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艦影はいまだ洋上にあった。  
雲は薄くまばらになり、開けた視界に鏡のような海が広がる。  
アベルは艦内に割り当てられた部屋でベッドサイドの丸窓からそれを眺めていた。  
 
<よろしいでしょうか>  
眼下を見下ろしたまま「どうぞ」と応じ、神父は来客を招じ入れる。  
先に声だけを送った尼僧は許しを得て、がらんとした部屋の中央に姿を現した。  
大使館滞在中の国務聖省長官と通信を終えての報告がてら神父の部屋を訪れたという  
ケイトは、用件を済ませたあと改めて気遣わしげな声で彼に尋ねる。  
<ほんとうに平気ですかしら……そろそろ着きますけど、シスター・エステルが、  
 まだ……>  
掌で弄んでいたロザリオの鎖が冷たく鳴った。アベルはほどけかかった包帯に  
視線を落とす。その下の鈍い痛みはまだひかない。  
「タフなエステルさんでも、さすがに疲れが出たんでしょう。カルタゴに着いても  
 ほとんど休めずに出発です、できれば彼女が起きられるまでそっとしておいて  
 あげてください」  
淡々と答える神父に尼僧は小首をかしげた。  
<アベルさん……? あの、彼女の部屋には行かれましたの?>  
返事はなかった。俯き加減の神父の丸眼鏡には照明が白く映りこみ、何を考えて  
いるのか尼僧からはまったく窺えない。  
<神父アベル!>  
語気も荒くケイトが繰り返すと、ようやく腑抜けた声が返ってきた。  
「……はあ、なんでしょう……どうかされましたかケイトさん、怖い顔をなさって」  
<――どうかしているのはあなたですわ>  
ケイトはふうっと息をつき、疲れたように呟く。  
「……いいえ、私はいつもと変わりませんよ」  
言葉に反して、その顔も声も明らかに精彩を欠いていた。  
 
<もうっ、なんなんですか一体。……シスター・エステルも様子が変でしたし>  
眉を寄せ、尼僧はためらうように言葉を切った。ふたたび俯いてしまった神父を前に、  
言うか言うまいかを決めかねている様子でしばらくは組んだ指を落ち着きなく  
動かしていたが、やがて短くはない逡巡ののち、  
<……実は――先ほどはお話ししなかったことがありましたの>  
ふと面を上げたアベルに、尼僧はひとつ頷いてみせる。  
<あなたがたを回収してすぐ、エステルさんが服をクリーニングしたいと  
 おっしゃられたときのことなんですけど……最初はこちらで預かろうとしましたのよ。  
 でも“汚れがひどいから手で洗います”と固辞なさるので……>  
「はあ……」  
ばつが悪そうに視線を伏せてケイトは続けた。  
<……いけないとは思いましたが、あまりにもかたくなでしたのであたくし少々  
 気になって、そのあとの成り行きもモニターしてしまいましたの。  
 そうしましたら……尼僧服に血でございましょう? もちろん昨晩のことで  
 返り血でも浴びられたのかもしれません。でもそれならなぜああまで隠し立て  
 なさるのかが、ちょっと……。で、あなたでも一応は男性に分類されますから、  
 言いづらいことではあるんですが……ええとですわね、その……ええいもう、  
 つまり――月の障りでもないようでしたので、心配になってしまって。  
 あなた、何かご存知じゃありませんの、アベルさん?>  
「……さあ、私は気づきませんでしたが」  
<ほんとうに?>  
神父はロザリオを弄いながら、無言で頷く。それでも尼僧は気を許した相手に  
相談できたことで、少しばかり肩の荷を降ろしたようだった。  
<それならよろしいんですが……彼女が起きてこられてまだ具合が悪そうでしたら、  
 薬をお出ししておきますわね。それにしてもまったく、頼りにならない方ねえ  
 ――――え? えええ? あら? ちょ、ちょっと、何なさってるんですの、  
 神父アベル!?>  
 
「何って、シャワー浴びるんですが」  
話の途中で突然服を脱ぎだした神父に、ケイトが裏返った悲鳴をあげた。  
たれ気味の瞳が今はめいっぱい大きくみはられている。  
「あ、ケイトさん、見るのは構いませんけど撮影は別料金を請求させて  
 いただきますからね。そうだなあ、私ほど整ったプロポーションだと相場は……  
 十五秒で十万ディナール? なんてね――――おやあ、ケイトさん?」  
のほほんと話し続ける男をよそに、あまりの怒りからか激しくノイズの走る映像を  
ぶつりと切り、ケイトは消えた。  
<ダメエロ神父!!>という捨て台詞のみを残して。  
 
「……やれやれ」  
アベルは溜め息をつくと脱いだ服をベッドに落とす。  
このとき、もしもその場に鋭敏な嗅覚を持つ機械化歩兵がいれば気づいたことだろう  
――――微かに漂った、僧衣の所有者以外の香りに。  
 
