翌日から、一行は学園への帰路についていた。色んなことがあった旅ではあったが、その結果として一行は揺ぎ無い自信と、それに見合う  
実力を手に入れた。それが誇らしくもあり、またそんな旅が終わってしまうという、一抹の寂しさを感じていた。  
そして、ヒューマンもこの旅が終われば、パーティから抜けてしまうという話だった。当然、バハムーン以外の全員が引き止めたのだが、  
ヒューマンは笑いながら『一人の方が性に合う』と言った。そう言われてしまっては、さすがにパーティ残留を訴えることも  
できなくなってしまう。  
そのためか、一行の足取りは決して軽くない。ランツレート名物のカレーを食べたら、もうそこで旅は終わりなのだ。ここから  
ランツレートまでは、僅か三つの地下道を抜けるだけである。それなりに強敵のいるラーク地下道はともかく、後に控えるポスト地下道と  
ドゥケット地下道程度なら、一日もあれば往復できてしまうぐらいである。そのため、一行の足取りはますます重く、気分も些か  
沈みがちである。  
とはいえ、既に一行の力はラーク地下道すら問題にしなくなっている。重い足取りで軽々と地下道を潜り抜け、今はもうポスト地下道に  
入っている。あまり会話もなく、黙々と地下道を歩く一行の空気は、足取りと同じように重苦しい。  
バハムーンはそんな中でも、いつも通り振舞っていた。ヒューマンに突っかかり、エルフやフェアリーからなじられ、セレスティアと  
フェルパーに宥められ、ヒューマンが軽い口調で言い返したり、うまくかわしたりする。  
だが、いつも通りに振舞っているとはいえ、バハムーンも気は重かった。  
僅かな時間ではあった。しかし、このヒューマンは彼女の中にある、ヒューマンという種族に対する認識を根底から覆してしまうような  
存在だった。見栄を張ることもなく、そのくせ人より格段に優れた資質を持ち、時にはバハムーンである自分を叱り、しかし普段は  
誰であろうと、分け隔てなく、というよりは、うまい具合に態度を使い分けて話す男。  
かなり早いうちから、その感情は彼女の中にあった。しかし、彼女はそれを否定し続けていた。下等な種族であるヒューマンに  
惹かれているなどということは、彼女のプライドが許さなかった。だからこそ、常に辛く当たり、言いがかりをつけ、何とか嫌いに  
なろうと努力した。だが、努力すればするほど、むしろ彼に惹かれてしまった。もう今では、隠し切れなくなりそうなほどに、  
その気持ちは膨らんでしまっている。  
なのに、その彼は、もうすぐパーティから抜けてしまう。彼女に猶予はなかった。このまま隠し切るか、それとも告げるか。  
決断の時は、刻一刻と迫っている。いずれを選んでも、後悔するのは目に見えている。だが、どちらを選べば、より後悔が少ないのか。  
勉強ならば、探索ならば、戦闘ならば、これほどまで悩むことはない。しかし、まったくの未知の感情に対する答えは、  
いつまで経っても出なかった。  
ただ、彼女が悩んでいたのは、決してそのことだけではない。恐らく、それに気付いているのは、彼女のみ。もしかしたら、それは  
彼女の思い過ごしなのかもしれない。だが、それにしてはあまりにも、不自然なのだ。  
疑念を晴らすことによって、もしかしたら彼により惹かれるかもしれない。あるいは、嫌いになるかもしれない。いずれにしろ、  
この疑念は晴らしておかなければ、確実に後悔するだろう。  
それに気付くと、バハムーンは心の中で笑った。  
そう、まずは疑念を晴らすのだ。もう一つは、その話の中で、判断すればいい。そう決めると、バハムーンの心は軽くなった。そして、  
チャンスが訪れることを、静かに待つことに決めた。  
 
ポスト地下道を抜けたとき、太陽はやや傾き始めていた。このままドゥケット地下道を抜けることも、十分可能ではあったが、  
