突然ですが、一般的な飼い猫のしぐさ講座を行います。  
視線をそらす……信頼の確認。猫はじっと見つめ合うのが苦手。  
前足をたたむ……安心している。俗に香箱を組むといいます。  
頬ずりをする……愛情表現。このコは、自分だけのもの。  
 
 
「あれ?……あーっ!いたいた、フェルパー!」  
学校の敷地内、塀の角の茂み。校舎の窓からではそこに背を向けうずくまって隠れる少年を発見出来なかった。  
昼休みからいないと騒ぎになって、延々と続く校内の捜索に見切りをつけたのは正解だったらしい。  
首を回して少年は振り向いたものの、すぐ縮こまって、再び体育座り。  
「みんな捜してるよ。ほら、早く戻ろ?」  
「……嫌だ。戻りたくない」  
種族特有の猫耳を伏せ、意気消沈した低い声で口ごもる。  
少年がこうなった経緯を知るフェアリーの少女はむっとして、目くじらを立てて頬を膨らます。  
「だって、フェルパーも悪いんでしょ?ケンカしたなら、謝りに行かなきゃ」  
「あいつが先に突っかかってきたんだ。殴られたから、殴り返した。何かいけないのか?」  
「ウソつき。パンチ一発の仕返しなのに、相手の子、ひどい大ケガしてたよ?」  
保健室に担ぎ込まれた同級生は、痣やミミズ腫ればかりでは済まずに随所の皮が剥け、鼻血も出ていたのだ。  
「ふん、いい気味だ。オレをバカにして。これで少しは思い知っただろ」  
「それじゃダメでしょ。だからって相手をコテンパンにしていい理由にはならないよ」  
「だったら、オレだけがまんしろってのか。あっちはやりたい放題なのに」  
「なら、そんなヤツほっとけばいいじゃない。男の子のくせに、みっともない」  
少女はフェルパーの少年ではなく、彼を怒らせた相手を非難したつもりだろう。  
それを聞いて少年は眼を見開き身を震わす。髪と同じ色の黒い尻尾を、せわしなく振り回し反抗した。  
「なんだァ、それ……こっちだけやられっぱなしかよ」  
「バカ相手に怒ったってしょうがないじゃん。相手にしてやるだけムダだって」  
「そうやっていつまでものさばらせておくから!野郎、調子に乗り始めるんだよ!」  
怒号を浴びせるだけにとどまらず、少年は少女に襲いかかった。  
前触れもなく強引に肩を引き込まれ、刹那の悲鳴が植え込みに沈む。  
ぎらついた少年の眼は黄金の満月。凶暴なほど美しく、恐怖するまでに正円だった。  
 
「フェアちゃん、どうしたの?顔色がよくないわよ?」  
「う〜ん、昨日見た夢が、ちょっとね」  
「悪い夢でも見たのかい?それとも、なれないベッドで寝不足かな?」  
「ああ、いいの。平気へーき。大したことないから」  
チームメイトであるエルフとディアボロスに気を使わせる。他人の眼に映る今の自分は、よほどやつれて見えるのだろうか。  
昨晩のそれは確かに愉快なものではなく、起きたころには寝間着がじっとり汗をかき、脈拍が定まらなかった。  
それでも制服に着替え、仲間と他愛ない会話を交わすと気分が入れ替わり、今では不快感を忘れつつある。  
「ところでさ、転科って、いつまでかかるのかな。早くバハ男に会いたいよ」  
「さあね。朝のうちに済むって言うから、そろそろじゃないの?もうずっと待ってるけど」  
クロスティーニ学園の姉妹校、パニーニ学院の学生寮に一泊し、朝食後の食堂で時間を潰し始めて、はや一時間弱。  
彼女達を待ちぼうけさせる男連中は、今朝正式な学科の変更を申請、承諾、完了すべく、職員室に詰めている。  
約二週間に及ぶ修行と勉強、その成果である適性検査等々はとっくに全てが終わっており、残るは書類関係の総仕上げのみ。  
最終的に単位を買い戻すため、転科する予定のない帳簿方を含めて、今日は朝からパーティの男子全員が全員、出払っていた。  
昼前には終わるよ。その言葉を信じつつ三杯目のコーヒーから湯気が消えたころ、聴き慣れた陽気な声色が話しかけた。  
「やあやあ。待たせたね。やっとこさ終わったよ」  
いつもと変わらぬ、レンジャー科のクラッズ。その後について歩く、なんだか久しぶりに姿を見せたバハムーンとフェルパー。  
