心臓が割れるように収縮していた。  
ホテルのロビーには何かが充ちている。大理石の市松模様の床、壁画のある壁と、  
入り組んだガラスのかたまりのシャンデリア、そして待ったり、通りすぎたりする人々の隙間を、なにかが埋めている。  
そう感じるのは、わたしだけだろうか?  
わたしはある男に呼び出された。「万引きしたことをバラしてほしくないなら……」  
男はにやりと笑い、このホテルを指名した。  
わたしの腕には青山君がほしがっていた――そしてわたしのお小遣いでは手の届くはずもないくらい高価な――腕時計が巻かれている。  
レタスから聞いたことがある。ダイビングの話だ。  
ウエットスーツなしで珊瑚虫の濃い群れにぶつかると、細かなガラスの破片を擦り付けられるように、  
からだのあちこちが痛いのだそうだ。  
わたしは今、ホテルに潜む珊瑚虫にからだを締め付けられている。  
 
男はわたしを部屋に招き入れると、ソファの肘掛け椅子に腰を下ろして、話した。  
「足というのはとても不思議だ。だが不純ということではないよ…」  
非実用でありながら体重を支えるという重要な役割を演じている足について男はしゃべり続けた。  
「結局のところ、足は日常生活における機能的な……」  
「あのう、シャワーを浴びてきてもよろしいですか?」  
わたしは男の話が長引きそうだったので最後まで聞かずにいった。  
「シャワーだって? いったい君は何を言うんだ? わかっているのか? 体臭というのはとても大切だ。そうは思わないか?」  
男はわたしが履いていた黒革のヒールを脱がし、足のにおいを嗅いだ。  
わたしはハイヒールなんて履きたくなかったけれど、男がこれを履くよう要求したのだ。  
慣れない靴のせいでわたしの足首がひどく痛んだ。  
「体臭というのはとても大切だ。とくに足のにおいは……」  
男はしゃべりつづけた。  
 
硬い黒皮を溶けるほどに男はしゃぶりついた。  
犬みたいだとわたしは言った。男はワンワン、ワンワンとしつこいくらいに犬の真似をした。  
わたし、犬がきらい。と言ったら勃起したペニスをわたしに向けげらげらと笑った。  
男はわたしに俺のおしっこを飲むようにと要求した。  
犬のように片足を上げて、さあ口を開けろと男は言った。  
わたしはいやだと言った。男はすぐに「万引きを……」とわたしを緊縛する言葉を吐いた。  
そこにはなにかしらの因果が含まれているようで、わたしを二重に苦しめた。  
わたしはしかたなく男のペニスの前で口を開いた。  
男のからだがぴくぴくと痙攣し、生温い液体が口蓋を満たした。  
わたしが吐き出しそうになるのを無理に顎と頭を押さえつけて全部飲み込めと男は言った。  
男の体温であたためられた液体がぬるぬると喉もとを通過し、わたしはすごく不快だった。  
げほげほと堰をするわたしをみて男は転げまわるように笑った。  
ワンワン、と男は犬の真似をした。わたしにはできの悪いエイリアンにしか見えなかった。  
 
わたしはパンツを脱いだ。またあれこれと要求される前にさっさとセックスを終わらせようと思ったのだ。  
男は、「俺はセックスに興味がない」と言った。代わりにわたしをうつ伏せで寝るよう命じた。  
ストッキングをするすると、卵の薄皮をめくるように男は脱がした。ストッキングのざらざらとした感触を頬で楽しんでいた。  
わたしはこれから何が起きるのがわからず怖かったけど、男が持ってきた携帯電話をみて嫌悪が軽蔑に変わった。  
男はわたしの表情の変化を見て、「写真はとらない。君と俺は今夜かぎりの関係だ。約束は守る」  
と相変わらず低く淀んだ声で男は言った。  
男はわたしのおしりを押し開けると、ひんやりとした硬いものを挿入した。  
「何を入れたの?」とビックリしてわたしは言った。  
「当ててごらん」男はゲームでもするみたく楽しげに言った。  
わたしは人工的な曲線状の筒みたいなのを想像したが、もうどうでもいいやと思ってあきらめた。  
作りかけのマドレーヌみたいなのが頭のなかにしばらく浮かんでいたけど、それもやがて見えなくなった。  
 
クイーンの「WE WILL ROCK YOU」が聴こえた。男の着信メロディーだった。  
男はそれに出ると何か遠い海の音でも聞くみたいに耳をすませ、小さくにたにたと笑った。  
そしてわたしのおしりに刺さっているなにかをぐりぐり回した。  
「痛い!」わたしは言った。言えば言うほど男の手に力が入った。  
「いまね、モモミヤくんに入れているのは電話の受話器なんだよ。俺の携帯からはモモミヤくんの内臓の音が聞こえるんだ」  
よだれが垂れていることに男は気づいていないみたいだった。口の周りを拭おうとせず、わたしの音に聞き入っていた。  
わたしは恥ずかしさのあまり目をぎゅっと閉じた。夢の中で青山くんに会おうと思った。  
そしていま私の右の手首にある腕時計を渡すんだ。ありがとう、と言ってわたしの頬に優しくキスをする。  
くちゅくちゅ。とあまり聞きなれない音がした。男が携帯電話をわたしの耳に押し付けたのだ。  
自分の臓器がうごめくのをわたしは聞いた。軟体動物が絡みあっているみたいだった。  
もうどれだけ強く瞼をとじても、青山くんには会えなかった。  
 
 

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