姫神の表情から、心配と羞恥が消えた。
「…………。………」
風も無いのに姫神の黒髪が揺らめく。
「…何。してるの?」
ひたすら平淡な姫神の声は内に秘めた感情を極端に読み取り難くしていた。
「…へ…?」
咄嗟のことに、上条の口からは間の抜けた言葉しか出てこない。
「…何。してるの。って聞いているんだけど?」
ゴゴゴ! と擬音の聞こえてきそうな、だが静かな声が上条を貫く。
「…何って…」
上条は自分の状態を改めて見返してみた。
全裸の上に大事なところは風呂桶で隠している。
さらに吹寄にホールドされたままで、その桶がどかされようとしている状況。
「…ナニシテルンデショウネ?」
答えた瞬間ぞわりと背筋に猛烈な寒気が。
まぁ、上条が全面的に悪いわけではないのだが、こればかりは仕方が無い。
「………」
ゆらり、と姫神が動いた。
その手はバスルーム入口にもう一つ置いてあった風呂桶を掴む。
「…ひ、姫神サン?」
いつもと変わらない無表情。
今野上条には恐ろしく冷たく感じる。
変わらぬ表情というものは、現状において恐怖を誘発するものでしかなく。
「…イッペン。死ンデミル?」
小首を傾げていい放たれた言葉は死の(?)宣告。
「ちょっ、待って待っ、話を聞いぷぎゃあ!?」
ズガァッ!! という桶にあるまじき音を上げて、桶は上条の顔面に直撃した。
吹寄は上条の顔に桶が当たる直前に上条を離したので被害は無いようだ。
音もなく崩れ落ちる上条。
その意識は瞬く間にブラックアウトしたそうな。
「…ぅ…止めッ! 止めろインデックス…それだけは、それだけは食うんじゃ………ハッ!?」
何かとんでもない悪夢にうなされていた気がする。内容は思い出せないが。
(…ん?)
痛む頭を何とかはっきりさせ、周囲を見回す。
見慣れない部屋だ。
(…俺の部屋じゃない、よなここは…)
それだけはわかった。
(…確か俺は…)
どうして自分の部屋じゃない場所にいるのか思い出そうとして頭を捻り始めたその瞬間、
「やっとお目覚めか?」
横合いから声がかかった。
声の方に目をやるとそこにいたのは金髪に濃い色のグラサンをかけた少年。
「…土御門?」
クラスメートの土御門元春である。
「そーだにゃー」
ニヤリ、と笑う。
何でここにと問う前に土御門は言葉を紡ぐ。
「…ビックリしたぜい? 姫神と吹寄がカミやんが倒れたっていって俺んとこに駆け込んできたときにはにゃー」
土御門の言葉を聞いて眉をしかめた。
(…倒れた? 何で?)
思い出せない。
何も言わない上条を眺めていた土御門が、
「………全裸で何やってたんだ?」
ぽつりと呟くように言った。幾分マジで。
「ぶッ!?」
思わず吹き出し、通常の三倍のスピードで土御門の方に向く上条。
「…そもそも吹寄がカミやんトコに来てんのもおかしいしにゃー…姫神のセーラー服は少しだけ水被ってたし…吹寄の髪の毛が微妙に濡れてたぜい?」
つらつらと。
目の前にあったのは好奇心に彩られたクラスメートの笑顔。
それにしても恐ろしい洞察力である。
「…ちょっ! いったいなに」
言ってんだ、と言おうとして思い出した。
何故倒れてしまったのかを。
頭を抱えたくなる衝動を必死で抑え、
「…土御門…俺、どこに倒れてたんだ?」
その問いに土御門は玄関だぜい、とだけ答えた。
とりあえずバスルームではなかったようだ。
「…悪いな…」
心の底からそう思う。
状況に流された結果招いた事態に友人の手を煩わせたのだ。
「気にすんにゃー。カミやんといると退屈せずにすむぜい」
土御門は本当に気にした風でもなく、逆にニッと笑って拳を突き出して見せる。
「…二人は?」
こつっ、と拳を軽く当てながら聞いた。
「…んー…カミやんの部屋にいるんじゃねーかにゃー?」
話によると土御門が上条を背負って土御門の部屋で着替えさせたあと(もう二度と男の着替えなんてしたくないぜい、と半ばマジモードで言っていた)様子を見に行ったら、
「…二人してキッチン漁ってたぜい?」
とのことだ。
「…何しようとしてんだ?」
