†††  
 
 予想だにしない温もりの感触を唇に乗せられ、一方通行は言葉を失った。  
 時間にしてみれば時計の秒針が一つ動く程度。その仕草は、口づけと呼ぶには少々稚拙すぎるのかもしれない。  
 押し当てるように、ただ唇と唇を触れ合わせただけ――そんな程度のものだった。  
 それでも、水分を含んでどこか艶めかしくも見える彼女のそれが、乾いて荒れた自分のそれに触れたのだと  
思うと、繊細なその構造を傷付けてしまってはいないかという見当違いの懸念をどこか遠くの意識で感じもした。  
 ――『あなたのことが好きだから、ずっと側にいて、触れていてほしいんだよ』。  
 小さく蠢いた唇から囁かれた、そんな言葉の一つ一つが、意味を呑み込めないまま頭の奥に刻まれていく。  
 伏せた睫の隙間から涙の粒を滲ませ、互いの呼吸が混ざるほど近くにある少女の顔が、やがて、いじらしく  
感じてしまうほどに痛々しい、曖昧な微笑みを浮かべた。  
 彼女は、か細い声で語る。  
「……ミサカ、狡いよね。代理演算を引き合いに出して、こんな関係をあなたに強要するなんて。これじゃあ、  
あなたを脅してるのと変わらないね、ってミサカはミサカは再認識してみる。このミサカは本当、どこまでも  
厚かましくて、惨めなヤツだよ、ってミサカはミサカは、自分に対して無性に腹が立ってきてみたり」  
 サイテーだよね、と自嘲した唇の動きがやたらと目に焼き付く。  
「――、」  
 本当は、否定したかった。  
 打ち止めは何も悪いことなんかしていない。彼女が自分自身を責めるのは道理に合わない。そう言いたかった。  
 しかし、一方通行は何も声に出せずにいた。  
 その否定は、本当に彼女のためのものなのか? 否定することで、自分が満足したいだけなのではないか?  
そんな考えが頭をよぎり、一方通行の口からことごとく言葉を奪い去っていってしまう。  
 対して、打ち止めの言葉は真っ直ぐなものだった。  
「でもね、今のミサカはそれでいいと思ってるの、ってミサカはミサカは開き直ってみる」  
「……」  
「我が儘だって解ってるけど……ミサカの気持ちに嘘は無いの。でも、これくらいのことをしないと、ミサカは  
その気持ち自体に、嘘を吐くことになっちゃうから……それはすごく嫌だな、ってミサカは、ミサカは……」  
 そう言って、彼女はまた泣きながら笑う。  
 紡がれる言葉は要領を得ず、震える声は途中から空気に霧散して、一方通行の耳まで届かないまま消えていく。  
 それでも、感情は伝わる。  
 どこまでも、何があろうともひたすらに真っ直ぐであろうとする彼女の声は、一方通行にはいっそ眩しすぎる  
ぐらいの光量でその感情の輪郭を照らし出す。  
 どうして、彼女は一方通行なんかにそういった感情を向けることが出来るのだろうか。  
 一方通行から打ち止めへ向ける感情は、対照的に、こんなにも――汚いものだというのに。  
「……、」  
 言葉が出ない。  
 綺麗事を言う資格など、彼にあるはずも無かった。  
 
 全ての理不尽から幼い少女を守り抜いてみせると誓ったのは、一体どこの誰だったか。  
 その少女が成長する度に、何気なく身体が触れあう度に、傍らで彼女が笑いかけてくる度に――たった一つの  
『最後の希望』で支えられる一方通行だけの現実は、醜い音を立てて軋んだ。  
 昔の自分と今の自分は違う。当然そんな事は当たり前で、また、決して同じであってはならないというのも  
解っているつもりだった。いつまでもあのままでいていい訳も無く、前を向いて成長していくことが人としての  
マトモな答えなのだと、ごく当然の倫理として知っている筈だった。  
 それでも、長かった闘いからハッピーエンドを勝ち取り、それまで味わったことも無かった、人としての  
