目が合ってしまった。  
 いつもの映画館とC級映画。二人っきり。スクリーンには取ってつけたようなおざなりのラブシーンが映し出されている。  
 人と一緒にそれを見ている気恥ずかしさからか、それとも出来の悪さからか。なんだか画面から視線を逸らしてしまった矢先のことだった。  
 驚いたような顔をした浜面仕上が、絹旗最愛の目を見返していた。  
(なんで、)  
 酷い出来ですね、とか。脚本の悪さを誤魔化すためのシーンですね、とか。そんなことを言えば良かったのかも知れない。  
 浜面もきっと映画の気まずさに耐えかねて視線を画面から外したのだろう。それが全く一緒だったものだから、二人して喋るタイミングを取り逃してしまった。  
 スクリーンの光がお互いの横顔を照らしている。顔色は暗くて良く分からない。  
 顔が、近づいているような気がする。  
「……っ」  
 俳優達の愛の囁きが耳に飛び込む。ぎぃ、と椅子が鳴る音はその後ろに隠れて聞こえなかった。  
 何か言わなきゃいけないと思った。それだけで、この空気は容易に壊れる筈だった。  
 なのに、浜面は真っ直ぐに顔を背けない。こんな顔になんて言えばいいのか絹旗はすぐには思いつかなかった。考えているうちに沈黙はどんどん間延びしていって、喋り出すタイミングを押し流そうとしていく。  
 顔を、近づけているような気がする。  
(キス、しちゃう)  
 浜面。せめてその一言だけでも言おうと思ったのに、口が震えた。  
 場末の映画館の椅子は別にどうということもない座り心地の筈だったのが、今はまるで夢の中のような居心地で絹旗の体を包んでいた。  
 瞼が勝手に重く閉じていく。完全に閉じてしまう直前、浜面もそんな顔をしていたように見えた。  
 喋りそびれた唇は小さく開いたまま、求めるように動きを止めていた。  
(あ、あ)  
 肘かけに乗せた手に浜面の掌が被せられた。体温を感じる。男らしいんだ、なんてことを頭の片隅で思った。  
 もう、キスをすることしか考えていなかった。  
「……ぁ」  
 キス。  
 唇を押しつけ合うだけの、長いキスだった。  
 目を閉じたまま、ずっとそれを感じ合っている。ふぅ、ふぅという息が肌をくすぐったが、それはお互い様だった。  
 映画の内容は、もう頭に入ってこなかった。  
 
 
 
 
「聞いてる、絹旗?」  
 麦野の声で絹旗は我に返った。  
 第7学区、ファミレス。先週の反省会ということで、アイテムは一同に会していた。複数人掛けの席に女が四人、男が一人。  
「え、はい」  
 絹旗は顔を上げた。麦野の席は自分から見て斜め前。  
 正面には、浜面。  
 一昨日に会ったのが最後だった。あの後。キスの後。口を離した後、不自然なぐらいに何も言わず、また映画鑑賞に戻った。  
 お互い無言で映画を見終わって、感想なんて一言も出てこなくって、そのまま二人で席を立った。  
 ずっと手を繋いだままだった。  
 映画館を出て、街を歩いて、いつもの場所で「じゃあ、また」と言って別れた。解いた指がやけに温かかった。だから風が吹く度に冷たくって、胸元でぎゅっとその手を抱き締めながら帰った。  
「あんたからもなんか言ってよ。フレンダのアホが予備の脱出経路にまでトラップ仕掛けくさりやがってさぁ……」  
「だ、だーって! あれは結局麦野が当初のプランのルートを吹っ飛ばしたのが原因なわけじゃん!」  
 大袈裟に手を振り回しながら、絹旗の隣のフレンダが反論した。  
 気分的にはそれどころじゃなかったが、あまり喋らないのも変だと思って、絹旗は麦野のもう反対側の席に座る滝壺に話しかけた。  
「滝壺さんは今回出番ありませんでしたね。まぁ、体晶を使わないならそれに越したことは超ないのですが」  
「うん」  
 短く滝壺が返事をした。アイテムの要である能力追跡は、その使用に大きな制約がかかる。  
 