つい首を傾げて呟いてしまう。
「さーにゃー。てゆーかいつまでも人様のベッド暖めてるんじゃねーぜい」
目が覚めたならさっさと部屋に戻るにゃー、などと言われながらベッドから引きずり降ろされ、
「今度なんかおごる」
「にゃー、期待せずに待ってるぜい」
土御門の部屋を後にした。
上条自室キッチン内。
「姫神さん、ニンジンの下処理終わった?」
姫神秋沙と吹寄制理は二人で料理を作っていた。
「うん。終わった」
まな板の上にはイチョウ型に切られたニンジンが置いてあり、近くのザルには同じように処理された玉ねぎとじゃがいもがそれぞれ個別に置いてある。
必要の無くなった包丁とまな板を洗い始めた吹寄に、姫神は作業の手を休めて、
「どうして。上条君のところに?」
そう聞いた。
「……………」
しばらく無言でまな板を洗っていた吹寄。
「…最初は責任を感じて、かな…」
じぃっと見つめ続ける姫神の瞳を見返し、呟いた。
「…責任?」
小首を傾げる姫神。
「…そう。…もとはと言えばあたしに原因があるの。だから、責任…」
喋りながらびっしりとくっついた泡を洗い流す。
「姫神さんこそ、どうして上条のところに?」
一旦シンクに移した目線を再度姫神の方へ移しながら聞く。
「……心配。……だったから」
出た答えはシンプル極まりなかった。
それ故に心情をダイレクトに伝えられる。
(…ふふっ…あたしには無理なことだわ…)
姫神の表情を見ながら吹寄は心の中で自嘲気味に笑う。
本気で他人を心配している者の瞳。
まぁ、いささかトラブルはあったものの、その気持ちは変わらないのだろう。
(…生真面目で、融通が利かなくて、自分の気持ちにすら気付いていなかった…)
今の自分にこんな『少女』な反応は無理だ。
その時ふと、
(…姫神さんは上条のこと、どう思っているのかしら…)
そんなことを思う。
ここ最近の二人の変化に、上条の部屋に来てから自分自身の気持ちに気付いたことが重なり、心が揺れる。
そんな吹寄の心情を知ってか知らずか、
「ねぇ。上条君のこと。どう思う?」
姫神は相変わらずの無表情で問いを向けてきた。
ドキン、と心臓が跳ねる。
「…どう、って?」
どういう意図の『どう』なのか、姫神の表情から計り知ることは出来ない。
クラスメートとして?
友人として?
それとも、
「…男の人として。どう思ってる?」
あまりにストレート。
そして自分が意外と動揺しやすいことに気が付いた。
「ねぇ。上条君のこと。どう思う?」
それは姫神の声だった。
どこまでも平淡な声。
だが、キッチンから漏れ聞こえる声には、どこなく熱を帯びたような雰囲気を感じる。
(…!?)
上条が部屋に戻って来たことにも気付いていないようだ。
ついつい足音を消しながら歩いてしまう。
「…どう、って?」
吹寄の困惑したような呟きを境に沈黙が降りる。
聞いてはいけないとは思いつつも、その歩は着実にキッチンへと進められていた。
「…男の人として。どう思ってる?」
ぴたり、と。
思考と歩みが止まった。
姫神の問いは上条をただの友達としてやクラスメートとして意識して発したものではない。
そして吹寄もそう汲み取っているだろう。
当然上条の存在には気付いていない。
だからこそ、
(…フェアじゃねーよな…)
動き出した思考が導きだした答えは、
「…おーい、誰かいるのかー?」
自分自身でも苦笑が漏れるほど白々しいが、このまま盗み聞きを続けるよりは何倍もマシだ。
「…上条…」
キッチンから顔を出した吹寄と姫神。
「…何だ、二人がいたのか………つか姫神さん!」
姫神の顔を見た瞬間につい叫び声を上げてしまう上条。
「いくら上条さんに非があるとは言え桶の全力投球はいかがなモノかと思うのですがッ!」
じっと上条の瞳を見つめ、
「うん。ごめんね。上条君」
物凄く簡潔に姫神は謝罪の言葉を口にする。
例の告白の一件以来、精神的に強くなったのだろうか。
「………まぁ、いいや…。それで、二人して何してんだ?」
がっくりぐったり脱力気味の上条が聞く。
「…夕食の準備よ。姫神さんと二人でやってたの」
