「フレメアー。歯、磨いたか?」  
 昔は自分もそれが面倒臭いクチだった。それで虫歯になって酷い目に遭ったのは良く覚えている。  
 深夜。第7学区の学生向けホテル。  
 終電を逃がしたり寮の改装や補修中の学生向けの安宿に、浜面仕上とフレメア=セイヴェルンはチェックインしていた。  
 窓口で身分証明書を提示。とはいえ、即席で偽造したものである。二人の関係は兄と義妹。怪しまれたもののなんとか通って、ほっと胸を撫で下ろした。  
 あてがわれた部屋で羽を伸ばす。そろそろ寝る時間。二つのベッドのうち一つに腰掛けながら、浜面はフレメアに声をかけた。  
「面倒臭い。にゃあ」  
「虫歯になるぞ」  
 窓の外を見ながらフレメアが答える。ビルの高い眺めがお気に召したようだった。夜景を映す窓に反射して、フレメアの好奇心いっぱいの顔が見えた。  
 フレメアが振り返ってもう一つのベッドに身を投げ出す。軽そうな体がぽーんと跳ねた。二、三度小さくバウンドして、帽子がずるりと落ちた。  
「大体、浜面がやってくれればいいわけよ」  
「……そうきたか」  
 浜面が顔をしかめた。そういう経験はない。いや、学生が8割の学園都市で、そういう経験のある人の方が少数だろう。  
 頭を捻る。少々甘いが、子供と言い争ってこじれてしまうのも困る。とりあえずは習慣づけてやるべきか。  
「はぁ……分かったよ。洗面所から歯ブラシ持って来い」  
「にゃあ!」  
 ベッドから立ち上がって、てててとフレメアが小走りに動く。ちっこい背中を浜面は目で追いかけた。  
 ビニールパックで包まれた、ホテル備え付けの歯ブラシ。中には歯磨き粉のチューブも同封されていた。フレメアがそれを持って来る。  
「んじゃフレメア、ちょっとここに寝てくれ」  
 フレメアから受け取ったパックを開けながら、浜面がベッドの上であぐらをかいた。  
 よいしょっとフレメアがベッドに登った。四つん這いになって浜面の足元まで歩いてくる。手足がベッドに沈み、姉譲りの金髪が揺れた。  
 フレメアが横になる。あぐらの真ん中に子供の頭の重み。碧眼が浜面の顔を見上げていた。  
「ほい、口開けろ」  
「にゃー」  
 言われるままにフレメアが口を開けた。歯ブラシに歯磨き粉をつけて、気をつけながら口の中に挿し入れた。視覚と、手応えを頼りに浜面が手を動かす。  
 しゃかしゃかしゃか。  
 静まり返った部屋に歯を磨く音が響く。ぼんやりとそれを聞きながら、浜面は思う。  
(……口小せぇー……)   
 子供の柔らかそうな頬が手の動きに合わせて微かに揺れている。口紅も引かれていないピンク色の唇。歯は綺麗に生え揃っている。  
 不意に、このちっちゃな口にキスをする妄想に駆られた。  
 ぐちゃぐちゃと水音を立てながら歯の間に舌を這わせ、絡め合い、唾液を飲み干す。年端もいかない子供のそれを貪る背徳感。  
「かぷっ」  
 見透かされたかのようなタイミングで、フレメアの口が閉じた。  
「うおっ?」  
「んふふふふぇふぇ」  
 じゃれつかれているのだと気付くのに、一瞬間が空いた。  
「あ……コラっ。大人しくしてろ」  
 半笑いでなだめかす。素直にフレメアも従って、また口を開けた。内心の反省を隠しながら浜面が歯磨きを再開した。  
 歯ブラシの動きの邪魔にならない程度にフレメアが声を上げる。  
「ほれ美味ひくない」  
「あ? あぁー……歯磨き粉か。正直歯ブラシも毛が硬くてちょっとな」  
 備え付けだとこんなもんか、と浜面は思う。  
 フレメアは普段どういうのを使っているのだろう。普通のか、もしかしたら子供用の甘いのか。後者が容易に想像できて、浜面は笑ってしまった。  
「何ー?」  
「いや、なんでもない。フレメアは可愛いなって」  
