◇ ◇ ◇  
 
 学園都市のまた別の場所で、つと空を見上げた少女がいた。  
 前触れがあった訳でもなしに足を止め、どことも言えない虚空を仰ぐ。  
 隣を歩いていた少年は二、三歩行き過ぎてから振り返り、その少女に呼びかける。  
「どうした? 滝壺」  
「……、ん」  
 ジャージの少女はゆるくうなづき、少年に視線を合わせた。  
 陶然としたそのまなざしに少年は心ときめかせるが、それはさておき。  
「大したことじゃないけど。AIM拡散力場が揺らいでる気がして。――――大丈夫だよ、はまづら。体晶を使ったわけじゃない」  
「なら、いいけどよ……。それって何かよくないことの予兆だったりすんのか?」  
「わからない。わからないけど……」  
 少女は再び虚空に視線を戻す。  
 相変わらずそちらには何も見つけられないが、レベル5候補とまで言われた少女は、チカラの大半を失ってなお不自然なものをその方角に感じているらしい。  
「もし、これが誰かの能力によって引き起こされているのなら。私は応援してあげたいと思う」  
「応援? なんでだ」  
「――とても。とても切ない意思を感じるから。例えるなら、悪い夢から目覚めようとしている瞬間。  
 あまりにも長い間眠り続けてきたから、訪れたそれが本当に目覚めなのかもわからなくて。  
 勇気は持っているのに、ずっと悪夢に耐えることに使ってきたから、踏み出すことになれていなくて。  
 …………でも、それでもと抗いたい気持ちは、本当にあって」  
 これはあくまでも少女の感じ取った印象であり、現実にそんな人間がいるかどうかはわからない。  
 けれど、少女はどこかへ向けて言葉を送る。  
 耐えて耐えて耐え続けて、今ようやく目覚めようとしている誰かへ。  
 いるかいないかも分からない、正体不明の、どこかの誰かへ。  
 
「がんばれ。私はそんなあなたを応援してる」  
 
 
                      ◇ ◇ ◇  
 
 
 しばし時間は進み、しかし場所は元のベンチ。すでに日は暮れ、夜の帳が落ちている。  
「意外だったな……まさか炊飯器でわたあめを作れるとは」  
「材料さえあれば、カステラや焼きそばも作れるって言ってましたね」  
 研究してみる価値はあるだろうか、と主夫視点で上条は悩む。  
 あれから二人で商店街の広場まで戻り、撤去作業に忙しい警備員に頭を下げた。  
 事情があって遅刻してしまったけど、もし間に合うのなら、祭りに参加させて欲しいと。  
 最初は困った顔をされたが、なんだかんだで知り合いになった巨乳の警備員がにまにました顔で、サービスじゃん、と言って作ってくれたのが、特大のわたあめ二つだった。  
 それからまたこのベンチまで戻ってきたわけだが、何故かというと、買い物袋を置きっぱなしにしていたからだ。  
 幸運にも盗まれたり清掃ロボに回収されたりもせず、上条達は安心してわたあめをほお張っている。  
 一口かじり、咀嚼しているうちに溶けてなくなり、またかじる。  
 特に会話のないまま、上条達はそれを繰り返す。  
 無言の時間とは普通気まずいものだが、二人の間にそんな空気は微塵もなかった。  
 祭りの余韻を味わいながら、噛み締めながら、上条達はただ並んで座っている。  
 昨日ほどの賑やかさはないけれど。二人だけではあるけれど。  
 それでも彼らは、確かに祭りの中にいた。  
 騒がしくて、忙しなくて、暑苦しくて、でも楽しくて。  
 そういった『祭り』の延長線上に、彼らは――――彼女は入ることができた。  
 でも。  
 映画にはエンドロールがあるように、楽しい時間はいずれ終わる。  
 上条は手の中に残った串を見つめた。風斬のペースに合わせてゆっくり食べていたつもりだったが、それでも少し早かったらしい。  
 隣を見ると、風斬の串にはあと2、3口分が残っていた。  
「……、」  
 同じことを考えているのだろうか。眼鏡の少女は口を動かすのをやめて、自分のわたあめを見ている。  
 それがなくなれば、今度こそ本当に、祭りの終わりだ。  
「……ずっと、不思議に思ってたことがあるんです」  
 と、風斬が唐突に口を開いた。  
 わたがしに視線を注いだまま呟かれる言葉を、上条は促す。  
「何をだ?」  
 眼鏡の少女は顔を動かさないまま、こう続けた。  
「私が食べたものって、どこに行っているんでしょうか」  
 ――――、  
「……は?」  
「だって、その、上条さんは見たと思いますけど、私って内臓とかないじゃないですか。口に入って、噛んで、飲み込むまではいいんですけど、そこから先はどうなっているのかな、って」  
「――風斬」  
 上条は嫌な予感に身震いした。  
 もしかすると自分は、選択肢を誤ったんじゃないか?  
 風斬を祭りに誘うつもりで、本当はとんでもなく残酷な行為を強いてしまったのではないか?  
 信じたい、信じようと努力している少女を、より深い谷底へ突き落とすような真似をしたんじゃ?  
「でも」  
 
