『2月14日』という日付の持つ意味を、まだ幼い少女が知ったのは彼女が上位個体として統轄しているMNWに飛び交う会話がきっかけだった。
『好きな異性にチョコレートを贈る日』
そんな乙女心を擽るイベントに、ややミーハーなところのある彼女が食いつかないわけがない。
MNWではツンツン頭の少年に如何にしてチョコレートを渡すのか、チョコレートはどのように入手すればよいのか、手作りをプレゼントしたい場合のレシピは、といったことが、正攻法・搦め手・抜け駆け・牽制等々轟々と話し合われている。
ヒーロー争奪戦に加わるつもりのない彼女は気楽なもので、意中のあの人好みの、甘さを控えたチョコレートのレシピを検索すると、陰謀渦巻くネットワークからとっとと離脱し準備にかかる。
一番簡単なレシピは、既製品のチョコレートを溶かして自分好みの形に再構成する、といったものらしい。
独力でこっそりと作ろうと決めていた打ち止めは、ちょっと良いビターチョコレートと、可愛らしいハートの型を購入して帰宅した。
保護者二人は出払っていて、一方通行は夕方まで帰らない。一人で留守番している今がチャンスである。
チョコレートを細かく刻んで、湯煎にかけて。とろとろと蕩けたチョコレートは、ふわりと甘い香りを放つ。
「美味しそうってミサカはミサカはチョコレートの匂いにうっとりしてみたり」
甘党の彼女には、至福の一時だった。後はこのチョコレートを型に流し込んで、固めて、デコレーションするだけだ。簡単である。
しかし、彼女に悲劇は訪れる。
「溶けたチョコレートを型にいれるぞー、ってミサカはミサカは…ひゃあっ?!」
浮かれた足取りの彼女のスリッパがすっぽ抜けて、打ち止めは盛大にこけた。
宙を舞ったボウルから中身が零れて、キッチンをベタベタに汚す。その甘い雨は彼女にも降り注ぎ、空色のエプロンや可愛らしいワンピースまでチョコレート塗れになった。
「うそ、」
へにゃりと床にお尻をついた打ち止めは、目の前の光景に泣きたくなる。
「うそうそうそ、ってミサカはミサカは叫んでみたりっ」
幾ら否定したところで、キッチンも彼女もチョコレート塗れであることは変らぬ事実であり。
失敗するなど想定していなかったので、予備のチョコレートなどはあるわけもなく。
そして更に運の悪いことには、
「オマエ、何愉快なことやってンだァ?」
不始末を取り繕う暇もなく、予想外に早く帰ってきた彼に、大惨事を目撃されてしまったのだった。
「…っ、」
打ち止めの大きな瞳に涙の膜が溢れて、睫毛に雫が張り付いた。
その様子にほんの少しだけぎょっとした表情を浮かべた後で、一方通行は白い髪をくしゃりと乱した。
「片付けは手伝ってやる」
保護者に怒られることを恐れているのだろうと直感した彼の多少の優しさである。しかし、彼女が泣き出しそうな理由はそこにはない。
「…あなたに、たべてほしかったのに、ってミサカはミサカ、はっ」
はあ、と溜め息を吐き、彼はチョコレートを上手く避けて彼女に近付くと、目の縁に涙をいっぱいに溜めた打ち止めに視線を合わせるように膝をつく。
「オマエなァ、俺がンな甘ったりィもン食うわけねェだろォが。意味わかンねェ」
「だって、…バレンタインだから、って、ミサカはミサカは、あなたにチョコレート、わたしたかったの」
はたり、とついに涙の雫が落ちた。ゆるゆると少女の頬を伝うそれは、彼女の顔に飛んだチョコレートと混じり合う。もう一度、彼は溜め息を吐いた。
「アホくせェ」
そう小さく呟いて、一方通行は、涙が混ざっててほんの少しだけ塩辛くなったビターチョコレートを舐め取った。
「?!」
ぬるりとした生温かい感触が頬を這う。予想だにしなかった彼の行動に、打ち止めは軽くパニックに陥る。
「ななな、なめっ?!」
「……甘」
「言うことはソレじゃないと思うのってミサカはミサカは突っ込んでみたりっ! あとビターチョコ使ったから、そこまで甘くはってひゃあ?!」
ぺろりと再び頬を舐められて彼女は奇声を上げる。温い擽ったさに加えてよく解らない感覚がゾクゾクと背筋に走った。
「普通に甘ェっつーの」
頤を伝って首筋へと垂れかかるチョコレートを舐めながら、一方通行は感想を寄せる。溶けたチョコレートは固体の時よりも香りが立って、甘ったるさにくらくらする。
「ちょっとあなたって…ひゃんっ」
猫の仔が順々に毛繕いをするような調子で、首筋から首元へとつつつと滑る舌先の感触に、打ち止めの身体はひくりと震えた。
先ほどまでとは違った意味で目の縁に涙を溜めて、頬を真っ赤に染めた少女の様子を気にすることもなく、ブラウスと胸元の境界線のところまで綺麗にチョコレート舐め取ると、つい、と一方通行は彼女の手を取った。
チョコレートの飛沫が白い指先を汚している。彼は特に躊躇うこともなく、華奢な彼女の指を口に含んだ。
「……はふぅ、」
飴を舐めるように、一方通行は打ち止めの指を舌先で転がした。熱い口内に冷えたそれはキモチイイ。味蕾が彼女の指先の造型を細部までなぞりあげる。
打ち止めは回らない頭で、ただただその行為を甘受していた。
チョコレートの味が消えたのか、それとも何かに満足したのか、彼が彼女を解放したときには、打ち止めの指先は入浴したときのようにふやけていた。
「ご馳走さン」
恐らくチョコレートに対してなのだろうが、いろいろと凶悪すぎる、しれっとした様子の彼に対し、
「……おそまつさまでした、とミサカはミサカは返答してみる」
真っ赤になって腰の砕けてしまった打ち止めは、若干的外れな言葉を返すことしかできなかった。
おわり。