プリシアナ学院の影、とも言うべき人気のない塀と建物の隙間に、一筋の紫煙が立ち昇っている。
ドワーフがギリギリ二人通れる程度の狭い空地には、安っぽい紙煙草を咥えた少年がいつも一人だけでいた。
学院は生徒教師を問わず全域が禁煙指定されており、ましていつも同じ場所で煙が上がれば決して同学生や教師に見つからないはずはないのだが……。彼がこの件で補導をされたことはなかった。
黙認の理由は実は彼が睨みを利かせていることが学院の秩序に貢献しているとか、実は教師たちですら力ずくでは敵わなかった、とかいう噂なのだが、真実は定かではない。
そして、そんな大げさな噂が学院中に広まるくらい、彼自身が相当の実力者であることは周知の事実であった。
彼は特定のパーティには所属せず、ある時間帯に決まってそこで暇を潰している。雨水溝があるだけのそこに時たまやって来るのは、決まった理由で彼に用がある者ばかりだ。
彼がこの場所で寛いでいるのは、依頼を募集している合図でもある。
「……フーッ」
塀を背に足を放るようにして地べたに座った彼は、指に挟んだ煙草を口から離し、より大きな煙を口から吐き出す。
と、彼の一連の仕草を震えながら見つめているのは、彼にとって数週間ぶりの来客であった。怖い話の1つで気絶しそうな気弱な印象の、青い短髪のドワーフの少女。
彼女から話を切り出してくるのを待つために火をつけていた煙草が、シケモクとなって溝に落ちる。
「……助っ人の話だろ?」
いつまでも何も言わず立ち尽くしている相手に痺れをきらして見上げると、少女はビクリと身を竦ませる。
色あせた金色の刺々しい短髪、そして髪と同じ色の瞳を宿す三白眼。彼がバハムーンである由縁の巨大な体躯と尖った角と耳も相まって、このドワーフに限らずたいていの相手は上目遣いに見上げただけでも睨まれたように震え上がるのが常だった。
いつものことであるがゆえに彼女の反応に対しては眉一つ動かさない。もっとも、無表情とはいえ元が強面なので相手には怒っているように見えるらしいが。
見つめるだけで威圧してしまうことは数ある経験で分かりきっているので、少年はすぐに目を逸らすと新しい煙草にごく小さなブレスで火を灯す。
「とりあえず、行き先と目的とパーティの数、それに伴うスポットあるいは飛竜召喚札の有無、そして帰還札かバックドアル使用の有無。
他にも聞きてえことはあるが、ひとまずそのぐらいは分からねえとこっちも要求する報酬の見積もりようが無え。
……分からんって言い分が多いほど、余計に高くつくぜ?」
いわゆる傭兵稼業。
特定のパーティに所属しない代わりに、報酬と引き換えにそれに見合った期間の助っ人としてどんなパーティの仲間にもなるのである。
「……あ、あの……」
彼女は、どもった口調のままなかなか話を進めない。
少年は壁を蹴り飛ばしたくなるほどに苛立ったが、これ以上怯えさせては逆効果と判断してそのままの口調で話しかける。
「ビビってんじゃねえよ。金額分の仕事はしてやるし、それ以上余計なことはしねえ。都合の悪い評判が立つと後の商売が上がったりになっちまうからな」
「……ごめんなさい、その、違うんですっ」
「は?」
目だけで見上げると、ドワーフが1枚の白い封筒を両手で持っているのが見えた。
「これ、あなたに渡してほしいって。わ、私の友達から頼まれたんですけど」
と言いながら、そのまま両手を突き出して少年の手の届く距離に封筒を差し出す。
少年がおもむろにそれを取り上げると、
「ご、ご用事はそれだけです! さようなら!」
と言って、ドワーフは逃げるように走り去っていった。
「……」
封筒を真っ二つに引き裂いて開き、中に入っていた紙片を手に取る。