幸福を無条件に享受できるようになってからは。  
 学園都市第一位の怪物ではなく、ただの学生として振る舞うことを許されてからは。  
 怪物としての本質が少しずつ人間に近づいていく度に、怪物だった頃には到底気付くことも出来なかった感情が  
段々と浮き彫りになっていくのを実感していた。  
 
 一人の少女を守りたいと切に願えば願うほど、『幸福』を知りすぎたこの頭は薄汚い欲望を全身に訴えかける。  
 独占欲、加虐嗜好、破壊願望――それらは、彼女を大切にするという目的とは遠くかけ離れた動物的衝動だ。  
《彼は打ち止めを傷付ける》。  
《彼女の瞳を直視することを恐れる自分がいる》。  
《どうしようもなく彼女を苦しめたいという衝動が沸き起こる》。  
《自分の腕の中であの少女が泣き喚いて、愛おしいあの笑顔が壊れていく様子が見たい、と》。  
 そんなものは全て一方通行の醜い感情が生み出す害悪の一端で、また彼女に対して抱く罪悪感すら、目の前の  
現実から逃避して己の苦痛を軽減させるために分泌した脳内麻薬にすぎない。全くどこまでも独り善がりで、  
どうしようもなく悪趣味な自慰行為だ。  
 救いようがないクソガキだったとはいえ、彼女を守るためだけに奔走できた以前の自分の方が今よりはまだ  
マトモだったように思える。戦いと絶望の渦中でしか『マトモ』に振る舞えないというのもまた皮肉な話だが。  
 それでも――自分を笑えないほどの屑だと自覚していてもなお、打ち止めを始めとする妹達を守りたいという  
願いだけは、馬鹿の一つ覚えのように後生大事に抱き続けていたはずだった。それだけが一方通行をこの平穏に  
繋ぎ止めるたった一つの救済で、だからこそ、彼女達を守るためならばいつでも平穏をかなぐり捨てる覚悟を  
持ちながら、彼はこれまでの幸せすぎた日常を辛うじて受け入れてきたのだ。  
 けれど、目の前の少女はそんな彼の姿を『間抜けな勘違い』と言い切った。  
『あなたが傷付くとミサカだって沢山傷付く』――そんな、甘ったるくて優しい言葉を掛けてもらえるような  
資格など、一方通行には存在し得ないだろう。  
 怪物は怪物らしく生きればいい。平和に浸かり、歪んだ人間性を手に入れてしまったことがすでに間違いだ。  
 継ぎ接ぎで固めた心が、彼女のことを愛おしいと叫ぶからこそ、彼はそれを自分で否定しなければならない。  
 いずれその感情が打ち止めを喰い殺すと――そう自覚しているのならば。  
 打ち止めの幸福を守るために、彼女の前から消え失せなければならないと、頭では解っているはずだった。  
 それなのに。  
「……っ……ごめんね、もうミサカ、泣くつもりじゃなかったのに。ウジウジするのはおしまいにしようって、  
ついさっき……吹っ切れたはずなのにね、ってミサカはミサカは、」  
 この身体は動かない。  
 彼女を冷たくあしらってでもこの場を離れるのが、最終的に彼女にとって最良の結果になると知っていながら。  
 一方通行はどうしても、このたった一人の少女の体温を、振り解くことが出来なかった。  
 その制止力は紛れもなくただの醜い執着心で、いずれはこの内側で煮えるような独占欲や加虐嗜好や破壊願望へ  
繋がっていくと、痛いくらいに認識していた。  
 それでも、彼はこの感情を断ち切れない。  
 断ち切れる、わけがなかった。  
「でも……やっぱり怖いんだ、ってミサカはミサカは、白状してみる」  
 かつて、白く澱みきった彼の世界に色を与え、無知ゆえの無垢で一方通行を変えた子供は、ここにはいない。  
 目の前にいるのは、持ち合わせの無垢を汚し、当たり前の『人間』としてこの場で呼吸する、ただの少女だ。  
