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国務聖省が誇る巨大空中戦艦、アイアンメイデンU。  
艦長のシスター・ケイト・スコットはその日の朝早くに無線で連絡を受け、  
同僚と後輩の二人を艦上に拾い上げた。  
雲下に透けて見えた深緑が、南下するにつれ明るい青に変わる。  
海を越え、黄砂の都市カルタゴへと引き返すのだ。  
かの地での八月は終わろうとしていた。都市潰滅の危機を乗り越えたのち、  
帝国からの密使が負った怪我の快復と、彼が国より携えてきた依頼への回答を  
書面で取りまとめるために待つこと一週間余り――その間も万年人手不足の  
Axには休暇の二文字は存在しない。そして、使者のメンフィス伯から帰国時の  
随行員にと指名されたエステルも、アベルやケイトのような特務分室の所属でこそ  
ないものの仕事に忙殺される身には変わりなく、渡航の準備が整うのを休んで  
待つどころかローマへの一時帰還すら叶わなかった。  
   
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低い駆動音が響く艦橋で、手にした紅茶から立ちのぼる香気を吸い込みながら、  
銀髪の神父は立体映像の尼僧の説明に耳を傾けた。  
<……それで、ほぼ炭化した例の死骸についてですけど――アベルさんが  
 先に採取してあった体組織の分析が済みました。……と申しましても  
 ここの設備だけでは簡単なことしかわかりませんでしたので、ウィリアムにも  
 データを回しておきましたわ>  
「そうですか、どうも」  
<まだ動いているときにお二人がご覧になった外見的特徴も鑑みるに、  
 ご想像通り合成生物の類である可能性が高いようですわね>  
「はあ……しかし、それはまた微妙にアナクロな」  
尼僧は柔らかな微笑を浮かべて首肯する。  
<ええ、ですから作られたのはどうも最近ではなさそうです。細胞の状態から  
 しても、アベルさんの前で発火する以前どころの話でなく遥かに遡って……  
 おそらくは大災厄よりもずっと前に>  
 
「遺失技術の……ではまさか、私は」  
アベルの脳裏に、むさ苦しい同僚が思い浮かぶ。  
「人を……?」  
血の気の引いた顔で干したカップを置く神父に、ケイトは小さく手を振ることで  
否定した。  
<ですから、獣人でも、その子孫でもありません。そもそもあの個体自体が  
 生命活動を停止してからずいぶん経っていると先ほど申し上げたでしょう>  
胸を撫で下ろしながらも「それはまだ聞いてませんよ」とアベルは抗議した。  
ひとつ咳ばらいをしてケイトは卓の紅茶を下げる。  
入れ代わりにせり上がってきたカップからは別の香りがした。  
<――人間の遺伝子は存在しませんでした。血液ですが、こちらから検出された  
 のは主にナフテン酸にグリセリン――ええっと、これってあたくしの記憶に  
 間違いがなければ……>  
泣き黒子の尼僧が探るように見た神父は、心なしか眉を寄せていた。  
「旧い時代にどこぞに保存されてた標本でも引っ張り出してきて、“彼”が  
 新たに手を加えた、というところですか。……イブリースの発動にも  
 一枚噛んでいそうですが、さて……何をするつもりなのやら……」  
悪魔の本性を天使の微笑みで擬装した若者は、エステルに対して次があることを  
匂わせていた。  
<もう少し詳しい結果が上がればすぐにお知らせしますわ>  
「いつもすいませんね」  
<いいえ、それよりアベルさん、通信機をどうかなさいまして? 今朝そちらから  
 ご連絡いただくまで繋がりませんでしたのよ。大した用事ではなかったので  
 結構ですが、あまり心配させないでくださいまし>  
尼僧の何気ない問いに一瞬、神父がひるんだ。  
ややあって、高い位置にある頭をすまなそうに掻く。  
「……そうでしたか、それは失礼を。いやあ、こないだ壊れちゃったんで  
 修理してもらったんですがねえ……あれ以来どうも調子が悪……いよう……で」  
穏やかな尼僧の微笑が引きつり始め、叱られ慣れた神父の言葉が瞬く間に  
尻すぼみになる。  
 