元、格闘家学科である両名の壮絶な変わりようは、女性陣を軽い混乱に陥れる。  
「よう、ディア子!いま帰ったぞ!」  
「ば、バハ男……だよね?なんか、だいぶ雰囲気変わった?」  
「おうよ。これでやっと身を呈して、大事なお前達の盾になれるってもんだ!なあ!」  
蒼い翼や総立ちの髪の毛は濃厚な赤にとって代わり、動きやすい空手着を纏っていた上下には、重厚な鎧が装着されている。  
竜騎士となったバハムーンは、人目があるのも構わずディアボロスの肩を抱き寄せる。以前ならしなかった、豪快な行動。  
唐突な抱擁を受けた彼女は、彼の髪色に引けをとらないくらい赤面して、そのまま硬直した。  
「バハ君……性格まで変わってる気がするわ」  
「先生が言うには、よくあることだってさ。別人に見えるくらいが普通らしいよ」  
もちろん、変化が激しいのはバハムーンだけではない。ビーストに転科したフェルパーもまた、容姿に大きな変革がある。  
黒光りする硬質な爪は、おそらくそのままで刃物になりうる。制服には意図的な裂け目が刻まれ、双頭に割れた尾が印象的。  
特に頭髪や尻尾の毛、猫耳や肘先にかけての皮膚は、突然変異ばりに変色している。バハムーンが赤色なら、こちらは紅色か。  
小柄な彼に不釣り合いなほど巨大な鈴が付いた首輪をはめ、野生を通り越して妖しげな、もはや物の怪のシルエット。  
「フェアリー……ただいま」  
「おかえり。フェルパー、ずいぶん変わったね」  
「ん……なあ。今のオレ……どう思う?」  
ちらちらと視線を脇にそらしながら、フェアリーの反応をうかがうフェルパー。こちらは内面の変化が薄いらしい。  
「そうね。すごく猫っぽくて、かわいい!」  
冗談を疑う気も失せるほど、直球の笑顔で即答される。  
パーティ全体の爆笑を買ったが、恥ずかしげなフェルパー本人も、わりとまんざらではないようだ。  
 
魔法系学科を専攻するブルスケッタ学院。今度はこちらでエルフとフェアリーがお世話になる。  
これは余談だが、成績の理由から、二人の転科に五日とかからなかった。  
もちろん、野郎共はそれまで仲良く待機である。あくまで男同志の見解だが、ここのベッドはパニーニより好評であった。  
事前にクラッズが単位分の金額を預け、その日は判が押されるのを待つばかり。午前中で終わるかと思いきや。  
「くあぁ〜……腹減ったー。皆まだかなァ」  
「じっと待ってろ。こんなとき女子はな、予想より長いことかかるんだよ」  
空腹に寝くたばり情けなく間延びした声で訴えるフェルパーを尻目に、ひたすら耐え忍ぶバハムーンは識者だった。  
別に運命の再会というわけでもないのだ、そこまでめかし込む必要があるものか。たかだか数日、会っていないだけなのに。  
きっとこの心理は女にしか分からない。正午を過ぎても、三人は待ち続けた。  
「みんな、お待たせ。二人とも終わったよ」  
迎えに出したディアボロスが帰って来る。その横には、晴れて精霊使いとなったエルフの姿があった。  
以前より装飾され、ひらひらした制服。ブーツを履くニーソックスにもフリルが付き、各所に優雅なイメージを醸し出す。  
「あ。エルっち、髪伸ばしたんだね」  
「ええ。どうかしら?わたしのロングヘアー」  
すくように金髪を撫でつけながら、そこそこ自慢げにエルフは尋ねる。  
「うん。似合ってるよ。ますます美人だ」  
「そ、そう?やだもう、クラ君ったら……」  
「……平和だなあ、この二人は」  
臆面もなく褒めちぎるクラッズと、顔を手で押さえ恥じらうエルフ。両人を遠目にディアボロスが呟く。  
背景に絵の具で花畑を描き散らして、鳩でも飛ばせておきたくなるカップルだ。  
「なあ、フェアリーは?フェアリーはどこだ?」  
春模様な彼らの会話をよそに、フェルパーはぐるぐると周囲を見渡す。  
「あら?フェアちゃん、まだ来てないのかしら?用事が済んだときは、いっしょだったけれど」  
「ごめ〜ん。ちょっとゴタゴタして、遅くなっちゃった。あ、もうみんな揃ってるね」  
ムードメーカーの甲高い声は、聴き慣れた身としては懐かしくさえあった。  
幾日ぶりに姿を表したフェアリーは、少し厚手になった程度の、さして変化もない制服を着込んでいる。  