「……ミサカ……忘れちゃうのかな。あなたの良いところが見えなくなって、心の中が、真っ黒になって……、  
そうして、いつかあなたを嫌いになっちゃうのかな。あなたのことが、大好きだって気持ちも……全部、」  
 消えちゃうのかな、と。  
 悲痛な表情で、打ち止めは自問していた。  
 学園都市最強の超能力者を一種の盲信へと導いた、さながら聖女のような笑顔は、もう作れない。  
 そこにあったのはどうしようもない、擦り切れた『人間』で、何の特別さも無い、ありきたりな『人間』で、  
 こんな成り損ないの怪物のために涙を流すことが出来るような、ただの馬鹿らしい『人間』で。  
 
 ――その姿が、何をもって抑えようにも、どうしようもなく愛おしいと。  
 一方通行はただ漠然と、そう感じた。  
 
 一方通行を抑えつけていた精神的な枷が、音もなく弾けた。  
 腕を伸ばし、涙を落とす打ち止めの後頭部に掌を添え、そのまま自身の胸の上にその頭を引き寄せる。  
「っ、……!?」  
 突然のことに身を硬く強張らせる彼女の反応を気にも留めず、一方通行はただ、その細く柔らかな身体を  
強い力で抱き止めていた。  
 必然的に彼の胸板に顔をうずめる形となった打ち止め。単純な酸欠と驚愕に合わせて、異性の身体に触れる  
ダイレクトな感触に、羞恥と焦りで意識が丸ごと持って行かれそうになる。  
 一方通行が家族とは違った大切な存在だということに気付いてからは、それこそ手を繋ぐだけで幸せすぎて、  
それ以上の接触など望む余裕すら無かった。そんな少女に今、大好きな人の熱や呼吸の音、咽せ返るような  
肌の匂いがひとまとめになって襲いかかっているのだ。  
 酩酊する意識の中、それでも彼女はこのまま死んでしまいそうなくらいの幸福感を感じていた。  
 猫のように全身から力が抜け、全体重を彼に委ねながらも、打ち止めは回らない舌で必死に一方通行を呼ぶ。  
「あ、なた……?」  
「……ふざけンな」  
 ほとんど聞き取れないほどに掠れた声は、一方通行として有り得ないほどに、弱々しいものだった。  
「未来の可能性? ンなモン知るかクソったれ。オマエが俺を憎もうが殺そうが、その時はその時だ。それが、  
オマエら妹達が選んだ最高の終わり方だって言うンなら、俺は喜ンで付き合ってやるよ。だがな」  
 一方通行の細い指が、腕に抱く打ち止めの頭をくしゃりと掻き回した。  
 やや乱暴で危なっかしいその手つきは、年齢相応の青年のそれと何ら変わりない。  
「今、それは俺にもオマエにも関係無ェことだろォが。あるかどォかも分からねェような未来の可能性とやらに  
怯えるなンざ俺はゴメンだ。クソくだらねェ怪物としてのプライドにしがみついて人間辞めるのはもォ飽きた」  
 ――だったら、正々堂々と『人間』になってやる。  
 雄弁に反して酷く揺らいだ声で、かつての学園都市最強の怪物は、血を吐くように呻いた。  
 自分がこれまで手を染めてきた無数の惨劇を、何一つ残らず覚えていながら。  
 それでも、無様に醜い信念を抱いたままで、どこの誰に批判されようと――人間として生きてみせる、と。  
「……消してたまるか」  
「あなた、」  
 この局面まで来て、彼はようやくそれを選びとったのだ。  
 泥にまみれたままの手を伸ばし、大切な少女を抱き締めるという、何とも身勝手で傲慢な選択を。  
「安っぽい意地に、これ以上振り回されてたまるか。考えなくてイイよォな不安で、オマエを泣かせてたまるか」  
「……!」  
 これまで幾度となく『後悔』という感情を胸に刻みつけた一方通行だったが、おそらく今以上に苦い思いを  
味わった時はそうそう無かっただろう。  
 口に出せば出すほど、自分がやらなければならないことはこんなにも明確になっていくのに。  
