風紀委員、白井黒子はふと警邏の足を止めた。  
 ポケットからの微かな振動に気づいたためだ。  
 ちゃーちゃーちゃーちゃーちゃちゃーちゃーちゃちゃー。  
 同時に響くのは着信音。ダースベーダーのテーマである。  
 彼女の携帯電話においてこの音が設定されている人物は一人しかいなかった。  
 不幸の権化、すなわち上条当麻である。  
 この着信音のたび、黒子は非常に微妙な表情で携帯電話を確かめるのが常だった。  
 そのため彼女の学友たちの間では、この着信音の主が何者であるかのトトカルチョがなされていたりする。  
 およそお嬢様方のやることではない。  
 しかしながら常盤台の誇る電撃姫の所業をみるだに、そんな幻想はぶち壊されてしかるべきだ。  
 と、彼なら言うだろう。  
 ちなみに学友たちが周りにいる際の彼女の電話対応は、当麻の三大恐怖の一つであるらしい。  
 閑話休題。  
 ポケットに手を入れ、携帯電話を取り上げると、黒子は不審げに眉をひそめた。既に通話が切れていたためだ。  
 着信音がしてからそれを取り出すまでの間、およそワンコール。  
 つまりワン切りされたことになる。  
 彼女の知る彼は、およそレディの扱いおいて及第点を与えられる手合いではないが、さりとて全くの礼儀知らずというわけではない。  
 少なくとも、妙な悪戯をするような殿方ではないのだ。  
 黒子は着信履歴を呼び出し、そこから当麻に返信をする。  
 ワンコール、ツーコール、スリーコール……  
 電話は繋がらない。ついには留守番電話サービスに切り替わった。  
 伝言は残さずに、通話を切る。  
 いやな予感がした。言いようのない不安に顔を曇らせる。  
 黒子は直ぐに、別の短縮ボタンを押した。  
「初春、少々頼まれてくれます? 今からいう番号の携帯端末の位置情報を調べて欲しいんですの……」  
 
***  
 
 上条当麻は追われていた。  
 といっても、それはそれほど珍しい事態ではない。  
 他人の厄介事に首を突っ込みたがる彼だが、この街においてはスキルアウトにからまれた人たちのそれがその先になることが多かった。  
 三人以上の相手には逃げを打つといってはばからない当麻にとっては、逃走劇など慣れたものである。  
 しかし、今回ばかりは勝手が違った。  
 この厄介事は明確に、彼を狙っている。  
 数は四人。  
 当麻が逃げるに値する人員である。が、彼が逃げているのは人数のせいばかりではない。  
 ちらりと、当麻は後ろを振り向いた。  
 異様な風体だった。  
 明らかに防弾防刃加工されているであろう黒の装甲服に、フルフェイスのマスクまで装備している。そして何よりの脅威は、彼らが手にしている、サイレンサー付きの大型拳銃だ。  
 それは単なる脅しの道具ではない。既に数発撃たれていた。幸いなことに当たることはなかったのだが。  
 追手の射線から逃れるように、当麻はすぐ脇の道に入る。  
 ちゅん、という冗談のように小さな音がすぐ後ろに聞こえた。  
(なんなんだ、畜生!)  
 わけのわからない事態に、しかし声は上げずに内心で毒づく。  
 再三言うが、不幸にも逃走劇には慣れていた。  
 しかしながら、今回ばかりはいつもの手法、つまり人ごみにまぎれて撒くことなどできるわけがない。  
 人気のない場所へと舵をきるうちに、彼は地の利の全くない廃ビル群の只中に飛び込んでいた。  
 壁から壁へと身を寄せて走りながら、当麻はポケットの中の携帯電話を探る。  
 一件の着信。  
 奇妙な胃の痛みを感じつつ、誰からの着信か確認もせずに再びそれをポケットに忍ばせた。  
 こんな事態に、巻き込めるはずがない。  
 それでも彼女にコールを入れたのは、嘘がつきたくなかったからか。  
 『今』の自分の人生は、そもそも嘘から始まっているというのに。  
 疲労からか、後ろ向きになりだした思考を追い出すように頭を振り、彼は次の路地へと滑り込む。  
「……!」  
 数歩進んだところで、当麻は舌打ちとともに足を止めた。  
 十数メートル先は壁。脇道もない。完全な袋小路だった。  
 引き返そうにも、今飛び出せば的にしかならない。  
 迎え撃つしかないか。  
 そう腹を決め、彼は角の壁に張り付いた。  
 迫りくる足音にはやる気を押さえ、息を整える。  
 
 数秒後、装甲服の男が路地へと踏み込んできた。  
 それに合わせるように、彼はその男の腹部へと右の拳を叩きこむ。  
「ぐあっ?!」  
 しかしながら、苦痛の呻きを漏らす羽目になったのは、当麻の方だった。  
 当然と言えば当然の話だ。肉体強化系の能力者でもない生身の人間の拳など、装甲服を着込んだ相手に通用するはずがない。  
「……」  
 覆面故に男の表情はわからないが、嘲りの笑みが見えた気がした。  
 それでも当麻は腐らない。  
 銃を構えようとした男の腕を、左の拳を打ち上げて跳ね上げ、さらに腹を蹴りつける。  
 ダメージこそなさそうだったが、それでも体勢を崩すことはできた。追い打ちすべく足を踏み出しかけ……しかしすぐに、後ろへと飛び退る。  
 次の瞬間、襲い来るのは数発の銃弾だった。  
 後発組が追い付いてきたようだ、その隙に目の前の男は体勢を立て直している。  
 次の方針を決める間もなく、襲撃者たちが集結する。  
 走って逃げるのは、もはや論外だ。拳銃の使えない乱戦に活路を見出すしかない。  
 覚悟を決め、当麻は間合いを詰めるべく踏み出そうとする。  
 その足が再び止まったのは、今度は銃弾のせいではなかった。  
 ……いつもの名乗りは、ない。  
 降って湧いた、としか言いようのない少女のとび蹴りに、銃を構えていた一人がもんどりうって倒れる。  
 そしてそのまま、突然の事態に反応しきれていないもう一人の覆面の側頭部に、彼女は鉄板入りの学生鞄の一撃を加えた。なす術もなく吹き飛び、ビルの壁に激突しそのままずるずると崩れ落ちる。  
「白井!」  
 安堵とも焦燥ともとれる声音で、当麻が叫ぶ。  
 彼の呼びかけに黒子は一瞬だけそちらを見、そして強く笑った。  
 太腿のホルダーに手をやりつつ、彼女は前に出る。  
 残る二人も、割って入ってきた乱入者の動揺から立ち直っていた。  
 しかしながらというべきか、彼らが銃口を定めるのは仲間二人をのした黒子にではなく、あくまでも当麻に対してだ。  
「安く見られたものですわね!」  
 叫んで彼女は金属矢を転移させる。  
 動かぬ的など外すはずもない。各三本、計六本の金属矢が彼をポイントしていた二つの銃口を串刺しにした。  
 これで終わりだ。  
 普通なら。  
「白井、気をつけろ!」  
 思いのほか近くから響く声に、黒子は緩みかけていた気を引き締めた。  
「こいつら全員能力者だ!」  
 当麻の叫びに呼応するかのように、獲物を使用不能にされた眼前の二人は、何の未練もなくそれを放り、ほとんど同時に両手を突きだす。  
 轟!  
 突如として巻き起こった烈風に、黒子は思わずたたらを踏んだ。  
 間髪いれず、もう一方の男の掌から紅蓮の火球が打ち出される。とっさに転移しようとして……その必要が無いと知る。  
 燃え盛る火の球は彼女を擦過し、そのまま背後の少年へと向かったからだ。  
 響くのは、悲鳴ではあり得ぬ甲高い音。  
 何が起こったのかなど、火を見るより明らかだった。内心で安堵の息を吐きつつ、黒子は視線をきつくする。  
「初志貫徹とはご立派ですけど……!」  
 呟きつつ、彼女はしゃがみこむように身をかがめた。  
 奇妙な挙動に、風使いの視線が一瞬黒子に移る。移したはずだった。  
 そこに、彼女の姿はない。  
 その体勢のまま、黒子は男たちの懐にテレポートで潜り込む。  
 そして地を蹴り思いっきり伸び上がって、風使いの顎へと痛烈なアッパーカットを繰り出した。インパクトの瞬間にテレポートを発動、拳一発で十メートルの高みにまで吹き飛んだ男は、もはや死に体だ。  
 さらに彼女は、宙に浮いたまま身をよじりつつ再び自身を転移させる。  
 目の前の光景に呆気にとられていた発火能力者の首に両足を巻きつけ、捻り上げた。冗談のように男の体が回転し、脳天から地に沈む。  
 
「……風紀委員をなめすぎですの」  
 倒れこむような無様はしない。当麻に並ぶように三度その身を転移させ、彼女は悠然と腕を組んだ。  
「名乗らなかったくせに」  
「……第一声がそれですの?」  
 軽口を叩く彼に、黒子は横目できつい視線を送る。  
「白井」  
「……なんですの」  
「おまえ、フランケンシュタイナー似合うな」  
「味わってみます?!」  
 改まらない軽口に、彼女は口調もきつくした。  
 この段に至って、当麻はどうやら黒子が本気で怒っているであろうことに気付いた。  
「……あの、白井さん?」  
「……」  
 恐る恐るの問いかけに、なんですの、の返事すらない。  
「怒ってらっしゃいます?」  
「当たり前ですの!」  
 爆発した。  
「見てわかりませんの?! 見てわかりませんの! こんな中途半端なことをされて平静でいられるほど、私聖人ではありませんの!」  
 凄まじい剣幕で迫ってくる彼女に、当麻はたじたじと後退する。一部残った冷静な部分は聖人なるセンテンスに反応を示していたが、現実はそれどころではない。  
「どうせ銃火器を持った手合いとの諍いに巻き込みたくないとか、そんなことを考えていたんでしょう?! あのワンコールで義理を果たしたつもりでいらしたんでしょう?! 馬鹿にしないで下さいまし!」  
 壁際に追い詰められた彼を上目で睨みつつ、彼女の言葉は止まらなかった。  
「伊達酔狂で! 見栄であんなことを言ったわけではありませんの! 吐いた唾を飲むつもりも、覆水を盆に返すつもりもありませんの! それを!」  
 それを、ともう一度、今度は小さく弱く呟いて。  
 黒子は、俯く。俯いてしまう。  
 振るえる肩に、言いようのない罪悪感を当麻は感じた。  
「すまん!」  
 それに突き動かされ、彼はただ頭を下げる。  
「白井の言葉を、軽く考えていたわけじゃないんだ。でも、いくらお前が風紀委員だからって、こんなことにまで首を突っ込ませるのもって気持ちもあって」  
「……あなたが言えた言葉ではありませんの」  
 目元をこすりつつ、顔を上げて彼女は言った。  
 返す言葉もない。  
「変な遠慮はやめてくださいまし。……傷つくのは、なにもあなただけではありませんの」  
「……今回は、お互い無傷ってことで?」  
「……反省の色が見られませんわね」  
「いや、本当に反省してるって。……正直、来てくれなかったらやばかった」  
「なら、結構ですの」  
 当麻のその言葉にようやく気が済んだのか、黒子はついに微笑んだ。  
 