                      ◇ ◇ ◇  
 
 風斬は、上条と目を合わせた。  
 瞳が震えているのを自覚する。  
 しかし、それは悲しみや絶望によるものではない。  
「私、覚えてます。覚えてるんです。このわたあめだけじゃない。地下街で食べた給食の味も、上条さんの家で食べた夕食の味も。  
 味以外にも、抱いた猫の暖かさや、歩きながら浴びた風の感触。殴られた痛みと恐怖。そして」  
 ――受け止めてくれた、胸のぬくもり。  
「……、そういったもの全部。私は覚えています。脳も心臓もない、空っぽの、伽藍堂の体だけど、それでも」  
 言葉に勢いが乗っていく。  
“何か”に押されるように言葉が口から飛び出していく。  
 風斬氷華は、その“何か”を、  
「信じても、いいですよね……?」  
 すがりつきはせず、向き合って、答えを望んで問いをぶつける。  
「空っぽの体でも、伽藍堂の体でも、その中には、ちゃんと溜まっているモノがあるって、信じてもいいですよね……?」  
 彼女がこれまで経験してきたことを嘘偽りではないと言って欲しい――というのとは少し違う。  
 味を、感触を、匂いを、声を、色を、思い出を。  
 溜め込んでいる受け皿が自分の中にあることを、風斬氷華は信じたいのだ。  
 とても陳腐で、口にするのも恥ずかしい言い回しをあえて使うのなら。  
 自分に心があることを、風斬氷華は信じたい。  
 虚数学区の鍵。AIM拡散力場の集合体。どうひっくり返っても人とは違う体である彼女にも、誰はばかることばく胸を張って誇れる心があることを、信じたい。  
 信じさせて、欲しい。  
 それが、祭りの中で風斬が得た生まれて初めてのわがままだった。  
「…………、」  
 目の前にいる人は、上条当麻という人は、風斬のわがままを一方的にぶつけられて、無茶極まりない要求をされて、だというのに、  
「ああ」  
 左手をそっと持ち上げて、小さく微笑みさえして、  
 風斬の癖のある髪に、優しく触れて、  
「信じていい。信じよう。信じるさ。お前一人じゃ難しいってんなら、俺も一緒に信じてやる。  
 風斬氷華の中には、誰にも負けないモノがあるって」  
 胸元を指差して、当たり前のことみたいに言った。  
 
(……………………、あ、)  
 たった、その一言で。  
 たった、その一指で。  
 風斬の胸に渦巻いていた暗い気持ちが霧散していく。  
 代わりに湧き上がってくるのは、泣き出しそうなほどの安堵。  
 この人がいればどんな苦難にも立ち向かえると言い切れるくらいの信頼。  
 そして、それら全てに付随するのは、切なく、甘く、とてつもなく熱い感情の奔流。  
 一字で表されるその思いの名を、風斬は知っていた。思い知っていた。  
(これが……そうなんだ)  
 いつの間にかに落ちている。  
 いつの間にかに堕ちている。  
(これが、恋だ)  
 気づいた瞬間、風斬氷華の世界は一変した。  
 街も風も、木も星も、全てが鮮やかに輝きだす。  
 まるで今までは曇りガラス越しに見ていたんじゃないかというくらいの、劇的な変化。  
 恋をしている。それだけで、世界を美しく見ることができる。  
 いや、世界が美しいと言うことを、信じられるようになったのだ。  
 今、風斬氷華は上条当麻の胸の中に飛び込んで、強く固く抱きしめられたいという強い衝動にかられていた。  
 結果、少年の右手でこの身が消えてしまうとしても、もう怖くない。  
 体が消えて、声も消えて、やがて記憶からも消え去って。  
 なお残るものがあるとしたら、それこそが心に他ならない。  
 自分の中に、少年の掌に残るものが一欠片でも在ると信じられることは、一体どれほどの救いだろう。  
 化物としてではなく、人間としてでもなく、ただの風斬氷華としての幸福は、そこに尽きていた。  
「…………上条さん」  
 なのに。  
 体の内側が幸福に満ちているのを感じているのに。  
 欲張ることを覚えたばかりの少女は、さらなる欲求を抑えられない。  
 とんでもないことを望もうとしている。口にすれば、確実に波紋を呼ぶ願い。  
 風斬のともだちである白い少女、それ以外にも大勢の人たちに対しての抜け駆け。  
 だけど、風斬はいつ“こちら”から消えるかわからない身だ。  
 今日、今、想いを遂げられなければ、次の機会が訪れるのかさえ定かではない。  
 だから、風斬は自分のわがままに正直になる。  
「今日だけ、今だけでいいですから」  
 そんな言い訳に頼って、分不相応な願いを口にする。  
 