 自分のためを思って、打ち止めが苦しんでいる。  
 それを知っていながら、どうして一方通行は今の今まで何もしてやれなかったのか。  
 今やっと、実感した。一方通行が己を抑えつけて藻掻く行為自体が、打ち止めを傷付けていたのだとしたら。  
 惨めったらしく藻掻くのは、もう止めてしまおう。  
 独占欲も加虐嗜好も破壊願望も――全て晒してしまえばいい。それらの根底にある感情は、皆同じ名前だ。  
「   」  
 たった三文字。それだけで十分に、いつだって、その思いは伝えられた。  
 何度でも彼女から自分へと贈られてきたその感情を、ようやくマトモな形で、一方通行は理解した。  
 つまりは、そういうことなのだ。腕の中の小さな命を、その笑顔を、他の何に替えても守りたいと願わせ、  
遠く離れた時には暗い炎で胃を灼かれるような、苦しく、そのくせに失いたくないと思わせる、ソレの実態。  
 
 ただ、他の誰でもない、この少女に惹かれた。  
 この腕の中に抱き締めることを、強く望んだ。それだけのことだ。  
 
 胸の上に乗せた打ち止めの身体は、軽く、そのくせに成熟した女のそれのように柔らかかった。  
 髪の束を指で梳くようにして、より深く身体を密着させると、やがて打ち止めの方から音を上げ始める。  
「や、苦し……」  
「……」  
 一方通行は無視を決め込んだ。  
 元より、今だけは彼女の言い分を聞き入れるつもりは無い。  
「やだやだ、ほんとに苦しいんだからっ、ってミサカはミサカは別の意味で涙がこみ上げてきてみたり……!」  
「…………、」  
「お……おっぱい、潰されてて、息ができないんだよう、ってミサカはミサカは……」  
「…………………………………………、」  
 負けた。  
 哀れみを誘うくぐもった涙声で微妙にアレな台詞を呟かれ、仕方なしに腕の力を緩める。  
 直後、腕を突いて身体を起こした打ち止めが真っ赤な顔で荒い呼吸を繰り返している姿に、ほんの少しだけ  
脱力感に近いものを感じた一方通行だった。  
 大切にしたいと思うのに優しく扱うことすらままならないこの状況は、確かにまあ人間らしいと言ってしえば  
非常に人間らしい。しかしこれは、想像していた雰囲気とは微妙に違う気がするのだが。  
 良くも悪くも平和ボケしたこの季節では、シリアスな空気もそう長くは続かない。  
 息の吸い吐きに必死になっている打ち止めのコミカルな表情を見ていると、何となく、数秒前の自分の妙な  
テンションが猛烈に萎んでいく感触がした。  
(……あー……クソ、)  
 つくづく一方通行は、この少女にいとも容易く振り回されている。  
 善悪の価値観や、果たすべきことの優先順位。これまで、打ち止めの何気ない言動や表情によって何度それらが  
引っ掻き回されてきたか分かったものではない。そんなことの繰り返しこそ我が人生と割り切ってしまえるほど、  
一方通行は達観した性格でもマゾヒストでもなかった。  
 けれど、やはりどうしても、彼にとって打ち止めと呼ばれるその少女の存在は不可欠なもので。  
「……え、っと。あ、あはは。ご……ごめんなさい、もう、大丈夫だから――、?」  
 一方通行の膝の上に尻餅をついたまま、まだ少し錯乱しているのか困ったように笑う打ち止めの前で、  
彼はバランスが上手く取れない自身の上半身をゆっくりと起こした。  
「……」  
 吐息が、近い。  
 随分長い間触れなかったその頬に手を伸ばし、幼さが残る丸い輪郭を軽く撫でる。打ち止めはそれを何らかの  
合図と受け取ったのか、あるいは単純に彼に対して気を許しているのか、微睡むようにそっと瞼を閉ざす。  
 そんな少女に対して、一方通行は壊れ物を扱うような慎重さで――唇をあてがった。  
「っ――」  
