アスファルトがはげかけた田舎道に、今はもう使用されなくなったちいさなバス停がある。  
 五年前、唯一の利用客だった老人がみまかると、それを待っていたかのように廃線になっ  
た。  
 近隣の住人はふもとの町にでるときも畑仕事にむかうときも、自家用車をつかう。  
   
   
 建御はバス停のトタン板でできたうすっぺらい壁におそるおそる背を預け、正面にひらいた  
せまい入り口からのぞける風景にため息をついた。  
 灰色の霧が、舗装してから何年ほうって置かれたのかしれない道路と、そのむこうに広がる  
田園をおおっている。  
 腕時計と時刻表を見比べ、次のバスがそう待たずにくることを確認すると、夕景とも思えな  
い濁った色の外を眺めた。  
 湿気で頭が重い。視界の不鮮明さが苛立ちを増加させる。ふだんなるべく意識しないよう  
にしている疲労感が、ここぞとばかりに襲ってくる。建御はひどく眠かった。  
 頬をかるくたたく。無精ひげが手に当たり、皮膚に浸みだした脂のねとりとした感触を感じ  
る。顔をあたらなくなって何日目だろう。このところ洗面すら稀になっている。  
 かくん、と首がおちる。  
 いけない。こうしているあいだにもバスが来るかもしれない。  
 まばたきを繰り返し、頭を振って眠気をはらおうとして――隣に並んで腰掛ける、えらく呑  
気な顔が目に入った。  
 そいつはいかにも気持ちよさそうに寝こけていた。  
 それまで気がつかなかったが、建御の肩に、頭を預けて。  
 かがやくような金色の髪。柔らかな目もとに、真珠色の唇。浴衣姿の襟ぐりから白い肌が  
のぞく。わざとのようにくつろげられたそこに建御の目をひきつける、蜜のような深い谷間。野  
宿がつづくにもかかわらず、その身体には塵ひとつついていない。  
 まるで…天使のようだ。  
 ここ最近ひとりでつぶやいてはくすくす笑う、くだらない冗談。しかしこの女が本物の天使だ  
というのは、そのほうが馬鹿げていないだろうか。  
 女はほそく息を吐き、甘い香りとともに、暖を求めるように建御に身体をすりよせた。  
 建御はこころのなかに、あさましい色をした火がかきおこされるのを感じる。  
 これもいつものようにこの女の罠なのだろう。わびしい快楽とひきかえにささやかな希望を差  
し出させ、建御のなかにただ幻滅と徒労をのこすための。  
 建御の手が女のなめらかな首筋を這う。  
 かまうか。こいつがその気なら――楽しむだけだ。俺はこんなことで変わらない。  
 建御の荒れた唇が、天使を名のる女の、かたちのいい唇を乱暴にむさぼった。  
 
    
 人が来るかもしれない。そうでなくてもバスが通るだろう。  
 だがそんなことはどうでもよかった。気にならない。見たいなら見せてやれ。これまでだって、  
こんなことはあった。  
 幼馴染の少女を追う孤独な旅のなかで、募る不安に耐え切れず、ある夜彼は天使を犯  
した。それ以来、高ぶりをおぼえるごとに、所かまわず女にのしかかるようになった。  
 ビルの裏で、橋脚の陰で、道端に打ち捨てられたねぐら代わりの廃車のなかで、建御は女  
を求めてきた。  
   