***  
 
「うーん……」  
 パソコンの前で腕を組み、初春飾利は首を捻る。  
 あの後、例によって警備員に犯人たちを引き渡し、二人は風紀委員第177支部を訪れていた。  
「どうかしましたの、初春?」  
「ああ白井さん。調書は終わったんですか?」  
「ええ、つつがなく。それで、どうしましたの?」  
 別室から戻ってきてみれば、同僚が唸り声を上げていたのだ。気にならないはずがない。  
「さっきの件なんですけど……」  
 言って初春はちらりと黒子の後ろ、つまり当麻に視線をやった。  
 その意図に気付いた彼女は、構わないとばかりに頷いて見せる。  
 軽く目を見開き、そして何かに得心がいったのか薄く笑って、初春は頷き返した。  
「……なんですの、その反応」  
「いえいえ。で、先の件の取り調べの報告書が上がってきたんですけど。ちょっと妙な内容なんですよね」  
「妙?」  
 怪訝そうに呟いて、黒子は彼女の前に腰かけた。それに続いて、当麻もその隣に着席する。  
「何が妙なんだ?」  
「なんであなたが、当たり前のように先を促しますの……だからなんですの初春その顔」  
「いぃえぇなんでも。で、ですね。まず、今回逮捕した4人なんですが、全員前科持ちです。ただ、同一グループに所属していたわけではなく、初顔合わせだったようですね」  
「揃いの戦闘服着込んでたのにか?」  
 いぶかしげに、当麻が疑問の声を上げる。  
「雇われの実行犯で、首謀者は他にいるということですの? それなら別に妙な話というほどでも」  
「妙なのは彼らの証言です」  
 黒子の言葉を受け、初春は続けた。  
「『神の啓示を受けた』『預言は実行しなければならない』等々……、おかしなことを口走るばかりで、まともな尋問にならなかったみたいなんです」  
「うわあ……」  
「やばい宗教にでもハマりましたの? そろいもそろって。天下の学園都市で」  
「警備員もその線を疑ったみたいですね。……当初は」  
「当初は?」  
 眉をひそめる黒子に、彼女ははい、と頷き、  
「尋問開始から十分ほどで、彼らの態度が豹変したようなんです。『はめられた』『何であんな女の言うこと聞いちまったんだ』等々……まるで正気に戻ったみたいに」  
「……精神操作の能力者?」  
 黒子の指摘に、初春は再び頷く。  
「まず間違いありません。それもあって、彼らもかなり積極的に捜査に協力しているようですけど……」  
「いつでも切れる尻尾が、重要な情報を持っているはずありませんわね」  
「ですね。一応装備の配給を受けた場所は押さえたようですけど、そちらはまだ報告待ちです」  
「……今回は誰かの厄介事に首を突っ込んだわけではなかったそうですけど」  
 ちらりと先ほどとった手元の調書に目をやりつつ、黒子は初春に言う。  
「あ、はい。この四人、写真で上条さんの顔を知らされてたみたいです。間違いなく上条さんを狙っての犯行ですね。ただ……」  
「ただ、なんですの?」  
「無関係な人間を巻き込むな、と徹底されていたみたいなんです」  
「……ふむ」  
 それには思い当たる節がある。  
 黒子が乱入した時にも、直接的な攻撃はあくまで当麻に向けてのものしかなかった。  
「それが、何か?」  
「……うまく言えないんですけど、あれだけ大仰な装備に徹底された指令。……なんだかこの件がずいぶん大がかりな事件に思えて」  
 
「不安をあおるようなことを言うもんじゃありませんわ」  
 口ごもる初春を、彼女は窘めた。ちらりと当麻に視線を送る。  
「狙いは俺だけか。それならそれで気が楽だな」  
 彼は頭の後ろで手を組み、のほほんと言った。  
「……呑気なことを。主犯が精神操作の能力者なら、誰が敵になるかわかりませんわよ」  
「白井に襲われたら、抵抗できそうにないな」  
「それは困りますわね。その時はきっちり殴ってくださいまし」  
「右手でこつんとな」  
 言葉の応酬の末、二人は顔を見合わせる。  
 そして同時に、小さく吹き出した。  
「本当、便利な右手ですわね」  
「白井の方が便利だろ。いいよな空間移動。特売逃すこともなさそうだし」  
「……能力の無駄遣いにもほどがありますわよ。それに大能力者はタイムセールに拘らなければならないほど、生活費には困りませんの」  
「いーや、どんなに金回りがよくなろうとも、俺は特売を譲れないね」  
「小市民ですわねぇ」  
「うっさいですの!」  
「だから似てませんの!」  
「仲いいですねぇ」  
 はっとして、二人は割って入った声の主を見る。  
 そこには、にやにやとしか言いようのない笑みを浮かべる初春の姿があった。  
「……なんですの初春、その下衆い顔は」  
「花も恥じらう女の子に下衆はないですよ白井さん!」  
「花も恥じらうというより、あなたの花は恥ずかしいですの」  
 どういう意味ですかー! とぷんすかしている初春を無視して、黒子はあーと頷いている彼を見やる。  
「何かわかったら、お知らせしますわ」  
 ただし、と。  
 上から目線で、彼女は付け足す。  
「わかってるよ! 何かあったら連絡させていただきますよ白井様!」  
 はいよろしい、と黒子が微笑み、ああちくしょうと、当麻は拗ねた。  
 
***  
 
 学生寮、と一言で言ってもその内実はピンキリである。  
 例えば通う生徒全てが最低レベル3以上という某お嬢様中学校の学生寮など、『外』のオフィスビルもかくやというセキュリティーを誇っている。  
 対して。  
 レベル0、すなわち上条当麻の通学する特筆するべき点のない普通の高校の学生寮の防犯対策など、男子寮であることを差し引いてもお寒いものだった。  
 ……現に、午前二時に窓ガラスに丸い穴が開けられたというのに、警報のひとつも鳴りはしない。  
 キィ、と。  
 微かにガラスの擦れる音がした。  
 しかしながら、ベッドに横たわる標的は、起きる素振りを見せない。  
 男は改めて室内を確認した。  
 異様に家具のない部屋だった。めぼしいものといえば、テーブルとテレビ。  
 そして、目標の横たわるベッドくらいしかない。  
 ガラスにあいた穴から手を差し入れ、鍵を開ける。  
 かちゃりと響いた小さな音に、やはり、こちらに背を向けた対象は身じろぎもしなかった。  
 昨日の今日で暢気なものだ。  
 男は思う。  
 しかしながら、これは神の配剤と見るべきだろう。  
 預言は、実行されなければならない。  
 慎重に歩を進め、ベッドの前に立つ。  
 腰から抜かれた大型ナイフは黒く塗られ、月の光も照り返さない。  
 男はそれを大きく振り上げ……  
 
「んぅ……」  
 場違いな呻きに、その手を止めた。  
 標的が、標的だったはずの何かが寝返りをうつ。  
 男は混乱した。  
 ここは男子学生寮のはずだ。  
 標的である黒髪の少年の個室であるはずだ。  
 『神』が、『女神』がそう預言したのだ。  
 だったらこの、銀髪の少女は何なのだ?  
 動揺から、男は一歩後ずさる。  
 テーブルの存在を忘れて。  
 ガンッ!  
 取り返しのつかない、言い訳のしようのない失態だった。  
「誰?!」  
 少女が覚醒した。  
 目を覚ました、ではなく覚醒だ。  
 背後に意識をやったほんの数瞬で、少女はベッドの上で臨戦態勢をとっている。  
 まるで、こんな事態に慣れているかのような対応だった。  
「インデックス!」  
 背後からの声に、しかし男は失態の上塗りをしなかった。  
 右手へ、つまり窓へと飛び退りつつ侵入者を確認する。  
 そこには、本来の標的たる少年の姿があった。  
「てめぇ、昼間の奴らの仲間だな?!」  
 背後に少女を庇いつつ、彼は叫ぶ。  
 その問いには答えない。恰好を見ればわかることだからだ。  
 男は沈思する。  
 ここが標的の部屋であることは間違いない。  
 少女がいたのは偶々、少なくとも標的の護衛というわけではなさそうだ。  
 男に与えられた『予言』はひとつ。  
 すなわち標的たる少年の抹殺である。  
 しかしながらその予言には、一つの制約が課されていた。  
 無関係な人間を巻きこまないこと。  
 じりじりと間合いを詰めてくる標的と、その背からこちらを窺っている少女を交互に見る。  
 両立は不可能。  
 そう見切りをつけ、男は全身をスパークさせた。  
 
