「――警告、第七十七章第三節。起床を促します。起きてください上条当麻」
ゆさゆさと揺さぶられながらうっすらと瞳を開ける。
そこでツンツン頭の不幸少年上条当麻が見たのは着古した自分のワイシャツをパジャマ代わりにした銀髪碧眼の少女、インデックスの姿だった。
ほえ、と寝ぼけ眼で毛布にくるまったまま上半身をあげる。
狭苦しい浴槽の中でまるまっていたからいつものように身体の節々が悲鳴を上げていることを確認しながら明かりとりの窓を見ると外はまだ暗い。
「なんだよ、まだ真っ暗じゃん。腹が減って眠れない夜食作れとか言うのはやめてくれよな」
まだ焦点の合わない上条。しかし徐々に側にいる少女がいつもと様子が違うことに気づく。
とうまは私のことを食欲しかないと思っているのかな?
だってお腹がすいたんだもん。なんでもいいから作ってほしいんだよとうまの頭が噛み砕かれる前にぐるるるるる。
どちらでもない、どちらとも言わない。
どういうことだ?
赤髪黒服香水と煙草に包まれた長身バーコード神父がみたら「焼き殺したいほどに間抜け面だね」と評価するような顔をして上条がぽかんと口をあける。
疑問に対する回答は少女の口から発せられた。
「私はイギリス清教必要悪の教会所属の魔道書図書館、Index-Librorum-Prohibitorum。"禁書目録"
その付属人格である自動書記、ヨハネのペンです」
淡々とハンコを押していくような言葉は明るくぽんぽんと言葉が飛び出てくるいつものインデックスとはまったく異なっている。
「――懇願、今回はあなたに協力をお願いしたい事項があって現出いたしました。
このことは本人格、あなたがインデックスと呼称する存在は知覚しておりません」
付属人格? 本人格?
なんじゃそりゃ状態の上条。
イギリスのクーデター終了時に右方のフィアンマに遠隔操作霊装によって別人格のインデックスが存在することをいやというほどに知らされてはいる。
が、あの時のインデックスは間違っても「お願い」などという単語が出てくるようなキャラクターではなかった。
実際には彼が記憶を喪失する出来事の当事者としてその場にいたのだが当然ながら記憶を失った上条がそのことを覚えている道理はない。
「はぁ、まぁその――インデックスなのか? 違うのか?」
「肉体的にはあなたの呼称する”インデックス”ですが人格的には同一であり別個であると回答します。
同一のオペレーションシステム上の別アプリケーションと例えるのが科学サイドのあなたには理解しやすいと判断します」
「えっと、つまり、今のインデックスは食欲魔人だったり噛みつき魔人だったりするインデックスさんではないのうでせう?」
「――あなたが本人格をどのように認識しているかを理解しました。
余談ですが同一の肉体である以上記憶の交錯の可能性があることにご注意ください」
科学関係にまったく知識のないインデックスからOSだのアプリだの違和感のある単語が飛び出る。
おかげで、こいつはインデックスじゃないんだな、と上条は悟ることができた。
「ん――つまり、この、なんて言えばいいのか」
「自動書記、或いはヨハネのペンとお呼びください」
「じゃあペンデックス」
「――精神的な障害を確認。自己修復開始。成功。
名前など装飾に過ぎません。が、もう少しまともな発想はないのでしょうか」
付属人格にセンスを否定される。
嘆くべきか悲しむべきか、少なくとも喜ぶシーンではない。
上条は完全に覚醒した頭をぼりぼりとかきむしった。
「で、ペンデックスさんはなんの御用でせう? 聞き間違いでは無ければ上条さんに何か頼みがあるようなのですか」
「その呼称で定着するのですか。
付属人格に感情は付与されていません、が本人格の感情が最低限反映されています。
――結論。あなたは本当に馬鹿ですね」
「うわぁい、インデックスよりも明確に人格否定されたぜひゃっほう。女王様とお呼びすべきですかべいべー」
「わたしはクイーンではありませんし赤子でもありません」
映画の中の筋肉男のように白い歯を輝かせてはじき出したジョークもあっさりスルー。
タフじゃなければ生きていけないが優しくされないと上条さんは生きていけないのだ。
がっかりと肩を落とす。
「よろしければリビング、或いはベットへと移動しませんか。
毛布にくるまっているあなたにはわからないかもしれませんがここは少々冷えます」
誰のせいだよ、と一瞬思うもインデックス自身はいつだってきちんとベットに上条の居場所を用意してくれている。
自分の理性が信用できないからバスルームで寝ているのはあくまで上条自身の判断だ。
あくびを噛み殺しながら素直に言葉に従った。
リビングに到着。明かりをつける。やはり冷え冷えとしているがバスルームよりはましだ。
どんと床に胡坐をかいて座れば上条言うところのペンデックスは西欧人の苦手な正座をして対面に座った。
ちなみにここで彼女の服装を再表現すれば下着に上条のワイシャツを纏っているだけである。
つまり、正座をすれば秘密のデルタゾーン(レモンイエロー)がワイシャツの余り布の狭間からちらちらと見えたりする。
「ちょ、ちょっとペンデックスさん? その座り方はやめて! せめてお膝かけを!」
「――確認。どこを見ているのですか?」
「確認も何も、見えちゃうでしょ!