今度は、若干朱の色が残る頬をした吹寄がオタマ片手に答える。
「…なんか面倒かけっぱなしだな…」
看病含めここまでやってもらってはさすがに悪い。
「………気にしないで。私は。それ以上のことを。してもらってるから」
頬を掻きながら申し訳なさそうにしている上条に姫神は微かに口許を綻ばせながら言った。
吹寄は、何故かさっさとキッチンに戻ってしまう。
若干の疑問を感じつつも、
「…それじゃ。もう少し。待っててほしいかな」
姫神に背中を押され、仕方なくベッドの方に移動して待つことにした。
「………気にしないで。私は。それ以上のことを。してもらってるから」
その時、吹寄は二人の会話に猛烈な疎外感を感じた。
まるで幼なじみに出会い、昔を懐かしむ会話を側でされているような、そんな感覚。
共通の『何か』を共有している、決して吹寄制理の踏み込めない領域の会話。
(…痛い…)
上条が姫神と言葉を交わせば交わすほど胸の締め付けが、痛みが強くなる。
だから、聞きたくなかった。
仲の良い二人を、見たくなかった。
(…情けないわね…いつもなら叱り飛ばしてでも一緒にいるのに…)
キッチンに戻りながら、吹寄の顔に自嘲の色が広がっていく。
(…好き、か…)
上条の挙動を受けて心の中で一喜一憂したり、一緒にいるだけで嬉しかったり、姿を目で追うだけでも幸せになれる。
(…上条……、当麻…)
名前を心の中で呼んだ瞬間、幸福感と同時に鈍い痛みが胸を襲う。
自分以外の誰かに奪われるのは嫌。
それならば、とるべき行動はたった一つだ。
(…上条を…当麻を…絶対私に振り向かせる!)
迷いを振り切り、吹寄制理は決意した。
姫神から見ても、先の一言から目に見えて吹寄の行動や表情が変わっていた。
(…火を。着けちゃったかも…)
牽制のつもりで放った問いは、およそ予想していたものをより明確にすることになった。
わざわざ異性の部屋に看病しに来るなんて、普通なら好意を持っているかも、という期待を相手に抱かせるには充分な行為だ。
そして、それを逆にとれば少なからず相手に好意を持っているということ。
(…でも。上条君なら。普通にやりそうだけど…)
想像できてしまう辺り、上条の無自覚な行動がどれほど周囲に影響を与えているかが表されている気がする。
吹寄が答える前に上条が戻ってきたことは想定外だったが、自分もここに来ている以上少しでも上条の興味を引いておきたい。
(…ただ。一緒にいたいと願うだけでは駄目…。…だから…)
吹寄を見て気付いたのかも知れない。
共にいたいと思うのなら、自分から少しでもアプローチをかけなくては、と。
(…少しでも。私を見てほしいと。思うから…)
負けたくない。
そう心から思った。
そんなこんなで二人は決意を胸に食卓に着いた。
本日のメニューは『手づくりカレー 〜ライス&ナンを添えて〜』だとか。
上条を頂点に逆三角形っぽく座る二人の瞳は、微妙に闘志に燃えているのだが、当然ながら上条は気付いていない。
小綺麗に並べられたカレーを眺め、
「…じゃあ、せっかく作ってもらったし冷めたらあれだろ? 食おうぜ」
流れとしては至極当たり前な言葉が、吹寄対姫神の激しい(?)バトルのゴングとなってしまうとは、今の上条が知るよしもない。
まぁ、ともかくカレーを皿に盛りさて食べようかと考え始めたのと同時に、
「…はい。あーん」
銀色のスプーンに乗せられたカレーとご飯が上条の前に差し出された。
「…な、ッ!?」
思わず声を上げる吹寄。
「………、………」
上条は、じーっと銀のスプーンを見つめ、次第にそれを持ち主の方へと移していく。
移した視線の先には、普段通りの表情に頬をうっすらと上気させ、うわ目づかいで上条を見つめる姫神秋沙がいた。
「……………」
食え、と。
スプーンを差し出す姫神の潤んだ瞳は、そう告げている。
(…食わなかったら泣きそうな勢いですね…)
多分上条の顔の皮膚は相当ヒクついていることだろう。
吹寄はというとなんかめちゃくちゃ身体をぶるぶると震わせている。