 突如起こった紫電の閃光に当麻の眼がくらむ。  
「くそ!」  
 毒づき、ほとんど見当で右手を振るった。  
 手ごたえは、ない。  
 未だちかちかする視界を細め、なんとか状況を確認しようとする。  
「とうま、外!」  
 インデックスの声に、彼は窓の外へ目を凝らした。  
 そこに映ったのは、電光を曳きつつ電柱に張り付く襲撃者の姿。  
「待て!」  
 当麻は叫んで窓から身を乗り出すが、さすがに電線を伝って逃げる相手を追う術はない。  
 くそ、と小さく呟いて、今度はインデックスに駆け寄った。  
「インデックス、怪我はないか?」  
「うん、わたしはなんともないんだよ」  
 ぐるぐると腕を回して、彼女は無事をアピールする。  
 そっか、と彼は安堵のと息をこぼし、そしてぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。  
「で、とうま」  
 にこにこと笑顔を浮かべて、インデックスは当麻の顔を覗き込む。  
「わかってる。全部話す。でも、ちょっと待ってくれ」  
 彼女の追及をいったん制止し、彼は床に落ちた携帯電話を拾い上げた。  
 
 一方のインデックスは、当麻に噛みつくでもなく、目を丸くして彼を見つめる。  
「……なんだよ」  
 彼女の視線に気づき、当麻は訝しげに言う。  
 ううん、とインデックスは首を振った。  
「ちょっと意外だっただけだよ」  
「はぁ?」  
 わけがわからず彼は眉をひそめるが、当の彼女は何も言わず、再びにこにこと、今度は含みない笑顔を浮かべる。  
 不可解なインデックスの様子をおいて、当麻はアドレス帳を開いた。  
 事情、時間帯。  
 どちらも逡巡するに値する理由ではある。  
 だが。  
 彼女の言葉が、脳裏を過ぎる。  
「……」  
 意を決し、彼は彼女の番号を呼び出した。  
「白井か? 常識のない時間にすまん。……力を貸してくれないか」  
 
***  
 
 振動音が微睡みを壊す。  
 枕元のマナーモードに設定した愛用の近未来携帯が、己の職務を全うしているのだ。  
 不機嫌さもあらわに、黒子はそれを取り上げる。迷惑メールだったらただじゃおかんと言わんばかりの勢いだ。  
 ディスプレイに表示された発信者名に、瞬時に眠気が吹き飛ぶ。  
 彼女はすぐさま身を起こすと口元に手をやって、通話ボタンを押した。  
「白井ですの。……承知しました。直ぐに伺いますの。詳しい話はその時に」  
 手短に通話を終えると、黒子は年不相応の寝間着を脱ぎ捨て、制服に着替える。  
 隣のベッドで眠る愛しのお姉様、御坂美琴は夢の世界だ。気づかれた様子もない。  
 何とも複雑な表情で、黒子は彼女の寝顔を見つめた。  
 このまま起こさずに出るのは、恐らく正しい。  
 しかし。  
 彼に、何かあったら知らせろと言ったのは自分だ。  
 そして。  
 自分に、事が大きくなる前に頼れと言ってくれたのは、彼女だ。  
 逡巡の後、彼女は美琴を揺り起こした。  
「んあ? なぁによくろこぉ、もうあさ……ってまだ2時じゃない……あんたどういう……?」  
「申し訳ありませんお姉様、少々トラブルですの。恐らく朝には戻れませんので、寮監に申し開きをお願いしますわ」  
 半ば以上寝ぼけていた彼女だが、そんな後輩の言葉にさすがに目を覚ます。  
「トラブルって……まさか風紀委員絡みじゃないわよね、こんな時間に」  
 学生からなる風紀委員、普通ならこんな時間に召集がかかることなどあり得ない。事件があれば、それは警備員の管轄になるはずだ。  
「絡んではいますけれど、風紀委員からの呼び出しでは、確かにありませんわ」  
「なら……」  
「しかしながら、私も看板に偽りなきことを証明しなければなりませんの。詳細は後ほど必ずご説明しますので、どうか快く送り出してはいただけませんか?」  
「……」  
 わけのわからないことを言う彼女の顔を、美琴はじっと見つめる。  
 そこに冗談の色はなく、あるのはただ、真摯な瞳。  
 ふう、と彼女は諦念の息をつく。  
「……わかった。こっちは適当にごまかしておくわよ。ただし、後で絶対に説明しなさいよ。あと、危なくなったらじゃなくて、危なくなる前に私を頼りなさい。いいわね?」  
「……はい。ありがとうございます、お姉様」  
 黒子は美琴を軽く抱きしめ、そしてそのまま虚空に消えた。  
   
***  
 
 ノックの音がした。  
 対面に座るインデックスがびくりと身を震わせるが、一方の当麻は警戒こそしているものの、腰を浮かせかけた彼女を制する余裕がある。  
 一つ頷いて立ち上がり、一応忍び足でドアスコープから外を窺った。  
 二房揺れる、茶色の髪。  
 予想通りの人物に安堵の息をつき、彼は扉を開けて彼女を招き入れる。  
「お邪魔しますの」  
「本当にすまん、こんな時間に」  
「学習能力があるとわかっただけで、十分ですわ」  
 頭を下げる当麻に、黒子は冗談めかして笑った。  
 苦笑いを返して、彼は彼女を部屋内へと促す。  
「失礼します」  
「あれ? 短髪といっしょにいた人だね」  
 想定外の第三者の声に、黒子は真剣に驚いた。  
「何度か会ったことはあるけど、名乗るのは初めてだね。わたしはインデックスっていうんだよ」  
「あ、ご、ご丁寧に。白井黒子と申しますの……」  
 流されるままに自己紹介をし終えたところで、彼女は眼前の少女の素性に思い当たる。  
「あなたはいつぞや、地下街にいらした……」  
 銀髪碧眼修道女姿など、これ以上ないほどに特徴的な出で立ちだ。  
 落ち着きを取り戻した黒子は、もの言いたげな視線を家主たる少年に向ける。インデックスも同様だった。  
 そうだよなー、と小さく呟き当麻は肩を落とすが、ややあって黒子に向き直る。  
「白井、過程はすっ飛ばして説明するけど、インデックスは俺の同居人だ」  
「本当にすっ飛ばしましたわね」  
「すまん、この件が片付いたらその辺説明……」  
「必要ありませんわ。確か命の恩人……でしたわよね?」  
 言いつつ彼女はちらりとインデックスを見やった。  
 うん、と躊躇うでもなく彼女は頷く。  
「くろこも?」  
「……まあそんなこともありましたけど、どちらかというと厄介事に首を突っ込む困った方という印象の方が強いですの」  
「……苦労してるんだね、わかるんだよ」  
「ありがとうございます。そういってくれる人がいるだけでも、救われた気分になりますわ」  
「なんでいきなり友好温めてるんだよ?!」  
 あさっての方向に向かう二人の会話に、思わず当麻は突っ込みを入れた。  
「ですが」  
 そんな突っ込みを意に介さずに、黒子は言葉を続ける。  
「そんな苦労は、もうしないで済みそうですの」  
 お呼びいただきましたし、と彼女は彼を流し見た。  
 う、と当麻は言葉を詰まらせる。  
 意味ありげな言葉と気まずげな彼の様子に、インデックスは思案げに眉を寄せた。  
「とうま」  
「なんだよ」  
「さっきも聞いたけど、今回私の『知識』は役に立たないんだよね?」  
「……ああ」  
「それでとうまはくろこを呼んだんだよね。くろこを頼りにしたんだよね?」  
「……そうだな」  
 責められているような気分で、居心地悪く当麻は返事をする。  
 
 だが、そんな彼とは裏腹に、当のインデックスは実にうれしそうな笑顔を浮かべてみせた。  
「くろこ」  
「はい」  
「とうまを頼むんだよ」  
「……はい?」  
 娘を送り出す父親のような台詞を言う彼女に、黒子は間の抜けた声を上げる。  
「とうまはね、事件に巻き込まれても相談なんてしてくれないし、心配かけないようにって事情の説明もしないし、誰かに頼ろうともしないんだよ」  
 それが余計に心配かけるのにね、と不満たらたらに唇を尖らせてのインデックスの言葉に、当麻はごにょごにょと口の中で言い訳をしながら目をそらした。  
「でも今回は、とうまはわたしに事情の説明をしてくれたんだよ。それにとうまは、くろこを頼ったんだよ。それがどういうことなのか、とうまはわかってないみたいだけど。わたしはそれが、ほんとうにうれしいんだよ」  
 こんなときに不謹慎だけど、と言いながらも、彼女は心の底からの笑顔を浮かべている。  
 それにつられるように、黒子の口元もほころんだ。どうにも、笑むのを押さえられない。  
「インデックスさん」  
 くつくつと笑いながら、彼女は呼びかけた。  
「この件が終わりましたら、お時間いただけませんか? きっと、積もる話がありそうですの」  
「うん!」  
 二つ返事で、インデックスは頷いた。  
「……先の話をすると、鬼が笑うって言うんだけどな。話、戻していいか?」  
「あ、はい」  
「実は……」  
 かくかくしかじか、と先ほどの経緯を話す。  
「狙いが俺だけっていうのは、まず間違いないみたいだ。でも相手の良心あてにするのも馬鹿らしいし、何より身元が割れちまった。で……」  
「潜伏場所が用意できないか、ということですわね?」  
「ああ。少なくともインデックスの安全を確保したい。できるか?」  
「そうですわね……」  
 とんとんと指先でテーブルを叩きつつ、黒子は黙考する。  
「……新型のセキュリティシステムのモニターという名目で、教員に割り当てられるマンションがいくつかありますの。無論、その中には警備員もおりますますから、そちらからの伝手で空き部屋を用意できるかも……」  
 少しお待ちください、と言って彼女は携帯電話を取り出しつつ席を立ち、玄関へと移動した。  
 おそらく警備員の支部に連絡を入れているのだろう、しばしの間遠い声が響く。  
 インデックスが小首をかしげて見せるが、当麻にしてみれば肩をすくめるほかない。  
 しばらくして、吐息とともに彼女は居間に戻ってきた。  
「話がつきましたわ。並びの別棟で二部屋、都合できましたの。どちらも隣室は警備員が入居中で、護衛を兼ねてくださるそうです」  
「そりゃ願ってもない」  
「ありがとうなんだよ、くろこ」  
 直球の感謝の言葉に、黒子は面映ゆそうにする。  
 が、それも刹那のことだ。  
「車も回してもらいましたの。当座の荷物だけ持って、すぐに移動いたしましょう」  
 