 微かに身を竦める打ち止めの背にもう片方の手を添え、顔の角度を少しずつ調整する。  
 湿った肌からは化粧水の淡い香りが漂い、否が応でも打ち止めの中の『女』を意識させた。  
 大切に思う少女に向かって欲情をぶつける道理など知らないし知りたくもないが、それでも身体は自動的に、  
本能に刻まれたプログラムを追いかけるようにして、次の何かを求めていく。  
 口唇を隙間無く合わせ、薄く開けるように誘導する。一瞬戸惑いの表情を浮かべて目を開けた打ち止めは、  
それでも半ば陶酔に浸るような様子で一方通行に従った。  
「ん……っ。む、ぅ……」  
 ゆっくりと押し割るようにして入り込んできた未知の感触に耐え、鼻に掛かる甘いトーンの声が上がる。  
 押し返しているのか迎え入れて絡ませようとしているのかよく解らないような舌の拙い動きを追い回し、熱が  
絡みつく腔内を深くまで探ると、それらの愛撫が何らかの琴線を掠めたのか、突然彼女の身体が大きく震えた。  
「ぅ――、ん、っ……!」  
 初めての行為への隠しきれない怯えと、じわじわと迫る不思議な心地好さで、打ち止めの頭は痺れたまま、  
グチャグチャに掻き回されるようだった。  
 抵抗は出来ない。  
 彼女が抵抗の意思を見せれば、一方通行はもう絶対にこうして自分を求めてくれないと解っていたから。  
 
 余裕が無く、ひどく乱暴に貪りながら、けれどまだどこかで自分のことを丁寧に扱ってくれる一方通行に対し、  
彼女は怖いと感じながら、それと同時に、一種の悦びをも覚えていた。  
 あんな凄惨な強姦現場を見たばかりの夜だ。こういう行為に関して、不安と恐怖で泣き出しそうになってしまう  
ことは否定できない。  
 けれど、苦しくて、独善的で、辛いだけのように思えるこの一瞬こそが、紛れもなく打ち止めが欲しがった  
一方通行その人を示す、ほんの一端だ。  
『大好きだから、触れてほしい』。  
 彼女がその口で告げた言葉に、今、彼は自分が与えうる物全てをもって応えようとしてくれている。  
 今にも泣き出しそうに揺らぐ声も、白い髪が肌を滑る感触も、切羽詰まったような鋭い光を帯びた瞳の色も、  
少しかさついた感触の唇も、奥深くに閉じ込めていた、ドロドロとした爆発的な感情も――全て、打ち止め  
一人の為に曝してくれた。それは彼女にとって、涙が零れるほど嬉しい出来事だった。  
 打ち止めは、自分たちだけが『人間らしく』なってしまうことが怖かった。あの時と一切変わらないまま、  
ただ真っ直ぐに突き進み自分を省みない一方通行を一人置いて行ってしまうことが、怖かった。  
 けれど、彼は一切のしがらみを切り捨て、『人間』として打ち止めに手を伸ばしてくれた。  
 だからこそ打ち止めはこれを拒むことが出来ず、最初から拒む気にもならない。  
 苦しさの中で、何か暖かいものに満たされていくようなその感触は、彼女にとっての悦びに他ならなかった。  
「っ、はぁ……」  
 何分経っただろうか。痺れた舌が何かおかしくなってしまいそうだと打ち止めが思い始めたころ、一方通行は  
ようやくその繋がりを解いた。  
 浅い呼吸を繰り返す、無防備に開かれた少女の唇は唾液に濡れ、妙に艶めかしい光をぬるりと照り返している。  
 生理的な涙を零す虚ろな瞳に捕らえられたような錯覚。何とも言えない後ろめたさに、彼は思わず顔を歪めた。  
「……悪い」  
「なんで……あやまるの、って……ミサカはミサカは、不思議に思ってみたり……」  
 弱々しく囁きながら、打ち止めは彼の背中に両腕を回し、深く抱き留めた。  
 小さな笑みさえも浮かべて、その少女は一方通行の耳元にゆったりと語りかける。  
「……やっと、ミサカから抱っこしてあげられた、ってミサカはミサカは幸せ気分に浸ってみる」  
