「あっ…」
浜面に”そこ”を触れられて、麦野の口から小さな声が漏れる。
「い、痛かったか…?」
腫れものに触るように”そこ”に触れる浜面。
そこには色々な感情が含まれているんだろうけど、麦野にはちょっと可愛く思えた。
そっと、首を横に振る。声が漏れてしまったのはくすぐったかったからで、痛かったからじゃない。
大丈夫。全部、全部OKだ。心の準備も、−−−身体の準備も。
「大丈夫」
そのことへの嬉しさ。今から起こることへの不安。心が色んな気持ちでいっぱいに溢れているけど、その原因は全て目の前の男。
「もう、大丈夫だから」
早く、抱きしめて欲しくて。浜面の方へ、手を伸ばす。
今の自分の顔を鏡で見たら、多分自分でも見たことないような表情なんだろうなぁ、と思った。
「約束、果たしてよ…」
”そこ”−−−浜面につけられた傷跡に、もう、痛みはない。
きっかけは、浜面と滝壺の情事を聞いてしまったことだった。
普段の二人からは想像もできない艶かしい声と音に、麦野がまず思ったのは、『羨ましい』ということだった。
自分もして欲しい。抱きしめて欲しい、もっと浜面に触れたい、触れて欲しい。
だが、それは無理なことだともわかっていた。滝壺は浜面の恋人で、私は違う。
仮に浜面に付け入る隙があったとしても…こんな身体の自分を愛してくれるわけがない。
だから、この気持ちは隠そう。全部自分の中に閉じ込めておけば、それで済むはずなんだ。
ちょっとくらい優しくされただけのバカな女が、分不相応な考えを持ってしまっただけなんだと、そう言い聞かせて。
レベル5としてのプライドも何もかも捨てたその決意は、
しかし、そう長くはもたなかった。
そうした想いを麦野が抱くのは初めての事で、それゆえにその想いがどれほど厄介なものなのか、私にはわからなかった。
−−−麦野、最近どうかしたのか?
浜面にそう問いかけられた時、滝壺は確かいなかったと思う。
あの時以来、麦野の二人に対する態度は明らかに違っていた。冷たい、というよりは触れないようにしているかのようで。
−−−別に。何もないけど?
気取られていたことに焦りはあったけど、最初は普通に返せていたと思う。
−−−そうか…でも何か最近の麦野、変だったからさ…
でも、
−−−麦野の事が、心配になって
この一言で、キレた。
その後の私は、もの凄くみっともなかった。
浜面への、滝壺への、ありとあらゆる感情を全部むき出しにして、詰った。
最初は面喰っていたような浜面も、段々とヒートアップしてきて、お互いに感情をぶつけ合った。
嫉妬も、欲望も、全部全部ぶつけた。ぶちまけてしまった。
だからきっと。浜面のあの言葉も、嘘なんかじゃないんだって、信じたい。
『愛してなんてくれない癖にっ!!』
『誰が愛さないっつったんだよ!!』
次の言葉が出なかった。浜面も同じようで、静寂がその場を包んだ。
今私は何と言った? 浜面は何と言った?
顔が熱い。何も考えられない。
頬が熱い。触れると濡れていた。泣いているのか、私は。
その場に崩れ落ちそうになった瞬間、温かいものに抱きしめられた。
−−−はまづら。
声で、滝壺だとわかった。
−−−むぎのを泣かせちゃ、だめ。
弁解しようとする浜面に、滝壺はわかってる、とだけ答えた。
聞かれていた、ということだ。私の醜い感情も全て、聞かれていたのだ。
涙が止まらない。隠すつもりだったのに。全部、閉じ込めておくつもりだったのに。
恥ずかしくて、申し訳なくて、消えてしまいたかった。浜面や滝壺がいなかったら、能力で自分を吹き飛ばしていたかもしれない。
−−−むぎの。はまづらのこと、好き?
そんなだから、その不意の問いかけに、即座に頷いてしまった。
その意味に気付いて、慌てて否定しようとする。
冗談に決まってるじゃない、誰がこんな無能力者に、こいつなんかあんたみたいのがお似合いよ−−−
いつもならさらっと言える強がりも、全く口にすることができない。
−−−はまづら
なんとなく、滝壺が何を言おうとしているのかわかった。
やめて、言わないで。それを言ったら−−−
−−−むぎのを、愛してあげて。
『…お前はいいのか、滝壺』 −−−ふざけんな
『むぎのが泣いているのは嫌だから』 −−−余裕ぶっこいてんじゃねぇよ
『でも…』 −−−テメェらなんかに情けかけられてたまるか
『はまづらは、むぎのを愛するの、嫌?』 −−−私を誰だと思ってんだ
『…いや。嫌じゃ、ない』 −−−私は麦野沈利。学園都市レベル5、第四位の「原子崩し」−−−
−−−むぎのは、嫌?
『………嫌なんかじゃ、ない……愛して、欲しいの……はまづらぁ……っ』
「アイテム」のリーダーとして。レベル5「原子崩し」として。
築き上げてきたプライドも何もかも、その感情の前には無力だった。
『…傷が、治ったら。
俺がつけた傷が治ったら、そしたら−−−』
つながっていた唇を離す。
さほど深いキスではなかったが、麦野の表情はとろけきっていた。
「はーまづらぁ…」
かつて憎悪と殺意を込めて呼んだ名前と同じ名前を、例えようのないほど甘い響きで呼ぶ。
これから自分は、このどうしようもなく愛しい男に愛されるのだ。
きっとそうなったら、私は融けてなくなってしまう。今でさえ、もう自分が自分でなくなっているような感覚がするのに。
「ねえ、はーまづらぁ」
だから、
「今のが私のファーストキスだって言ったら、どうする?」
私が私でいられる間は、私らしくいなければ。
私は麦野沈利。「原子崩し」が、そう簡単に融けてしまってたまるか。
「えっ!?」
案の定、浜面は慌てている。うわーマジかよやべー、なんてあたふたと。
「なーによ、嫌だったっての?」
うんうん、私はこうじゃないとね。そうそう上に立たせてなんてやるものか。
「あー、いや…そうじゃなくてだな…」
頭をかきながら、浜面は答えた。
「…嬉しいぞ」
あ。
融けた。
−−−とある原子崩しの炉心溶融