紙片には学院の敷地内のとある場所と、明日の夕方の某時刻にここに来て欲しい、という旨が流麗な筆跡で認められていた。
約束の時刻。
バハムーンの少年は律儀にも手紙の場所へ約束よりかなり早く到着していた。
だが、この行為は間違っても相手のことを考えてというものではない。基本的に授業に出ない彼が他にすることもなく暇だったというだけである。
この場所も学院で人気が無い空き地の1つだが、ある程度の広さはあるので時々生徒が決闘に使うことはあるため日によっては騒がしく、彼がここで紫煙を燻らせたことは無かった。
そして、彼はこの空き地が『そういう場所』であることを知っていたが故に、手紙の差出人が何をしようとしているのかもおおよそ察しがついていた。
「お待たせしてしまったかしら」
時間の10分ほど前になって、樹木を背もたれに居眠りしていた少年に声がかかった。
「別に」
紛れも無く寝息を立てていた少年は、特に大きくも無いその声にすぐ覚醒する。
開けた視界の真ん中に現れていたのは、紫色の長い巻き毛をしたセレスティアの少女。
「フリードさん、で間違いありませんわね?」
「そういうお前は、昨日ドワーフを遣いに寄越した奴か。アリス……つったか?」
手紙の最後に記された名を思い出して問うと、少女は肯定するようにクスリと微笑んだ。
手を後ろに回して足を揃えて立ち、堅苦しい学院制服をきっちり着こなしているその所作は、多種族から見たセレスティアの典型的なイメージである清楚なものである。
……後ろ手で交差させるように構えられた、禍々しい二本の巨大鎌を除けば。
(学科は堕天使。あの一対の鎌は本来どちらも両手持ち、『真・二刀龍』を会得してなけりゃ同時にゃ使いこなせねえ。ハッタリじゃなけりゃこの女、かなり骨のある使い手だな)
多少の警戒を保ちながら、少年フリードは立ち上がる。
「どうやら助っ人の依頼でも、愛の告白でもねえみてえだな」
フリードは断言するように言い放ち、アリスと目を合わせながら障害物の無い空き地の中心へと歩いていく。
両手に、刃から重厚な鈍い輝きを放つ二本の槍を握り締めて。こちらも本来、1つ1つが両手持ちの武器である。
「始めに聞いとくぜ。……誰の差し金だ?」
ねっとりと絡みつくような殺気を頬に感じつつ、フリードは問う。
依頼内容はパーティ同士の決闘の助太刀も珍しいことではなく、それが原因で倒した奴らから逆恨みの襲撃を受けることもまた珍しくないことであった。
ただ、彼はこのセレスティアの少女に見覚えがなかったのだ。これに対してフリードは、彼女がそういう連中に雇われた腕の立つ用心棒のようなものなのだろうとアタリをつけていたのである。
「説明の必要がございまして?」
「心当たりが多すぎてな。とりあえず、殺る気十分なのはツラ見りゃあ分かるがよ」
フリードは言うが、彼女は別に凄みを利かせてこちらを睨みつけているわけではない。
しかし、口に微笑をたたえながらも藍緑色の瞳は決して逸れる事がない絶え間ない殺気を発し、後ろに構えられた鎌は次にどのように動くのかを予想させない。
この常に隙を伺っているような彼女の立ち振る舞いが、彼に気を抜くことを許さなかったのだ。
「ま、アンタの言うことももっともだ。遠慮は要らねえ、本気で俺の命を奪いに来い」
「その代わり、あなたも殺すつもりでいらっしゃる、と?」
「つもりじゃねえ、殺すんだよ。仕事柄、アンタみてえな別嬪だろうと豚と分け隔てはしてられねえからな。……後で蘇生はさせてやるさ、真っ向から喧嘩売ってきたことに免じてな」
話しながらフリードは眼前に十字を作るように、それぞれ地面に直角と水平に槍を交差させる。
眼光は鋭く射抜くように目前の敵を見据えた時、もはやお互いに言葉は必要なくなっていた。