「当麻さんを……ください」  
 
 わたあめの串を置いて、空になった両手を少年の首に回し、飛びつくような勢いで顔を寄せて、  
 唇を合わせた。  
 
                      ◇ ◇ ◇  
 
 甘い。  
 それが最初の印象だった。直前まで二人ともわたあめをかじっていたのだから当たり前なのだが。  
(かざ……きり……!?)  
 上条は予想もしていなかった事態に困惑していた。  
 目の前に泣き出しそうな人がいて、そいつのために努力した。ここまではいつも通りだった。  
 だが、そこからいきなり口づけにつながるなんて誰が思うだろう。  
 のどにからみつきそうに甘く、そして温かい感触に、目を閉じそうになる。  
(……でも、こんな勢い任せなのは、風斬らしくない……! とにかく一旦引き離して話を――)  
 流されそうになる衝動をなけなしの理性で叩き潰し、首を捕らえている少女の腕から逃れようと試みる。  
 が、気づいた。  
“上条当麻には風斬氷華を振りほどくことができない”ということに。  
 はっとして風斬の目を見ると、眼鏡の少女はちょうど息継ぎのために口を離したところだった。両手は上条の首の後ろで組まれたままなので、吐息を感じるほどの至近距離で目が合う。  
(もしかして――“わかっててやってるのか?”)  
 風斬の表情を伺う。  
 熱烈な口づけをしてきた少女は、どこか儚く、申し訳なさそうに微笑んで、  
「ごめんなさい……卑怯なのはわかってます。でも、当麻さん、優しいから。こうでもしないと、私のわがまま、叶わない……」  
 途切れ途切れにそう言って、潤んだ瞳が再び迫ってくる。よけることも思いつけないまま、唇に触れるぬくもりが蘇る。  
 必死な、切実なキス。風斬の行為と想いに、一切の嘘偽りもないことが伝わってくる。  
 風斬はわがままに、思うままに上条を求めている。自分の体の特異性を武器にしてでも、なりふりかまわずに。  
 つまりは、だからこそ、  
(――“わかってないのか”)  
 安堵とも落胆ともつかないものが胸に落ちる。しかし同時に上条の腹は決まっていた。  
 ならわかってもらおうじゃないか、と。  
 
 と言うか、小難しいことを考えていられるのもそろそろ限界である。目の前には涙ぐんだ美少女の顔があって、一心不乱にキスを迫ってきていて、密着した体は溺れてしまいそうなくらい柔らかい。特に胸とか。あと胸とか。そして胸とか。ついでに胸とか。  
 ベンチの背もたれの裏に右手を回し、支柱の一本を握り締める。  
 この先何があってもこの手は外さないと誓いながら、逆の手を少女の背中に送る。  
「……えっ、あ、んむっ!?」  
 背筋を撫ぜると風斬が驚いたように口を離したので、追いかけるようにして上条は自分から唇を押し付けた。  
「ん、はふ、かみ、とうまさ……んぅっ!?」  
 これまでの仕返しと言わんばかりに好き勝手貪りつくす。了承も取らず舌を使い、砂糖の甘さをこそぎ落とさんと蹂躙する。  
 互いの唾液がブレンドされ、媚薬じみたカクテルとなって喉を潤す。  
 どれほどそれを続けたのか、思考がとろけてチーズみたいになるには十分な時間を経て、ようやく上条はキスをやめた。  
 が、背中に回した左手はそのままで、逃がすつもりはまったくない。  
 口撃を受け続けた風斬は息も絶え絶えに、  
「な、んで。駄目、です。これは、私のわがままで、当麻さんは」  
「何もしなくていいってのは無理な話だぞ、風斬。お前ばっかりじゃなしに、少しは俺のわがままも聞いてくれ。つか、責任取れ」  
 風斬が混乱しているのをいいことに、左手一本で器用に少女の体の向きを入れ替えさせる。背中から抱きかかえる形だ。  
 人間椅子と化した上条の膝の上に、強引に座らせられた風斬は、途端に「ひゃん!?」という可愛らしい悲鳴を上げた。  
 座り心地が悪かったのだろう。ちょうどお尻のあたりに何やら固いものが当たっているはずである。  
 まあ、何やらというかナニなのだが。  
「と、当麻さんっ……?」  
「風斬。頼みがある」  
 真っ赤な顔をして肩越しに振り向いた少女に、上条は言う。  
「俺は左手しか使えない。できればこのまま座っていた方がいいと思う。  
 だから、お前がこの先を望むなら、だいぶ任せることになっちまう。それでもいいか?」  
 油断すれば暴走しそうになる体を押しとどめて、出来る限り優しい声色で問いかける。  
 火照ったヒップに押し付けられた逸物はそれ以上に熱をこもらせていたが、それでも上条は耐えた。  
 風斬がどこまでを望んでいるのか、それを確認するために。  
 求められたなら求められた分だけ答える覚悟はできている。問題なのはそのさじ加減だ。彼らはその特異性ゆえに、劣情がために暴走することはできない。  
 ――と、言いますか。いくら人気がないとは言え、公園のベンチでいたすこと前提で話しているあたり、どう考えても暴走中ではある。  
 対して、風斬は眼鏡が曇るほど顔を赤くしていたが、数度深呼吸を行った後に、  
「よ……よろしく、お願いします……」  
 絞り出すようにそう言って、上条の胸に顔を埋めてしまった。  
 暴走中なのはお互い様のようだった。  
 
                      ◇ ◇ ◇  
 
 

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