 極力使わない、また使うのであれば可能な限り迅速に展開する。このメンバーで活動していくにあたっての基本方針だった。  
 麦野とフレンダはまだぎゃあぎゃあ言っている。横目でそれを見ながら、絹旗は溜息をついた。  
(……映画の内容にアテられるなんて。我ながらなんて超単純なんでしょう)  
 つまるところ、それだった。  
 雰囲気に流されて、拒もうともせずに口づけを交わした。あれは……あれは、ファーストキスだった。  
(ああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜もう!)  
 ずっとできるだけ見ないようにしていたのだが、だんだん自分だけあたふたしているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。  
 深呼吸して、正面の浜面を睨みつけた。仕事の話を続ける麦野達をぼーっと眺めている。  
 ドリンクバーのジュースを何の気なしにストローで飲んでいた。その唇に、どうしても視線が集中してしまう。あれが、私の初めて。  
「……」  
 がじ、と浜面がストローを噛んだ。  
 なんてことない動作だったかも知れない。噛んで、すぐに放す。プラスチックの弾力でストローは元の形に戻ろうとする。  
 上の空な表情が妙に気になった。自分も麦野に呼ばれるまではあんな顔をしていたのだろう。  
(……あっ。あ、あ、ああ)  
 そして、気づいた。  
 かぁっと顔が熱くなる。心臓の鼓動が速くなっていく。  
 ぼーっとしている浜面。さっきまであんな顔をしていた自分。ストローを噛んで小さく開いた唇。あの時と同じぐらい。  
(浜面、今、絶対、絶対、キスした時のこと考えてる……!)  
 一も二もなく確信した。恥ずかしくて泣きそうだった。  
 視線を感じた浜面が、我に返って絹旗を見た。あわわわわ、と真っ赤になりながら口を震わせる絹旗と目が合った。  
「あっ」  
 それで浜面も思い至った。慌てて何もなかったかのように視線を逸らす。が、気まずそうな、照れ臭そうな表情を絹旗は見逃さなかった。  
 自分が何を考えているのか、絹旗に見抜かれたことに気がついていた。  
 恋人同士のように、何も言わずともお互いの考えていることが通じ合ってしまった。胸がじんじんする。理由は分からない。  
「……ぅぅぅぅ!」  
 バン! と、大きな音がした。絹旗がテーブルを叩いて立ち上がる音だった。  
 驚いた皆が何事かと絹旗を見返してくる。事情をなんとなく理解している浜面だけが、少し違う顔をしていた。  
「……車に携帯を忘れて来ました!」  
「あ、ちょっと、絹旗っ?」  
 外の空気を吸いたかった。呼び止めようとする麦野の声を振り切って絹旗は歩き出す。  
 絹旗の背中を見送りながら、滝壺が首を傾げた。  
「はまづら? 車の鍵ははまづらが持ってるんでしょ?」  
「あ、ああ……」  
 何しに行くんだろ、という顔を皆がする。浜面は答えられなかった。  
 
 
 
 
 麦野の希望で、第5学区に向かうことになった。  
 第7学区からはそれほど離れてないが、下道は混むという理由で高速を利用する。  
 ミニバンが走り出す。その助手席に、絹旗はいた。  
(……超失敗しました)  
 居心地の悪さに店を飛び出したまでは良かったが、滝壺の言った通り車は開けようもなく。  
 所在なさ気に車に寄りかかっていると、会計を済ました麦野達が戻って来て。  
 顔を合わせられなくて車に飛び乗ったらそこは助手席。当然、運転するのは浜面。今更降りて誰かに変わってもらうのも怪しい。  
 渋々、借りて来た猫のように助手席で大人しくしていた。  
「浜面ー。シャケ缶開けていいー?」  
「あー、ちょっと待ってくれ」  
 最後列に座るフレンダに声をかけられて、浜面がインパネに手を伸ばす。エアコンのスイッチを回した。  
 