一行はここで宿を取ることにした。それは、少しでも長く、別れの時を先送りにしたいという気持ちのためである。  
まだまだ夕食までは時間があるし、特にこれと言ってやることもないため、一行はそれぞれ好き勝手に過ごしていた。最初は全員揃って  
話をしていたのだが、やがてバハムーンが抜け、ヒューマンが抜け、徐々に解散となっていった。  
夕日が海を赤く染める頃、ヒューマンはドゥケット岬の先端に立ち、落ちる夕日を眺めていた。その目はどこか遠くを眺めているようで、  
声をかけるのが憚られるような雰囲気がある。  
だが、それでも構わず声をかけるのが、彼女の流儀である。  
「相変わらず、気障な真似をしている。夕日がそんなに珍しいか。」  
ヒューマンは振り返らずに、フッと笑った。  
「いやぁ、地下道にさえ潜らなきゃ、毎日見てるもんさ。だが、今日この日の夕日は、今しか見られない。」  
「ふん、それが気障だというんだ。太陽はいつも変わらずそこにある。例え今日この日は今しかなくても、夕日はいつもそこにある。」  
「はっはっは。あるいは、お嬢さんの言う通りかもな。」  
バハムーンはヒューマンの横に並び、一緒に夕日を眺めた。それからしばらくの間、二人は黙ってそうしていた。  
夕日が、少しずつ水平線へと落ちていく。その下部が水平線に触れる頃、バハムーンが沈黙を破った。  
「貴様に、聞きたいことがある。」  
「何だい?」  
「単刀直入に言おう。貴様、何者だ?」  
ヒューマンは表情一つ変えず、ただ煙草の煙を、ふぅっと吐き出した。  
「……パルタクスの生徒。学科は狩人。成績はそんなによろしくない、ヒューマンの男さ。」  
「そうだな、嘘ではないだろう。だが、貴様は何かを隠している。」  
「ほう。なぜ、そう思う?」  
相変わらず、ヒューマンは表情を変えない。だが、その目がバハムーンを見ることもない。  
「理由なら腐るほどある。まず、貴様の戦いの腕は異常だ。貴様の高みに達するには、エルフとて数十年の修行を要するだろう。」  
「お褒めに預かり、光栄だ。」  
そう言ってヒューマンは笑うが、バハムーンは笑いもしない。  
「また、罠の解除もおかしい。以前いたクラッズから聞いたことがあるが、今学校で教えている調べ方は、あんな古臭い技術ではない。  
貴様の罠の調べ方は古過ぎる。」  
「………。」  
「何より、昨日のハイント地下道だ。貴様、なぜ最近解放されたばかりの、あの地下道を知っていた?」  
「………。」  
「狩人の勘、などとは言わせんぞ。偶然にしては、あまりに出来すぎている。そもそも、貴様の足取りには、警戒感がまったくなかった。  
まるで、よく知った場所だと言わんばかりにな。その上で、もう一度聞くぞ。貴様……何者だ。」  
しばらく、ヒューマンは口を開かなかった。ただ、静かに煙草を吸い、煙を吐き出す。が、やがて観念したかのように、フッと笑った。  
「案外……君も、人のことを見ていたようだ。そして、冷静な分析だね。」  
プッと息を吹き込み、キセルの灰を飛ばすヒューマン。そして、懐から新たな刻み煙草を取り出し、キセルに詰め込む。  
「だが、大したことはない。少しおかしな、どこにでもいる、ただのヒューマンさ。」  
その態度に、バハムーンは少しムッとする。つい殴りたくなる衝動を抑え、何とか口を開いた。  
「いいか、私は弱い者は嫌いだ。だが、強いくせに弱いふりをする奴はもっと嫌いだ。」  
「え…?」  
その言葉を聞いた瞬間、ヒューマンは呆気に取られたようにバハムーンを見つめた。そんなに驚くような事かとバハムーンが訝しんだ瞬間、  
ヒューマンは高らかに笑い出した。  
「はぁっはっはっは!!!あっはっはっはっは!!!」  
「き、貴様、何がおかしいっ!?」  
「はっはっは……いやあ、すまんすまん。だがな……はっははは!!まさか、そんな言葉を二度も聞くとはな。はぁっはははは!!!」  
「二度……だと?い、いつ誰に聞いたのだ?」  
