学園都市暗部組織、アイテム。深夜の仕事明け。  
 仕事にはそぐわない私物を取りに戻るため、メンバー達は隠れ家の廃工場に来ていた。  
「あーっ、湿気で髪がゴワゴワな訳よ!」  
 休憩室跡。隠れ家として活用するために持ち込まれた6人掛けのテーブルやパイプ椅子。寂れた部屋に、真新しさが少し浮いていた。  
 テーブルの上に乗せた手鏡を見ながら、椅子に座ったフレンダが情けない悲鳴を上げた。隣の滝壺理后は釣られて窓を見る。明け方の薄暗い空と、降り出した雨の音。  
「やっぱり降ってきましたね。仕事が早く済んで良かったです」  
「時は金なりってやつかしら」  
 向かいの絹旗最愛と、麦野沈利がそれに同意した。絹旗は何もすることなくベタっと机に頬をつけて気を抜いている。麦野はフレンダと同じく長い髪を気にして、手で触っては毛先を撫でていた。  
 ドアが開いた。下部組織、浜面仕上が車のキーを手で弄びながら入って来た。  
「車、裏に回して来たぜ」  
「ん、ごくろーさん」  
 あまり感謝の気持ちの篭っていない声で麦野が返事をした。慣れっこなのか、浜面は何ら気にせずドアを閉めた。  
 ちらりと麦野が浜面の後ろ姿を一瞥した。駐車先からここまで無防備だったのだろう、頭から肩にかけて雨に降られて濡れていた。  
 浜面が振り返って、ずかずかと男の歩幅で歩いてくる。見ていることに気づかれるのがなんとなく嫌で、すぐに麦野は目を逸らした。と、麦野は、対面に座る滝壺も浜面を見ていることに気がついた。こちらは目線だけではなく、頭で浜面の姿を追っていた。  
「はまづら」  
 滝壺が口を開いた。滝壺の隣の椅子に座ろうとしていた浜面が、動きを止めて滝壺を見た。  
「なんだ、滝壺?」  
「もしかして、タオルないの?」  
 う、と浜面が動揺を見せた。沈黙したまま椅子に座った。図星のようだった。  
 麦野が笑いながら頬杖をついて、口を挟んだ。  
「何よあんた、手ぶらで仕事来たの?」  
「いや、改まって何か持ってくるもの、っていうと別に思い当たらなくってな……」  
 こういう仕事だし、と浜面が付け加えた。麦野が小さく溜息をついた。  
(男はこんな適当でも割とどうにかなるから羨ましいわ……)  
 机に突っ伏したままの絹旗が、浜面に聞こえるようにぼやいた。  
「ま、車の運転手がせいぜいの浜面では、汚れたりなんて滅多にないですからね」  
「ぐ……」  
 それに関しては反論の余地もない。浜面は恨めしそうに絹旗を見やったが、それだけだった。  
 滝壺が立ち上がった。音を立てるパイプ椅子に、その場の人間の視線が集まった。  
 意に介さず、滝壺が歩き出す。壁際のスポーツバッグ。滝壺の私物。しゃがみ込んでファスナーを開けると、中からタオルを取り出した。  
「え」  
 浜面が声を上げた。滝壺がファスナーを閉めて戻ってくる。両手に持った柔らかそうなタオルを、滝壺は浜面に差し出した。  
「使って」  
「滝壺、ちょっ」  
「……」  
 滝壺はタオルを広げる。何か言いたげな浜面の頭に、有無を言わさずタオルを被せた。  
「わっ、おい!」  
「動かないで」  
 視界を塞がれてそんなことを言われてしまうと、従わざるを得ない。動きようもなく固まってしまう浜面。  
 固まったのは他のメンバーも同じだった。唯一、フレンダだけがそれどころじゃないと髪をいじくり倒している。  
 雨の音がする。時折、窓を雨粒が叩いて点々と流れた。  
 滝壺の手は優しかった。水を吸っていくタオル越しに、細い指を感じた。  
(やべ、気持ちいい……)  
 うっとりとした顔をタオルで隠されているのは幸いだと浜面は思った。  
 そのうち滝壺が手を止めてタオルを持ち上げたので、慌てて浜面は口元を引き締めた。実際のところ短くない時間が流れていたが、浜面にはあっという間のことにしか思えなかった。  
「終わり」  
「あ、お、おう」  
 浜面は顔を上げた。じっと真っ直ぐに見つめ返してくる滝壺がいた。  
 「気持ち良かった?」とか、そんなことを聞きたそうな顔をしている気がした。あまり表情に変化はなかったが、何かを期待している目に見えなくもない。  
 
 ただそれを滝壺が口にしないのは、それだとちょっと気恥ずかしいからだろう。  
 浜面も照れ臭いことには違いなかったが、万感の意を込めて笑いかけた。  
「ありがとな」  
 言葉の裏に望んでいた答えを感じて、滝壺は顔を伏せた。タオルをぎゅっと切なそうに抱き締めた。  
「あ、それ。洗って返すから」  
「いいの」  
 その受け答えにただならぬ「いかがわしい予感」を感じたのは、遺憾ながら静観に終始していた麦野だった。  
(ちょ、ちょっとちょっとちょっとー!? それ、そのタオルどうする気!?)  
