カガリのお腹がだいぶ膨らみ始めた頃、エドは久しぶりに外の街に出た。
必要な物資の大体はアイザ地下道に潜れば手に入るが、それでも街でなければ手に入らないものというのは少なく無い。
しかし、そこでエドが感じたのは、人の影が少ない事だった。
そう、まるでゴーストタウンと化したかのように。
「…………」
普段にぎわいを見せる市場ですら、閑散としている。店を出す者もいつもの三分の一ぐらいしかいない。
何の冗談だ、と思いつつエドは長い買い物リストを片手に市場を行く。
しかし、目的のものは見つからない。当然である。いつもの三分の一しか店が無いのに探しようが無い。
「……やれやれ」
ため息をつく。だが、ため息をつくのはエドだけではない。
街を歩く数少ない人々は暗い顔のまま、ため息をついては歩いて行く。救いも何も無いかのように。かつての喧噪を忘れたかのように。
エドは知らなかった。
幾多の街に、伝染病が広がっている事を。
墓地に於かれた墓石の数がここ数ヶ月没で異様に増えている事に気付くまで、エドは知らなかった。
「新種の、伝染病……?」
ランツレート学院まで急ぎに急いで来たエドは、ちょうど通りがかったダンテを捕まえ、死者が増えた理由について聞き込んだ。
「発生は数ヶ月前で、有効な治療法も特には。病原体そのものは見つかった、って聞きましたけど」
「で、気がついたら街はゴーストタウンって訳か」
「街だけじゃなくてウチやマシュレニアの生徒にも患者が出てるんですよ……正直、参ってます」
ダンテは疲れた様子で言葉を続ける。感染者が出ている、という中で明確な治療法も見つからないまま同じ場所で暮らしているのだ。
倒れた仲間になす術も無い、というのもあるだろうがいつ自分も倒れるか解らない、という恐怖もあるのだろう。
「医者だけじゃなくて魔術師や錬金術士も色々調べてるみたいなんですけど」
「成果なし、か」
「………エド先輩は、どうなんですか」
ダンテの呟きに、エドは視線を逸らす。目を合わせられなかった。
自分やディモレアが己の研究と行き先に悩んでいた頃に、世界は崩壊の道を歩みつつあった。
「……やれるだけやってはみる」
そうは呟いたが、エドの脳裏に浮かんだのは、紅い秘石の事だった。
あれを手にした時、世界の破滅を限りなく望んでいた事を思い出す。
どっちにしろ、自分がやらずとも世界は破滅するのだったのだろうか。否、そんな筈は無い。
「ダンテ。お前、これからどうするつもりだ?」
「へ?」
「生徒にも患者がいるんだったらうつされるかも知れないだろ。お前も、俺らんとこに逃げてくりゃいい。別に一人ぐらい増えた所で問題ねぇよ」
土地とスペースだけはありあまっているのである。
エドの言葉に、ダンテは首を大きく左右に振る。
「俺に逃げろってんですか」
「……ほとぼりが冷めるまでな」
「バカ言わないでください」
ダンテは言葉を吐き捨てるように呟く。
「先輩やディモ姉は、強引だったけど、それでも前に進んでた。先輩達と一緒にいた時です。バカみたいに喧嘩しようと、何かエド先輩がヤバい事で悩んでいようと、カガリ先輩が頭を抱えていようと、それでも、何であろうとがむしゃらでも前に進もうとしてた」
ほんの一年前。学生だった頃、エドが考えていたのは世界の破滅。
でも、ダンテから見れば何か悩んでいても前に進もうとしていたと見えたのだろうか。
「エド先輩も、ディモ姉も諦めが悪い人だった」
「……まぁ、否定はしねぇ」
「だからですよ。尚更、こっから逃げる訳には行きませんって。で、今の先輩はなんて言いました? ほとぼりが冷めるまで安全な所に逃げろと?