ヒューマンは笑いすぎて咳き込みつつ、何とか笑いを収めた。そして、まだニヤつく顔でバハムーンを見つめる。  
「誰か、という質問なら、君と同じバハムーンの女の子にね。いつか、という質問なら…。」  
急に、ヒューマンは遠くを見つめるような顔になり、煙草に火をつけた。  
 
夕日を見つめたまま、大きく煙を吸い、フッと吐き出す。  
「……さぁて、いつだったか…。ちょうど今ぐらいの時期ではあったが……もう、100年以上も前の話だから、な。」  
「やはり…。」  
バハムーンはそっと、剣の柄に手を掛ける。それに気付くと、ヒューマンは困った顔でバハムーンを見つめた。  
「おぉっと、勘違いしないでくれ。確かに長生きはしてるが、れっきとしたヒューマンだ。化けもんじゃない。」  
「だが、貴様らヒューマンの寿命なぞ、100年も行かないではないか。」  
「……そうだな。」  
再び、夕日を見つめるヒューマン。その顔には、一抹の寂しさが感じられた。  
「よし、君にはすべて話そう。この、くだらない一人のヒューマンの、生き様をね。」  
もう一度、深く煙を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて吐き出す。そして、静かに喋りだした。  
「俺はな、冒険者の一人だった。100年以降はきちんと数えてないから、正確な年月かは知らんが……大体、160年前の生まれか。」  
「160年か。私達からすれば、寿命の半分も行っていないな。」  
「はっはっは。君達から見れば、な。だが、俺達ヒューマンには、長すぎる時間さ。」  
寂しそうな顔で言うと、ヒューマンはまた煙を吸い込む。  
「当時は学校なんてものもなく、仲間を探すときは酒場ってのが相場だった。それに、今じゃ異種族との交流も珍しくはないが、当時は  
色々と大変だったもんさ。バハムーンは今以上にきつく当たってきたし、エルフやドワーフなんてのはどう付き合えばいいか、まったく  
わからなかった。ディアボロスなんて、言うまでもないな。」  
当時を懐かしむように、ヒューマンは目を瞑った。  
「酒場にいる奴だって、仲間かどうかなんてわからない。地下道の宝を独占したいがため、嘘の情報を教えられることもあったし、  
時には敵として戦うこともあった。罠の解除は、仲間の見よう見まね。剣の持ち方、弓の引き方だって、完全に我流か猿真似。魔法  
なんてのは、一部の限られた奴等だけの特権。そんな中で巡り会えた仲間ってのは、そりゃあもう地下道の宝なんて目じゃない、  
本当の宝だったさ。」  
学校が違っても、既に協力体制のできている今では考えられないことだった。その話自体も興味があったため、バハムーンはじっと  
ヒューマンの言葉に耳を傾ける。  
「俺はしがない狩人だった。けどな、鹿や猪相手じゃなくて、いつしかモンスター相手に弓を射るようになっていた。平和な暮らしより、  
危険と一攫千金の夢に溢れた冒険者になる……それは、君達もよくわかるだろう?俺はこんな性格なんでな、仲間を取っ替え引っ替え、  
決まったパーティに入らず、その場その場を凌いで暮らしてた。だが、ある日誘われたパーティに、どういうわけか居つくように  
なっちまった。そこにいたのが、あのバハムーンだ。」  
はるかな思い出を手繰り寄せるように、ヒューマンは目を細める。  
「君と、よく似ていた。容姿もよく似ていたが、何よりその、気性の激しさ、だな。事あるごとに突っかかられ、罵倒され、貶され、  
それに対して俺も本気で言い返したもんだ。だが、腕は確かだった。本当に、いい戦士だった…。」  
ゆっくりと煙を吐き出し、目を瞑るヒューマン。その態度に、バハムーンも薄々感づいた。  
 
「もしや……貴様、そいつのことが…?」  
「ああ。本当に、どういうわけだかな。そうやって喧嘩を続けてるうちに、俺もあいつも、お互いに惹かれちまった。お互い憎まれ口を  