***  
 
「……これが格差社会ってやつか……」  
 半ば呆然としつつ、当麻は室内を見やる。  
 あの後。  
 眼鏡をかけた優しげな風貌の警備員の運転で、目的地たるマンションに到着。  
 この警備員がインデックスの警護も兼ねる事になっているのだが、彼女は一目見てインデックスを気に入ったらしく、夜勤効果もあってかハイテンションで彼女を引きずって行ってしまった。  
 残された当麻は、鍵の引き渡しを受けていた黒子とともに、隣のマンションの二階の一室に歩を踏み入れている。  
「分譲タイプの1LDKですから。流石に学生寮とは仕様が違いますの」  
 部屋やキッチンが使用可能かを確認をしつつ、黒子は事もなげに言った。  
「ここでの生活に慣れたくないな……さっさと終わらせよう、こんなこと」  
「前向きなのは、結構ですが……」  
 眉をひそめて、彼女が振り向く。  
「正直なところ、手掛かりが少なすぎますの。長丁場になる可能性がありますわ」  
「……むぅ。じゃあおとなりさんにもきっちり挨拶しておかないとな……さすがに今は無理か」  
「今後も無理ですわ。このフロア、入居しているのはこの部屋だけですの」  
「は?」  
「その方が都合がよろしいかと思いまして」  
「……お見通しだなぁ」  
 苦笑して頬を掻く彼に、黒子ははいと笑ってみせた。   
「では、リビングをお借りしますの」  
 寝室から来客用の布団を引っ張り出しつつ、彼女は言う。  
「は? って白井お前、ここ泊まっていく気か?!」  
「あら、こんな夜の夜中に、うら若い乙女を外に放り出すおつもりですの?」  
「いや……そんなつもりはねーけど……」  
 単純に想定外な事態に、当麻は口ごもる。  
「いやでもまずいだろ、それこそうら若い男女が同じ屋根の下って」  
「そんな台詞が出るのでしたら、それこそ問題ありませんでしょう? それともインデックスさんとは爛れた関係をお持ちで?」  
「何言っちゃってるのこの風紀委員」  
「ならやっぱり、問題ありませんのね。……まあ護衛を兼ねていると思っていただければ」  
 そう言われてしまえば無碍にもできない。  
 そもそもここまで手を尽くしてくれた彼女の申し出を、断れるはずもなかった。  
 一つため息をつき、  
「……わかったよ。でも部屋のベッドは白井が使ってくれ。俺がリビングで寝るから」  
「家主を差し置いてそういうわけにも」  
「この状況で家主も何もないだろ。それに上条さんは床寝がデフォなんですよ。ベッドは女性が使ってください」  
「……わかりましたの。ではお言葉に甘えて」  
「おう。……あ、白井」  
 ぺこりと頭を下げて部屋に入ろうとした黒子に、当麻はふと声をかける。  
「なんですの」  
「いや、お前その格好で寝るのか? 俺は部屋着持ってきてるけど……」  
 言われて彼女は、足元に置いてあった紙袋を持ち上げた。  
「ご心配なく。インデックスさんから一着、寝間着を押し付けられましたの」  
「何やってるんだあいつ」  
「では、おやすみなさいませ」  
「……おやすみ」  
 改めておじぎし、部屋に入る彼女を見送り、  
「どうしてこうなった」  
 と呟き、  
「……俺のせいか」  
 と、髪をかき混ぜた。  
 
***  
 
 軽やかな包丁の音に、目を覚ます。  
 寝ぼけ眼のまま身を起し、当麻は音の発生源に目を向けた。  
 そこには既に常盤台の制服に着替え、キッチンに立つ黒子の姿がある。  
「……白井?」  
「あら、おはようございます。もう少しで出来上がりますので、顔でも洗ってきてくださいまし」  
「あ、ああ……」  
 促されるままに立ち上がり、洗面台に向かおうとして……  
「いや、何してるんだ白井」  
「何って……朝食を作っているに決まってますの」  
 なにを当たり前のことを、とばかりに彼女は呆れた風に言った。  
「材料なんてあったのか?」  
「先ほど買ってきましたの、ちょちょいと」  
 実にテレポーターらしいお言葉だった。  
「なんか悪いな、何から何まで」  
「お気になさらず。それなりに腕に覚えはありますけれど、なかなか振るう機会がありませんで」  
「お、なら期待大だな」  
「普段自炊されてる方のお眼鏡にかなうかどうか……もうできますわ」  
「ああ、わかった」  
 言って彼は洗面所に向かう。  
 
 当麻が顔を洗って戻った時には、既に朝食がテーブルに並べられていた。  
 トーストにハムエッグ、サラダにスープという、彼の平素の朝食ではあり得ない品目。  
「……朝起きて朝食が用意されてるなんて、何年ぶりのことでせうか……」  
「……インデックスさんは?」  
 感激にうちふるえている当麻に、黒子は遠慮がちに問う。  
 返ってきたのは、沈黙。  
「……ええと、どうぞおあがりになってくださいまし。冷めてしまいますの」  
「……いただきます」  
「はい、召し上がれ」  
 かちゃかちゃと、しばし食器の鳴る音だけが響いた。  
「うん、うまい」  
「それは重畳ですの」  
 にこりと笑んで、彼女も食事の手を進める。  
 トーストに齧りついたところで、呆けたようにこちらを見る視線に気づいた。  
「なんですの?」  
「……いや、トーストかじる姿も絵になるな、と」  
 さすがお嬢様、と続ける彼に、黒子は顔を赤らめる。  
 
「……それは持ち上げすぎでしょう? トーストなんて、誰が食べても同じですの」  
「いや、白井もインデックスの食事風景を見れば、そんなことは絶対に言えなくなるはずだ」  
 しみじみと言う当麻に、どんなですの、と彼女は思ったが口には出さなかった。  
 ほどなくして、ほとんど同時に二人の手が止まる。  
「ごちそうさま」  
「はい、お粗末さまですの」  
 楽しげに黒子は言って、彼の分まで食器を重ねた。  
「ああ、片づけは俺がやるよ」  
「いえ、洗い物までが料理ですし。それにそろそろ時間を気にされたほうがよろしいのでは? いつもの学生寮からとは、距離が違いますの」  
「え? ……うわ、ほんとだやべぇ! すまん白井、頼むわ!」  
「お気になさらず。あ、鍵をお忘れなく。入れなくなるばかりか、下手をしなくても警備会社に通報されますわよ」  
「わかった! ……じゃあ行ってくる!」  
「はい、いってらっしゃいまし」  
 どたどたと足音を響かせる後ろ姿に、見えない手を振る。  
 慌ただしく扉は閉まり……途端に静まり返る室内。  
 まるで嵐の後だった。  
「騒々しい方ですの」  
 やれやれとばかりに溜息を吐きつつ、しかしその顔には笑顔が浮かんでいる。  
 ままごとというしかない、先ほどまでの彼との会話。  
 それが奇妙なまでに楽しいことだと思えた。  
「ま、こんな生活も、たまにはいいかもしれませんわね」  
 誰に聞かせるでもなく、呟く。  
 彼にはああ言ったが、どうせ長くは続かぬ事だ。少しばかり楽しんだとて罰は当たるまい。  
 
 
 
 そしてそれは、本当に、長くは続かなかった。  
 
 
 
 洗い物を終え、黒子も部屋を出る。  
 寮の食事の時間にはもちろん間に合わないが、この分なら学業を疎かにしなくてもよさそうだ。  
 エントランスを出たところで、びたりと彼女は足を止める。  
 まるで彼女を待ちかまえていたかのように、一人の少女が立っていたからだ。  
 年の頃は十四、五歳、可愛らしい顔立ちながら、その印象にそぐわぬ派手なドレスでその身を飾っている。  
「どちら様ですの」  
 太腿の金属矢のホルダーに手をやりつつ、警戒心もあらわに言う。  
 対してドレスの少女はといえば、そんな彼女の様子に頓着せず、頬に指を当て笑いかけた。  
 
「どちら様なんてつれないじゃない……白井さん?」  
 何を気安く、と吐き捨てかけて、気付く。  
 ああ、自分は何を言っていたのだろう?  
 今正に、あんな姿で!  
「私を迎えに来て下さるなんて! 感激ですわお姉様ー!」  
「ええー?!」  
 一足飛びどころかテレポートで間を詰められて抱きつかれ、ドレスの少女はただただ狼狽する。  
「ちょ、えっ、待っ、は、離れ……!」  
「いやですわつれないと言ったのはお姉様ではありませんかそもそも白井さんなどと他人行儀な黒子と呼んで下さいませ!」  
「ああうんわかった、わかったから黒子落ち着いて」  
「感激ですわお姉様お姉様が黒子と呼んでくれたから今日のこの日は黒子記念日ですのぐふっ」  
 唐突に、黒子の身が崩れ落ちた。  
 はーはーと荒く息をつき、顔を青ざめひきつらせ、自分で自分を抱きしめるドレスの少女。  
 そんな彼女に爆笑しながら声をかけるのは、ホストばりに容姿の整った少年だった。  
「よう、災難だったな」  
 笑いさめやらぬ様子で、彼は少女を冷やかすように言う。  
「笑いすぎよ」  
 彼女にしては珍しく、不機嫌そうに唇を尖らせた。  
「助けてやったんだからいいじゃねーか」  
 そこまで言って、彼は顔から笑みを消す。  
「大したタマだぜそいつ。あのままお前を飛ばす気だった」  
「嘘? この子が一番慕ってるはずの、御坂美琴の距離を設定したんだけど。正直貞操の危機を感じたんだけど」  
「相手が誰であれ、理性が情に勝るんだろ。そういうタイプの人間もいるって、自分で言ってたじゃねえか」  
「そうだけど……」  
「あと貞操の危機とか言ってんなよ。ウブなネンネじゃあるまいし」  
「……」  
「……え、何その沈黙。まさかお前」  
「……さっさとこの子運んでくれない」  
「いてっ、蹴んなオイ! わかった、わかったよ」  
 マジかよ意外すぎる、などと言いながら、少年は黒子を抱き上げた。  
 そのまま停めてあったボックスワゴンに乗り込む。  
 後部座席に黒子を寝かせると、少年は助手席に座った。続いてドレスの少女は、黒子の隣に腰掛ける。  
 二人の着席を確認して、運転席の男は無言で車を発進させた。  
 