紳士たる上条さんだって健全なる青少年なんです! 少しは恥じらってください!」
「わたしは本人格と異なり恥じらいという感情は存在しません。ですが会話の障害となるのであれば隠します。
座布団でよろしいですか?」
「何でもいいから鼻血が出る前に早く!」
上条はそっぽを向きながら自分の座っている座布団を押しつける。
自分の座布団を使おうとしていたらしいペンデックスは困惑の表情――表情というほどのものではないが――を浮かべながら上条の座布団を受け取った。
細くて白い太股の上にちょこんと乗せる。
考えてみればそこはスフィンクスの特等席だな、と上条が思えばくだんのネコは部屋の隅で軽い寝息を立てていた。
「こちらを向いてください。障害は対応しました。横を向いていても会話は可能ですがあなたが理解しているかどうかを判断する材料が不足します」
言われて上条がペンデックスの方を向く。
耳まで真っ赤になっている上条に対してペンデックスの顔色は何一つ変わらない。小憎らしいほどだ。
ちらりと太股を見ればそこはきちんと隠されていてほっとする一方で心のどこかに残念な気持ちがわく。
「――警告。第二十三章八節、真実を語っても真実は伝わらない。
これからする話はすべて真実であり真実を否定をしないことを約束してください」
「うん? いやはや真実だったら否定はしませんよ。違うんだったら違うというけどさ」
「では。まずあなたは個体名御坂美琴に告白をされ恋人になった。違いますか?」
「違わない。うん、まさか上条さんに春が来るとは思いませんでしたよわはは」
事実である。
つい先日、いつもいつも電撃を浴びせてくる常盤台のエースに呼び出されていい加減殺されるかとびくびくしていたら突然告白されたのだ。
常日頃のおこないから嫌われてこそいなくとも好かれているとは思わなかった。
そして女子からの積極的な告白など一度も受けたことが無い(スル―しまくっていたともいう)上条は一発でKOされた。
特段するほど美人ではないがクラスで一二を争うレベルの可愛らしさを持ち、努力家で正義感の強い真っ正直な性格。
そのような御坂美琴が顔を真っ赤にして付き合ってくださいと言ってきたのだ。破壊力は折り紙つきだ。
かくしてめでたくも一組のカップル、古い言い方でツガイが誕生したのである。爆発すればいいのに。
なはなはとだらしなく顔を歪める上条をペンデックスは一刀両断する。
「中度の精神的損傷を確認。自己修復開始。成功。
――警告。のろけ話は聞きたくありません。
それ以上続けると本人格の影響により上顎と下顎であなたを噛み砕きたいという衝動を抑えられなくなります」
「ああ、うん。ごめん」
「続けます。そのことにより本人格に過大なストレスがかかっています」
「はい? インデックスにストレス? だってちゃんと応援するって言ってくれたぞ?」
「――驚愕。正真正銘の馬鹿ですねあなた。女の子の発する言葉が常に真実な訳ではありません。
事実、本人格は嫉妬しています」
「嫉妬? うぅん、確かに構ってやる時間は少なくなったけれども」
「そういうことを言っているのではありません。端的に言います。
本人格はあなたを男性として見ているのです。女性として愛してほしいのです」
「アイ? あいって?」
「脳味噌カニみそですね。LOVEですよらぶ」
沈黙。上条は絶句する。
三点リーダーがごく普通の男子寮の空間を飛び回る。
時間にしてたっぷり一分たった後、上条は完全にねじが抜け落ちた顔で口を開いた。
「え? マジ?」
外見は完全にインデックスである、いやインデックス本人に「インデックスは上条当麻に惚れています」と言われて上条は困惑した。せざるを得ない。
確かに随分と甘えてきているしわがままも言うし噛みついてきたりもする。
噛みつきは嫌だが少なくとも他の誰かにしているところを見たことはないので自分が特別なのだろうという自覚はあった。
しかしそれは兄妹愛、家族愛のようなものであって男女の仲とは想像できなかったのだ。