 滝壺、と口を開きかけた麦野の出鼻を挫いたのは、フレンダの面倒臭そうな声だった。  
「あーもー! 浜面ー!」  
「え、何!?」  
 大声に浜面が驚いた。喋るタイミングを失った麦野は、口をぱくぱくとさせていた。  
 浜面の二つ隣の席に座るフレンダが、浜面に向き直った。  
「髪ブラッシングして」  
 ぐ、とブラシを突き出した。唐突な申し出に浜面が目を白黒させた。  
「はぁ!?」  
「私疲れてる訳よ。で、浜面は今日の仕事、結局車の運転しかしてない訳よ」  
 ああ、そういえばそうだったなぁ。浜面が他人事みたいに呟く。  
 ぐわー、とフレンダが頭を抱えて身をよじった。湿気で癖のついた髪が重たそうに揺れる。ところどころ跳ねた毛先が、フレンダの苦労を物語っていた。  
「深夜から早朝までぶっ続けに働いた挙句、こんな面倒臭いことやってられない訳よー!!」  
「あー……気持ちは分からんでもないが……えーっと」  
 浜面がフレンダから目を逸らした。その先には麦野がいた。「やっていいんでしょうか……」という顔。  
 暫く、麦野は黙っていた。喋ろうとしたのを遮られたのも面白くないし、滝壺のタオルのことを有耶無耶にされたのも面白くない。  
 いつの間にやら浜面の横に立つ滝壺の手からタオルが消えていた。多分どさくさに紛れてスポーツバッグの中に戻したのだろう。したたかである。  
 むすっとしながら麦野は答えた。  
「……やってあげれば」  
 別に、いちいち私に許可取るようなことじゃないでしょ。  
 ひとまずの承諾? を得て、浜面が椅子から立ち上がった。なんだか腑に落ちないような気もしたが、押しつけられたブラシを浜面は受け取ってしまう。  
 フレンダの後ろに立つ。手鏡からフレンダが背後を覗き込むのが見えた。  
 肩をすくめて、浜面は喋った。  
「分かってると思うけど、言っとくぜ。俺はこんなこと生まれて初めてやるからな」  
「んー、そこは浜面の器用さや順応の早さに期待してあげる」  
 器用さなら自信がある。この浜面仕上、かつては駒場の旦那の右腕として立ち回った男だ。スキルアウト随一の頭脳派として、腕には覚えがある。  
 フレンダの琥珀色の髪に指を差し入れた。自分から言い出しておいて緊張してるのか、口を真一文字に結んでいるフレンダ。  
(うわ、すげ、柔らか……)  
 ちょっと感動しそうになった。今更になって、触って良かったものか浜面は後ろめたくなった。  
 とはいえ聞き返したりしてやぶをつつくと今に蛇が出てくるかも知れない。いいと言ったんだからいいと思うことにした。  
 ブラシをフレンダの髪に入れた。  
「……ん」  
 強張ったフレンダの肩が、小さく身じろぎした。  
 上から下へ。髪が傷まないやり方をなんとなくイメージしながら、優しくブラッシングした。  
 鏡で見張るような眼をしていたフレンダの表情が、徐々に緩む。視線が鏡から鏡の枠をぼんやりと見つめるようになった頃、浜面は尋ねてみることにした。  
「どう、なんだ?」  
「ぁ……もうちょっと強くしても平気……」  
 言われた通り、僅かに手の力を強めた。  
 コツが掴めてきたかも知れない。髪を解かすというよりも、マッサージに近い気がした。  
 こっくり、こっくり。本当に疲れていたのか、フレンダが舟を漕ぎ始めた。瞼の重みが増していく。首がふらふらとして、少しやりづらい。  
「こらフレンダ、しっかりしてくれ」  
「……ん……眠……」  
 傾いた頭にやきもきして、浜面が手を伸ばした。ブラシを持っていない方の手でフレンダの頭を支えた。  
 
 頬を撫でる感触にフレンダが目をとろんとさせた。枕のように、掌に体重を預けた。重い手の感触に、世話が焼けると浜面が苦笑した。  
 もうブラシを入れる場所はないというところまでやってから、浜面は声をかけた。  
「フレンダ、もういいか?」  
 髪はとりあえず落ち着いていた。初めてにしては上出来だろ、と浜面は自画自賛する。  
