閉めたカーテンの向こうには、もう夜の月が登っていた。  
「よぅ、吹寄」  
 ガラガラと音を立てて病室の扉が開く。顔を覗かせたのは上条当麻だった。  
 ベッドに横になっている吹寄制理が首だけ動かしてそちらを向いた。扉を閉めて、上条が部屋に踏み込んで来る。  
「上条当麻」  
「大丈夫か?」  
 気分は落ち着いていた。ただ、大覇星祭の熱まで一緒に奪われてしまったような気がした。  
 意気込みはあった。それを熱中症なんかで空回りさせてしまったことの、取り返せない時間がじくじくと胸を刺した。  
 目を瞑る。溜息をつきながら吹寄は答えた。  
「後悔のあまり寝込んでしまいそうよ」  
「ハハ……」  
 乾いた笑い声を上げる上条の声色がふと気になって、吹寄は瞼を開く。ベッド脇の椅子に座ろうとしている彼の顔が、やけに暗く見えた。  
「……どうして自分のせいだとでも言いたげな顔をしているの?」  
「……」  
 上条の返事はない。それでも笑おうとして、できなかった唇の隙間から食いしばった歯が見えた。  
 どうしてそんな顔をするのか吹寄には分からなかったが、彼なりに思うところがあったのだろう。そういえば、今日もよくよく振り回された。  
 あえて主語をぼかしながら、吹寄は尋ねる。  
「……反省してる?」  
「してる。ごめんな、吹寄」  
 深くは詮索しない気遣った言い回しに上条は心の底から感謝した。真っ直ぐに答えたのはせめてもの筋だ。  
 殊勝な態度の上条に、思わず吹寄は笑ってしまった。いつもそうならもう少しマシなのに。噴き出す吹寄に、上条が目を丸くする。  
 息を整えてから、改めて吹寄が顔を向き直らせた。  
「上条当麻」  
「なんだよ?」  
 一瞬、躊躇する。これから自分は突拍子もないことを言おうとしている。小さく唾を飲み込んでから、それでもあたしらしく、堂々としていようと決めた。  
「キスして」  
 身じろぎしようとしていた上条が、そのまま固まった。  
 沈黙。居心地の悪い間。じわりじわりと浮かんでくる嫌な汗を堪えながら、吹寄は上条から目を逸らさずに返事を待った。  
 暫くして、ばつが悪そうに上条が頭を掻いた。  
「あー、吹寄さん……あの、自分でもそういうのには疎い方だと思いますがね。明かに今、そういう空気じゃありませんでしたよね?」  
「聞いて」  
 上条の言葉を吹寄は遮った。  
 時間稼ぎみたいな話は聞きたくなかった。実際、上条も多少はそれを期待していた。場凌ぎを見透かされたみたいでギクリとなる。  
「お医者さんに言われたの。過労だとか、熱中症だとか」  
 上条は無言で頷いた。ここの医者には自身も世話になっている。とても真相は話せなかったが、悪いようにはされないだろう。  
「ただ、倒れた身としてはやっぱり不安だったわ。『あたし、死ぬの?』なんて真面目に聞いちゃったわよ」  
 自嘲しながら、吹寄は掛け布団の中から右腕を引き抜いた。病室のやや冷えた空気。  
 天井にゆっくり手を伸ばす。当然、届かない。  
「その時に思ったの。死にたくないとか、もちろんそれもそうだけど。クラスの纏め役とか、大覇星祭の実行委員とか、いっぱい色んなことやってるけど」  
 右手を見上げる。そして、開いた掌を閉じた。握り締めるというほどの強い力はない。  
「あたしはまだ、何もしてないんだって」  
 死んでも死にきれない。そんな言葉を使えばいいのだろうか。吹寄は上手い表現を見つけられなかったが、ただ自分が生きているということを現実問題として直面させられるのはあの時が初めてだった。  
 右腕を掛け布団の上に降ろす。それから、呆れたような顔で吹寄が笑った。  
「だからってキスしたいってのは、自分でも突飛だと思うけど。ねぇ、上条当麻。恋とか、それからキスとか。世の中にはあたしの知らないことがまだまだいっぱいある。死ぬことを意識した時、それを知りたいって思ったあたしは、変かしら――んっ」  
 唇を塞がれた。  
 頬を包む両手の感触。何が起きたのか頭が追いついて、後は目を閉じた。真っ暗な世界に二人だけ。心臓の音が聞こえる。  
 ゆっくりと体温が離れる。短かったのか、長かったのかはわからなかった。  
「……」  
 二人分の静寂。相手の瞬きしか目に映らない距離。熱を帯びた頬を包む両手はまだ離れていない。  
 その片手に吹寄が右手を重ねた。頭を傾けて、体重を預けた。  
「……言わなくてもわかると思うけど。誰でも良かったってわけじゃないからね」  
「……俺だって。して欲しいって言われたからってだけでしたわけじゃねぇよ」  
 