 高速に乗る。インターチェンジを通って、速度制限が大きく緩和された。アクセルを踏み込んで、車が加速していく。  
 景色が流れていくのを、絹旗は頬杖をつきながら見ていた。  
 ちらりと、浜面を盗み見る。隣に好きとも言わずにキスをした女の子がいるというのに、車の運転なんかに集中している。なんだか無性に腹が立った。  
 ATのセレクトレバー付近に放り出してある左手の甲を、つねった。  
「痛ぇっ!?」  
「バーカ。浜面。超浜面」  
「なんだこのやろっ……」  
 そこまで言っても、それ以上は強気に出れない。浜面だって原因は良く分かっていた。  
 浜面はバックミラーで後ろの様子を見た。つねられる痛みより、騒いで他の皆に気取られることの方が今は問題だった。  
 後ろでは、フレンダと麦野が話をしていた。  
「麦野もシャケ缶食べる?」  
「んー? じゃあ一口」  
 中席の麦野は後ろを向いている。滝壺はその横で静かにそれを見ていた。  
 今のところ、誰もこちらに注意を払っている気配はない。ほっと一息ついた浜面が、甘んじてつねられることにして、再びフロントガラスを見た時だった。  
「っとと!」  
 浜面がブレーキを踏み込む。急ブレーキというほどではなかったが、車は思ったよりも揺れた。  
 渋滞だった。  
「わあ!?」  
 フォークでシャケを運んでいたフレンダが姿勢を崩す。滝壺は前のめりに、麦野は後ろに引っ張られた。  
 べしゃ。フォークで刺していたシャケが、フレンダの足元に落ちた。  
「あーっ! 浜面ー!!」  
「悪い、フレンダ! 5区に着いたら一缶奢る!」  
「二缶!」  
 そりゃたかり過ぎだ、と浜面が言い返した。  
 席に座り直しながら麦野が前を向いた。視界の先まで車が列をなしている。ドア一枚隔てた向こうに行き場を失った排気ガスが充満していることを思って、麦野がうめいた。  
「ちょっと浜面。下道は混むから高速に乗ったんじゃなかったの」  
「俺のせいじゃねーっつの」  
 ハンドルから手を放して浜面が答えた。事故か、工事か。多分事故だと浜面は思った。これでは当分動けそうもない。  
 ふと、左手をつねられる感触が消えていた。  
 思わず絹旗を見返してしまった。つねっているところを皆に見られると思ったのだろう、絹旗は咄嗟に手を引っ込めていた。  
 いきなりの事態に面喰って、ぽかんと上目遣いに浜面を見ている。  
 あ。ヤベぇ。  
 その顔は、スイッチが入る。  
「ねー、誰かティッシュ持ってない?」  
「待って、フレンダ」  
 滝壺がポシェットからポケットティッシュを取り出した。受け取ったフレンダは一枚抜き出して、座ったまま手を足元に伸ばそうとする。  
 どこに落としたのよ、と再び麦野も後ろを向く。滝壺も覗き込もうとした。誰もこっちを見ようとしていない。  
 確認してから、浜面が体を乗り出した。  
(……え、あっ?)  
 シートベルトが伸びる。後ろの席を気にしながら、浜面が絹旗の方に体を寄せようとしている。  
 ずっと絹旗は浜面を見ていた。何をする気なのかは、すぐに分かった。  
(嘘っ、ここで)  
 浜面の方の肩を掴まれた。優しく捕まえられたようにも思えたが、逃げられないようにされた気もした。  
 実際、絹旗は動けなかった。色んな手段で浜面を拒むこともできたのに、肩を触られただけで全部封じられてしまった。  
(皆、)  
 ヘッドレストの隙間から潤んだ目で後ろを見た。誰もこちらに向き直る様子はなかった。  
 体が強張って、肩をすくめた。怖かったのか、これから襲ってくるとろけそうな感覚に身構えたのかは自分でも分からなかった。  
(見ない、で……)  
 皆の目を盗んで、浜面とキスしようとしてる。背徳感に背筋が震えた。  
 浜面はもう目の前にいる。絹旗の自惚れなんかじゃなく、愛しい人を見る目だった。嬉しいと思うより先に、目を瞑っていた。  
 