叩きつつ、だけど背中を預け合う、そんな存在だった。おかげで、俺達は誰よりも強くなり、ラーク地下道やハイント地下道も怖くは  
なかった。それこそ、敵なしだったのさ。」  
これで、彼がハイント地下道の内部を知っていた理由がわかった。彼にとって、あそこは初めてでも何でもなかったのだ。  
「そんなある日な……ちょうどここでこうして、今みたいに俺ぁ夕日を見てたのさ。あれは……そう、思い出した。140年前だ。  
ちょうど、さっきのは全部あの時の再現みたいだった。まあ、言葉の内容は違ったがね。後ろからあいつが来て、『貴様は強いな』  
って……初めてだったんだぞ、あいつが俺のことを褒めたのは。」  
本当に嬉しそうに、目を細めるヒューマン。口調も心なしか、いつもと違ってきている。  
「けどな、俺は捻くれもんだから『お前には、どうあがいたって敵わねえよ』って言ったんだ。そしたら、君のあの台詞さ。」  
既に、煙草の火は消えている。だが、ヒューマンは煙草を替えようともせずに喋り続ける。  
「『そうか、そりゃ悪かったな』って返したら、『私が認めたんだ。それを否定することは、私を否定することだ』ってね。あれにゃ  
参った。こっちゃ完全に言葉を封じられちまったんだからな。んで、調子に乗って聞いたのさ。『認められたんなら、お前と対等か?』  
ってな。そうしたら、あいつ柄にもなく顔真っ赤にして『そ、そうだ』ってさ。あいつが可愛いと思ったのも、あの時が初めてだった。」  
嬉しそうに語るヒューマン。だが、バハムーンはそれを聞きながら、話の中のバハムーンに激しく嫉妬していた。140年経った今も、  
これほどまで思われる相手とは、一体どんな者だったのだろう。  
「それからは、まあ、若かったからな。いつしか完全に恋人同士。ああ、避妊だけはしっかりしたけどな、お互い引退するつもりは  
なかったから。俺ぁこんな性格だ。パーティも取っ替え引っ替えだったが、女も取っ替え引っ替えだったんで、避妊の知識は豊富でな。」  
「最低な男だな。」  
「おっと、勘違いしないでくれ。俺はあいつにゃ本気で惚れたんだ。だからあいつと付き合いだしてからは、他の女と寝たこたぁなかった。  
本当に、最高の奴だった……けど、それも長くは続かなかった。」  
急に声の調子を落とすヒューマン。そしてキセルを吸い、ようやく火が消えていることに気付いたらしく、新たな刻み煙草に火をつける。  
「ご存知の通り、俺達の寿命は短い。俺はどんどん老いていく。だが、俺は老いが怖かった。あいつとずっと一緒にいたかったってのも  
あるが、それよりも死が怖かったんだ。30過ぎて、いよいよ衰えが激しくなったとき……あいつと、大喧嘩した。あいつはな、  
『老いは誰しも避けられない事だ。それに従うべきだ』って意見だった。だが、俺は同意できなかった。結果、散々お互いに傷つけあって、  
俺はパーティを抜けた。」  
目を瞑り、深く煙を吸い込むヒューマン。しばらく肺に煙を留めてから、ゆっくりと吐き出す。  
「地下道は、ほんと望むもんは何でも手に入った。金も、名誉も……若さも、な。」  
「若さ…?」  
「知ってるだろう?太陽の石、さ。乙女の石もそうだったな。他にもいくつかあるが、とにかく、俺はそれらを狂ったように集め、  
いつまでもいつまでも若くあり続けた。おかげで、160年経った今でも学生さ。」  
「だが、それにしては……顔は確かにそうだが、髪なんか見ての通り真っ白だが?」  
そう言われると、ヒューマンは悲しそうな表情を浮かべた。その顔に、バハムーンの胸がぎゅっと締め付けられる。  
「ああ……俺は、考えが足りなかったのさ。あいつの言うとおり、俺は寿命を全うするべきだったんだ。考えてみろ。知り合いが、  
親友が、仲間が……それだけじゃない。そいつらの子供、孫までもが、俺より早く年老い、死んでいくんだ。あんなの……俺には、  