「……、」  
 お人好しか、あるいは真性のバカなのか。  
 きっとそのどちらでもない。今しがた一方通行が注ぎ込んだ衝動も、そこから先の事も、全て理解していて、  
その上で全てを受け止めようとしているのだ。脆く頼りない全身で。幼く未熟なその心で。  
「……告白、してくれたんだよね。さっきの」  
「だったら何だよ」  
 細い肩をもう一度抱き、簡単に言葉を返す。  
「意外と、普通の台詞だったね、ってミサカはミサカは……」  
「悪りィか」  
「……、えっと。両思い、ってことで、いいのかな? ってミサカはミサカは確認を取ってみる」  
「……」  
 クソったれが、と彼は薄くため息を漏らす。  
 このクソガキは、一方通行に少女漫画のヒーローのような役回りでも期待しているのだろうか。あまりにも  
ミスマッチなキャスティングに思わず遠い目をしてしまう。  
 何が面白いのかくすくすと小憎たらしい様子で笑い出す打ち止めは、一方通行の肩に頭を軽く擦り寄せながら  
甘く口ずさむような言葉を紡ぐ。  
「……ミサカ、なんだか夢見てるみたいな気分かも、ってミサカはミサカはなかなか素敵なシチュエーションに  
合格ハンコを押してみる」  
「こンな事がか」  
「こんな事がだよ、ってミサカはミサカは言い返してみたり。だって、ずっとずっと、こうすることがミサカの  
夢だったんだから、ってミサカはミサカは素直に打ち明けてみる」  
 互いを腕の中に庇うように、きつく抱く。  
 それでいてこの空間にはもう、死に物狂いで縋りつくような危うい切迫感は残っていなかった。  
 随分と久しぶりに、この温もりに触れた気がする。  
 その実感が、一方通行の鋭すぎた感情の棘を、ゆっくりと抜き取っていく。  
 
 汚い衝動の全てを内包しながら、ただこの少女を大切にしたいと真っ直ぐに願わせる根底にある感情は、  
あえて名前を付けるとしたら極めてチープで、ありふれたものだ。  
「大好きだよ、ってミサカはミサカはもう一度しっかり伝えてみる」  
 きっと、それは何度でも繰り返す。  
 本人たちがそれを望む限りは、その感情は何物にも決して掻き消されたりなどしない。  
 過去を無視せず、未来に恐怖せず。ただ今現在を生きている自分たちのために、ずっと側にいたいと願い続ける  
限りは、その幻想を壊す権利はどこの誰にも存在しない。  
 躊躇や怯えは何も結果を生み出さない。かつての激戦の中、一方通行が学んだことはその程度のものだ。  
 そして、その教訓は、こんなちっぽけな個人間の問題にも当てはまってしまうらしい。  
「……大好きな人だから、色んな顔が見たいって思うし、一緒にいたいって思うし、たまにはその相手のことが  
怖いって感じたりもするんだよ、ってミサカはミサカはコミュニケーション能力がいまいち欠けているあなたに  
大事なことを教えてあげてみたり。だから、そういう自分に怯えたり、それを責めたりする必要は無いんだよね、  
ってミサカはミサカは自分もろとも言い聞かせてみる」  
「……要領が掴めねェ話だな」  
「だよね。ミサカもなんだかよく分かんなくなってきちゃった、ってミサカはミサカは今ちょうど幸せ真っ盛り  
だからもうそれで良いのですって強引に締めくくってみる」  
 緊張をすっかり緩めたような口調は、恐らくはあえて彼女が作ってくれているものだ。  
 戸惑わないで――と。彼女は一方通行に対してそう言いたいのだろう。  
 成長に伴い莫大な悪意を知ってもなお、どこまで行ってもこのガキは善良で甘ったれな優しさを保ち続ける。  
 それを眩しく思うと同時に、あまりにも不甲斐なくちっぽけな自分の姿を鼻で笑ってやりたくなった。  