***  
 
 手持ち無沙汰だ。  
 何をするでもなくリビングの椅子に腰掛け、当麻はぼうと天井を眺めている。  
 遅刻することもなく、いつものように学校は終わった。  
 特に補習もなく、友人らに遊びの誘いを受けたものの、それを辞退してまっすぐ仮宿に戻ってきたのだ。  
 迂闊に出歩くより、セキュリティー完備のこのマンションにいたほうがいいに決まっている。  
 が。  
 インデックスに安否確認の電話を入れたところで、やることがなくなってしまった。  
 己の無趣味が呪わしい。  
「……そういや今日この後どうするかなんて、話す暇もなかったな」  
 独り言がふと漏れる。  
 我ながら言い訳じみているなと思いながらも、当麻は携帯電話を手に取った。  
 ……まるで狙いすましていたかのようなタイミングで、携帯電話が着信音を鳴らす。  
 自覚なく喜色を浮かべて、彼は通話ボタンを押した。  
「はいはい上条ですがー」  
『出るの早いわね。私よ』  
 予想外の相手に、当麻は軽く眉を上げる。  
「なんだビリビリか。珍しいなお前から電話してくるなんて……」  
『アンタ、黒子知らない?!』  
「は?」  
 
 ビリビリ発言に怒声も上げず、どこか逼迫した口調の彼女に、上がった眉が下がる。  
「どういう事だ? 学校にこなかったのか」  
『そうよ! 夜中に飛び出してってそれっきり。風紀委員絡みだっていうから初春さんに聞いてみたけど、支部にもいないし……それでその時聞いたんだけど、アンタ昨日黒子と一緒にトラブってたんでしょ?! 何か知らない?!』  
「……実は今日、白井と朝まで一緒だったんだが」  
『ちょっと待って詳しく』  
 先とは違った逼迫感を滲ませて、電話向こうの彼女が問う。  
「あ、いや変な意味じゃねーぞ? ただ俺が寝込みを襲われて」  
『くくく黒子に?!』  
「違ぇよ! お前自分の後輩何だと思っ……いやうんとにかく違うから!」  
 一瞬色々納得しかけたものの、当麻は一連の事情を説明した。ただしインデックスの件は除いて。  
『……アンタが今いるのって、セキュリティーモニターのマンションなのよね。なら防犯カメラに何か痕跡があるかもしれない。今から行くから!』  
 聞くだけ聞いて、そして言うだけ言って通話は切れた。  
 待ち受け画面に切り替わった携帯電話を、じっと見つめる。  
 今になって、当麻は後悔していた。  
 負い目があったとはいえ、やはり彼女を巻き込むのではなかった。  
 巻き込んだ結果がこれだ。そして今や、美琴まで巻き込みつつある。  
「くそっ!」  
 悪態を吐き、テーブルを叩いた。跳ねる携帯電話。  
 ……振るえる、携帯電話。続いて着信音。  
 彼は大きく息を吐いてから、ディスプレイを確認する。  
 白井黒子。  
 ほとんど反射的に、当麻は通話ボタンを押した。  
「白井か?! お前今何処に……!」  
『第十七学区にある廃工場の敷地内にある貨物コンテナの中で、絶賛お休み中よ。迎えにきてね、ナイトさん?』  
 返ってきたのは聞きなれた低めの声ではなく、聞き覚えのない少女のそれだった。  
「……誰だてめぇ」  
 我知らず声を低くして、電話口の少女に詰問する。  
 こわいこわい、と少女はおどけた。  
『本件の主謀者よ。施設の調整に手間取っちゃって、連絡がこんな時間になってごめんなさいね』  
「御託はいい! 白井は無事なんだろうな?!」  
『勿論。大切な人質だもの。今は薬で眠ってもらっているけど』  
 そうでもしないと人質にできないし、と少女はやれやれとばかりに言う。  
 勝手なことを、と当麻は歯噛みするが、口には出さない。  
『詳しい場所は今からメールするわ。時間の指定はしないけど、早く来てね。それじゃあ』  
 言うだけ言って、やはり通話は切れた。続いてメールの着信音。地図だ。ご丁寧に、美琴にまでCCで送信されている。  
 後手後手だった。流されに流されている。  
 再びの美琴からの着信に、もはや腹をくくるほかなかった。  
 
***  
 
 傾いた日に照らされた工場群は、さながら炎の柱のようだった。  
 いい眺めじゃないな、と彼は内心で毒づく。  
 あの後、第十七学区の入り口に待ち合わせた二人は、そのままメールに指定されたポイントへと一直線に向かった。  
 明らかに現在使われていないであろう廃工場の敷地内、そこにいかにも不釣り合いな、巨大な真新しい真鍮色のコンテナが屹立している。  
 傷一つ見えないそれの一面に、ぽっかりと開くどこか虚ろな、洞のごとき入り口の前。  
 二人は一瞬視線を交わすと、同時に飛び込む。  
「白井!」  
 薄暗い内部に目を凝らし、当麻は焦燥もあらわに目的たる少女の名を叫んだ。  
 そんな彼とは対照的に、美琴の心は落ち着いている。  
 自分より焦っている少年が、傍らにいるためだろうか。  
 その事実が逆に彼女の心にちくりと刺さるのだが、表には出さずに内部を見渡した。  
 外観は貨物コンテナであるにも関わらず、その内は伽藍堂。  
 目につくものといえば、まばらな照明と。  
 反対側の壁を背に立つドレス姿の少女と。  
 ……左手の壁際に背もたれて、俯いている常盤台の制服姿の少女。  
「……白井!」  
 正面の少女には目もくれず、当麻は黒子に駆け寄った。  
 一方の美琴は威嚇するかのように全身に紫電を這わせ、一歩踏み出す。  
「止めないわけ?」  
 彼女の言葉に、ドレスの少女は肩をすくめた。  
「ええ。彼がここに来てさえくれれば、彼女はお役御免だもの。薬で眠ってもらっているけど、傷一つつけてないわ。その薬も、あと10分もすれば完全に抜けるしね」  
「目的はアイツだけなんでしょ? 私にまでここの場所をリークしたのはなんでよ」  
「白井さんに手を出した以上、あなたの関与を懸念するのは当然でしょう? なら、リスクは最小限にしないと」  
「最小限、ねぇ……」  
「そう。彼より早くても、遅くても駄目。同時でないとね」  
「……解せないわね。こんな手間かけてまで、黒子を攫った理由は何?」  
 くるくると右手の人差し指を空で回して、ドレスの少女はその指で壁をつつく。  
「彼の人質になりうる空間移動の大能力者が、彼女だけだからよ」  
「……どういう、ことですの」  
 疑念の声は、横手からだった。  
「黒子……」  
 当麻に肩を借りて立ち上がった彼女を確認して、美琴は安堵の息をつく。  
 黒子は彼女に視線を向け、済まなそう目を伏せた。  
 そして直ぐに、ドレスの少女を睨みつける。美琴もそれに倣った。  
 三者の視線が集中するも、彼女は慌てた風もない。  
 にっこりと黒子に微笑み、諭すように言った。  
「ここから出られるのは私と、あなたの飛ばせるものだけだから」  
 壁に当てていた指を、美琴に向ける。もう少し室内が明るければ、正確には彼女の背後を指差していたとわかっただろう。  
「……扉が?!」  
 ドレスの少女の指先を追った当麻が、驚愕の声を上げた。  
 その声に、美琴も警戒しつつ背後を振り返る。  
 音もなく。  
 出口は、閉ざされていた。  
 いや、閉ざされたどころか、扉の痕跡すらない。戸枠も、継ぎ目すら見当たらなかった。完全な一枚板。  
 まるで、はじめから存在すらしていなかったかのように。  
 当麻はまだしも、真ん前にいた美琴ですら気づかなかった事と合わせて、尋常ではない。  
「そもそもね」  
 歌うように、ドレスの少女が囀った。  
「扉なんて、ないのよ。さっきまでは、『この子』が口を開いていただけ。もう閉じて、チャックさせちゃった」  
「何を言って……!」  
 わけのわからぬことを言う彼女に、当麻は苛立ち交じりに声を上げる。  
「このコンテナは、生きているのよ」  
 彼を見やり、ドレスの少女は教え子を諭す教師のように言葉を紡いだ。  
 
「……は?」  
 状況を忘れたかのような間の抜けた声が、当麻の口からこぼれおちる。  
「……生きてる? これが?」  
「正確には、四方の壁と床が、だけどね」  
 軽く床を踏みしめ、訝しむ彼に、ドレスの少女はそう訂正した。  
「……こんな生き物、見たことも聞いたこともありませんの」  
 未だ膝を笑わせながらも、黒子は気丈に声を上げる。  
「まあ、常識で考えればそうでしょうけど」  
 ドレスの少女は笑った。  
「うちのリーダーに、常識は通じないから」  
 馬鹿馬鹿しいと、ばかりに。  
 