耐えられなかった。地獄なんてもんじゃない。ヒューマンはヒューマンらしく、短い寿命を終えるべきだったんだ。」  
 
涙こそ浮かべていなかったものの、ヒューマンの額には苦悩の皺が刻まれ、咥えるキセルは僅かに震えていた。  
「俺は決心したよ。失った時を、取り戻そうと。だが、いつしか学校なんてのができて、それが地区警備なんかも兼ねるようになって、  
俺みたいな奴は、なかなか地下道に入れなくなった。俺は、自分に甘くてなあ。地下道の物で手に入れた若さなら、同じく地下道の物で  
取り返さなきゃいけないと思い込む事にして……そのまま年を取ることは、なかった。それまでにかき集めた物で、小賢しく生き延び  
続けた。」  
「なるほど、納得した。それで、あの時悪魔の呪いを受けて、あんなに気味の悪い笑顔を浮かべたのか。」  
「そういうことだ。」  
ゆっくりと首を振るヒューマン。だが、その口元に笑みが浮かぶ。  
「ああ、わざと間違ったわけじゃないぞ。間違えたのは本気だ。」  
「余計たちが悪いな。」  
「まあそう言うな。それでともかく、いつしか三つ目の学校ができた。それがパルタクスだ。」  
「ああ。確かにここは新設校だったな。」  
「生徒募集は手広くやってたからな。これはチャンスだと思った。幸い、見た目は若い。入試試験も楽なもんだ。それでうまく入学し、  
再び俺は一人で地下道を歩き続けた。そして、闇夜の石や裁きの石、悪魔の化石なんかを集めた。」  
煙を吐き、どこか諦めの感じられる表情になるヒューマン。  
「実はなぁ、あの端正なお嬢さんに学食で誘われたとき……あれぁ、最後の晩餐のつもりだったんだ。もう、溜めに溜めたそれらの  
大部分を一気に使い、急激に年を取ったところで、せっかくだから最後にうまいもん食おうと、ね。そこに、あのお嬢さん登場だ。」  
「断ればよかったじゃないか。そうすれば、今頃念願叶っていただろう?」  
バハムーンが言うと、ヒューマンはニッと笑った。  
「いやあ、そうも行かない。昔っから、盗賊を探す苦労は変わらないからな。だから、人生を終える前に、ちょいと手伝ってやろうと  
変な気を起こしたわけだ。そしたら、あんな実力で空への門に行くとか言う。こりゃ死んでられないと思ったね。はっはっは。」  
あんな実力と言われ、バハムーンはムッとした。だが、確かに言葉通りだったため、言い返すことはできなかった。  
「……それに、実は石も少し足りなかったんだ。いや、もしかしたら十分なのかもしれない。だが、ちょっと足りない気はしていた。  
それも、今回で必要十分な量は揃ったが……ね。」  
その言葉は、バハムーンに重くのしかかった。  
この男は、帰れば死ぬつもりなのだ。しかも、それを止める手段は、自分にはない。もう、彼の死は確定しているのだ。  
「しかしまあ、食ってから石を使うべきだったよ。今回までは何とか持ったが、ホルデアでは君達に迷惑をかけたし、もうこれ以上は  
限界だった。急激に年取ったせいで追いついていなかった筋肉の衰えが、そろそろ始まっている。」  
「……どうあっても、やめる気はないんだな…?」  
懸命に普段の声を出そうとしたが、どうしてもその声は震えてしまった。すると、ヒューマンは慈愛に満ちた目でバハムーンを見つめた。  
「……悪いな。こればかりは、やめる気はない。」  
「そう……か。」  
「君達には感謝してるよ。おかげで、旅立つ前に素晴らしい思い出ができた。後半は後悔ばかりの人生だったが、この二週間、  
退屈しなかった。本当に、感謝している。」  
バハムーンの心は激しく揺さぶられた。このまま終わることなど、絶対にできない。すべての勇気を振り絞り、彼女は口を開いた。  
 
「なら……その前に、もう一つ……思い出を、作る気は……ないか…?」  
ヒューマンの顔を、真っ直ぐ見つめるバハムーン。ヒューマンもそれを真っ向から見つめ返したが、やがて同情的な視線を向けた。  