 けれど、もしかすると今はまだ、その不完全さや不安定さを放り捨てなくてもいいのかもしれない。  
 はじめから、一つの方向のみを見つめ続けられる人間など居やしない。『人間』だからこそ、道に迷い続け、  
いくつもの相反する自分自身を抱えながら、それでも進むべき方向へゆっくりと歩んでいくのだ。  
 なら、ここで無理に焦って自分を見限る必要は無いんじゃないか。  
『傷付けずにして誰かに触れることは出来ない』などという錆び付いたトラウマに捕らわれ、そんな自分を  
勝手に憎んだり恨んだりする段階に移るには、時期尚早ではないだろうか。  
「……、」  
 触れてみたい。  
 今の彼はただ漠然と、そう思うことが出来た。  
 華奢な背中に添えた掌を腰の辺りまで下ろし、パーカーとズボンのわずかな隙間に覗く肌を、そっと撫でる。  
「ふあ、……っ」  
 きめ細やかな皮膚の感触に吸い寄せられるように、背筋に浮く脊椎の形を指の腹で確かめる。  
 男とは根本的な作りが違う、成長した少女としての柔らかさを孕んだ身体。  
 単なる欲情とは少し異なる欲求に従い、一方通行は肌を滑るようにしてその手を衣服の下へと潜らせていく。  
「……ん……」  
 くすぐったさを感じて、あるいは怯えもあってか、吐息に交える打ち止めの声音はかすかに震えていた。  
 肉欲のそれと言うよりは、体温に触れて安堵感を得ようとするかのように、緩い力加減で背筋を往復させる。  
 少しずつ、衣服に隠された奥深くまで探っていく指先が、不意に何か硬い感触を捉えた。  
「……っ!」  
 それの正体――下着のホック部分に触れられたのと同時に、打ち止めの全身が強張る。  
 その反応を拒絶と受け取り、思わず手を止めた一方通行だったが、  
「や、だ……やめちゃ駄目、ってミサカはミサカは引き留めてみる……!」  
「……オマエな、」  
 半ば呆れた顔で向き合う彼とは対照的に、頬にうっすらと上気の色を乗せた打ち止めの表情は真剣そのものだ。  
「ミサカ……あなたなら全然平気だもん、ってミサカはミサカは強がってみる」  
「……我慢大会じゃねェンだぞクソガキ。俺には生憎とブルってるガキを犯す趣味なンざ無ェからな」  
「っ、……そういうのじゃ、なくて……ってミサカはミサカは……」  
 不用意な軽口を聞いて先程の光景を思い出してしまったのか、打ち止めはしばし躊躇うように視線を落とす。  
 やりすぎたか、と一方通行は一瞬後悔しかけるが、考えてみればこの程度の脅しでダウンしてしまうようなら  
ここから先の行為に耐えられるはずもない。番外個体の奴はショック療法代わりにソレを勧めてきたりもした  
ものだが、そんなガチガチに緊張した状態で無理に事を成すのはむしろ逆効果だ。  
 
 あくまで彼個人として、打ち止めを欲する気持ちがあることは、もう否定できない。  
 けれど同時に、彼女を傷付けたくないという感情が変わらずにここにあるというのも事実なのだ。  
 自分の身勝手に従いその行為に及ぶにしても、出来るだけ彼女を傷付けない形で終わらせてやりたい。それは  
一方通行にとって守るべき最後の一線のようなものであった。  
 だが。  
「……そういうのとは、違うよ、ってミサカはミサカは言い直してみる」  
 すぐに真っ直ぐな眼差しで居直ることができるこの少女は、彼の予想よりも随分と強い人間のようだった。  
「やっぱり少しは、怖いって思うけど……それだけじゃないもん。あなたに触ってもらえるのは、ミサカにとって  
すごく幸せなことだって分かるから……嫌だなんて思わないよ、ってミサカはミサカはとっても心配性で優しい  
あなたを安心させてみたり」  
「……」  
「……だからね、もっとあなたの好きなように、えっと……いろんな事、してほしいかな、ってミサカはミサカは  