「彼の、『物』に『者』を付与して、精神操作で自在にそれを操作するっていう実験が元だったんだけど、これはそこからスピンオフした技術の産物よ」  
 慈愛に満ちた手で、ドレスの少女は壁をなぞった。  
「人間を素粒子レベルまで分解して『何か』に組み込む……正直私にはよくわからない話だけど。『学習装置』で操作技術を刷り込んでおけば、例えば有人機の柔軟性を持った無人戦闘機が完成する、らしいわよ? お手軽な生体兵器よね」  
 エックスリスペクトとか言っていたけど、どういうことかしら、と首を捻り、しかしすぐに気を取り直し。  
「必要な人間も、クローンを使えば問題ないし、ローコストだし。……軍用クローンの製造費、あなたなら知っているわよね? 『超電磁砲』?」  
 ぎっ、と奥歯を噛み締める音が、当麻たちにまで届く。  
「で、軍事転用可能な能力者をあごで使うお前が、レベル5の第三位を敵に回してまでレベル0の俺を付け狙うのは何でだ」  
 美琴が言葉を発するよりも速く、淡々とした口調で当麻が割り込んだ。  
 人が殺せそうな視線を、彼に向ける。  
 受け止められた。  
「勘違いしてるみたいだけど、私はあくまで『本件』の主謀者。あごで使われてるのは私の方よ」  
 熱い息を吐く美琴を尻目に、ドレスの少女は肩をすくめる。  
「で、あなたを狙う理由だけど」  
 言って彼女は考え込むように、頬に指を当てた。  
「……『スペア』が『メイン』に成り代わるための前哨戦。『バイパス』潰しってところかしら」  
「……何を言っているのか、さっぱりわかんねーよ」  
 声を低くして言う当麻に、ドレスの少女はでしょうね、と苦笑した。  
「別に懇切丁寧に教える義理もないし、正直あなたの重要度は私たちにもわかってないのよ」  
「……つまり」  
 未だ当麻から肩を借りながらも、黒子は力ある眼差しをドレスの少女に向ける。  
「つまりあなたをあごで使う誰かを『主役』にするために、とりあえず他の『候補』消しておこうと、そういうことですの?」  
 
 その言葉に、彼女は驚きと称賛の混じったまなざしを人質の少女に送った。  
「鋭いわね。でも、とりあえず、とは心外だわ。念のためって言ってほしいわね」  
「ふざけたことを……!」  
「大真面目よ。彼一人おびき出すのに、廃棄予定の『この子』まで引っ張り出して、どれだけ手間をかけたことか。……無駄な犠牲をださないってリーダーの意向を必要以上に汲んだ面もあるから、自業自得でもあるんだけど」  
 楽しげに三人を見やりつつ、ドレスの少女は言う。  
「ああそう」  
 もう付き合っていられないとばかりに、ついに美琴が全身から紫電を迸らせた。  
 電撃の槍がドレスの少女を貫く……直前。  
 何の前触れもなく、彼女の足元から壁がせり出す。  
 電光はそれに直撃し、何らの損傷を引き出すことなく霧散した。  
「言ったでしょう」  
 くすくすと笑いの混じった声が、壁の向こうから響く。  
「『この子』は『人間』だって。そしてわたしは」  
「……精神操作の能力者」  
 ご明察、と下がった壁から笑顔で黒子に拍手を送る。  
「馬鹿にしてっ!」  
「忠告しておくけど」  
 ポケットに手を突っ込んだ美琴を制するように、ドレスの少女はそれを流し見た。  
「天井は『この子』じゃない。重さ7トンのそれを、『この子』が支えているの。電撃くらいならまだしも、『超電磁砲』なんて打ち込まれたら、『手』を滑らせるかもしれないわよ?」  
 舌打ちとともに、彼女はドレスの少女を睨む。相手は動じた風もかった。  
 それもそうだろう、この場は彼女の掌の上と言っても過言ではないのだから。  
「10分後」  
 指を一本立てて、ドレスの少女は宣告する。  
「今から10分後に、『この子』は『手』を放すわ。白井さんの薬もそろそろ完全に抜けるから、彼女とあなたはここから脱出できるでしょう? 死ぬのは彼だけ」  
 ほら無駄な犠牲は出してないでしょ? と彼女は笑顔でぽんと手を叩いた。  
 それと同時に、ドレスの少女の体が、背にした壁に飲み込まれていく。  
「っ!」  
 あれほど饒舌に事を語っていた彼女が、こうもあっさりと逃げを打つとは思っていなかったのだろう。完全に不意を打たれた。  
「逃がすかっ!」  
 それでもとっさに、美琴は再びの電撃を放つ。  
 だがやはりというべきか、床から迫り出した壁が、ドレスの少女を庇う様に抱きしめた。  
「いい子。……それじゃ失礼。もう二度と会わないことを、願ってるわ」  
 くぐもった言葉が終ると同時に壁は歪み、元へと戻っていく。彼女の姿は、もはやない。  
「〜〜〜っ!」  
「お姉様」  
 突然耳元に響いた黒子の声に、歯噛みしていた彼女は慌てて振り向く。  
 ドレスの少女の言葉の通りだったのだろう。薬も抜け、演算能力を取り戻した彼女が、自分の肩に手を置いていた。  
「後はお任せいたしますの」  
「くろ……っ?!」  
 名を呼ぶ暇もない。  
 彼女が最後に見たのは、微笑む後輩の姿だった。  
 
 
 
 ふうと一つ息を吐き、彼女は空の見えない天を見上げる。  
「これが、お姉様やあなたがいる世界ですのね」  
 視線を下して、彼女は気負いなく彼を見た。  
「常々思っておりましたの。黒子もそこに立ちたいと」  
「……立たずに済むなら、それに越したことない世界だよ、こんなところ」  
 言外に早く逃げろと言って、彼は顔を背けて吐き捨てた。  
「でも」  
 そんな彼の様子を後目に、黒子は再び彼の前に立ち、そしてその右手を取る。  
「あなたを助けられるなら、悪くない世界ですわ」  
「……俺を転送する気か?」  
「他に、何が?」  
「無理だ!」  
 
 何でもないことのように言う彼女に、当麻は顔を背けたままに叫んだ。  
「お前だって知ってるだろ、俺の右手のことは! 御坂の電撃だって……」  
 一瞬言葉を逡巡させるが、ややあって決然と続ける。  
「学園都市第一位の力だって、俺の右手は消しちまうんだ」  
「……例の都市伝説は、本当でしたのね」  
 驚嘆の声を、彼女は上げる。  
 驚きは、あった。  
 しかし事実なら、この殿方でしかありえない、とも思っていた。  
 くすりと、笑う。  
「今日はラッキーデイですわ。あなたを助けるついでに、学園都市最強のテレポーターの称号が得られるんですから」  
「白井」  
「無理だと言われて、あなたは引き下がりますの? レベル5の第一位に立ち向かったあなたが?」  
 笑顔を消して一転、彼女は怒りすらこめて言う。  
「違いますわよね。だからこそ、あなたはここにいるのでしょう」  
 それに、と咎めるように彼女は続けた。  
「此度の事件の渦中はあなた。それに巻き込まれたのが私」  
 いえと、彼女は首を振る。  
「それに首を突っ込んだのが私」  
 つまり。  
「あなたが私で私があなた。……あなたが端役で私が主役ですの! だからあなたは!」  
 ぎゅうと彼の右手を握りしめ、黒子は言う。  
「黙って私に、助けられればいいんですの」  
 不敵に笑って、彼女は瞳を閉じた。  
 当麻はもはや、言葉もない。  
 彼女を翻意させる、言葉がなかった。  
 鏡に向かって諦めろと言って、一体何の意味がある。  
「……ああ分かったよ! 白井!」  
 その呼びかけに、黒子は塞いだ目を開ける。  
「お前が俺を、助けてくれ」  
 まるで泣き出しそうな顔の彼に、彼女は強く微笑んだ。  
「私を誰だと思っていますの? 常盤台が空間移動の大能力者、風紀委員! 白井黒子ですのよ!」  
 
 
 
 どれほど意気込めども、いかほど見栄切れども、目の前の現実は変わらない。  
 出力した力が消えていく。喰らわれていく。干されていく。  
 まるで、穴の開いたバケツに水を注ぐかのような徒労感。  
 焦るな。  
 瞳を閉じて自分にそう、言い聞かせる。  
 空間移動の演算に、焦りはマイナスにしか働かない。  
 絶対の能力などない。  
 彼女は思考する。  
 それを体現し続けてきたのが彼だ、彼の右手だ。  
 だからこそ、そこに穴がなければならない。  
 そうでなければ、彼の右手が存在できる道理がない。  
 絶対の能力など、ないのだから。  
 
 穴。  
 穴の開いたバケツに、水を注ぐかのような。  
 ならば、穴から水が抜けきる前に満たせるほどに一息に、溢れるほどに注げば。注ぐことができれば。  
 閃きだが、確信だった。  
 できないとは、言わせない。  
 できると認識し、実現する。それこそが学園都市の能力開発だ。自分だけの現実だ。  
 高々七十キロ足らずの殿方一人、転送できないはずがない。  
 できると思え。  
 できると信じろ。  
 できると確信しろ。  
 頭脳が回転する。思考が加速する。演算が光速する。  
 
 閉じた瞼に光が奔る。  
 
 目を、開く。  
 
 瞳に映った現実は、常とは異なる色彩を放っていた。  
 
 
 
 見開かれた彼女の瞳に、彼は戦慄した。  
 赤く輝く彼女の瞳。  
 毛細血管が破裂したのだろう、両の瞳からは血色の涙が流れて落ちる。  
 出血は、そこからだけではなかった。  
 鼻孔から、口元から、そして耳朶から。  
 彼女のかんばせが朱に染まる。  
 何をしているのかは、わからない。  
 だが、無理をしているのは、よくわかった。  
 まばたきもなく開ききった瞳孔は、少なくとも眼前の彼を写していない。  
 もう止めてくれと叫びたかった。  
 お前が傷つく必要なんてないと喚きたかった。  
 けれど。  
 おそらく彼女は言うだろう、あなたが言うなと。  
 あなたが私で、私があなた。  
 こんな風に、見えていたのだろうか。  
 いつもの自分は、こんなにも、迷惑をかけて、心配をかけて、不安をかけて。  
 そしてこんなにも、泥にまみれて、怪我にまみれて、血にまみれて、いたのだろうか。  
「でも」  
 震える声で、彼は言う。  
「俺は、ここにいるぞ」  
 そう。  
 それでも彼は、今ここにいるのだ。  
「……入院くらいなら、許してやるから」  
 彼女の目元の血を拭い、無理矢理に笑う。  
「きっちり笑って、終わらせてくれよ」  
 