先輩自身はどうするつもりですか? ほとぼりが冷めるまで死ぬ人を眺めてると。ふざけないでください」
「…………なんとかしろ、そう言いたいのか」
「まぁ、柔らかく言えばそうです」
「変わったな、ダンテ」
一年前まではディモレアの尻に敷かれてひぃひぃ言っていたのが嘘のようだ。
エド達と離れた事で、彼もまた成長したのだろう。
「……そりゃ変わりますよ。守ってくれる人がいなきゃ、一人で強くなるっきゃない。守りたい人がいるなら、守ってやるしか無い」
ダンテの言葉に、エドは内心驚く。ここまで変わるものかと。
それに比べて、自分は何をやっていたのだろう。自らの城に引きこもり、ただ自分のあり方について考え続けていた。
ダンテの言うように前だけ見て進んでなどいない。進んでいたのは学生だった頃だ。
今は進んで何かいない。停滞している。まるで、固まった石像のように。
「………………」
壊れつつあるこの世界で、自分の後ろに隠れていた筈の少年は前を見てなんとかしようとしている。
直視出来ない。自分の姿が恥ずかしすぎるから。
「ダンテ」
「……なんですか?」
「俺は馬鹿だ」
「……はい?」
「実はな。カガリが俺の子を身ごもったんだ」
「………え? カガリ先輩と!? ちょ、ちょっと待ってください」
ダンテは頭を抱えて記憶を整理する。
ダンテの記憶が正しければエドワードはダンテの従姉であるディモレアに対して好意を抱いていて、それを学生時代に明言していた。
二人が卒業後に姿を消してどっかの研究所にこもっているのも研究協力しているのも二人が好き合っているからだ、とダンテは理解していた。
それなのに、今、エドワードの口から漏れたのは何だ?
「………ディモ姉は?」
「……一緒に、いる。カガリとも、一緒に、いる」
「………………」
「俺は、二人とも、離れたく無い、だから、どうすればいいのか解らなくて、その事で悩んでた。研究もろくにせずに」
「…………それで?」
「それとな、もう一つ言う。俺が……研究所にこもった、逃げてた本当の理由はな。この世界をぶっ壊そうと考えてたからだ。学生の、時から、ずっと」
エドの言葉を、ダンテは黙って聞いていた。
だが、先ほど迄浮かんでいた惑いは消え、何を浮かべていいのか迷った顔を続けていた。
「だから正直、今の話を聞いた時……俺がどうしようと世界は壊れるのかって思ってた」
「………先輩……先輩は、今は、世界を……」
「今はそうは思っちゃいねぇよ」
「………と、言う前に……」
ダンテが視界から消えた、とエドが思った直後。
強烈なストレートパンチが飛んで来た。
「ほぐはっ!?」
同年代と比べてやはり小さい身体のエドは成長期で伸びつつあるダンテのストレートを受けて見事に吹っ飛んだ。一年前とは段違いだ。
「何を考えてるんですか先輩はッ! て、言うか人の従姉相手に堂々と二股宣言すんなっ!」
「……お前にそんなツッコミが出来るとはぐほぉっ!?」
「茶化すな人の話を聞けーッ!」
やはり人とは変わるものだ、とエドは薄れ行く意識の中でつくづく思っていた。
「……お久しぶりです、エドワード先輩」
ダンテのせいでノックアウトしたエドが保健室へと運ばれた時、出迎えたのはある意味誰よりも付き合いの長い後輩のパーネだった。
相も変わらず大鎌を振り回していた。
「ああ、久しぶりだなパーネ」
「それで。ディモレア先輩との淫らな生活を楽しめてはいないようですね」
「誰が淫らな生活だ」
「まぁ、それはともかく私のエド先輩に何をしたのですか不届きなディアボロスのダンテ君」
「すみませんでした」
保健室の隅では床の上で土下座を続けるダンテの姿があった。
ディモレア卒業後はパーネの尻に敷かれているようだ。
「……まぁ、それはともかくですね」
パーネは困ったように呟く。
「エド先輩。今回の伝染病について……なんとかなりません?」
「……まぁ、努力はするさ」
エドは頭を抱えながら呟く。とは言っても、具体的な手だてがある訳でもない。
病気について調べるにしても、必要なものは多々ある。
「これどうぞ」
「ん? なんだこりゃ」
「患者の血液です。必要ですよね?」
パーネはさも当然のように呟くと、鎌を振りかざす。
「それとですね、エド先輩」
「……なんだ?」
「二股はダメですよ?」
「………お前までいうか」
エドは頭を抱えた。
ダンテはようやく土下座するのをやめると、一度保健室の外へと出て行く。
パーネは近くの椅子を引き寄せて座ると、深く腰掛けて視線を伏せる。
「…………エド先輩」
「……なんだ?」
「私は……実は少し悔しかったんですよ? 卒業後、いなくなった事は。エド先輩がマシュレニアにいた頃から、何か抱えていたのは知ってました。
けど、正直な話、その事がなんであろうとエド先輩なら道は間違えない筈、そう思ってました。
昔から、私が間違えそうな所を正しいのはこうだろとか言ってましたからね。だから、自分で間違いに気付くだろう、と。だから放置してました」