<……神父アベル。一度申し上げようと思ってたんですが、あなたがたときたら、  
 いくらなんでも物を壊しすぎじゃありませんこと?>  
大きな子供と化したアベルはおどおどと周囲に助けを求めるが、当然のごとく  
艦橋には立ちふさがる母親のほかに人影はない。  
「い、いや、これに限っては私じゃなくてですね? 壊滅騎士が……」  
<どちらでもよろしい!!>  
「ひいっ!!」  
雲の上だというのに雷が落ちた。  
<いいから、戻ったら必ず直してくださいましね!>  
「は、はいぃ……」  
卓に額をすりつけたアベルをよそに憤懣やるかたない様子で移動しようとした  
尼僧の映像が、思い出したようにふと止まる。  
<それと……アベルさん、シスター・エステルはよろしいんですの?>  
すっかり縮んだ神父が口に運びかけていたカップに歯が触れ、カチリと鳴った。  
「エステルさん? ……に、何か?」  
<そういうわけではないんですが……こちらに来られたときにお顔の色が  
 優れなかったので、すぐにベッドを用意しましたでしょう。お加減はどうかと>  
「あとで様子を見に行きますよ」  
<彼女、どこか怪我でもなさってるのでは?>  
「……え? いえ、それはありませんよ」  
艦内の各所に設置された監視カメラには、エステルが休む前に尼僧服を  
洗濯しに来た様子が映っていた。その直前に軽く一悶着あったことを思い出し、  
ケイトは首をひねる。  
「ケイトさんのことだから搭乗時のチェックはされたんでしょ?」  
冷めかけた紅茶に砂糖を足しながらアベルが訊く。  
<ええ、確かにお体には目立つ外傷も病気も見当たりませんでしたから……  
 あたくしの思い過ごしですわね>  
仕事に戻る尼僧が離れると、ひとり残された神父は遠い目を海に向けた。  
 
**  
   
山小屋の中は先ほどまでの和やかな雰囲気から、一転して気づまりな空気に  
支配されてしまった。翌日のことを考えれば疲れを癒すために眠らなくては  
ならない時間帯だ。だがアベルもエステルも不寝番用のランタンを前に、  
ただぼんやりとしていた。季節柄寒くはないので、湯を沸かした火は消している。  
エステルはそっと隣を盗み見た。  
窓の外――あるいは世界の外に思いを馳せる神父の貌は、灯火を反射してすら  
白く見えた。ふとした折に見せる救いがたい空虚な瞳は何を孕むのか、いっそ  
脅してでも訊いてみたい衝動にも駆られたが、エステルは口をつぐんで明かりに  
目を戻した。  
ところがそんな情況にも慣れてきた代わりに、今度はまぶたが落ちてくる。  
いつの間にか、エステルは故郷の古びた教会にいた。  
――中にいても隙間風の吹きつける聖堂は、でもみんなといれば暖かくて……  
質素な食事はとうてい足りる量じゃなかったけど、心がこもってるから美味しくて――  
 
――――「エステルさん」  
 
沈黙にすらなじんでしまいそうな穏やかな声が、名前を呼んだ。  
「……ふゃ、ふぁいっ?」  
裏返ってしまった尼僧の声を気に止める風でもなく、神父はかたわらの膝かけを  
手渡す。  
「構いませんから先に寝てください」  
「でも」  
少女は腫れぼったい目をしばたたかせて首を振った。  
 