ちょっぴり大胆にお誘いしてみる」  
 大胆に、とは言ったもののおよそ色気と呼ばれるようなものはほぼ見当たらない、緊張からか強張った挙動で、  
自身の服の端をぎゅっと握り込んだまま言葉を紡ぐ。  
「……そォかよ」  
 上の空で吐き捨てながら、何となく一方通行は思い知った。  
 自分が迷って立ち止まったり、無意味に思考を巡らせてフリーズしてしまうような事柄は大抵の場合、彼女に  
してみれば何ということもない、憂慮に値しない問題なのだ。  
 好きなものは好きだと言い、怖いものは怖いと言う。彼にとって、それはあまりに遠い在り方で、ほんの  
数分前までは選択肢にもならないようなくだらないものだった。自分にはそんな手段を考える資格もない、と、  
無意識のうちに己を殺していた。泥にまみれ汚れきった自分の存在を心の底から欲するような人間など、本来  
どこにもいないのだと勝手に見限り、代え難く大切な少女が差し出す手さえも払いのけようとした。  
 けれど、何度傷付けてしまっても、何度引き離そうとしても、打ち止めは一方通行を求め続けてくれる。  
 その強さを――その存在を、かつて彼は眩しいと感じた。煩わしいと思った。消してしまいたいとさえ願った。  
 マトモに向き合ってしまえば、それまで築いてきた一方通行という存在が、壊れてしまうと直感していたから。  
 ――そんな馬鹿げた怪物としてのプライドなど、宝物のように抱えている必要は無かったのに。  
 すぐに壊れるような頼りない拠り所はいっそ捨ててしまえ。それで打ち止めの笑顔が見られるというのなら、  
彼はいくらでもその固定観念をぶち壊すことができる。  
 たとえ、自分の手がいくら汚れていようが。たとえ世界中からいくらその傲慢を非難されようが。  
 可能なはずだ。  
 至極当然の、ありふれた人間のように、愛おしい存在に触れることぐらい。  
「――、」  
 結論は出た。  
 ループに嵌っていた思考を自ら寸断し、一方通行は首筋の電極に触れると、指先でそのスイッチを弾いた。  
「わ、ひゃあ!?」  
 重心のベクトルを微調整しつつその軽い身体を抱き上げると、打ち止めの口から間の抜けた悲鳴が飛び出す。  
 リハビリの甲斐あって本来はこの程度の距離ならなんとか杖なしで歩ける一方通行だが、まさかこの状況で  
うっかり打ち止めごとコケるなんてことになったら死んでも死にきれないため、ここは素直に能力に頼っておく。  
 数歩歩いた先は、やや広めのワンルームの隅に置かれたベッドだった。  
 マットレスの上に優しく載せられた少女は、彼の身体の下、薄い紅色が差した頬のままで嬉しそうに微笑む。  
「……遅いよー、ってミサカはミサカは五年越しの待ちくたびれた感を表現してみたり」  
「馬鹿かオマエは」  
 いつもと同じような憎まれ口を叩き、そして、一方通行はふとその顔から表情を無くす。  
「……一応言っとくがな」  
「なあに?」  
「壊しちまわねェ保証は無ェぞ」  
「大丈夫だよ、ってミサカはミサカは即答してみたり」  
 他方で、打ち止めの返答は滑らかだった。  
「ミサカ、簡単に壊れちゃうほどヤワな女じゃないんだから、ってミサカはミサカは不敵な笑みで挑発してみる」  
 その言葉はある種の確信に近かった。根拠など無くとも、その小さな笑顔には、明確な力を感じた。  
 一方通行一人があれこれと思い詰めることが、馬鹿らしくすら感じてしまうほどに。  
「……上等だ」  
 本当に、適わない。  
 舌打ちでもしたくなるような心境で、一方通行はもう一度目の前の少女に唇を重ね合わせた。  
 

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