パーネは視線を伏せたまま呟く。普段、パーネはそんな表情を見せたりしなかったから。
エドにとっては少しだけ意外だった。いや、勘に鋭いパーネなら、エドが世界を壊そうとしていた事について、気付いていたもおかしくはない。
それを知っていて止めなかった、というのが不思議ではあったが。
「でも、エド先輩はいつまで経っても間違いに自ら気付かない。不思議でしたよ、私としては」
「……………」
「カガリ先輩や、ディモレア先輩が言う迄は、ね」
「あの頃の俺はどうかしてたさ」
「今でもどうかしていますよ、あなたは」
エドの呟きに、パーネは顔を近づけながら呟く。
「今の貴方は……本当に……」
その唇が動くのが、何故か遠くに見えるな、とエドは思った。
パーネの唇が、エドの唇に触れたのは、ほんの一瞬。
「だからもう、貴方は……私の手の届かない所の、私の人じゃない」
そう囁くパーネ。後輩として、エドの側にいた彼女は、もういない。
ダンテと同じように。また、彼女も変わってしまった。
人は変わる。
そう、時間も、月日も、思想も、行動すらも。
アイザ地下道の先の研究所にエドが戻って来た時、既に夜中になっていた。
元々そう長い時間空けるつもりは無かった。だいぶ時間はかかりはしたものの、一日で戻って来れたのはよくやったと言えるだろう。あくまでもエドから見れば、だが。
「……ただいま」
すっかり変わったダンテやパーネの事を思い出しつつ、通路を通り部屋まで戻る。
灯りの落ちた部屋に、ディモレアがいた。
「うおっ」
あまりの唐突な登場に、エドは思わず声をあげた。
「ん? ああ……お帰りエド」
「ど、どうした。俺の部屋に」
本当に珍しい事である。用がなければディモレアはエドの部屋にいたりしないだろう。
「……まぁね。その……」
ディモレアは喋りにくそうに口を動かしている間、エドはともかく椅子に座り込んだ。
ディモレアを前にしても、考えている事はダンテとパーネの事だった。
「…………ふぅ」
「実はあた……なんか言いたそうね、エド」
ディモレアは口を開きかけた事を止めてエドに視線を向ける。
「お前が先に言え。言おうとしたんだろ」
「後でもいいわよ。何かあったの?」
「………まぁな。俺らが知らない間に、街の方でヤバい事になってる」
「外の世界で? 何か?」
エドは声の調子を落としつつ、未確認の伝染病が広まっている事、学園にも被害が出ている事、錬金術士や魔術師も動員して研究しているが対処法が無い事などを話した。
ディモレアは最初は黙って聞いていたが、研究云々の所で顔をしかめた。
「それ、本当の話?」
「ダンテに言われたんだから間違いない」
「じゃあ間違いないわね」
ディモレアは息を吐くと、言葉を選ぶように口を開いた。
「……アタシらが外の世界を見てない間にそんな事が起こってるのね……。昔と一緒だわ」
ため息をつき、少しだけ頭を抑えたがすぐに首を振る。
「……でも、放ってはおけないわね。何かサンプルとか持って来たの?」
「ああ。パーネからもらった」
「なら、今すぐにでも始めるしかないわね。アタシらが研究生活に入ったのも、そういうのを止める為でしょ?」
「…………」
まだマシュレニアにいた頃。ディモレアがそんな事を言っていたのを、エドは思い出す。
自分と違って、ディモレアはただ日々を無為に過ごしていた訳じゃなかった。
「……そう、だな」
「……酷い顔してるわよ。どうしたの?」
「今まで、こんな場所で何やってたんだろうって思ってな……ダンテとかパーネも結構必死になってなんとかしようとしてたのに」
「………しょうがないでしょ、知らなかったんだから」
ディモレアは呆れた顔で呟く。そう、どうにもならないと言った顔で。
「ここに籠って、研究を続けようとしたのはアタシとあんたの意志。それで外の変化に気付かなかったとしても、アタシ達が外に向けない限り、外の事に気付く事は無い」
「………」
「今からでも遅くは無いわ。まだ、外は手遅れになってないんだから」
ディモレアはそう言い放つと、エドの背中に手を置き、言葉を続ける。
「アタシも手伝う、だから、ね」
知らなかった事。知る事も出来ない事。
外へと、知識を欲し、外へと目を向けない限り、気付かないもの。気付く事が出来ないもの。
そしてエドは知らない。
ディモレアが言いかけた事を。カガリだけでなく、彼の血を宿した子が、彼女の仲にも出来たという事を。
エドはまだ、知らない。聞いていない。
そして、もう一人。
深夜。カガリが目を覚ました理由は、身体の熱さだった。
今の時期、ここまで熱いというのはまず無い。熱でもあるのか、と思いつつカガリはベッドの縁に手を置き、身体を起こそうとする。
崩れる。身体に力が入らない。
「っ……!」
腹を庇うように、近くのサイドテーブルに文字通り頭をぶつけて、どうにか倒れそうになるのを支える。だが、それまでだ。