 もうすっかり夢心地のフレンダが、目を瞑って頭をぐでーと後ろに倒した。すぐそこに立っている浜面の胸元に後ろ頭を当てた。  
 両手を掲げる。万歳のポーズ。  
「……?」  
 何か物欲しそうにしているフレンダの意図が読めず、浜面は前のめりになった。パイプ椅子の背もたれに両手を置いて、顔を逆さまに覗き込む姿勢。  
 それが良くなかったのかも知れないし、それが良かったのかも知れない。  
 フレンダは浜面の首元に手を回すと、ぶらーんとぶら下がるようにしてじゃれついた。  
「ぶっ、おま、フレンダ!」  
「浜面ぁー」  
「こらこらこらこらこら!」  
 辛抱堪らず、麦野が横から声を荒げた。さっき浜面の手に甘えていた時から、いつ口を挟んだものかと身構えていた。  
 滝壺と絹旗も何か言いたげな目でフレンダを見ている。「ちぇー」と唇を尖らせながら、フレンダが浜面から両手を離した。  
 腕を枕にして机に伏せる。心地よい余韻に浸って、とろけた表情を見せていた。  
 浜面は狼狽を咳払いで仕切り直すと、ぶら下がられた襟元を空いた手で正した。それからもう片方の手で持っているブラシをテーブルの上に置こうとする。  
 そこで、唐突に浜面が動きを止めた。  
「……浜面? 何固まってんの?」  
 浜面の挙動不審を麦野がいぶかしむ。浜面は何も言わないまま、顔を上げて麦野に向き直った。  
 何かを思いついた顔。だが言ってしまうとそれはもしかしたら盛大な自爆に繋がるかも知れない。緊張で引き攣った表情。  
「何よ」  
 言いたいことがあるなら言えばいい。麦野は続きを促す。  
 言わなければずっと喉に引っ掛かって気持ち悪くなりそうだと考えた浜面は、思い切って言ってみることにした。  
「む、麦野の髪もやってみたいなー……な、なーんちゃって……」  
 フレンダのブラッシングに、なんだか充実感というか手応えのようなものを浜面は感じていた。奉仕の幸せというと怪しい響きだが、要するにそういうやつである。  
 もうちょっと誰かの髪をやってみたいな、ということで、もう一人の髪の長い女の子。麦野のブラッシングを思いついたのだった。  
 ガタン! と、麦野が立ち上がった。反射的に浜面が半歩身を引いた。  
「……マジで言ってんの?」  
「い、いや! 出来心です! 思いついただけです! ごめんなさいマジで怒んないで!」  
 既にガード体制の浜面が弁解する。一方の麦野は立ち上がったまま、食い入るように浜面の顔を見つめていた。  
 直後、ぽすんと麦野が椅子に落ちた。へなへなと頼りない動きで、自分の隣の空席に手を伸ばした。麦野の鞄がそこに置かれていた。  
 一連の動作の意味に思考が追いついて、浜面が聞き返すような声を出した。  
「……え?」  
 麦野が鞄を開けてごそごそと中を探った。ブラシを取り出して、テーブルの上に置いた。  
「やってちょ……や、やりたきゃ。やればいいんじゃないかしら。別に、頼んだりしないけど。あんたアイテムの下っ端だし。メンバーに尽くしたいってあんたが言うんなら、それはいい心がけだと思うのよ。っていうか、自主性って言葉があるじゃない、ほら」  
 そわそわそわ。置いたブラシの位置は、麦野の手元からやや離れていた。  
 これは自分のところに置いたんだと言い張れなくもないが、良く見るとなんだか誰かに拾ってもらいたそうな位置。  
 気のせいかこれみよがしに自分の髪を撫でている麦野の仕草。  
「……」  
 この場に居る誰もが、麦野の準備万端を疑わなかった。  
「あー……分かった。分かった。やる、やりたい、です」  
「そ、そう」  
 半オクターブうわずった声で麦野が返事をした。なんか俺もしかして凄ぇ面倒臭い地雷踏んだんじゃねぇかなぁ……と浜面は一人ごちる。  
 ともあれ。浜面は麦野の後ろに移動した。  
 やはりフレンダと同じく、湿気でやや纏まりが悪い印象だった。夜通しの仕事でくたびれているということもある。  
 何気なく、浜面はブラシを持たずに髪を一撫でした。途端、麦野の体が強張った。  
(触られた触られた今浜面に頭撫でられた頭撫でられた!)  