「悪い……君だけは、ダメだ…。」  
「なっ…!?き、貴様!他の女達とは関係を持ったのだろう!?そんなに……いや、確かに私は嫌な奴だっただろう!だが、私は…!」  
「いや、ちょっと待て。落ち着いてくれ。君は勘違いしている。」  
本気で慌てたように、ヒューマンはバハムーンの肩を押さえた。  
「ていうか、なんで知ってるんだ?」  
「仲間のことを……知らないわけ、なかろう…。」  
「案外細かいお嬢さんだな…。いや、とにかく、君の言葉は、実は躍り上がるほどに嬉しいんだ。だが、だからこそ、受けられない。」  
「……?」  
「言っただろう?君は、俺の惚れた子によく似てる……いや、似すぎてるんだ。だから、もし俺がこの腕に君を抱けば、俺は君ではなく、  
記憶のその子を抱いてしまう。そんなの……あまりに、失礼だ。」  
「言い訳など…。」  
「言い訳じゃない。初めて会ったとき、俺はそれこそ心臓が止まるかと思った。会った瞬間から、俺は……君に惹かれてたんだ。」  
バハムーンは、それでも疑いの篭った、悲しそうな目でヒューマンを見つめた。  
「嘘じゃない。でも、だからこそ、君をこの手に抱くことができない。君に惹かれた理由すら、過去の恋人に似てるからだ。例え君が、  
どんなに俺のことを好いてくれても、俺は君を好いてあげることができない。君の好意を受け取ることすら、君に対しては失礼になる。  
頼む……どうか、わかってくれ…。」  
ヒューマンの目は真っ直ぐで、純粋で、言葉にも嘘はなかった。だからこそ、バハムーンも胸が締め付けられるような悲しみに襲われる。  
「……恨めしいな、お前の心の中の存在は…。」  
「心の中に、いるからこそ……さ。あの後どうなったのかも知らないけど、あいつは今でも俺の心の中で、一番の輝きを放ってる。」  
顔も知らない相手ではあるが、バハムーンはその相手を殴り倒したくなった。自分がそいつに似ていなければ、この想いも受け止めて  
もらえたはずなのだ。  
「だけど、勘違いはしないでくれ。俺は、君のことは大切に思ってる。そうじゃなきゃ、今すぐにでもこの手に抱きたいほどなんだ。」  
「……もう、いい。お前の気持ちは、わかった。」  
寂しそうに言うと、ヒューマンの手を振り払う。  
「だが……そうだな。私が、このまま引き下がると思うか?」  
「え?」  
ヒューマンが反応するより早く、バハムーンは身を屈め、ヒューマンの頬にキスをした。  
頬を赤く染め、少女らしい恥じらいの表情を浮かべるバハムーン。それに対し、呆気にとられた顔のヒューマン。  
「今のは、私が勝手にやったことだ。お前が、気に病む必要はない。」  
「……は……ははははは!これは参った!強いお嬢さんだ!」  
楽しそうな、腹の底からの笑い声を上げると、ヒューマンの目にもいたずらな光が宿った。  
「なら、俺もお返しさ。」  
「え?」  
身を屈めたままのバハムーンの額に、サッとキスをする。そのまま顔を優しく包み、少年のような笑顔を浮かべた。  
「今のは、君に対するお礼さ。心の中の、恋人に対してじゃない。」  
バハムーンの驚いた顔に、少しずつ笑顔が広がっていく。同時に、その頬もさらに赤く染まっていく。  
「ば、バカなことを!そ、それが最初からできるのなら、私の気持ちにも応えればいいものをっ!」  
「あ、何だよ、せっかくお返ししたのに。」  
「そ、それに額にキスだと!?子供扱いもいい加減にしろ!う、うれ、嬉しくなんかないぞ、そんなのでは!」  
「なぁに言ってるんだよ。お前、すんげえ嬉しそうじゃねえか。」  
「それはその……む?おい、待て!貴様にお前呼ばわりされる筋合いはないぞ!」  
「え?ああ、すまんすまん。つい、気持ちが若返ってしまってね…。」  
恥ずかしそうに頭を掻くヒューマン。こいつにも若い時はあったのだなと、今更ながらにバハムーンは思った。  
 