    
 こんなことをしていてなんになるのか。  
 もうぜんぶておくれなんじゃないか。  
 かんちがいしてるだけなんじゃないか。  
 だまされているんじゃないか。  
 少女を救うための旅であるはずだった。最後に会った時の彼女の言葉を忘れ、そう思い込  
もうとした。先の知れない未来への恐怖が胸を詰まらせると、同行する得体の知れない女に  
気付かれないよう自慰をした。  
 そうして少しずつ何かを削りながら、旅をつづけてきた。  
 でもその日は限界だった。我慢ができなかった。雨風をさけるためにトンネルの通路で寝て  
いた、特に惨めだったその夜。ちらちらする常夜灯。暗闇を見つめているうちに涙がとまらなく  
なり、嗚咽をあげかけたところを見とがめた天使にからかわれた。  
 うしろから抱きすくめられた。乳房を押しつけてくる。誘われたのかもしれない。  
 そしてたてみはあたまがおかしくなった。  
 建御は天使を引き倒し、新聞紙の寝床のうえで弱くあらがう豊かな身体を蹂躙した。  
 脚をおしひろげ性急に腰を突き入れたとき、女の喉から苦痛を堪えるような声が漏れるの  
を聴いて、建御は行為のどの瞬間にも増して深い満足感を味わった。  
 建御の理解できる反応を得て、安心した、といってもいい。  
 「…結局、青少年のぎとぎとにてかりきった青い欲望の処理を仰せつかることになってしま  
いましたね。ああ、まだ身体が痛いです。わたしの肉体で衝動のまま不器用に若い獣欲を満  
たそうとするときはもう少し場所を考えてくれないと。擦り傷だらけですよ」  
 と、あとから天使はにやにや笑いながらいった。  
 どこにも傷などありはしないだろうに。  
 建御は嘲るようなその目を直視することができなかった。  
 建御のなかで自分を支えていたモノがまたひとつはずれてしまった夜。  
 
 
 バス停のなかを薄闇がひたしていく。  
 叫びだすこともその身をかきむしることもできない穏やかな狂気のなかで建御は天使の白  
磁の肌に垢じみて褐色になったおのれの下腹をこすりつける。  
 天使はやはり寝たふりをしていたのか、まるで戸惑わずに建御をむかえいれ、捕食するよう  
に少年の腰を太ももでしめつける。  
 浅いうごき、深い侵入、どこを指でさぐるか、どんな言葉で責めればよろこぶか、すべては実  
は天使の暗黙の指示に従ったものでしかないのだけれど、建御は自分が陵辱者だと感じて  
いる。女の支配者だと信じている。  
 天使もむしろそれを手助けするように、建御が望むような女として振舞う。  
 猥雑な言葉を耳もとでささやかれれば恥ずかしげに紅潮し身をよじらせ、建御の単調なう  
ごきが最上の愛撫であるかのように切なげな喘ぎをあげ、自然ななりゆきでそうなったかのよ  
うに淫らに身体をひらき、  
 建御のすべてが愛おしくて、  
 建御の意思に自分はひたすらに従順だと、  
 建御のいない世界など自分には考えられないと、  
 失笑ものの台詞を並べて、熱に浮かされたような少年の耳をたぶらかす。  
   
 死神。杵築。悪魔。ミワ。  
 間抜けな“蛸のたとえばなし”。  
 絶望のシステム。  
 カミナ。  
 日を追うにつれ、重要だったはずの言葉が意味を失いただの音のつらなりに、記憶の石く  
れに変化していく。   
   
   
 なにもかも終えたあと、それを見すましたかのように、バスが停車した。  
 すわりこみ、自失していた建御はドアの開く圧縮空気の音で我に返る。  
 かたわらにしどけなく横たわる天使の裸身に目をやり、自らの行いを認める。  
 建御はのろのろと服を身に着けると、女から、見たくない怖いものから逃げ出すように、ひと  
りでバスに乗り込んだ。  
 ドアがとじる。  
 窓越しに、天使が身を起こし、すこしだけ残念そうな目つきで建御を見送るのがわかったが、  
その視線の意味が少年にはわからない。  
 突如、タイヤがきゅるきゅるとまわり、バスははしゃぐように蛇行しながらどこかへと彼を連れ  
て行く。霧の中にテールランプが消え、かすかにきこえた悲鳴と哄笑もそれとともに途絶えた。  
   
    
 山の中のそのバス停を訪れる人は五年前以来誰もいない。  
 

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