アリスは更に笑みを深くし、足を交差させると後ろ手に持っていた鎌を緩やかな動作で左右に突き出す。まるで、ドレスの裾を摘んで一礼する時の貴婦人のように。
そして、彼女の交差した両足がフワリと浮かぶと、
――軽やかな足音が、小気味良いリズムを奏で始めた。
「……」
体の捻りは交えない、前後左右に素早くステップを踏むだけのタップダンス。
フリードはそれが無駄な動きでもハッタリでもないことを理解しつつ、彼女の『踊り』が終わるのを待つ。
否、待つというほどの時間はかからなかったかもしれない。
彼女の踊りは唐突に若干大きく跳んで、両足で着地することで終わりを告げる。
しかし、着地する乾いた革靴の音こそすれ、姿はとうにそこには無い。
――かの足捌きは、『快足の踊り』。
疾風が遅れて続くほどのスピードは、速い以上にテレポルで現れたようであった。
いきなりフリードの目と鼻の先に迫ったアリスは、既に右手の鎌を横薙ぎに振りかぶっている。
彼の首の高さに。
「!!」
だが。
完全に不意をついて敵を仕留めたかに見えた先手は、激しい金属音によって失敗したことを告げる。
彼の左手に握られた槍の柄が、薙がれた鎌の刃を受けていたのだ。
(……メインは『堕天使』、サブ学科は『ダンサー』か)
フリードは、ただ彼女の踊りに見とれていたわけではない。
目前の敵に意識を集中し、刹那を駆ける動きをも瞳に捕らえる身体向上術、『心眼』の発動を狙っていたのだ。
開いた右手の槍が、薙いだ姿勢のままのアリスの横脇腹目掛けて突き出される。
「くっ!!」
しかし、隙を突いたと思われた一撃の手ごたえは掠る程度のものであった。
後ろ飛びではリーチの長い槍に捕らえられると判断したアリスが、横跳びで距離を取ったためだ。
後を追って飛び出そうとフリードが足を踏みしめた頃には、彼女は熟練の術師並みの早口で詠唱を終えていた。
――『サンダガン』!!
壁のように大量に発生した強烈な稲妻が、二人の間を阻むような位置を縦横無尽に駆け巡る。彼の心眼をもってしても複数の稲光の動き全てを見切ることはできない。
ところが、フリードは構わず真っ直ぐに突進した。躊躇わず、雷が幾重にも交差する中心へ。
「!?」
両腕から同時に突き出された二つの槍が、咄嗟に交差された二つの鎌にそれぞれ受け止められる。
フリードは大量に直撃した稲妻で体のあちこちを焦がしながらも、目を剥いた彼女を見つめて笑った。
「……何を驚いているんだ?」
互いの刃を拮抗させつつ、フリードは余裕たっぷりに笑みを浮かべて語りかける。
「俺は竜騎士。守りを固めて仲間を庇い、時に回復も担うパーティの『最後の砦』。
静電気にビビる腰抜けに務まる役じゃねえんだよ」
『真・二刀龍』を会得しているセレスティア、アリスの腕力は同種族中で相当高いものと認めていい。
だが同じ技術を会得し、しかも全種族中でも恵まれた腕力を秘めるバハムーン族のフリードを止めきれるものではなかった。
例え刃同士が拮抗しようと力は決して拮抗し得ず、次第にアリスが押されて姿勢が後に反り始めていく。
「『癒しの踊り』は躍らせねえ。一撃で……」
「――フフッ」
「!?」
今度は、フリードが驚き目を剥く番であった。
あと一息で体勢を崩され一突き見舞われるであろうその時に、彼女がこの上なく楽しそうに笑ったのだ。
藍青色の瞳に影が差す。
「……素晴らしいわ」
「っ!!」
賞賛の言葉は、寸分たりとも負け惜しみとは思えぬ響きを含んでいた。
異様さに背筋の毛が逆立ち、反射的に守りを省みぬ全力を叩き込む。ついに二本の鎌のガードが破れ、彼女の左右の二の腕を貫いた。
「くあっ……!!」
(よしっ、これで……!)