 二回目の、キス。  
 ちゅっ、という唇を吸う音がした。とても小さな空気の震えだったが、それを一番敏感な部分で感じた絹旗にとっては爆発に等しかった。  
 どろどろに溶けていく。見られるかも知れないなんて考えはとっくに吹き飛んでいた。  
 肩を触っている浜面の手に、自分の反対側の手をやった。手の甲を掌で包む。  
(一昨日とは……逆……)  
 そんなことをぼんやりと考えていた。  
 唇からじわじわと熱が伝わってくる。胸の深いところまで染み込んでいく。一心に瞼を閉じて、少しでも強くそれを感じていたかった。  
 もう、駄目になってしまいそうだった。  
「……? あれ、浜面? 何やってんの?」  
 シャケをティッシュで拾ったフレンダが体を起こした。絹旗の席に身を傾ける浜面に気がつく。釣られて滝壺と麦野も前を向いた。  
 その一瞬前に、浜面は唇を離していた。  
 更に身を乗り出して、白々しくも絹旗の座席脇に手を伸ばしているように振る舞う。  
「あ、いや、助手席の隙間に喉飴の袋が落ちててさ」  
「喉飴?」  
「ちょっと前にスキルアウトのダチを乗せたんだけど、そん時に落としてどっかやったのを今見つけた」  
 苦しいか? フレンダからは見えない位置で浜面が顔をしかめる。  
 が、特に関心がなかったのか、フレンダは「ふーん」とだけ言ってまたシャケ缶を食べようとしていた。  
 ほぅと溜息をつく。そこで、別の話題で流すべきだと判断した絹旗が助け舟を出した。  
「ほ、ほら浜面。車が動いてますよ。そういう超どうでもいい事は後にしてください」  
 浜面が顔を上げる。渋滞の奥が動き始めているのが見えた。お、おう、と言って浜面がハンドルを握り直し、アクセルを踏み込む。  
 気分はほとんど共犯者だった。  
 
 
 
 
 サービスエリア駐車場。  
 車の流れが正常化するまで、ひとまず時間を潰すことになった。  
 麦野とフレンダは軽食を食べに。滝壺は売店を見に車を降りた。中に残っているのは浜面と、絹旗。お互い気不味そうに、そっぽを向きながら座っている。  
 今日初めての二人っきりだった。  
「……拒まなかった私にも非はあります」  
 先に切り出したのは絹旗の方だった。顔を動かさず、正面のフロントガラスをじっと見据えている。  
 主語がなかったが、何の話をしようとしているのかは浜面もすぐに分かった。  
「超正直に言えば、憎からず思っていなくもないんです。超不本意ですが」  
 本当に嫌なら、一昨日の時点で拒んでいた。  
 その言葉の言わんとするところに思い至って、浜面が顔を上げる。絹旗の横顔を見返した。  
 声に出すことで気持ちの整理がついて来たのか、絹旗は赤面していた。  
 徐々に感情が溢れてくる。  
「でも。その、勝手だって分かってますけど。でも、でもやっぱり……っ」  
 どうしても言いたいことがあった。  
 唇がわなわなと震えてくる。涙が眼尻に溜まっていく。  
 とうとう感極まってしまった絹旗は、ぼろぼろと泣き出してしまった。  
「ちゃん、とっ……言葉にし……て、言っ……っ……くださいよぉ……!」  
 もしかしたら。自分の、一瞬の快楽のためだけに、唇を奪われたのではないか。どこかでそんなことを思っていた自分を顧みて、今更ながらに思う。  
 ああ。自分は、不安だったんだ。  
 絹旗の気持ちを知って浮かれそうになった浜面の心に、冷や水が浴びせられる。何か言いかけた口を戒めて、閉じた。  
 ゴメンな、とは言える。でもそうじゃない。  
 もう一度浜面は体をシートから離して、絹旗に近づく。涙を袖で拭っていた絹旗の手を取った。  
 今度は、抱き寄せた。  
 センターコンソールの真上で抱き合うような格好になった。ニットワンピの柔らかな感触と匂い。絹旗は抵抗しない。  
 額同士をくっつけ合う。まつ毛が触れ合ってしまいそうな至近距離。充血した、だけどうっとりとした瞳。息を吸って、言葉にする。  
 
