「先生、なんか声おかしくありません?風邪ですか?」
「…おかしくない」
機嫌わるっ。やっぱり声変だし。
風邪気味なのは、らしくなく書類作業が遅いことからも窺える。熱で注意力散漫になっているのだろう。イライラもそのせいか。
…そんなとこまで見てとれるなんて、よっぽど俺この人に惚れてんだなあ、はあ。
「ほら田村、依頼人のとこ行くわよ」
ようやく書類との格闘を終えたらしく、彼女はコートに袖を通し扉へと向かう。
いつもカツカツと威勢のいいハイヒールに、なんだか覇気がなかった。
依頼人と別れる頃には、彼女の不調はより顕著になっていた。
明らかに顔色が良くないし、時折咳き込みもする。
「今日はもうこのまま直帰したらどうですか…?事務所には俺が戻って伝えますから」
「…そうする。このくらいなら、田村1人でもある程度まではやれるでしょ」
即了承とは少し意外だった。余程しんどいんだろう。
お先、と歩き出すその足取りが、あまりにふらふらと危なっかしい。
慌てて彼女の腕を掴むと、空いた片手で俺はタクシーをつかまえた。
ごねる彼女をなだめ、車内に押し込んだ。
「…って、なんであんたまで乗ってくるのよ?」
「送ります。もう時間も時間ですし、急ぎの件もありませんから」
お人好し…とつぶやきながら、彼女はシートにもたれかかった。やはり幾分かぐったりとしている。
ドライバーに住吉先生の家を告げてからちらりと目をやれば、浅い呼吸が彼女にか弱さを漂わせていた。
結局、俺は先生の部屋まで上がった。
タクシーから降りる際に貸した手から伝わる熱、そして焦点の定まらない目を見たら、ほっとけなくなってしまった。
車中で事務所に連絡して、住吉先生とそれから俺も、直帰の許可をもらっている。
『大先生から伝言。住吉先生襲うんじゃねえぞってさ』
電話越しの重さんの言葉を思い出した。
…善処、します…。
玄関でコートを脱がせて抱き上げる。彼女の軽さと熱さに少し驚いた。
「ちょ、歩けるから…下ろし、てよ…」
弱々しい悪態は無視してベッドまで向かった。
ふさがった両手の代わりに足で掛け布団を起こす。
蹴っ飛ばすんじゃないわよとかまた悪態つかれたけどそれも無視して、ゆっくりと彼女をベッドに横たえた。
ぴたりとしたニットの下の胸元が、浅い呼吸に合わせて微かにでも確かに上下する。
妙に…艶かしい光景だった。
…ああ、もう。寒気がするのに身体の芯は熱いし、
節々は痛いしふらふらするし頭はぼおっとするし。
「先生、体温計どこにあります?」
…顔が近いっつの。
ベッドに横たわって、起き上がるのもしんどいから、田村に拳を見舞うこともできない。
「…無いわよ、そんなもん。」
「な、いんですか…?」
あり得ないって顔してんじゃないわよ。悪かったわね…。
「田村…水、欲しい」
喉も異様に渇いてる。
いそいそと田村が水の入ったグラスを持ってきた。
ふらつく身体をなんとか起こそうとすると、田村があたしの背中に手を回して身体を支えた。
田村のくせに…その手が力強い。抱き上げられた時もそう。
身体を委ねられる、そんな安心感がある。
「飲めます?大丈夫ですか?」
なんの心配してんのよ…。
田村が、あたしの口にあてがったグラスを傾ける。
口内に流れ込む冷たい液体を嚥下しようとした…けど。
「…あ、…」
…最悪。
上手く飲み込めずに、口の端を水が伝っていった。
やがて顎まで達して、ぽたりぽたりと滴が落ちてニットを濡らした。
「ッす、すいません住吉先生!」
「…バカ田村…」
怒る気も起きない、というか気力がない。あたしは口元を指で拭った。
田村のやり方が悪かったわけじゃないのはわかってる。あたしの器官がちゃんとはたらいてくれなかったのだ。
不自由な自分の身体にイライラが募る。そして頭に響く。本当に、調子出ない。
不意に田村が、口元を拭うあたしの手を退け、代わりに自分の指で拭い始めた。
田村の親指が水の伝った部分に沿って、す、すと肌の上を滑る。
田村に…顔、触れられるなんて…こんな、優しい手つきで…。
「たむ、ら…」
なんだか恥ずかしくてくすぐったくてその顔を見やると、優しくてでも真剣な、そんな表情に出くわしてしまった。
途端に胸がきゅうっとしめつけられる。
やだ、ほんとに、熱でおかしい…。
しばらくされるがままになっていると、田村は口元から手を離し、再びグラスを取った。
今度はちゃんと飲み込まなきゃなんてぼんやりと考えてたら、視界に入ったのは自分で水を含む田村。
と、次の瞬間、
唇に同じ質感が重ねられる、感触、
次いで、冷たい液体が口内に注がれる、感触。
何をされてるのか…一瞬思考が停止したのち、やっと理解が及んだのだった。
こく、と彼女が水を飲み込む音を確かめてから、ゆっくり唇を離した。
以前奪った時より熱い唇。
そんなつもりなかったのに、舌と舌が触れてしまった。
「…すいません」
怒られるかな…今日はもう帰った方がいいか。
自分の中に昂りが生じているのがわかる。理性で抑えられるうちに、ここを離れるのが賢明だろう。
「住吉先生…俺帰ります。ゆっくり休んでくださいね」
怒らせないよう極力穏やかに語りかけ、背中に回した手を外しながら再び彼女を横たえようとした。
「なんで…っ、帰んのよ、バカ…」
離れかけた俺の腕をつかんで、彼女が俺を見つめた。
彼女にしてみれば睨んでいるのかもしれない。だがほんのり濡れ、熱を持つその瞳は、睨むというより切なげで。
また俺の劣情が煽られる。
…抑えろ、俺。
「病人を一人に、するなんて…薄情でしょ、田村のくせに…」
…可愛い。寂しいって言えばいいじゃないですかなんて普段なら言い返すだろうけど、でも。
「先生…あの俺、本気で、先生に何するかわかんないんで…」
あー…情けないことこの上ない。
実際、この状況で事に及ぶのは造作もない……彼女の意志は無視だが。
重さん、というか大先生の言葉がまた頭をかすめた。
住吉先生は俺の気持ちを解ってる。
…俺はそう確信している。
そもそも俺と彼女の関係は、ずっとグレーゾーンにあるのだ。あのキス以来。
だから、俺が言わんとすることも、彼女には理解できているはずだ。
襲えるものなら襲ってしまいたい。
時に優しく時に荒っぽく、彼女のすべてに触れたい。
でも、何より欲しいのは彼女の気持ちだったから…。
「先生…明日はお休みして、早く治してください。依頼人の方のところには俺一人で行ってき「バカっ」
怒声と同時に、彼女が俺の腕を握る手に力を加えるのがわかった。
驚いて彼女を見ると…その瞳はますます潤んでいる。頬の紅潮は…熱のせいだけではない、そう思っていいんだろうか?
下半身が熱を持っているのが自分でわかる。俺の中で、男の部分がむくむくと頭角を顕しつつある。
本能なのか愛しさなのか…そんな判断はつけられないが、とにかく目の前の女性が欲しかった。
「先生……俺の好きなようにしちゃって、いいですか…?」
もはやなけなしとなった理性を振り絞り、彼女の瞳を見て尋ねた。
「何でもいいから…ここに、いなさいよ…」
恥ずかしそうに瞳を逸らしながらも彼女が口にした、その言葉が引き金となった。