熱くて、苦しい。
息を吐く。熱い吐息が漏れ、どうにか身体を支える。
「なに……これ……」
ベッドの上へとどうにか身体を戻し、大きく息を吐く。たったそれだけの行為に、信じられない程の体力を使っていた。
何故、と呟く。
身重になってから体調管理はしっかりしようと思っていたのに、これではまるで出来ていない。
「落ち着いて、そう息を吐いて……ゆっくり……」
冷静を保て、私は大丈夫、大丈夫だ。
そう言い聞かせて呼吸を整える。だがしかし、身体は言う事を聞かない。待て、どうする。
扉まで、せめて、急ぐ。身体を動かす。落ちないように、ある力を振り絞る。
そして、カガリは何度も扉を叩き、その後、気を失った。
エドとディモレアが飛んで来たとき、カガリの意識はもう無かった。
「…………」
気まずい空気が、二人の間に流れていた。
エドが外の世界の流行病の話を持ち込んだその日、カガリがその流行病に倒れたという事実に。
今すぐにでもなんとかする、しようにもその手だてが無い。
どうすればいいのか、二人には解らない。
「……どうするのよ」
ディモレアが口を開き、エドは顔を上げて首を振る。
「どうしろって……こんなすぐに」
「被害は出てるんでしょ? あちこちに」
外の世界では拡大している流行病。他の魔導師や錬金術士達が日夜努力しているのだ、エド達がやらなくていい理由は無い。
そして、やろうと決めたその矢先に、だ。
「…………」
だが。
ダンテからその被害の話を聞いた、とはいえ外の世界の事だ、とエドは思っていた。
いや、エドは心の奥底でそう思っていたのだろう。そうでなければ、今、カガリが倒れるという事態に直面して、こんなに焦っているなんて事は無い。
もう少し、落ち着いていた筈だ。
それなのに、今更になって、今この場に直面して。
エドを襲っているのは、強烈な無力感だった。
何かしよう、何をすればいい、何ができる、何もできない。
そんなループが頭の底から全身へと巡って戻って来る。その繰り返し。ディモレアの言葉も実はろくに届いていない。
「…………」
「何か、考えとかないの。カガリが……倒れたのよ」
ディモレアはそう言って少しだけ声の調子を落とす。
「カガリのお腹の中の子も、危ないかも知れないのよ」
「………わかってる。わかってんだけどよ……」
何をすればいいのか、解らない。
「あんたねぇ! 今、自分がすべき事ぐらい―――」
「今、この場で今すぐ取りかかって」
エドは口を開く。
「どこまでできる。俺やお前以外の魔導師や錬金術士が必死こいて探してるのに無いものを、俺たちがどうしてできる」
「…………」
「俺たちだって、限界はある。ついでに言うと、学校卒業したばっかのボンボンだ」
「………けど」
「無茶苦茶言うなよ……!」
エドは、自分の限界がどれほどかを知っている。いや、知ってしまった。
ダンテと再び会った事で、卒業後にろくに成長せず停滞してしまった自分を見て。
だが。
「……アホっ!」
ディモレアが叫び声をあげなければ、エドは更に自虐的なスパイラルを続けていただろう。
「………他の連中が出来ないからアタシ達が出来ないなんて誰が決めたのよ」
「………けど」
「アンタ……あれはまだ持ってるでしょ?」
「あれ?」
「隕石だって呼べるあれよ!」
ディモレアの言葉に、エドは思い出す。一度、世界を壊そうとした時に使ったあれを。
「………あれが、使えるのか?」
「違うわよ。今こそあれを使うときじゃない。何か出来るかもしれない」
ディモレアはエドに視線を合わせる。それは絶望に染まってなどいない、前だけを見て、そして仲間を救う手だてを探す為の。前へと向いた瞳。
エドの、停まってしまった瞳とは違う。
「…………」
そしてエドに、そんな彼女の言葉が届く。
「……よし!」
エドは立ち上がる。やれるだけの事はやってみよう。
後悔するのは、後だって出来る。
二人の日々が始まった。
カガリとその胎児の容態を見る、次に紅い石の効果についての研究、パーネにもらって来た患者の血液から病原体の検出、
そして培養と解析、石が如何なる効果を持ち、そして使えるかどうか。
やるべき事など、山ほどある。だがしかし、カガリの容態が長く保つとは思えなかった。
一人前の冒険者ですら倒す流行病に、身重のカガリが勝てる筈は無い。
「…………やっぱ無理か」
エドはそう呟く。始めてから一週間、カガリはよく保った方だと思う。
「ええ、そうね……」
ディモレアも肩を落とす。どんなカタチであれ、自分は親友を救えなかった。その事実が、ディモレアの気を落とさせた。
カガリはほとんど目を覚まさなかった。熱に冒され、時折うわごとのように呟く事はあっても意志の疎通までは出来ない。
「……………」
「どうする?」
エドは、ディモレアに問う。カガリと、その子供の事である。
カガリが助からないという事に気付いた、ならその子供はどうする?