「絹旗。好きだ」  
 浜面の服の腰辺りを、絹旗がぎゅっと掴んだ。心臓の音が聞こえてしまうに違いなかった。  
「好きだ。絹旗。可愛い。我慢できねぇ。顔見るとキスしたくなる。滅茶苦茶にしてやりたい。ホントしょうもねぇぐらい好きなんだ」  
 とっくに滅茶苦茶にされている、と絹旗は思った。これ以上何かされたら、自分を自分たらしめる大事な部分が飛んでいってしまう。  
 暫し、無言が続いた。  
 焦らし合うような時間。答えなんてお互い分かりきっている。我慢の限界だった。  
「……好きなら、いいです」  
「……、」  
「キスしてもいいです……」  
 今度は絹旗も浜面の背中に手を回した。密着。胸と胸を擦りつけ合うように抱き締めた。  
 浜面が体を引いた。しがみついたままの絹旗が、センターコンソールを跨いで運転席に飛び込んでくる。一席に二人。下に浜面。上に絹旗。  
 愛しい愛しい二人だけの世界。  
 何よりもまず、浜面は涙の跡が残る頬にキスをした。ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と眼尻まで上がっていく。微かに残った涙のしずくを吸った。  
 反対側にもキス。涙の味。絹旗は両目を閉じて、眠るように力を抜いた。自分の全てを浜面に任せる。  
 頬から更に上がっていって、次はおでこいっぱいにキスの雨を降らした。眉毛、髪の付け根、万遍なく与えられる快感。  
(キス、凄い……)  
 一週して、今度は降りていく。唇を肌に走らせて、顎へ。器用に上下の口唇で輪郭を甘噛みしていった。そこから下がって、首筋にキス。  
「はぁん……」  
 自分でも信じられないような吐息が漏れた。  
 鳴かされている。齢にはおよそ不釣り合いな体験で体を開発されている。浜面の興奮を直に感じた。  
 首筋をつつつ、と舌が這っていった。耳に向かって登っていく感触に背筋が震える。到達すると、二、三度のキス。そして、おもむろにかぷっと耳を噛まれた。  
「あん!」  
 強すぎる刺激だった。体が硬直する。穴の中まで舌を入れられる。反対側の耳に浜面の手が伸びた。同じように、指を差し込んだ。  
 絹旗の世界から音が消える。じゅぽっ、じゅぽっ、じゅぽっ、という水音だけが聞こえる。   
「あーっ、あーっ、あーっ! 無理無理無理やめて浜面やめてぇ!」  
 最早悲鳴だった。腰に回された手と、差し込んだ指以外の手ががっしりと絹旗を掴んで離さない。  
 絹旗の体が浜面の膝の上で痙攣を起こす。浜面の腰に回していた手を、絹旗は首に回してかじり付いた。  
「はぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……」  
 愛撫が終わる。茫然自失となった絹旗がゆっくりと体を起こした。焦点の合わない目で浜面と顔を突き合わせた。  
 浜面に跨るために広げた股間が、やけに切なくて、ムズ痒い。  
「はぁっ……はぁっ……どうして……キス……」  
 一度は拭い取られた涙がまたこぼれそうになる。再び瞼にキスを落とすと、ぴくんと絹旗が揺れた。  
「どうしてキスしてくれないんですかぁ……」  
「してるぜ?」  
「じゃなくて……キス……ちゅぅ……口ちゅぅ……キスぅ……!」  
 少し意地悪だった。言いたいことは分かる。  
 甘えた声でねだる絹旗の頭を優しく撫でた。髪の毛がくしゃくしゃと音を立てる。背中をぽんぽんと叩く。  
 浜面が頭を傾けた。申し合わせたように絹旗も反対に首を傾げる。  
 三回目のキス。両手を絹旗の頬に添える。体から頭まで全て浜面の体温に包まれて、頭がぼーっとした。  
 柔らかな紅唇をかぷかぷと甘噛みする。それから口をすぼめて、音を立てながら吸い合った。慣れてきたような気もしたが、胸の鼓動は未だ初めてのように高鳴っていた。  
「ちゅぷっ……ちゅっ……ちゅっ……ん……ぷぁっ」  
 口付けを解く。気の抜けてしまった絹旗が、くてっと浜面の肩に頭を預けた。  
 そのまま暫く余韻に浸っていた。無音の車内に二人の吐息だけが響いている。肩につけた鼻をすんすんと鳴らしてしまう。浜面の匂い。  
 ふと、股間に当たる硬い感触に絹旗は気がついた。  
「……浜面。これ」  
 絹旗が体を起こす。じとっとした声。これ、という言葉に浜面が我に返った。  
「え……あ、あっ。いや、その」  
「……したいんですか?」  
 内心の動揺を悟られないようにしながら絹旗が尋ねた。  
 予感はあった。それに、できあがっているのは自分も同じだ。もし本当に強引に迫られたら……多分、拒めない。  
 