 フレンダの時もやり始めは緊張していたので、浜面は麦野の硬直を深く考えない。二、三度髪を撫でてから、改めてブラシを手に持った。  
 
「じゃ、始めるからな」  
 左手で髪を寄せ、右手でブラッシング。艶のある髪が滑らかに解れていく。  
 ちょっと意識しながら指で頭皮に触れた。くすぐるように撫でる。浜面の体温が、掠めるように触れては離れた。  
(うわ、うわ、うわ、やば、気持ちいい、どうしようどうしよう)  
 両手を内股に挟みながら俯いている。ツボを刺激するのか、ぴくん、ぴくんと肩が震えた。  
 視線を感じた。斜め前に座るフレンダのものだった。口元は枕にした腕で見えなかったが、笑っているのはなんとなく想像できた。  
 気持ちいいでしょ? なんて声が聞こえてくるようだった。見るな、と言いたかったが、口を開いたらあらぬ声が漏れてしまいそうだった。  
「あ痛っ」  
「あ、悪いっ」  
 思考を遮ったのは、浜面がブラシで髪のもつれを引っかけた痛みだった。謝りながら浜面はそこを念入りに解す。  
 浜面が悪い訳ではない。湿気で一段と酷い癖がついていた。もう少し優しい触り方に変えてやり直していく。  
 我に返った麦野は、先のフレンダの髪を意識してしまう。あれをやっていた時は一度も引っ掛かったりしていない。  
 フレンダよりも強い癖の髪の毛が、なんだかフレンダよりも劣っているみたいで気落ちした。考えすぎとは分かっていても、それでもやっぱりちくりと胸が痛む。  
 どうしようもなくて、溜息を一つついた。  
「麦野?」  
「……ん。癖っ毛がちょっとね」  
 不意の声で顔を上げた浜面に、本音を隠しつつぼやいた。自嘲気味の声色になってしまったのは仕方ない。  
 あまりしつこく長引かせていい話題ではなさそうだと判断した浜面は、それ以上何も言うことなくブラッシングに戻ろうとする。  
 そこで視線を感じて、また顔を上げた。正面に座るフレンダと自分の席に戻った滝壺が、麦野ではなくこちらを見ていた。  
 「言っちゃれ言っちゃれ」と目が言っていた。  
 う、と浜面が息を詰まらせる。どうも何かフォローしてやれとお二方は言いたいらしい。フレンダはまだ分かるが、滝壺まで。  
 肩を落とす。拒否権はなさそうだった。こほんと咳ばらいして、浜面は話しかけた。  
「麦野」  
 低い声だった。演技めいたわざとらしい声だと浜面は思った。  
「何」  
「綺麗だ」  
 浜面仕上は、それが女のスイッチをむやみに刺激する艶やかな音色だとは気付かない。  
 明け方の眠気と体に溜まった疲労は、たやすくその声に引き裂かれて麦野の胸を貫いた。さながら、情交の睦言のような気だるさを持っていた。  
 一瞬麦野は呆けた後、気障なセリフにありとあらゆる罵詈雑言を返してやろうと息を吸った。  
 だが、駄目だった。心拍数がどんどん上がっていって何も喋れなくなる。吸った息の吐き場に困った挙句、悩ましげな吐息をもらしてしまった。  
 頬が赤く染まっていった。耐えられなくて、目をぎゅっと瞑った。  
 鏡を出してなくて本当に良かった。出していたら、後ろの浜面にこの顔を見られてしまうところだった。  
 
「……」  
 絹旗最愛は、一部始終を何も言わずにずっと見ていた。  
 浜面と滝壺、フレンダがまたアイコンタクトを交わしている。きっと『これでいいのかよ?』『上出来』『むぎの、喜んでる。でも後で私にも言って』というようなやり取りだろう。  
 浜面が帰って来てから、会話に参加した回数はもっとも少ない。  
 というのは、浜面の髪を拭いていた滝壺はともかくとして、麦野やフレンダのように自分は髪が長くない。話に入れる場面がなかった。  
 黙っているだけ、見ているだけというちょっと疎外感を感じる時間だった。  
 もうすぐ麦野のブラッシングも終わる。あんな優しい声をかけられながらのブラッシングは、病みつきになるぐらい気持ちいいのだろう。  
 誰にでもなく、絹旗は恨み言を呟いた。  
「……私も髪伸ばしてみましょうか……」  
「ん?」  
 よりにもよって、浜面に目ざとく聞きつけられてしまった。  
 何も言っていないふりで、絹旗は返事をしない。むすっとしながらそっぽを向いた。  
 浜面は暫く考え込んでから、口を開いた。きっとそれは何も考えていないような、間抜けな一言に違いなかった。  
「……短い方が似合ってると思うけどなぁ、絹旗は」  
 そんな言葉で嬉しくなってしまう自分は、超バカだと思った。  
 
 

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