「けほっ!」  
「だあああああ!?」  
 いきなり咳き込んだフレメアに驚いて浜面が手を引っ込める。これ幸いとばかりにフレメアが急いで起き上がった。  
 頬をいっぱいにしながらけふんけふんとフレメアがむせている。苦しいのか、顔を真っ赤にしてそのまま洗面所に駆け出していった。  
「……なんだ? 飲み込みそうになったのか?」  
 取り残された浜面が、気まずそうに頭を掻く。  
 
 再開した後、一通りの歯を磨き終えた。  
「うし、終わりっと。起きろーフレメア」  
「んー」  
 名残惜しそうにフレメアがごろんと横を向く。まだ甘えていたいようだが、口の中に唾液や歯磨き粉を溜め込んでおくわけにもいかない。  
 優しく肩を掴んでゆっくり起こしてやった。細身な体がベッドのスプリングで揺れる。  
 渋々ベッドから降りたフレメアが、また小走りに洗面所に向かう。置いていたチューブとビニールパックを手に取って浜面もそれを追いかけた。  
 フレメアがシンクの中にべぇーと吐き出して、コップに水を注いでいた。   
 それを待ってから浜面もブラシを洗う。横ではフレメアが鏡を見ながら口をすすいでいる。  
 ふと、フレメアが鏡に映る浜面を見上げた。  
(……背、高いなー)  
 成長し切っても、追いつくのは無理だろうと思う。でも、できるだけ早く背が伸びて欲しい――背伸びすればキスできるぐらいには。  
 ぽ、と頬が赤くなった。そこで浜面が歯ブラシを洗い終わって顔を上げようとしたので、慌てて目を逸らした。口をすすいだ水をシンクにまた吐き出す。  
「んじゃ、お先っと」  
「あ、待ってー」  
 浜面が歯ブラシとチューブをシンク脇に置き、パックをゴミ箱に捨てた。  
 フレメアは使って置いたコップにその歯ブラシとチューブを入れてから、部屋に戻ろうとする浜面の腰に抱きついた。  
「お、おいおい」  
「ぎゅー!」  
 溜息をつきながら浜面がずるずるとフレメアを引きずっていく。軽い体重はあまり抵抗にならず、簡単にベッドに戻れた。  
 抱きついた指に掌を添えながら、浜面がフレメアを促した。  
「おーい、寝巻きに着替えるぞ」  
「あ、うん」  
 フレメアが指を解いた。  
 寝巻きも備え付けのものだった。二人はそれぞれのベッドに向かい、枕もとにビニールで包装されているそれを取り出して広げる。  
 窓側のベッドがフレメア。入口側のベッドが浜面。フレメアの希望だった。  
 背を向け合って私服を脱ぐ。フレメアはリボン、ネクタイを順番に解いてボタンに手をかけた。全て開いて、服がすとんと落ちる。最後に赤いタイツを脱いだ。  
 小さな体におませな下着。ぷにぷにと柔らかな桃肌に、真っ白なショーツと、フリルのついたブラ。  
 ちらりと、後ろを向いてしまう。  
(……どき、どき……)  
 家族以外では初めての、男の裸。浜面の背中が見えた。  
 頭がぼーっとする。何かいけないことを覚えてしまいそうな気がした。ぷるぷる頭を振って、首を戻した時だった。  
「にゃあ!?」  
 カーテンを閉め忘れた窓ガラスに背後の様子が映っていた。夜景が部屋の光を反射して鏡状になっていた。  
 もちろん、浜面が映っている。  
「ん? なんだフレメア?」  
 素っ頓狂な声を聞いて、反射的に浜面が振り向いてしまった。  
「あ……」  
「ふぎゃああああああああっ!?」  
 下着をつけているとはいえ、肌を見せることに違いはない。  
 直前まで浜面の背中を盗み見ていた後ろめたさもあって、フレメアはパニックになりながら布団の中に飛び込んだ。  
「う、うおおおおおおおおお!? ちょ、いや、すまん、見るつもりは……あ、カーテン閉めてなかったのか!」  