だが短い緑髪は背中を覆う長さの赤毛に変身し、サファイア・ブルーの瞳には、心なしか深みが増したようだ。  
「ねえねえ、フェルパー。見てみて、あたし、賢者よ!」  
くるりとその場で一回転し、両手を広げてアピールする。長髪がふわりと宙に踊った。  
口を半開きにするフェルパーは、眼のやり所に困ってかしどろもどろ。  
「あ……うん。奇麗に、なったな」  
「……ちょっと。どこ見てんのよ、えっち」  
胸を手で覆うふりをして、大袈裟に身を引くフェアリー。決して錯覚などではなく、転科前より胸囲が大幅に増えているのだ。  
「や、ち、違う!そ、そんなんじゃない!ただ、着痩せするほうなのかな、って……」  
案の定フェルパーは過剰に動揺する。慌てて弁解を図る間も、ちらちらと立派な実りを気にしている。  
転科したメンバーで最も外見が別人に近いフェアリーは、呆れているのか、小さく嘆息した。  
「……ふふっ。ウソうそ、冗談。もう、フェルパーったら、子供なんだから!」  
フェアリーが鼻の頭を指先でつんと触る。その先にはフェルパーが知る幼馴染の、変わらない笑顔が満開に咲いていた。  
 
一連の転科を終えたパーティが最初に受けたクエストは、パーネ先生の「ゾンビパウダー」だった。  
カッサータ砂漠の王墓に住まうデスワイトなる強力なアンデッドから、依頼の名にある粉末を入手するものなのだが。  
「ふぅ……大したこたぁなかったな」  
噴き出した瘴気を吸い込んだことによる毒をカエルの肝で治癒しながら、バハムーンは額をぬぐい独りごちた。  
上級学科の装備や技は、漠然と判断しても抜きん出て強い。魔法壁と召喚獣のサポートで、思いのほか早急に決着が付く。  
あっけなく灰と崩れたかつての不死王を、せっせと袋に詰め込んでいく。これを持って帰れば、クエスト完了だ。  
「それにしても、いやに静かだよね。他にモンスターいないのかな?」  
「……ニャアーオ」  
合いの手にしては不気味な猫の鳴き声。ディアボロスは肩を引き攣らせ、即座にバハムーンがフェルパーを睨む。  
「うおお。こらフェルパー!変な声出すんじゃねえ!」  
「違う。オレはこんな高い声で鳴けない」  
「えっ。でもこれ、猫の声だよ。フェルパーじゃないなら、他に誰が――」  
憮然と答えるフェルパーに対して、ディアボロスからの文句はそこで途切れた。  
鈍器で殴るような鈍い音が響き、次いで彼女が視界から高速でスライドする。壁に叩きつけられる重い音色がこだました。  
ようやく脳が追い付き視線が動いた先には、ぐったりと頭を垂れ吐血したディアボロス。何者かが急襲をしかけてきたのだ。  
「でぃ……ディア子ぉ!くそっ、なにもんだ!」  
バハムーンのジャベリンの矛先が、狡猾な襲撃者に向けられる。  
前脚を舐めて毛づくろいをする一匹の黒猫がパーティを見つめていた。手足を動かすたび、鎖付きの枷が喚く。  
「こいつ……獣系のモンスターか?」  
「一発でディアっちふっ飛ばしたんだ、フツーの猫ちゃんとは言いたくないね」  
クラッズがクロスボウに矢を装填し、フェルパーも姿勢低く身構える。後ろでは魔法系の二人が戦闘の補佐をしてくれるはず。  
「え……なあに?にゃんきー……チェーン?」  
エルフの話し声が耳に届いた。召喚獣と会話が出来るのは、精霊使いである彼女ただひとり。  
「どったの?召喚獣、なんか言ってる?」  
「ウナアァオ!」  
敵から注意をそらした一瞬、黒猫は雄叫びをあげクラッズに殴りかかった。  
主人の元から飛び出し、小人のような身体をめいっぱいに広げて召喚獣、ウンディーネが立ち塞がる。  
ねこパンチの直撃を受け一撃で砕け散り、召喚獣の血や肉片は、その場で煙となって消えていった。  
「あ……あの子が、言ってたわ。戦ってはだめ……みんな、逃げて!」  
しきりに奥歯を鳴らし、震えながら声を絞り出して絶叫するエルフに、再び黒猫が襲いかかった。  
 
「きゃああっ!」  
「このっ……くそったれがぁ!」  
すくみあがるエルフとにゃんきー・チェーンの間に、バハムーンが飛び込み割って入る。  