「私なら明け方に少し眠れば平気ですよ。交替のときは容赦なく起こしますから、  
 覚悟して寝てくださいね」  
「……そんなこと言って、起こさないおつもりなんでしょう」  
上目づかいの尼僧の指摘に神父が詰まる。  
「だめですよ、神父さまのほうが絶対疲れているはずなんですから」  
いかにも眠たげな姿から、とたんにきりりとする少女に苦笑して、  
「ふっふっふ、私ってば五日以上の徹夜だって慣れっこなんだなあ……  
 普通なら死んじゃいますよねえ? だからこんなのなんてことないんですよ、  
 体は丈夫だし」  
「あたしだって丈夫ですわ。むしろあたしからすれば神父さまのほうが弱そう。  
 あんなに大喰らいでいらっしゃるのにお痩せになってるし。ね、ですから先に  
 寝てくださいませ!」  
持っていた膝かけを押し戻して張り合う少女に、神父は嬉しそうな微笑みを浮かべた。  
だが、それにエステルが安堵するが早いかいきなり立ち上がる。  
「えっ?」  
弾かれたようにエステルが振り向くと、またしても猫背の長身が扉の向こうに  
消えるところだった。  
「待っ……!」  
ランタンも持たずにエステルが外に飛び出すと、月光を受けて驚いた顔の神父が  
立っていた。  
「あれ、どうしたんです? そんなに慌てて」  
「だ、だって神父さまがいなくなって……」  
「すいません、いや、顔を洗おうかなーなんてね」  
「……なんだ……」  
ばかみたいだ、と赤くなってすごすごと引き返す少女の背に、  
「いっしょに行きましょうか」  
神父は娘を見守る父親の顔で口許をほころばせる。  
――エステルに否やはなかった。  
   
*  
   
夜空の下で並んで顔を洗ったあと、獣の死体が気になるというアベルに  
エステルもついていった。少女のほうは「またあのグロテスクな姿を見るのか」と  
鬱に陥りかけたが、これも仕事と喝を入れ直す。  
それは倒れた位置から動いていなかった。銃創も生々しく毛を濡らした、  
凝固し始めの赤黒い筋――エステルの服にも飛んだ血が、地面に広がっている。  
離れた位置から観察する二人はしばらく無言だった。  
「……熊……それとも狒々?」  
「考えてもここじゃ結論は出ませんからねえ、判断はケイトさんが来てからに  
 しましょう――――っと!? エステルさん、離れて!!」  
「……!?」  
知らぬ間に死骸に近寄って覗きこむ形になっていたエステルの肩を、アベルが  
背後から引き倒した。尻もちをつく尼僧と前後して、それはゆらりと立ち上がる。  
「馬鹿な……!」  
長身のアベルをも圧する高みから見下ろすのは、真円の二対の燐光だ。  
確かに死んでいたはずの巨体が二人の目の前で再び四肢を踏ん張り、  
鋭い牙を剥き出して吼えた。  
突如として地面の血溜まりが花火のように青くスパークし、獣を取り囲む。  
直後にその口蓋より噴き出したのは青白い火球だった。神父が神速で抜いた  
銃により撃ち落とされた初発に続き、ニ射目が牙の並ぶ口中で転がされる。  
――それが火球として成形される前に燻り出し、自らを焦がし始めたのは、  
神父が熱波に耐えつつ次弾を放とうと構えたときだった。  
厚い毛皮に燃え移った火花はみるみるうちに大きくなる。  
……爆発にも似た勢いで獣の体から燃え盛るその炎は、つい最近どこかで  
同じものを見たばかりではなかったか?  
噴きつける熱風から顔を庇い、混乱する頭を抱えながら、だがエステルは  
気力を総動員して動いた。震える手で切詰式散弾銃を向ける。  
この距離なら――!  
「神父さま、どいて!!」  
今度こそ狙い過たず、四散した銀の礫は炎の固まりと化しつつある獣に突き刺さった。  
   