 ……彼の世界が、朱に染まる。  
   
 
 彼女の世界が、色あせた。  
 その名の通りの色彩に、白と黒に。  
 ふと、自らの右手に目を落として。  
 ああ、と。  
 彼女は思う。  
 なんて、白いのだろうと。  
 穢れないほどに、白。  
 それに繋がる彼の右手は。  
 こんなにも、黒いのに。  
 翳ることできぬほどに、黒。  
 だから私は飛べるのか。  
 だからあなたは飛ばぬのか。  
 彼女は、見る。  
 まるで一つのように絡み合う、自分と彼の右手の指を。  
 
 そうだと、彼女は思い至った。  
 ならば、混ざってしまえばいい。一つになって、しまえばいい。  
 融けて混ざれば皆同じ。  
 白よ翳ろ、黒よ穢れ。  
 どれほど黒に近かろうとも、灰色ならば飛ばしてみせる。  
 視線を上げる。彼の顔へ。  
 強張った笑顔の彼に、彼女も笑う。  
 気負いも照れもなく、ただ自然に。  
 
 
 
 唇を、重ねた。  
 
 白と黒が、混じる。  
 
 
 
 光。  
 
***  
 
 少女の顔がずるりと下がり、少年の胸へおさまった。  
 突然の赤光に、彼の目が眩む。  
 それとほとんど同時に、背後で重い衝突音が響いた。  
 当麻は慌てて、首だけ後ろを振り返る。  
 聳えるように屹立する、無機質な金属の壁。  
 先ほどまで閉じ込められていた、貨物コンテナだ  
 それは、夕陽の朱を照り返している。  
 彼は正面に向き直った。  
 視界の下には茶色の髪が、視界の上には夕焼け空が。  
「……ははっ」  
 笑声が零れる。  
 これが笑わずに、いられるだろうか?  
「ここでお前を褒めたら、自画自賛になるのかな、白井?」  
 自惚れが過ぎますの、という返事はない。  
 その代わりにか、彼女は更に、彼にもたれかかった。  
 姿勢を崩した当麻が、よろける。  
 かくりと折れる、黒子の膝。  
 崩れ落ちそうになる彼女の腰を、彼はとっさに抱き留める。  
「……白井?」  
 脱力した黒子の顎が、力無くと上を向いた。  
 彼女のかんばせは、止め処なく赤。  
 
 当麻の絶叫が、廃工場群の直中に響き渡った。  
 
 
 その後のことは、よく覚えていない。  
 ただ、病室に付き添ってくれていたインデックスによると、半狂乱で彼女の名を呼ぶ自分を、御坂が無理矢理電撃で気絶させ、いつもの病院に運んでくれたらしい。  
「白井は?!」  
 そこまで聞いて堪えきれなくなったのか、当麻は詰め寄るように、インデックスに言う。  
「……隣の、病室に」  
「ここ一般病棟だよな? なら、白井も大したことないんだよな?」  
 歯切れ悪い彼女の様子に気付かなかったのか、気付かないふりをしたのか、彼は言い聞かせるようにまくしたてた。  
 がちゃりと、入り口の扉が開く。  
「目、覚めたのね、アンタは」  
 安堵の吐息をほんの少しこぼして、彼女は言った。  
「御坂!」  
「……悪かったわね。あんまり聞く耳持たなかったから、気絶させて運んじゃった」  
「そんな事どうでもいい! 白井はどうなったんだ?! 無事なんだよな?」  
「……体は何ともないわ。寝てるだけよ」  
「そ、そうか……」  
 ほっと安堵の息をつく。  
 そんな彼を見ても、御坂は入り口に立ち尽くしたままだ。  
「……御坂?」  
 ようやく彼女の異常な様子に気付いたのか、訝しげに彼は言う。  
「……目を覚ますのは、時間の問題だって」  
「あんた……!」  
 ぽつりと言うインデックスに、美琴は咎めるような声を上げた。  
「どうしたんだよ、二人とも」  
 怪訝そうな少年に、視線を交錯させていた少女の一方、美琴が決然と言う。  
「……その子の言う通り。目を覚ますのは、時間の問題だって。……それが五分後になるか、五年後になるか、わからないけど」  
「は?」  
「過負荷による脳の情報拒絶って、医者は言ってた。……見たくないから、聞きたくないから、感じたくないから……疲れたから、寝てるんだって」  
 まるで妹達のように、美琴は淡々と言う。  
 彼女とは対照的に、感情もあらわに、当麻は立ち上がった。駆け出さんばかりの勢いで、美琴の隣りを通り過ぎようとする。その肩を彼女は掴んだ。  
「どこ行くつもり」  
「決まってるだろ」  
 言わずもがなの問いかけに、苛立ちまぎれに彼は言った。  
「アンタ、黒子が倒れたのは自分のせいだって、思ってるんじゃないでしょうね」  
「……でなかったらなんだよ!」  
「自惚れんな!」  
 押すように掴んだ肩をはじき、美琴は当麻の胸倉を捻り上げる  
「あの子の怪我はあの子のものよ。あの子の怪我はあの子の責任よ! あんたのものじゃない!」  
「……!」  
 痛烈な一言に、息をのんだ。  
「とうま」  
 彼のいなくなったベッドに未だ向いたまま、インデックスが言う。  
「迷惑掛けてごめんなさいと、助けてくれてありがとう。……私はどっちを言えばよかったのかな」  
「インデックス……」  
 彼女の言葉に、当麻はある一言を思い出した。  
「あなたが私で私があなた、か……」  
「うん?」  
 彼の呟きに怪訝なつぶやきを漏らしながらも、美琴は手を緩めない。  
「……いや」  
 彼女を見下ろして、彼は笑顔を浮かべてみせた。  
「そうだよな。すまん。……俺はあの時、あいつを信じたんだ。最後まで、信じてなきゃな」  
「……ん、宜しい」  
 その言葉に彼女も笑顔を返して手を下して、そしてその手で彼の背を叩く。  
「やっといい顔になったわね。……行ってきなさい」  
「……おう!」  
 
 患者不在の病室に残された二人の少女の片一方が、立ちあがる。  
 彼女は未だ入口に立ちつくしたままの、もう片一方に振り向いた。  
「短髪」  
「……何よ」  
 先ほどまで浮かべていた笑顔は消えて、押し殺した返事を返す。  
「みこと」  
「だから、何よ」  
 彼女の声音は変わらない。インデックスは、彼女の前まで歩み寄った。  
「私はシスターなんだよ」  
「知ってるわよ」  
「お話聞くのは、得意なんだよ」  
「……」  
「懺悔告白は、秘密厳守なんだよ」  
「……」  
「……」  
 沈黙が、続く。  
「……何で、どいつもこいつも」  
 誰へかの言葉を、美琴は吐き捨てるように言った。  
「何で……何で! 何であそこで倒れてるのが私じゃないのよ! 何で黒子が!」  
 俯き、爪が白くなるほどに両手を握りしめる。  
「それは私に寄越しなさいよ! 私に責任回しなさいよ! 何が……っ!」  
 ぎりぎりと、奥歯が鳴った。  
「何がレベル5よ! 何が超電磁砲よ! こんな肩書あったって、後輩一人守れやしない!」  
 何も、できなかった。  
 ドレスの少女は光の翼と共に去り、やったことといえば、警備員への通報と、二人の搬送だけ。  
 足手まといだ、こんなもの。  
 血を吐く様な、悲痛な叫びが零れ落ちる。  
「っ、ね、ねぇっ!」  
 がばと顔を上げ、彼女は目の前のシスターに縋りついた。  
「こ、このまま黒子が目を覚まさなかったらどうしよう……し、死んじゃったらどうしよう!」  
 ぼろぼろと、大粒の涙を隠すこともせず、彼女は吐露する。  
 もう言葉もなく、彼女は目の前の白い修道女の胸に顔を埋めた。  
 止め処なく泣きじゃくる美琴を、彼女は優しく抱きしめる。  
「みこと」  
 未だしゃっくりを上げているものの、幾分落ち着いた彼女の耳元に、インデックスは囁いた。  
「私はくろこと約束したんだよ」  
「……」  
 顔を上げ、泣きはらした目で彼女を見る。  
「これが終わったら、積もる話をしようねって」  
 がーるずとーくなんだよ、と言うインデックスに美琴はかすかに鼻を鳴らした。  
「む、何かなその反応」  
「アンタほど、その言葉が似合わないのもいないわよ」  
 目元の雫を拭いつつ、身を離して彼女は言う。  
「あー! そんな事言うと、混ぜてあげないんだよ! 議題は『とうまの醸す不幸について』かも」  
「なにそれ絶対参加させなさい」  
 涙もなければ動揺ない、いつもの調子で彼女の肩を掴む。  
「発案はくろこだから」  
 にっこりと笑って、インデックスは言った。  
「とうまがくろこになっただけだよ」  
「……悪い影響、受けすぎよね」  
「そうだね。でも」  
 いつでも彼は、帰ってきた。  
 だから。  
「待っていよう?」  
 彼女の言葉に、  
「……うん」  
 頷いた。  
 
