この世には、うんざりすることが多すぎる。  
 
 たとえば、八月にしても異常なほどに暑いとか。  
 幼馴染みが三十一人の人間を殺して逃避行中だとか。  
 それを追って浴衣の饒舌天使と電車旅行の最中にあるとか。  
 
         ***  
 
 山陰に残響するけたたましいまでの羽音で蝉たちが合唱していた。  
 列車は東へと向かっているはずだった。景色も流れてはいた。  
 なのに一向に目的地に向かっている気がしないのは、景色が単調だからか、はたまた目標  
もまた移動しているからか。  
 それとも目の前にいる唯一の道連れが歯止めを知らぬ長広舌をふるい続けているからか。  
 
 建御は辟易して今日通算七十三回目となる溜息を吐いた。  
 あれから三日になる。短い期間にも関わらず、建御が早くも生まれ育った土地と公営団  
地の自室に郷愁の念を抱いてしまうのは、何もこの歳でホームシックにかかっているから  
ではない。  
「私は思うのですが」  
 蛙鳴蝉噪たる対面の浴衣姿が今日通算三十八回目となる私見を述べていた。  
「萌えという一単語にすべて委ねてしまうから、些少なことでも他者間の認識に齟齬が生  
じ、結果として不毛な論争の幕を上げてしまうのですよ」  
 建御は天使の言葉を無視しようとした。どうせならさっきのホームの売店で耳栓を買って  
くるんだった。聴覚情報さえ遮断できれば、この道程もまだしも穏健なものになったかもし  
れない。  
「人類は物事を簡素化して足許に置いておきたい性質を有しています。それは物理的な把握  
能力に絶対の限界があるということに起因しています。ですが、これが反対に相互理解を得  
る上での障壁となっていることは、議論の余地もなく現状を鑑みれば明らかなことです」  
 建御は思う。  
 俺は何ゆえ浴衣姿の金髪女と目的地不明の旅に出立したんだっけ? と。  
 彼にしてみればその答えは自明である。すなわち、幼馴染みの連続殺人娘にして鳥衣家長  
女、カミナの足跡を追ってのものだ。ものだが……  
 建御は回想していた。カミナは悪魔と同行していて、俺の方は天使を引き連れている。誰  
がそんな組み合わせを指定したのか解らんが、ともかく俺があいつを捕縛しなければ世界が  
おかしなことになっちまうかもしれない。絶対的な絶望だか何だか知らんが、そんなもので  
まるごと地球を梱包されてたまるか。即日クーリングオフで返却してやる。  
 すると向かいの連れ合いが、  
「聞いていますか?」  
「うるせえ! 今意志を固めなおしてたところなんだから無粋な茶々を入れるな」  
 ぱた、と天使は持っていた団扇を口元で止めた。  
「私は幕間の退屈しのぎになればと思って延々益体もない話題を展開していたのですがね」  
 目尻を弦月系に細め、また胸元へ送風を始める。  
「退屈しのぎどころか、ストレスの鬱積に拍車をかけてる」  
 頭を抱えた建御が首を振りつつ言うと、天使はたおやかに微笑して、  
「焦っても始まらないことは明白です。のんびり行こうではありませんか」  
 と、楽観的落款を押した。建御はやがて憮然とした面持ちになって、  
「目下のところ俺の懸案はあの女よりお前のほうなんだけどな」  
 旅行資金ももちろんだが、何よりこの堕天使の奇矯な言動が建御の常識的な感性から逸脱  
しているがゆえに、既に自宅からここに至るまでにひとつと言わず悶着があった。  
 たとえばこの天使は断固野宿を拒否していた。「犬畜生であってももう少しマシな寝床を  
飼い主に用意してもらえるのに、野宿などと笑止な真似をなさるおつもりですか?」との言  
い分であり、建御は早速定期預金の残高を切り崩す羽目に陥った。  
 行程が何日に及ぶのか検討もつかないが、まず間違いなくどこかの時点で資金が底をつく。  
そうなればどこか見知らぬ地で金銭獲得のための労働に奔走しなければならないかもしれず、  
そんなことしていて果たしてカミナを止められるのか、疑問符が四六時中彼の脳内を席巻し  
ていた。  
 
 懊悩する建御を慮ってか、天使は泰然とした笑みで、  
「大丈夫ですよ。私はこれでも天使ですから。あなたがたの規定する概念とはいささか差異  
が生じはしますが、それでもいわゆる天使的な奇蹟のひとつやふたつ起こせなくもありませ  
ん。危急の際には六宿十数飯の恩義を何らかの形で返してさし上げます」  
 信用できるか、と建御は思う。  
「とりあえずその減らず口が叩き出す無駄話の乱舞を半分にしてくれるだけでも相当に謝  
恩を感じるんだがな、俺は」  
「ならばそのようにいたしましょう。丁度昼寝をするのに適した頃合でもありますしね」  
 そう言うと彼女は見た目だけなら秀麗な双眸をあっさりと閉じた。それまでの弁舌ぶり  
が嘘のように、見事なまでの静逸を伴って緘黙する。  
 
 
 夏の午後だった。  
 一見して、世界は依然としてさしたる変化を見せていない。少なくとも建御の知りうる範  
囲においては。  
 ごくまばらに通過する乗客が半瞬目を留めるほどに、目の前の天使は麗容な姿態をしてい  
たが、その豊満な体つきはやはり建御の守備範囲に漏れてはいた。  
「……俺の妄想力をなめるな」  
 首を振りつつ建御は独りごちた。彼は大抵のものを己が独力でもって対処することができ  
る。人畜無害であり非常にローコストである。  
 ふっ、と彼は三日前に去った幽霊と死神のことを思い出す。  
 
「もう二度と会うことはないであろう」  
 
 記憶にある死神の最後の台詞だった。  
 『死神』という字面とはまるで関連しないような幼女姿の裸身は、最終的に幽霊である事  
代和紀を永遠の輪廻へ転生させることで責務を完遂し、地上から去った。果たして思考を介  
していたのか疑問なほどに淫猥な言質を連鎖させていたが、建御にとってある意味無垢にも  
思えたその姿がいなくなった今、微かな寂寥が胸中にわだかまっているのも無視できない事  
実であった。  
 三日前まで、目の前にいる天使はまるで相方のように死神の相槌役となっていたが、こい  
つは死神が去ったことに寸毫の名残も感じないのだろうか……と建御は思った。  
「二度と会うことはない……か」  
 カミナの妹、鳥衣ミワにも放たれたその言葉はあっさりと外れた。ならば建御の場合にお  
いてもそれはありうるのではなかろうか。確かに幽霊死神天使悪魔の四者が自室に滞留して  
いる時間は悪夢以外の何物でもなかったが、天使といい死神といい、すぐに忘れてしまうに  
はあまりに存在が強烈だった。  
 
「何かおっしゃいましたか?」  
 ふと天使が眼を開いて問うた。建御はふっと息を吐いて、  
「何でもねぇ。いいから寝ててくれ。お前が寝ないことには俺が安眠できねぇ」  
 すると天使はクスッと笑い、  
「えぇ。……焦っていても始まりませんからね」  
 
 何でもない一幕であった。  
 そこには世界を満たす絶望も、猟奇的な連続殺人も、やたらと涼しい夏の空もない。  
 
 
「……あっちぃ」  
 建御は即刻目を開けて太陽を睨みつけた。この炎天でどうして涼やかな顔して昼寝できる  
んだ?  
 
 この世には、うんざりすることが多すぎる。  
 
 
 (了)  
 
 

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