「やれやれ。それにしても……その……も、もう一度、やり直さないか…?」  
「何をだい?」  
「ぐ……野暮なことを聞くなっ!そ、その……き、き、キス……に、決まっている!」  
「はは、そうだな。君となら、それもまた、悪くない。」  
いつしか、夕日は完全に沈もうとしていた。海は金色に染まり、空には星が瞬き始めている。  
闇が二人の顔を隠す前に、お互いの顔を見つめあう。  
白い髪に、少年のような顔を持つヒューマン。少女らしい恥じらいの表情を浮かべ、顔を赤く染めるバハムーン。  
お互いの顔を瞼に焼付け、バハムーンはそっと目を閉じた。ヒューマンは優しく、その頭を抱き寄せて目を閉じる。  
すぐ先にある別れなど、微塵も考えずに、二人はそっと唇を重ねた。  
ヒューマンの舌が、バハムーンの舌を撫でる。バハムーンも、最初は怖々と、やがて少しずつ大胆に応え始める。  
お互いの頭を抱き、目を閉じる二人。相手の柔らかい舌、暖かい口内。混ざる吐息が顔をくすぐり、絡まる舌が相手の存在を確認する。  
互いの唾液が混じり、しかしそれすらも、今の二人には愛おしい。  
何度も何度も、お互いの温もりを貪るように、深く激しいキスを交わす。吐息には二人の声が混じり、時折聞こえる湿った音も、二人の  
気持ちを昂ぶらせていく。昂ぶるほどに、バハムーンのキスは激しくなり、ヒューマンがそれに応える形となっていく。  
唇を吸い、口の中をなぞり、何度も何度も舌と舌を絡めた。まるで、それが相手を繋ぎ止める、唯一の手段であるかのように。  
やがて、日が完全に水平線に落ち、辺りが闇に染まる。そこでようやく、二人は唇を離した。名残を惜しむように、二人の間につぅっと  
唾液が白い糸を引き、やがて切れた。  
「……お別れ……なのだな…。」  
「……すまない。」  
「……ふ、ふん!だが、その、清々する!は、初めて好きになった相手が、ヒューマンだなどと知られたら……わ、私は、一族の間の  
恥さらし……だ…。だ……だが…………本当に……好きだったのだぞ…。」  
バハムーンは必死に、涙を堪えている。そんなバハムーンの頭を、ヒューマンは優しく抱き締めた。  
「ありがとう、お嬢さん…。いつか、俺なんぞよりいい相手を、見つけてくれ…。」  
「……ヒューマン…!」  
その体を抱き返そうとした瞬間だった。  
「わっ、ちょっと押しちゃ…!」  
「きゃー!」  
突然の声に、二人は大慌てで振り返った。後ろでは、木陰にいたらしい仲間の四人が折り重なって倒れていた。  
「あ、見つかりましたわ。」  
「まずいわね。逃げる?」  
どうやら、話の内容を把握してはいないらしい。が、だいぶ前から見ていたことは、容易に想像がつく。  
「貴様ら……いつからいたー!?」  
「きゃーっ!早く逃げましょう!」  
「あっははー、なかなかエッチなキスだったよー!」  
「貴様らぁ!そこに直れえぇぇー!!!!」  
「ちょっと、フェアリーのバカ!火に油注いじゃダメよ!」  
「わたくしは、一足先に逃げさせてもらいますわ!では、ごきげんよう!」  
「やれやれ……女三人寄れば姦しいとはよく言うが、五人揃うと、何とも賑やかだね。」  
四人を追い掛け回すバハムーン。楽しそうに逃げる四人。その姿を、ヒューマンは呆れた笑顔を浮かべて見守っていた。  
「ヒューマン、五人切りおめでとー!」  
「フェアリー貴様ぁ!!叩っ切ってやるー!!!」  
「ああ、エルフさんがもうあんなところに!」  
「逃げ足速いわねあの子!?」  
「はっはっはっは。本当に、一生ものの思い出、だな。あっははははは。」  
実に楽しそうに、ヒューマンは笑った。  
いつまでもいつまでも、岬には六人の声が響いていた。  
 

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