら。このワイシャツの事もあるし……むしろお礼をしなくちゃいけないくらいよ? ね、出来る事なら何でもするわよ?」  
 その言葉は本心では無くてただ場を和ませようとして言ったつもりだったのに、  
「あ、そう言うのなら間に合ってます」  
 何故か即答されてカチンと来てしまった。  
「どうして? 助けてもらったんだからお礼をするのが筋でしょ?」  
「いや、何て言うか自分の為でした事だし」  
「はあ?」  
 意味が良く判らなくて思わず失礼な反応を返してしまった事に気が付いて慌てて口元を押さえた。  
 誤魔化す為に咳払いをして、改めて彼に真意を問いただす。  
「私のこれは風紀委員の仕事の一環よ。あなたは見た所風紀委員じゃないわよね?」  
「あ、うん」  
 何故か嫌そうに肯定する彼。やっぱり。  
「じゃあ何故あなたが風紀委員のまねごとをするの? この仕事は危険なのよ。簡単な気持ちだけではやっていけないの」  
 多分鼻に着く言い方だっただろうが、自称正義の味方に飛びまわられると後が厄介だ。  
 ここは心を鬼にして釘を指すのも彼の為でもあり風紀委員の務めと言うもの。  
 しかし彼は、そんな私にこう言ってのけたのだ。  
「人助けんのにそんなに肩書きが必要かよ? 俺は誰にも指図されないしされた覚えも無い。いついかなる時だって困っている奴がそこに居ればどんな地獄に居ようとぜってーに助ける。それが俺のポリシーだ」  
 使い古された陳腐なセリフがこんなに心に深く突き刺さってくるなんて。  
 私はその時、彼の言葉を何の疑いも無く受け入れてしまった。  
 それはまるで神様が「これが正しい答えなんだよ」と耳元で囁いたようだった。  
「ま、そう言う訳だから。あ、礼なら1つ思いついたぞ! 嫁入り前なんだから自分を大切にしてください。これカミジョーさんからのお願いな」  
 ニヤリと笑った彼の顔はどこまでも憎らしくって……。  
 はらりと彼のワイシャツが地面に落ちる。  
「ちょ!? 何して……」  
 彼の驚く声がして……、気が付いた時には彼の胸倉を掴んで唇を強引に奪っていた。  
「!!」  
 彼の驚きが唇から伝わって来て、不謹慎ながら笑いそうになった。  
 昔一緒に居た先輩が知ったら私の大胆さにさぞ驚くだろう。  
 ま、それを学ばせてくれたのも先輩なのだけれどね。  
 さて唇を合わせてみたがどうしよう――そんなのん気というか遠足で次は何をして遊ぶ的なワクワク感で私の心が満たされていたその時、唐突に複数の足音が路地裏に響き渡った。  
「「!?」」  
 キスを中断してその方向を見つめていると、こちらに向かって来る警備員の一団の姿が見えた。  
「大丈夫か!!」  
 中でも一番恰幅のいい警備員が大声を上げながら私のもとに駆け寄って来る。そのヘルメットの中の顔はまるで鬼瓦の様だ。  
「君、無茶はいかんぞ――と言いたい所だがお手柄だったな」  
 そう言った警備員の視線の先で、他の警備員たちが路上の男の確保をしている所だった。  
 私は慌てて彼のワイシャツで胸を覆うと、  
「ち、違うんです!? その男は彼が……あれ?」  
 しどろもどろに返答を返そうとしたのだったが、  
「どうした君?」  
「……いや……え……その……」  
 私はキョロキョロと辺りを見回してから口ごもる。  
 そうなのだ。気が付いた時には彼の姿は路地裏の何処にも無かったのだ。  
 
 
 
 そんな経緯を危ないところは濁しつつ白井さんに話し終えると、彼女は大きなため息を1つついてから「固法先輩」と難しそうな顔をして私の名前を呼んだ。  
「何?」  
「大変申し上げにくいのですが、その、お気を悪くしないで下さいまし」  
 何だろうこの感じ。心のどこかがチクチクする。  
「何の話?」  
 そう聞き返すと、  
「あの殿方……いえ、上条さんに言わせますと、そんな程度の事で恩を感じられては困るそうですわよ」  
「え?」  
 彼と同じことを白井さんが言った事に少なからずショックを受けた。  
 そんなショックも抜けきらないまま、  
「大変不本意ながら申し上げますと、かく言うわたくしも上条さんに命を助けられた事がありますの」  
「白井さん、も……?」  
「ええ」  
 彼は言葉通りに色々な人を助けているのだなと感心する半面、本当に私だけでは無いのだと言う寂しさがこみ上げる。  
(え?)  
 寂しい? 何が? 彼が身を危険に晒して人助けをするから?  
 いや違う。彼を独占出来ないと言う事実を知ってしまったから……。  
 かつて高い志を持って自分の前から去って行った男の姿が彼と重なる。  
 また諦めるしかないのか……そう結論付けようとしていたその時、私は白井さんの大きなため息で我に返った。  
「先ほど4ケタと申し上げました事、憶えていらっしゃいますか?」  
「え? ええ、憶えているわ。それが何か……?」  
「全員命を助けられた方々ですの」  
「!?」  
 今更ながら頭をガツンと殴られたような衝撃だった。  
 彼は明らかに私のはるか前方を走り続けている。駄目だ。追いつけない。追いつけるはずが……。  
「そんな物好きな殿方に助けられる位だから皆さん物好きな方ばかりですの。殿方が要らないと言うのにそれでも貸しだ借りだとしつこいらしくて……」  
「え?」  
「ま、本心はもっと別にあるのかもしれませんわね。何と言っても男と、お、ん、な、ですし」  
 白井さんは何を言いたいのだろう? するとそれが顔に出てしまったのか、白井さんにニヤリと笑われてしまった。  
「あの殿方を見ていると諦めるって言葉ほど意味の無い言葉だと思い知らされますわ。だから誰1人として諦めないのですわ。だってあの……いえ、これ以上敵に塩を送る必要もありませんですわね」  
 白井さんはそう締めくくると私にぺこりとお辞儀した。  
「では御先に失礼いたしますですの」  
 そう言って白井さんがいなくなった後も私は暫くぼぉっとその場に立ち尽くしていた。  
 その心の中では先程の白井さんの言葉が反芻される。  
 そして私はそのぼぉっとした意識のまま、自分のデスクの引き出しを開けた。  
 そこには紙袋が1つ入っていて、その中には彼のワイシャツがきっちりアイロン掛けされて入っている。  
「諦めるのは無意味、か。うん。そうよね。そうだよね」  
 もう一度くらい誰かの背中を追いかけてみよう。せっかく追いかけてみたい背中を見つけたのだから。  
 ふと気が付けば部屋の中は真っ暗だ。  
「いけない!? もう帰らないと」  
 私は慌ただしく帰り支度を整えると先ほどの紙袋を大事に鞄に仕舞う。  
 それを鞄の上から愛おしく指で撫でた私は脱兎のごとく教室を後にするのだった。  
 
 
 
END  
 
 

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