 吹寄がもう片方の手を出して、上条の両手に添えた。それから頬から離させる。  
 行き場をなくした上条の両腕がぶらりと垂れ下がった。吹寄の手が掛け布団の縁を掴む。引っ張り上げて、口元を隠した。  
 眉を八の字に寄せた吹寄が、布団越しに何かぼそぼそと呟いていた。  
「……良かった」  
「え?」  
「気持ち良かった」  
 今度こそ上条は赤面した。そして、きっとそれは布団で口元を隠した吹寄も同じだった。  
 
 
 
 
「じゃ、俺は帰るからな」  
「うん」  
 上条が椅子から立ち上がる。扉に向かって歩いていく背中を吹寄は見つめていた。  
 扉を開けた。入って来た時と同じ、ガラガラという音。  
 そこで、上条の足が止まった。振り返る。開けっぱなしの扉を放っておいて、二、三歩ほど戻って来た。  
「吹寄」  
「……何?」  
 さっきよりも少し離れた距離。聞こえるように、上条は大きな声を出す。  
「その……頑張れ!」  
 ふいにしてしまった今日一日。本当なら何の憂いもなく楽しめていた大覇星祭。台無しにしてしまった今に、せめて頑張れと言いたかった。  
 多くは語れない。今日のことだって。伝えられれば楽なのに、伝えられない。  
 こんな気休めしか言えない自分にやるせなさを覚える。もどかしそうな顔をしながら、それでも上条は言った。  
「俺も頑張るから! お前が大覇星祭のこととか、色んなこと全部頑張ってたのは俺がちゃんと知ってるから! 何かあったら俺も手伝ってやるし、それにみんなのことだって……!」  
 そこまで言って、上条は声を詰まらせた。そして小さく、今度は誰にも聞かれないように言った。  
「俺が守るから……!」  
 吹寄にその言葉は聞き取れない。ただ、悔しそうな上条の顔だけが見えた。  
 全てのことを理解できたわけではなかった。言えなかったことがあるのもなんとなく理解した。  
「ありがとう」  
 それでも気持ちは伝わったと、吹寄は微笑んだ。何が言いたかったのかよりも、何を想っていたのかを汲み取ろうと思った。  
 上条の胸がとくんと鳴った。それから、不意に自分の言ったことが猛烈に照れ臭くなった。  
「そ、それだけだからさ! じゃあ、おやすみ!」  
 早口でそれだけ言って、小走りに病室を出ようとする。開けっぱなしの扉をくぐって、今度はしっかりと閉めた。  
 部屋に静けさが戻る。吹寄は笑いながら上条を見送ると、頭に敷いた枕を両手で持ち上げた。  
「……大声を出すな。他の患者に迷惑だろうが、まったく」  
 そう言って、枕を顔に降ろして抱き締めた。ぽす、という音がした。  
 
 
 

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