本当にこの男はその部分のねじが抜け落ちている。
「マジですよマジ。大好きな男性を他の女に取られて、それを嬉しそうにその男性の口から語られています。
本人格には耐えられないほどのストレスです。付属人格の私にまで影響が出てきています」
「いや……そうなのか。上条さんは確かに馬鹿でした。美琴のことはインデックスの前では言わないようにしよう」
「ことはその段階を通り越しています。付属人格である私を維持する魔力が生成できていません」
「え? インデックスは魔力がないんじゃ」
「本人格には魔力は存在しません。
しかし私、Index-Librorum-Prohibitorumの付属人格ヨハネのペンは十万三千冊の魔道書の保持のための魔力が常に必要であるように構築されています。
――質問、あなたは本人格が大量に食事を摂取している割にはまったく肥満にならないことを疑問に思ったことはありませんか?」
「いや、あれって体質だと思ってたぞ。後背筋につく脂肪細胞が燃焼しやすい形質だとか。そうか違うのか」
「間違いではないでしょう。しかしこの会話の本質はそこではありません。私を維持するための魔力が不足しているという点です」
「えー? まだ食べるの? 上条さんの家計簿はもうこれ以上赤くなりませんのことよ?」
「食事ではありません」
ここまで話してきて、ペンデックスがふいに顔をそむけた。
ほとんど変わっていない顔色だが心なしか赤くなっている。
「深刻な精神的損傷を確認。自己修復開始。自己修復中。成功。
――困惑。私にもこのような現象が起きるとは。しかし言わざるをえません。
上条当麻。私と、その、せ、せ……」
「せ?」
「セックスをしてください。お願いします」
横を向いていても会話は可能だが相手が理解しているかどうか判断できない。
そういったはずのペンデックスは顔をそむけたまま。
もちろん、土下座をするなんてことはしていない。
しかし湯気が立ちそうなほどに顔が真っ赤なのは横目でもわかる。無表情のままなのに。
「ぐ……む……」
上条当麻は絶叫しかけた口を、そして先ほど出かかっていた鼻血がぽたぽた落ちるのをすべての幻想を例外なく殺す右手で必死に押さえつけていた。
真夜中である。
大声を出せばばれる。
おもに隣の家の多重スパイに。
いや、今の衝撃の一言だって聞かれているかもしれない。
思わず薄い壁に目をやる。ぱっとみ穴があいているようには見えないが何分ここは学園都市。
外の技術だって窓の振動から部屋の中の会話を傍受する装置が作られているのだ。
いや、絶対に聞かれている。覗かれているに決まっている。
あいている左手でティッシュを取って鼻に詰めて、そしてくぐもった声で反論した。しようとした。
「あ、あのですねペンデックスさん。女の子がそういうことを冗談でも口にしては――」
「冗談ではありません。カバラやカーマスートラ、理諏教など有名なものから土着信仰まで含めて性は魔術の基本です」
「あ、その、えっと――」
「男根信仰はインドのシヴァ神が有名ですがこの国にも多種多様な信仰があります」
「えっと、ですから――」
「そもそもオシリスからホルスへとの時代変貌にはイシスの存在が必須ですがイシスは性行為によりオシリスを復活させようと――」
「わかった! わかりました! わかったからちょっと黙って!」
魔術に関してはど素人である上条が反論できるわけがない。
そのうえ次から次へと畳みかけられてはもう頭を抱えるしかない。
非常に残念なことに上条の脳味噌に搭載されているメモリは少なすぎてすぐ容量不足を訴える仕様になっている。
「おっしゃることはよぉくわかりましたが、他に方法はないんでせうか。その、性行為以外で」
「ありません。本来ならば飲食により賄われるはずですが過度のストレスにより機構が一部破壊されています。
上条当麻に対するもっとも効率的な提言方法を検索。
卑怯な言い方ですがあなたが本人格を傷つけなければこのような状況には追い込まれませんでした」
「効率的な、とか言わないでくれませんかね!?