ダンサーには『癒しの踊り』があるが、堕天使は回復魔法を覚えないことをフリードは知っている。
要の武器を操る両腕に致命的なダメージを与えた以上、あとは踊る暇を与えず畳み掛ければ勝てると……普段なら確信できたのだ。
だが今の一撃は、いくら全力を注いだ結果とはいえ拍子抜けするほどあっさり決まったような気がしてならなかったのである。
……まるで、わざと守りを解かれたような……。
「……?」
そんなことをする理由は無いだろう、と普段の己は告げている。
何せ、こちらは両腕の守りのがら空きになった相手に、心の臓目掛けて槍を叩き込めばいいだけなのだから。
最後の抵抗手段となろう、攻撃魔法の詠唱をされるよりも早く。例え魔法が直撃しようと、あと数発程度なら容易く耐える自信も有る。
それでも、フリードはこの瞬間奇妙な胸騒ぎで動きを鈍らせた。
自らの生命力に不安を覚えたわけではない。何か、この思考に恐ろしく大きな落とし穴がある気がしたのだ。
この時、彼は右腕に握る槍を大きく手前に引き、今まさに少女にとどめを刺すべく狙いをつけたところであった。彼女は鎌を取り落としており、物理的な反撃はまず不可能といっていい。
だが、誰が見ても殺される寸前の状況に立たされていた少女は、両腕から血を噴出しながら、
――仄暗い微笑みを浮かべていた。
「!!!」
考えるよりも早く、
フリードは地面に転がるように不恰好な回避を取る。
地面に尻餅をつくような姿勢で止まった彼は、全身にびっしり脂汗をかいている自身に遅れて気づいた。
そして、今しがた自分が立っていた場所を、漆黒よりも毒々しい混沌とした輝きをたたえた球体が通り過ぎるのを目撃する。
(……イカレて、やがる)
人の歩みほどの速さで飛ぶそれは、ヒューマンの女子供でも避けるのは容易い。
だが直撃したならばいかなる守りも生命力も度外視し、平等な死を与える即死魔法『デス』。
無論フリードとて、当たれば死の洗礼は免れられない。アリスはこの魔法1つの発動のために両腕を犠牲にし、彼が勝利を確信し気を緩める瞬間を待っていたのだ。
敵の攻撃に打たれることに慣れた竜騎士の心理を利用した、狡猾な戦術。
否、それよりも彼が戦慄したのは、
(詠唱も、予備動作すら無かっただと!? 待て、だとすればあのサンダガンは『フリ』だったということに……!)
と、そこまで考えた彼の喉が恐怖に干上がった。
もし、彼女が他の魔法もノーモーションで発動出来るとしたら。今、自分は愚かにも無防備に何秒静止していた?
もはや彼の思考からとどめという単語は消し飛び、ただこの場から離れようとした時には何もかも手遅れとなっていた。
渾身の力を振り絞る全身は震えるだけで、全く言うことをきかなくなっていたのだ。
「……堕天使は、実力が低いうちは器用貧乏と軽蔑されますの。前衛の戦士ほどの力も生命力も無く、後衛の魔術師ほど魔力も強力では無いからですわ」
血まみれになった両腕をダラリと両脇に垂らし、少女が麻痺(パラライズ)に囚われた少年に歩みをもって迫る。
「しかし裏を返せばそれは、『役割を選ばない』ということでもあるのです」
鎌による近接攻撃と攻撃魔法による一掃に加え、補助魔法による『状態異常』をも狙える『堕天使』。
そのどれもが専門職に劣る彼らはいざ敵に回ったとき、極めて攻撃の型が読み辛い難敵と化す。
そして読みを外した相手の致命的な隙を、狡猾な彼らは決して見逃さない。
「く、そ……っ!!」
「けれど、今の『デス』が避けられることは本当に予想外でした……いいわ、最高よ。知れば知るほどに、あなたが欲しくてたまらなくなる」
彼女の白く長い指が首筋を撫でても、こちらは指の関節1つ動かせない。
暗い喜びに満ちた端正な顔が目と鼻の先に迫っても、彼には競り上がる悪寒から逃れるために目を背けることすら許されない。
何故か彼女の頬が朱に染まっていたことも含め、フリードには今のアリスの行動が全く理解できないでいた。
「ねえ……もっとお話しましょうよ、素敵な人」
「何、を」
腕を首の後ろに、顎を彼の肩の上に乗せ。耳元でこそばゆい吐息と共に、アリスは囁く。
「続きは私のお部屋で、ね……」
次の瞬間。
何の前触れも無しに『テレポル』を発動させたアリスは、その赤黒い血に染まった腕に抱きしめた一人の少年と共に、
人気のない空き地から、姿を消した……。