あちらにしてみれば、軟弱な獲物の内一匹に狩猟の邪魔をされたところで、さしたる妨害にもならない。  
弄ぶように蹴る殴るを繰り返し、乱舞の締めは強烈なサマーソルト。大柄なバハムーンがぼろ雑巾のようだ。  
「フシャアアアアアァ!」  
竜騎士を容易く葬った魔物に、体毛を逆立ていきり立ったフェルパーが、守りも構わず突撃する。  
にやんきー・チェーンは格闘家も顔負けのフットワークを見せつけて、軽やかに捨て身のバグナウを回避する。  
「フーッ!フーッ!」  
「フェルパー、落ち着いて!言うこと聴きなさい!」  
「ガアアアァ!」  
恐怖や興奮が激昂と錯乱を呼び、再度敵の懐中に突進する。ひょうひょうとかわされているが、当然防御の面は隙だらけだ。  
平常時ならすぐ従うフェアリーの呼びかけなど意にも介さず、絶えず背中を丸め、尻尾を針山にして威嚇する。  
フェルパーの空威張りを嘲笑いつつ、黒猫はふっと床に伏せた。直前に頭部があった空間を、破魔矢が一本、鋭く射抜く。  
「あ、いけね、外した」  
「クラ君、よけてぇ!」  
隠れていたところを発見され、殺人的なねこパンチに狙いをつけられても、クラッズは下手によけようとはしなかった。  
「フェルっち、けむり玉だ!二人だけでも逃がせぇっ!」  
猛烈な早口でヒントを残し、小柄な頭が真紅に弾ける。  
この隙にすぐさま逃げるべきだったが、砂色の床に描かれた紅い大輪に、フェルパーの視界は釘付けにされた。  
「――何してんの!動け、フェルパー!」  
フェアリーの怒号で我に帰ったときには、にゃんきー・チェーンが目前に迫っていた。  
ディアボロスを即死させた足でレンガを蹴り、バハムーンをいたぶったときよりも大きく跳ぶ。  
軽快に壁を走り抜け、クラッズの首を刎ねた前脚が振りかぶった。かわすには、距離も時間も足りない。  
「……グッ!」  
軽く突き飛ばされた程度の衝撃。一撃死は存外、痛くはないのだろうか。  
よろける身体が踏み止まるのと、長い髪よりも赤い水を脇腹から吹き出し賢者が崩れ落ちたのは、感覚的には同時だった。  
「ア……あ……」  
「……おバカ。この……臆病者。エルちゃん、死なせたら……許さない……よ……」  
最後の一言は猫の聴覚でも聞き取りづらいほどか細くなっていた。やがて眼を瞑ったフェアリーの顔から、生気が消えていく。  
「……ゴルニャーオ」  
消え入りそうな虫の息さえ本当に聞こえなくなったとき、にゃんきー・チェーンがぺろりと笑う。  
くっと彼女の仇を睨み上げ、四つん這いの格好で両腕を踏ん張り、フェルパーは大きく首を振った。  
「ギャウウゥウアアァウウウゥウオオオオオオォ!」  
いつしかと同じ金色に満ちみちた月を両目に宿し、咆哮する。首に付いた鈴がじゃらじゃらと騒いだ。  
煌めく眼とうずく爪と餓えた牙をむき出し、紅の弾丸が横たわるフェアリーを飛び越える。  
 
どれくらい眠っていただろう。重たい瞼を持ち上げ最初にとらえたのは、殺風景な木製の天井。  
身体にかけられたシーツと、寝心地が悪い枕。保健室のベッドに寝かされていたと考えが至るのに時間はかからなかった。  
「あ。やっと起きたね、フェアリー。心配したよ。気分はどう?」  
窓際に置かれたおんぼろの椅子にディアボロスが腰かけ覗きこんでいる。  
「うん……あんまり、よくないかな。他のみんなは?クエストはどうなったの?」  
「それは、俺から説明するぜ」  
甘い香りの軽食を詰めたバスケットを抱えて、仕切りのカーテンからバハムーンが現れた。  
彼の後に続いてクラッズが顔を出し、わずかに遅れてエルフもやって来る。  
「俺が起きたのは三時間前で、ちなみに今は夕飯時だ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、順番に話すぞ。質問は最後にな」  
転科する前と比べ、バハムーンは思い切りがよくなった気がする。フェアリーは黙ってうなずいた。  
「結論から言うと、クエストは成功した。エル子から先生にブツも収めた」  
「あの猫は?にゃんきー……チェーン、だっけ?」  