 なんとか言葉を選ぼうと浜面は口の中をもごもごさせていた。が、何も見つからなかったのか、結局はガックリと肩を落とす。  
「……ハッキリ言う。超したい」  
 絹旗の十八番を奪いながらの正直な告白。この期に及んで隠しても仕方がない。  
 ただ、浜面からしてみれば一昨日も今日もかなりがっついている。挙句、今ここで事に及びたいというのは流石に気が引けた。  
 絹旗もその辺の葛藤は分からなくもない。少し間を置いて、喋り出す。  
「……私もしたくないわけじゃないんですよ」  
「マジで!?」  
 思わず聞き返す浜面に、恥ずかしそうに絹旗が頷いた。  
 したいし。してあげたい。自分の中にそんな感情が生まれることが絹旗はくすぐったくて堪らない。  
「いや、でもですね。あの……その。私、超、初めてというか。いや、別に初めてじゃなければいいとかじゃなくて」  
 要領を得ない絹旗に、浜面が怪訝な顔をする。  
「だからその……初めてが。車の中ってのは……お、女の子的に、ちょっと……」  
 あ、と小さく浜面が声を上げた。  
 自分の口から「女の子」なんて単語が出たことが照れ臭くて、もう一度頭を浜面の肩に押しつけた。  
「……はは。そっか。いや、そりゃそうだよな」  
「うぅー」  
 その笑い方がなんだか面白くなくって、絹旗は押しつけた頭をぐりぐりとさせる。  
 浜面は笑いながらそのまま受け止めていたが、やがて両手を絹旗の肩に置くと、少しだけ体を離させた。  
 誤魔化しの効かない距離。真っ直ぐに絹旗の瞳を見ながら、浜面は言った。  
「絹旗」  
「……はい」  
「お前のこと、大事にする」  
 浜面仕上という男は、たまにこういうことをやらかすから分からない。  
 胸いっぱいとはこういうことを言うのだと知った。心の奥底から抑えようのない気持ちが溢れてくる。  
 衝動に突き動かされて、絹旗は浜面の唇を奪った。  
「浜面は超ずるいです!」  
 不意打ちに、浜面があっけに取られる。  
 絹旗はやっとの思いでそれだけを叫ぶと、勢いよく浜面の胸板に顔を埋めた。今、顔を見られるわけにはいかなかった。  
 どうしようもないくらい、嬉しかった。  
 
 
 
 
「で、だ。絹旗」  
「は、はい?」  
 唐突な切り出しに、赤くなった顔もそこそこに絹旗が顔を上げた。浜面の表情が引き攣っていた。  
 何があったのか妙に思っていると、浜面はそのまま話を続けた。  
「お前を大事にすると言った手前、早速で悪いんだが……これ、どうしたらいいと思う?」  
 浜面が、絹旗の背後を指差した。  
 指先を追って絹旗が振り返る。フロントガラスの、その向こう。何を言わんとしているのか理解した絹旗が、固まった。  
「……」  
 見知った顔が三人、そこに立っていた。  
 赤くなってもじもじと下を向きながら、時折ちらっと申し訳なさそうに顔を上げる滝壺。うひゃーと顔を両手で覆いながら、指の隙間からばっちり見てにやにや笑っているフレンダ。口をへの字に曲げて腕を組み、真っ赤になりながらぷるぷると肩を震わせている麦野。  
 フロントガラスを隔てた先に、沈黙が重々しく横たわっていた。   
「……超、見られて?」  
「るだろうなぁ……あの反応じゃ」  
 諦めたように天を仰いで、浜面が力なく笑う。絹旗はゆっくりと首を戻すと、浜面の胸元からそれを見上げた。  
 言い逃れができる状況ではない。つい今の今まで、浜面に馬乗りになって唇を貪っていた。どうするというよりは、既にどうしようもなかった。  
 それなら。  
 
(……まだ。キスしてたい、です)  
 素直にそう思ってしまった自分に驚いた。ただの開き直りだと思う。でも、本当の気持ち。  
 熱を帯びた絹旗の視線に気付いて、浜面が絹旗の目を覗き込む。それから絹旗の思うところを理解して、二人でくすりと笑い合った。  
 浜面が座席の脇に手を伸ばした。喉飴の袋が落ちているわけではない。座席を倒すためのレバー。  
 それを横目で見てから、絹旗は言った。  
「超見せつけてやりたいです」  
「名案だ」  
 浜面がレバーを引いた。絹旗が体重をかけて、座席ごと浜面を押し倒す。  
 滝壺が小さく「わ……」と悲鳴を上げ、フレンダが笑いながら「いいぞやれー!」と野次を飛ばし、麦野が「コラァ!?」と腕を振り上げるのが見えた。  
 皆頬を赤く染めていたのを見るに、どうやら成功のようだった。  
 
 

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