 駆け足で浜面が窓に近づいた。慌ててカーテンを閉めて、またすぐに自分のベッドに戻る。  
 フレメアは頭から布団を被りながら丸まっている。  
「にゃぅぅぅ……!」  
 ベッドの上の小さな膨らみ。浜面は急いで寝巻きに着替え、フレメアに呼びかけた。  
「フ、フレメアー? もう着替え終わったから、出てきていいぞー……?」  
「……」  
 ぴょこ、と涙目のフレメアが顔を出す。  
 それが不覚にも可愛かったものだから、夢に出てきてしまいそうだと浜面は思った。  
 
「それじゃ、電気消すからな」  
 壁のスイッチを浜面が押した。  
 部屋の照明が落ちる。二つのベッドの中央にある電気スタンドがオレンジ色の光を残していた。  
 寝巻きに着替えたフレメアは、布団に首まで潜り込んでいた。  
 掛け布団がばさりと舞い上がる。浜面がベッドに入って、胸元まで布団を引き上げた。  
「おやすみ。にゃあ」   
「ああ、おやすみ……」  
 人にこれを言うのはいつ以来だろうと考えながら、浜面は電気スタンドに手を伸ばした。  
 ぱちっ。部屋が真っ暗になる。  
 浜面は意識してフレメアに背を向けて横になった。暗闇に目が慣れてくると、部屋の様子がなんとなく見えてくる。  
 時計を見ようかとも思ったが、携帯を開けるのは眩しいので止めた。部屋の時計もここからは見えない。針の音がしないのは連続秒針だからだろう。  
 静かな時間が流れている。安宿の割に上品で柔らかな枕は、しかしやや沈み込みすぎて落ち着かない気がした。  
「浜面」  
 まだ寝ていなかったフレメアに声をかけられた。少し浜面が顔を起こす。  
「ん?」  
「そっち行っていい?」  
 おい、などと何か言う前に、フレメアが体を起こす音が聞こえた。  
 思わず浜面がフレメアの方に向き直る。掛け布団をそのままに抜け出したフレメアが、枕を引きずりながら素足でぺたぺた歩いてきた。  
(マジかよっ)  
 持ってきた枕を浜面の枕の横にぽいと投げる。それからベッドの上に乗り上がった。  
 掛け布団を持ち上げられて、少し冷えた空気が浜面の体に触れた。有無を言わさずフレメアが入ってくる。  
 枕の位置をちょっと直してから、フレメアは浜面を見上げた。  
「にゃおーん」  
「あのな、フレメア……」  
 怒られるか、どかされると思ったのか、フレメアの猫真似がエスカレートする。  
「にゃあにゃあ」  
 身振り手振りを加える。ポーズを取ったり、浜面の脇腹を猫の手状にしてさすったり。  
 一瞬、衝動的に抱き締めてやりたくなった。そうしたら静かになるだろうかとも思ったが、すぐに考え直す。毒気を抜かれて大きく溜息をついた。  
 呆れられたと思ったのか、フレメアの顔がしょぼーんと沈んだ。  
「ああ、いい。いいから」  
 根負けした。浜面は苦笑しながら体を少し起こして、ベッドの中心からずれる。フレメアと二人で寝られる位置。  
「ホントっ?」  
 ぱっ。フレメアの表情がころころ変わる。  
 せっかく二人分のスペースを開けたのに、フレメアは浜面に体を寄せてくる。じっと見ていたら寝られなくなりそうで、浜面は体の向きを変えた。  
「あ、そっち向いちゃやだっ」  
「違う違う、上向くだけ」  
 そう言って浜面は天井を見上げた。もう一度、大きく息を吐く。  
 フレメアが浜面の腕に触れた。頬を浜面の二の腕に預けて目を閉じている。ちっちゃな指の感触がくすぐったかった。  
(……寝れっかなぁ……)  
 寝返りは打てないかもしれない。寝不足を心配しつつ、浜面も目を閉じた。  
 明日の朝、腕が痺れてなけりゃいいんだけど、なんてことを考えながら。  
 
 

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