説明の切りがいいところで質問する。バハムーンは複雑な顔になり、小手をはめたままで後頭部を掻く。  
「フェル君が……やっつけてくれたわ。おかげで、わたしは生き残れたの」  
「フェルパーが?とどめまで刺したの?」  
「全身傷だらけで血みどろになりながら、相手の原型がなくなるまでね」  
眉をひそめ、静かに告げるエルフ。喋り終わると唇をきつく噛み締めた。  
フェアリーは胸の前で右手を強く握り、その上に自らの左手を重ねる。  
「ここにはいないみたいだけど……あのコは今、どこで何してるの?」  
「ガレノス先生がつきっきりだ。悪いが俺達には、ちょっと手が出せねぇ」  
「それどういうこと。まさか、あのおバカ!」  
「うんにゃ。フェルっちは生きてるよ。今のところ、手術が必要な大ケガもない」  
真剣な面持ちのクラッズから先読みの利いた答えを貰うが、フェアリーはそれだけで納得しなかった。  
「今の……ところ?それじゃあ、ひょっとしてまだ暴れてるんじゃ……」  
ディアボロスとバハムーンの表情は変わらないが、クラッズの顔が歪み、エルフは眼をそらす。  
なぜ最初に気付いてやれなかったのか。長い付き合いだ、フェルパーが暴走したときから、どこかで分かっていたはずなのに。  
今すぐベッドから飛んでいきたい衝動を、ぎりぎりのところで押さえ込む。バハムーンに目線で確認を求めた。  
「……あいつのことは、よく分かってるつもりだ。こいつらにも言えることは全部話した。後は、煮るも焼くもお前次第だ」  
上半身を覆い隠せそうな翼の生えた背を向けられる。今となっては逞しい後ろ姿も、小さい頃から飽きるほど見てきた。  
ベッドから身を乗り出すと、ディアボロスがブーツを揃えてくれた。短く礼を言って靴を履き、自前の羽で宙に浮く。  
保健室を飛び出す前に、エルフが場所を教えてくれた。また謝礼をして廊下に向き直り、寝起きの身体に加速をかける。  
 
生徒指導室。授業では一切使わず鍵までかけられているこの部屋は、いわゆる反省部屋である。  
同級生と喧嘩をしたり、教師に剣を抜いた生徒を閉じ込め、大人しくなるまで隔離しておくのだ。  
日常では空き部屋として見られているこの教室に灯りがともり、男子生徒の叫び声が聞こえる様はおぞましい。  
扉の前で見張りを務めるのが、保険医ガレノスとなってはなお不気味だ。  
「どうしました?ここは立ち入り禁止ですよ。それとも、私に何か用事ですか?」  
この教師から耳障りないつもの笑いが途絶えるときは機嫌が悪いか、緊急事態。今回はくしくも後者だが。  
尻あがりに半笑いの口元が、珍しく上向きに弧を描いている。壁の向こうから響く野太い唸り声は、まだ鳴りやまない。  
「この教室に、ビースト学科のフェルパーがいると伺いました。あたしの、チームメイトなんです」  
「残念ですが、面会謝絶です。今、彼を外に出す訳にはいかない」  
「こうなった原因が、あたしにもあるんです。いざってときの覚悟は出来てます。一目でいいから、お願いします!」  
嘘をついた覚えも、方便を使ったつもりもない。これまでの生涯で最も直角に近いであろうおじぎをする。  
頭の上でガレノスがわざとらしく、深く溜めた息を吐き出した。  
「万一のときには、すぐに追い出します。自分の身は、自分で守ってくださいよ」  
「先生……ありがとうございます!」  
フェアリーが繰り返し腰を折ると、ガレノスが白衣のポケットから鍵束を取り出し、その中のひとつで南京錠を外す。  
鍵を挿したままのそれを懐にしまい、ほこりっぽく軋む引き戸を片手で開けた。  
おおかた予想はしていた光景が、四隅のたいまつに照らされ露わになる。  
「ガアァッ!フシュルルル、グアアァオオゥ!」  
両手足と窓枠の鉄格子をチェーンで繋がれ、四脚が束縛されている、我を見失ったフェルパーの痛々しい姿。  
いつからここで囚われているのだろう。手首の擦り傷からにじんだ血液で錆色に染まった枷が見るに堪えない。  
「もうずっとこんな調子です。極限の恐怖でパニックに陥り、すっかり野生化してしまいました」  
「…………そう、ですか」  
「ビースト学科の生徒や、彼らの制服に、生傷が絶えない理由を知っていますか?」  