エドの子供でもあるのだから。
出産には、まだ時期がある。まだ早い。今すぐ出したとしても未熟児として生まれ、抵抗力が低いだろう。
ならば堕ろすか。いいや、時期が経ちすぎている。そして、エドもディモレアも、そんな事は出来ない。カガリも子供も、まとめて死んでしまう。
ならば。
「……出す、しかないか」
エドは呟く。もっとも、出産に立ち会った事など無い。当たり前だ。エドがかつて暮らしていた故郷でも、パーネが生まれて来たときだって立ち会った事は無い。
そりゃそうだ。エドはまだ幼かったから。
「なぁ、ディモレア。お前、赤ん坊取り上げた事って」
「ある訳無いでしょ」
ディモレアもあっさり答える。だが、その瞳に不安が混じっているのは解った。
「……でもやるしか無いでしょうね……カガリにも聞いてみるけど……」
ただ、今のカガリと意思疎通が出来るか解らないけれど。
何が必要か解らないのでとりあえずいっぱしの治療器具といざという時は錬成して作るのが錬金術士なのである程度の素材を集めてカガリの部屋へ向かうと、カガリはちょうど眠っていた。
熱はまだ高いが呼吸は落ち着いている。
「……大丈夫?」
ディモレアがそう声をかける。返事は無い。
「……今から、赤ん坊をなんとかする」
エドが、聞こえるかどうかは解らないが声をかける。
「……ごめん。お前を助けられない」
「………ごめんね、カガリ」
二人はそう言うと、それぞれ道具を手に取り、手袋をはめる。
息を飲む。今から、始める。
それは長時間に渡った。
親友の死を看取るかも知れない、いや、これから看取るその前に。彼女の血をこの世界に残しておく為に。
その間。
カガリが明確に意識を取り戻す事は無く、ただ呻きを繰り返すだけだった。
「……女の子、か?」
「そう、みたいね」
お腹の中にいた子は、まだ外に出るには早そうではあった。だが。
「ここで殺す訳には、いかないんだ」
カガリの子供。エドの子供。仲間の、親友の、大切な、一緒にいたいと願った仲間が残すものを。捨てる訳には。
いかない。
「……いいか、臍の緒……切るぞ」
「ええ」
臍の緒を震える手で切り離し、ディモレアが子供を抱き上げる。
子供は取り出されたばかりだとは思えないほど、まだすやすやと眠っている。
「……ぅ………」
直後、カガリが小さくうめき声をあげた。エドとディモレアは、思わず顔を見合わせる。
「……カガリ」
ディモレアが、口を開く。
「女の子よ。貴方の子供……女の子よ………」
「……テ……ナ……」
カガリの口が、小さく動く。口の形が、何度か動く。
「え? なに?」
「名前、か? 名前か?」
カガリが頷くかのように、身体が少し上下する。
その口の動きを、エドは読み取ろうと目をこらす。
「かて……りーな? カテリーナ、か?」
「………ぅん…………」
彼女の名前なのだろう、腕の中で眠る小さな命の名前。
エドが小さくその名を呟いたとき、カガリの唇が再び動いた。
「………ありがとう……いままで」
「?」
エドもディモレアも、その瞬間を見ていなかった。でも、確かに今。
その声が、聞こえた。
「………カガリ」
ディモレアが、もう一度だけ呟く。手を、そっと腕に置く。
そして腕から首筋へ、そして心臓へ。
彼女の鼓動は、もう聞こえなかった。