ようするに俺がインデックスの気持ちも考えずに浮かれてたのがいけないんでせう!?」
「物事の起因はそうなります。ご協力いただけますか」
了承も何もない。
いくら一級フラグ建築士とはいえどもセックスしてください、らじゃ―了解となるわけがない。
上条当麻は童貞である。年頃の男の子である。
確かに性的な事柄に興味まっしぐらではあるがだからといってできたばかりの恋人を裏切ることなんてできない。
いや、それ以前にインデックスに対して欲情を抱くことに抵抗を感じている。
天真爛漫でありながらどことなく清浄な空気を纏っているシスターを性欲の対象としてみることに恐れを抱いているのだ。
「なぁ、それってやらないとどうなるんだ?」
「十万三千冊の魔道書の管理が不可能である場合、半径二千キロメートルを破壊殲滅したのちに自爆します」
「って、おいいぃい!」
真夜中であるにもかかわらず思わず上条は叫んだ。土御門のことなど忘れていた。
半径二千キロ。日本列島どころか中国やロシアまで含まれてしまう。いや、余波で人類が滅びるかもしれない。
しかも自爆となれば当然ながらインデックスは死んでしまう。
そんなことをさせる訳にはいかない。
目の前の可憐なシスターが戦術核以上の危険物であることを改めて知って上条の背筋が寒くなる。
だからといって嫌いになるとかそういうことではないのだが。
そして、そんなことを言われたって発情できるかと問われれば否と答えるしかない。
「繰り返しますが、ご協力いただけませんでしょうか?」
「と言われてもなぁ。俺には美琴がいる訳だし浮気はできないよ」
「浮気ではありません。緊急避難とお考えください。人工呼吸を浮気と定義しますか?」
「うーん」
腕を組み上条は悩む。
ここでインデックスを抱かないと世界が滅ぶ。
しかし恋人を裏切りたくはない。
それにインデックス本人が知らないところで自分の身体が穢されるなんてことが果たして許されるだろうか。
性欲だけに従えば美味しい話である。
可愛らしい女の子から性交渉を持ちかけられ、しかも大義名分もある。
だからといってそんなものに乗れるほど上条は大人ではなく汚れてもいなかった。
何分かの沈黙の後、ペンデックスが静かにつぶやいた。すくっと立ちあがる。
ぺとんと膝の上の座布団が落ちた。
透明感すらある白い足が上条の目に映り、それを振り払うように無表情のインデックスの顔を見上げる。
「仕方ありません。次善の策を用いることとしましょう」
「次善の策? あんのかよ。あるんならそれで――」
「スキルアウトという存在はこの時間でも活動していると聞き及んでいます。彼らに協力を――」
「ちょっとまちなさい!」
思わず手を掴んだ。
一歩踏み出そうとしたインデックス、否ペンデックスを引っ張って座らせる。
そんなバカなことをさせる訳にはいかない。
「――質問。上条当麻は破壊殲滅がお望みなのでしょうか」
引っ張って座らせた。そのせいで向かい合って座るというよりも抱きかかえられるような形になったペンデックスが無表情のまま腕の中で上条を見上げた。
薄紅色の唇に思わず視線が釘付けになる。
ごくり、と唾を呑んだ。
まだキスは一回だけ。御坂美琴に告白された日の一度きり。
彼女ではない少女の、しかし憎からず思ってくれている少女の唇の小ささに上条の心の一部が踏みぬかれた。
「えっと、だな――こんなことを女性に聞くものじゃないが、インデックスは処女なのか?」
「――警告、第零章零節。女性に性経験を聞くのはタブーです」
「いいから答えろ」
「ありません。本人格に記憶はありませんが幼少時より神の娘としての教育を受けたためこの肉体はまぎれもなく生娘です」
「じゃあ流石にまずいだろ」
「性行為には膣だけではなく口腔や直腸を用いたものもあります。
本来ならばソドムとして神の教えに禁じられた行為なのですが緊急時です。それでは如何でしょう」
「えっと、それはフェラとかクンニとかアナルセックスってこと?」
「少しはボカすということをしてほしいのですが」
抱きしめる、というほど力は込めていない。
しかし高い体温と華奢な身体、女の子特有の甘い香りが上条の理性を揺さぶる。
いつもの無邪気な、性的なことをまったく連想させない明るい笑顔のインデックスではない。
無表情の、機械のような、理屈でしか構築されていない、それでいながら体温のあるインデックス。
股間の経験のない性器に肉体のポンプが血流を送る。
ごくり、と再び唾を飲み込む。
御坂美琴に告白された日にひそかに買った避妊用のゴムが財布の中に収まっていることを今更のように思い出す。
「繰り返しますがこれは緊急避難です。故に浮気には当たりません。
最初の性行為の相手に御坂美琴を選びたいとしても膣腔を用いないのであれば問題はないのではありませんか」
問題はありまくりだ。
しかし穴だらけの論理でも言い訳にはなる。
上条の中の理性と情欲に揺れた天秤に錘が乗せられる。
くらくらと目眩がした。
「それに、まったく経験が無い二人が性交渉に及びうまくいかず別離を選択することはよくある話です。
私や本人格に経験はありませんが月詠小萌の部屋においてあった雑誌にはそのように記載されていました」
とん、と見えない錘がまた一つ。
「あなたは御坂美琴に嫌われたいのですか?」
とん、と見えない錘がまた一つ。
そしてぐらりと傾いた。
嫌われたくなんかない。これは仕方がないことなんだ。いつものように世界を救うだけの話。
そう、誰も困らない。
ぎろり、と上条の血走った眼が回る。
肉体全てが勃起するかのように心臓が高鳴る。
「どうかご協力をお願いします」
鈴を転がすような甘い甘い、セイレーンの歌声。
再度再度の懇願に、答えは言葉にする必要すらなかった。