***  
 
 しょりしょりしょり。  
 林檎の皮を剥く音が、傾いた日の射し込む室内に響く。  
 清潔な白のシーツが、ここ最近でめっきり嫌いになってしまった朱の色に染まってしまった。  
 その色よりもなお赤い林檎の皮を剥き終え、切り分けた実を皿に並べる。  
 白井黒子と刻まれたプレートが掛けられた病室の、面会時間終了前の定例行事だった。  
 あれから、一週間が経過している。  
 以来、当麻は毎日欠かさず見舞いに訪れていた。  
 補習を断固として回避すべくこの一週間、彼は全ての授業を居眠りもせずパーフェクトにこなしている。  
 そんな当麻の様を見、小萌先生は感涙に咽び泣き、クラスメートたちはすわ天変地異の前触れかと戦々恐々としていたが、噂の渦中は気にも留めていない。  
 見舞いといえば果物だろうと、当麻は病室を訪れる際林檎を一つ、買っていく。  
 それを彼女の枕元で剥き、面会時間終了間際に彼を迎えにくるインデックスが平らげるというのが、一つのサイクルとなっていた。  
 果物ナイフを置き、小さく息をつく。  
 規則正しい寝息をたてる黒子の顔を、眺める。  
 彼女の白い肌も、朱色に染まっていた。  
 額。  
 瞼。  
 鼻。  
 そしてその色よりもなお赤い、唇。  
「……」  
 脳裏を過ぎる不埒な考えを、当麻はかぶりを振って追い出した。  
 学友たちと交わした会話のせいか、変に意識をしてしまう。  
 先の通り、彼は連日彼女のお見舞いに通っていた。  
 つまり友人たちの遊びのお誘いを、悉く断っているということだ。  
 最近付き合い悪いな上やんと言われ、隠すことでもないと事情を説明したのだが……  
 やれ相手は女の子なのかかわいこちゃんなのかそれならボクをお供にと、大変やかましいことになった。  
 相手が意識不明であることを伝えると、青金共々神妙に頭を下げたりもしたが、当麻にしてみれば逆に気味が悪いこと甚だしい。  
 とはいえ、そんな神妙さなど一過性なものに過ぎず、やれチューしたれ上やんそうだぜい眠り姫の呪いを解くのは王子様のキスだと相場が決まってるにゃーフラグ解放やボクにもチャンスがなどと、いつものようにのたまいだした悪友二人は鉄拳制裁しておいた。  
 なぜか他のクラスメートたちからの支援攻撃も行われ袋叩きにあいながらも、二人はグッドラックとばかりに親指を立てていたりしたのだが。  
 ともかく。  
 そのせいで、あるいはそのおかげで、彼は一週間前のあれを思い出してしまっていた。  
 唇を、なぞる。  
 あれは『今』の当麻にとって、間違いなく初めての口付けだった。感慨が無いわけではない。  
 
「……お前って結構、人望あるよな」  
 しかしながら、彼が口にしたのは全く別のことだった。  
 上やんのヘタレ、という青い声が聞こえた気がしたが、努めて無視する。  
 ただ実際、この病室を訪れる人は多かった。  
 美琴はその立場上毎日というわけにはいかないが、暇さえあれば顔を出している。  
 風紀委員の先輩である固法や同僚の初春、その友人の佐天ももちろん見舞いに来たし、彼女の宿命のライバルを自称する婚后なる人物は取り巻きと共に襲来、言いたいことを言いたいだけ言って去っていった。  
 一番の変わり種は、以前黒子に捕縛されたという発火能力者だろうか。見返す相手が寝てんなとかどうとか言って、当麻に見舞い品を押し付けて直ぐに出て行ってしまったが。  
「待ち人多いぞ……早く目、覚ましてくれよな」  
 他ならぬその一人である彼は、そう言って彼女の額にかかった髪を払う。  
 そしてじっと、表情変わらぬ少女を見つめた。  
 なぜか、涙が零れそうになる。  
「無責任だぞ、風紀委員」  
 言って彼は、彼女の頬に手を当てる。  
 そしてじっと、表情変わらぬ愛おしい少女を見つめた。  
 そっと、顔を寄せる。  
 もうあいつらに何も言えないな、と思いつつ。  
 彼女の唇に、唇を、重ねた。  
 夕焼け色の、世界が止まる。  
 一度目は、鉄の味がした。  
 そして二度目は、味気なかった。  
 顔を、離す。  
 もしかしたら味覚がおかしくなっているもしれないなと的外れなことを考えつつ、剥いた林檎を一かけかじった。  
 林檎の味がした。  
 当たり前か。  
「冴えねーよな」  
 深く椅子に腰かけ天井を仰いで、彼は自嘲する。  
 視界が滲んだ。  
 慌てて当麻は、目をこする。  
 そんな事は無意味だとばかりに、堰が切れたように、両の瞳から涙が零れ落ちた。  
「冴えねーよなぁ、本当……!」  
 それでもなんとかそう呟くが、それが最後の抵抗だった。  
 押し殺した嗚咽が、茜色の病室に響く。  
 
 
 
「……いつものことじゃありませんの」  
 
 
 ……都合のいい幻聴が、聞こえた。  
 そうか、おかしくなったのは聴覚か。  
 飛躍した思考を、涙と共に拭い去る。  
 落とした視線に映るのは、開かれた瞳。  
 赤く輝く瞳ではなく、名前の通りに白と黒のそれ。  
「しら、い……」  
「はい……白井黒子、ですの」  
 声音は未だ頼り無いが、それでも彼女は笑んで応える。  
「……あなたがいるということは、ここは天国ではなさそうですわね」  
「第一声が、それかよ」  
 今更取り繕っても無駄と知りつつも、当麻は平静を装う。  
「ま、私がミスなど犯すはずがありませんの」  
「自信満々だな、風紀委員」  
「いいえ」  
 ふ、と。  
 慈愛に満ちた、としか表現しようのない微笑みを浮かべて、彼女は言う。  
「私、白井黒子ですから。……頼った相手、間違ってなどいませんわよ……上条、さん」  
「……これ以上俺から水分絞ろうとすんの、止めてくんねーかな、マジで」  
 必死に見開いた目を見せぬように、彼は膝に肘置きうつむいた。  
「それは失礼しましたの。では、少し手を貸していただけません? 起き上がるのが少々骨ですの」  
 返事をせず、それでも顔を上げて、当麻は右手を黒子の背中に回す。  
 抱き上げるようにして、軽い彼女の身を起こし……  
 唇を、奪われた。  
 驚愕に、再び両目が見開かれるが……彼女の瞳は閉じたまま。  
 この場合、目を閉じるのが礼儀だろう。  
 だから当麻は、見るのをやめた。  
 ややあって、一人が二人に分かたれる。  
「……」  
「……」  
 長い長い、沈黙。  
「……私としても」  
 先に破ったのは、彼女だった。  
 ぼそりと、夕日ではあり得ぬほどに頬を赤く染め、黒子は言う。  
「ファーストキスが血の味というのは、いささか浪漫に欠けると思いましたの」  
「……それで?」  
 きっと彼女に負けず劣らずな顔色なんだろうなと思いつつ、当麻は相槌を打った。  
「ですからあれはノーカンということで、改めさせていただきました」  
「……何の味がした?」  
「……甘酸っぱかった、ですの」  
「……それは、浪漫があるな」  
「……はい」  
 互いが互いに目をそらしながら、それこそ甘酸っぱい言葉を交わす。  
「……」  
「……」  
「……私として『も』?」  
 ふと思いついたように彼が呟くと、黒子はぎくりと背を強張らせた。  
「……白井?」  
「なん、です、の?」  
 当麻はあからさまに挙動不審な彼女に見、そしてその顔を肩ごとこちらに向かせる。  
 
 当麻はあからさまに挙動不審な彼女に見、そしてその顔を肩ごとこちらに向かせる。  
「すまん白井。……さっきのはいきなりで、味がよくわからなかった」  
「……はい?」  
「もう一回、確かめさせてくれ」  
「は……んっ」  
 驚きは、刹那。  
 一瞬見開かれた瞳は、再び瞼に閉ざされる。  
 肩に置かれていた手が、彼女の背に回った。  
 頼りなげに身を支えていた彼女の両手も、彼の背に回される。  
 ぎゅうと、彼の腕に力がこもった。  
 彼女の両手は、必死で彼の背のシャツを握りしめる。  
 どれほどの時間が経過しただろう。  
 それは一分だったのかもしれないし、一時間だったのかもしれない。  
 どうでもいい事ではあった。少なくとも、当麻にとっては。  
 だが、病み上がりの黒子にしてみればたまったものではない。  
 自分に主導権のない口付けが終った頃には、息も絶え絶えに彼の肩に額を押しつける羽目になった。  
「あー……大丈夫か?」  
「……すまん、とは、おっしゃい、ません、のね」  
「悪いことをしたとは、思ってないからな」  
「……ケダモノ、とはいいませんの」  
「……おう」  
 彼女の結わえていない後ろ頭の長い髪を、くしゃりと撫でる。  
「……」  
 全身の血液が全て顔面に集中するかのような錯覚。  
 この段に至って、ようやく当麻は明確に羞恥を覚えた。  
 先ほどまででも十分に恥ずかしかったが、恥ずかしいことをしているという自覚を持ったのは今の今だ。  
 思わず黒子の両肩を掴み、引き離す。  
 突然の所業に、しかし彼女は怒るでもなく、呼気も整わぬまま彼を見、そして少し呆れる。  
「……どうして今更恥ずかしがりますの……?」  
「……正直雰囲気に飲まれて、えらいことをしてしまった感が」  
「うぶですの」  
「そんなにお達者ですか白井さん?!」  
「私だって史上初ですの! そんな年下より照れてどうしますの?!」  
 殿方がリードするのが筋でしょう、と赤面厭わず彼女は言う。  
「……正直さ」  
「……はい」  
「過程を色々吹っ飛ばしすぎだよな、俺達」  
「……はい」  
 
「白井」  
「はい」  
「好きだ」  
「……知ってますの」  
「……そっか」  
「……上条さん」  
「……おう」  
「……」  
「……」  
「……す」  
「……」  
「……好き、です」  
「……知らなかった」  
「……にぶちん」  
「それも知ってただろ」  
「はい」  
 即答かよ、と彼は再び深く深く椅子に背もたれた。  
 当麻に倣ってか、彼女ももぞもぞとベッドに潜り込み、彼とは反対側を向く。  
「白井さーん?」  
「……」  
 返事はなかった。  
 ふと思いつき、当麻は声を真剣なものに改める。  
「……黒子」  
 びくりと、彼女の肩が跳ねた。  
「……寝ますの」  
 ややあって、くぐもった返事が返ってくる。  
 ふと気がつけば、上掛けからそっと覗く彼女の右手。  
 当麻はそれに、自らの右手を重ねる。  
 華奢な指先を、大きな手のひらが包み込んだ。  
 言葉はない。  
 凪のような時。  
「とうまーリンゴー」  
 それはすぐに、嵐になった。  
 
 
 
 きっと不幸っていうのはこういうことを言うんだろうなと思いつつ。  
 二人は不幸を、今ある不幸を、噛み締めた。  
 
 

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