*  
   
エステルにとって、その日はどこまでも焦げ臭い匂いの付きまとう日だった。  
森の外からは上空に不審な煙がたなびいているのが見えるだろう。  
それとも山小屋から昇る炊き出しのそれと見誤ってくれるだろうか。  
地べたに座り込み、立ちこめる悪臭に咳きこんで呆然と空を見上げる少女に、  
銀髪の先を焦がした青年が脳天気な声をかける。  
「大当たり〜。さすがエステルさん」  
「はあっ? あ、ああ……神父さま、よかったですわ、頭もお元気そうで……」  
「もーぜんっぜん。最後なんて見てるだけでしたからねえ、私は。  
 いやあ、腕のいい後輩を持てて前途は明るいなあ、そのうちエステルさんに  
 食べさせてもらう日が来るかもしれませんね」  
面の皮の厚い神父らしからぬ謙遜に気が緩んだ尼僧が苦笑いした……そのときだった。  
 
<僕のオモチャは気に入ってくれたかい?>  
声と呼ぶには硬い音声が二人の耳を軋ませた。  
探すまでもなく、音の発信源はいまだ燻る獣である。  
骨までも燃やし尽くさんばかりの火力は、エステルの銃弾に崩れ落ちたあと  
急速に弱まり、死骸はかろうじて黒い塊としての形をとどめている。  
耳障りな声はその中心部あたりから聞こえてきた。発声器官を用いてではなく  
単純にマイクを埋めこんでいるだけのようだ。  
<あーあ、やっぱり勢いが弱かったか、不完全燃焼とはね、改良の余地ありだなあ>  
「誰……?」  
アベルが「しっ!」と口を閉じるよう指を立てる。  
<そんなに警戒しなくていいのに。もう秘密兵器はないからさ>  
「……あなたは」  
神父が舌打ちした。自分以外のすべての人間を小馬鹿にした態度には  
嫌でも覚えがある。たちまち身体を強張らせるエステルと“彼”との間に立ち、  
アベルは狙点を黒焦げの頭部に定めつつ冷ややかに問う。  
「何が目的です」  
 
<短気な神父様だね。まあいいか、少しおしゃべりしてあげましょう。  
 でもね、特にあなたたちを狙ったというわけでもないんだ。気まぐれでそこに  
 落としたら……仲良く散歩中なんだもんなあ。これぞ主のおはからいってやつ?>  
「……」  
ハウリングを起こしたような甲高いノイズ混じりの含み笑いが、余計に神経に障る。  
<ああ、今とても嫌そうな顔をしましたね? センサーはとっくにやられてるから  
 見えないけど、それくらいはわかりますよ。ところでエステル>  
唐突に名指しされた少女はびくりと肩を震わせた。  
神父が姿勢はそのままに空いている片手を背後に伸ばし、エステルに触れる。  
<どう? これ、試作体なんだ。デキはいまいちだったみたいだけど、的撃ちは  
 楽しかっただろ? そのうちに新作もお披露目予定だから楽しみにしてて  
 欲しいな……じゃあね、愚かで愛しい、僕のエステ――>  
みなまで聞かず、神父の握る古めかしい銃が轟然と火を噴く。腹腔に風穴を開けた  
黒い残骸は、ひび割れた<ジッケンキョウリョクアリガトウ>の一言を残して  
再び沈黙した。  
 
「これは――いや、まさか」  
エステルが自失状態から立ち直ったときには、神父は回転弾倉を交換して更に  
何発か撃ちこんで、小声で呟きながら塊を分解しているところだった。  
「……考えすぎでしょう」  
「……?」  
既に嗅覚は麻痺している。這い寄ったエステルは神父の肩越しに覗きこんだ。  
シュッ、と音がした。  
気がつけば、眼前に魔法のように最後の炎が閃いていた。  
飛来した光球をそれと認識するまでの瞬きにも満たない一瞬、  
尼僧を焼こうとした炎を、神父はこともあろうに手で払い落としていた。  
「ツ……!!」  
手袋から瞬時に火が上がる。  
「神父さま!!!!!」  
悲鳴が白煙を一掃した。  
 

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