「……戦闘でないなら、分かりません」  
「彼らは溜まってゆく欲求不満を、全て攻撃に回してしまいます。早い話、ストレスで自虐に走るのです」  
フェルパーはいまだに猛り狂っている。鎖を引っ張っているというより、逆に鎖のほうから突き放されて見える。  
「可哀そうですが、ああなってしまうと、体力を使い果たすまで放っておくしかないのですよ。もう今日のところは……」  
ガレノスの話を最後まで聞かずに、フェアリーはフェルパーのもとへ歩み寄った。  
一歩、また一歩。じわじわと距離を詰める間も、紅い猫の発狂は止まらない。首根っこの鈴は、がらがらとやかましい。  
なんのつもりか、見張っているガレノスから引き止められる気配はない。そのまま手を伸ばせば触れられる距離に近づく。  
 
「どうしたの?もうどこにも、敵なんかいないよ。だから、暴れなくてもいいんだよ」  
努めて穏やかに語りかけると、フェルパーが肢体の動きを止めた。  
相変わらず毛を逆立ててはいるが、鎖はやっと静かになった。声が届いたのは幸いだ。  
「怖かったよね。みんなやられちゃうんだもん。でもここには、フェルパーを傷つけたりするひとはいないから。ね?」  
そっと手を伸ばし、グローブをはめたままフェルパーの頬に触れようとする。  
途端、怒れるビーストは頭から飛びかかり、容赦なくフェアリーの華奢な肩に噛みついた。  
無論その威力は、骨ごと噛み砕かれてもなんら不思議ではない、肉食動物の主兵装。制服の肩部に天然の赤インクがにじむ。  
「グルルルル……フウウウゥ……」  
「っ……ほら、大丈夫。何もしないよ。あたしは、フェルパーの味方だから……」  
酸っぱい臭いがする紅い髪を、あやすように優しく撫でてやる。小さいころ、やはり同じことをしてやった覚えがある。  
フェルパーは肩から離れなかったが、やがて唸りが止み、顎が脱力し、荒ぶる手足から怒気が消えた。  
「……キャットベル。いわゆる猫の鈴は、愛嬌と友好の象徴とさせています。なぜ、そんなものがビーストについているのか」  
いつの間にか、すぐそばにガレノスが立っていた。白衣の収納に手を突っ込んでいる。  
「それは、相手に存在を知られるより、味方が存在を認知出来ないほうが、パーティにとって危険だからです」  
「…………」  
「要するに、その鈴は鳴子なんですよ。ビーストを独りにさせてはいけないし、決してビーストとはぐれてはいけない」  
さっきの束とは別物の、くたびれた鍵を握っている。それをフェルパーの枷に差し込み、鉄鎖の拘束を自由にする。  
ようやくなだめられた野獣を緊縛から解放した鍵をポケットにしまって、しかし手錠は片付けない。  
「少なくとも、今はあなたしか見えていないようですから、相手をしてやりなさい」  
「……ガレノス先生」  
鍵だけ持ってさっさとこの場を立ち去ろうとするガレノスは、振り返ることなく、はっきりと喋った。  
「その男子生徒を任せます。この教室は開けておきますので、今夜はここに泊まりなさい。一晩もすれば、回復するでしょう」  
この一言の後、日も暮れて薄闇に染まったであろう廊下に、大人が歩く足音が響いた。  
愛想もなく部屋を後にする保険医に、フェアリーは背中越しながら、心の中で思い付く限りを尽くして感謝の意を述べた。  
「……あれ……フェアリー?」  
不意に耳元でくすぐったく囁かれた、子猫の甘え声。それが意識を取り戻したフェルパーのものだとは、判断するまでもない。  
「なんでだろ……ずっと暴れてたみたいだ。フェアリー……ごめん」  
「……よしよし。あたしは平気だよ。乱暴したって自分で分かるなら、それで充分。頑張ったね」  
痛みを気にせず、全力で抱き締めてやる。こんな傷、後でヒールでもかければいい。  
訳が分からずされるがままだったフェルパーも、ぎこちなく抱き返してくる。手を添えるだけの、簡単なそれ。  
フェアリーは汗など掻いていないのに、ぬるい水滴が頬を伝った。フェルパーの鈴が、しゃらんと、歌った。  
 

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