**  
   
深夜の森にはようやく静けさが戻っていた。残るのは川のせせらぎの音と、眠らない  
鳥の鳴き声だけである。  
木肌のささくれた床に置いたランタンが煤まみれの尼僧の手元を照らす。紅茶色の  
髪を包む頭巾を外し、唇を引き結んだまま、彼女は神父の火傷の手当てをしていた。  
膏薬を塗ったガーゼと油紙を包帯で手早く巻いていく。慣れた手つきに感心する  
一方で、微妙な空気のいたたまれなさにアベルが軽口を叩いた。  
「イテテテテ……うあっ、エステルさん、そこはダメ………………って、主よ、  
 もしかしなくてもおもいきりすべってますぅ私……」  
沈黙で答えられた上に介抱する側の尼僧のほうが痛みをこらえる顔をしていたので、  
神父は無駄な抵抗はやめて口を閉じた。  
「ごめんなさい」  
包帯の端を結び終えたエステルがようやく口を開いたのは、神父が新たに十あまりの  
新ネタをひねり出したころだった。灰色っぽくなってしまった尼僧服でうなだれる  
少女を前に、やはり煤のついた頬をぽりぽりと掻いて、アベルは視線をさまよわせる。  
「それはもしや、さっきのことですかね? だったら――」  
「……はい。でも、それだけじゃなくて。カルタゴでの…………も」  
あのひどい言葉を、エステルはどうしても口にできなかった。アベルは首をひねる。  
「はて? 何かありましたっけ」  
「あたし――あたし、まだ、神父さまに謝ってませんでした。だから」  
思いつめた表情で続けようとするエステルをアベルがさえぎる。  
「いいんですよ。エステルさんがおっしゃろうとしてるのがなんのことか私には  
 わかりませんが、でも、いいんです」  
「だけど!」  
あくまでもそらとぼける神父に尼僧が身を乗り出した。  
それを優しくなだめるように見やり、  
「私は遺跡であなたに救われた。……それは命だけじゃないんです。その上、  
 あなたはなにも訊かないでくださったでしょう。私にはそれで充分なんですよ」  
 
噛んで含めるように一語一語切って言い聞かせるアベルに、エステルは首を振った。  
「でも、今回だってあたしの代わりに」  
「あれは別にあなたを狙ったと決まってるわけじゃないし、任務中の怪我なんて  
 それこそお互いさまでしょ? エステルさんが気に病むことなんてひとつも  
 ないんですよ……ですから痛み分けということに――」  
「なりません!」  
「エステルさん……」  
アベルはきっと、利かん気の子に手を焼く親のような表情をしているに違いない。  
エステルはその顔を正視できずに下を向いた。  
「神父さまが大勢の方をお救いになられるのは立派なことだと思いますわ。  
 だけどもう、あたしは、あたしのヘマのせいで神父さまが傷つくのだけは  
 我慢ならないんです。ですから……メンフィス伯のご帰国にもついてこられなくて  
 結構です」  
「な、なに言ってるんですか! とんでもない、私は行きますよ」  
「あたしがいやなんですってば!」  
「そりゃ私は怪我ばっかりしてますが、どれもエステルさんのせいじゃないでしょうに。  
 襲ってくるのは何か後ろめたいことをしてる人の勝手であって、本末転倒ですよ。  
 それに、エステルさんにホされちゃったら私の仕事がなくなっちゃうじゃないですか」  
神父は芝居がかった調子で泣き崩れてみせる。しかしアベルのおふざけに怒るふりを  
しても最終的には笑ってくれるはずの尼僧は、今日ばかりは乗ってこなかった。  
「神父さまには、猊下の警護という大事なお役目がありますわ」  
「カテリーナさん、ですか? いや、どうして急に」  
「異母兄君に“帝国”との繋がりをすでに疑われているんでしょう? ただでさえ  
 緊張が高まってるこんな時期にあなたがいらっしゃらないと、猊下だって  
 ご不安なんじゃ……」  
確かにカテリーナは少人数の派遣執行官の調整には苦慮しっぱなしだろう。  
だが、アベルがメンフィス伯イオン・フォルトゥナと彼に同行するエステルの護衛を  
申し出ると、彼女は何も言わず許可を出した。アベルもこの時期にローマを長く  
不在にすることに不安がないではなかったが、カテリーナとしてはそれだけ帝国との  
パイプラインを築ける機会を重要視しているのだろう。  
 
「……しかし出張でローマを空けるのはよくあることですよ?」  
エステルも馬鹿ではない。それどころか訓練課程を抜群の成績で修めた国務聖省期待の  
新鋭であるからして、そのあたりの事情はよく心得ているはずだ。そう思い、神父は  
帝国行きの背景までは言及しなかったのだが――  
「そうじゃなくて! もうっ、なんでわからないのよ、このニブ神父!!」  
「ニ、ニブ……!?」  
憤然と立ち上がった尼僧に神父が目を白黒させる。  
「とにかく、閣下の護衛と猊下の親書はあたしに一任してくださいませ」  
「――“彼”が言ったことを気にしてらっしゃるんですか?」  
ためらいがちにアベルが切り出した。ふいをつかれてうろたえる自分を  
どこか辛そうに見る青い瞳から逃れようと、エステルは目を泳がせた。  
「ち、ちが……あたしは」  
「絶対にいけません。いくら伯爵閣下が地上最強生物――長生種であるといっても。  
 エステルさんはハンガリア侯が亡くなられた経緯について、よもやお忘れでは  
 ないでしょう?」  
「……」  
「あの人の武器は目に見える力だけではないんですよ。あなたがた二人だけで  
 “彼”に対抗するのは難しい」  
「……そうかもしれない。でも結局、神父さまはあたしを信用しておられないんだわ」  
“そんなに、周りのことが信用できない?”  
寂しげに呟く幻聴に、神父の心臓が揺さぶられた。  
“相変わらず、心配性ね、アベル君って”  
神父は銀髪を振った。  
「……信用するとか……しないとかの問題じゃないんですよ……言い方が悪かったなら  
 謝ります。エステルさんのこと信用しないわけないじゃないですか。でもね、私は」  
もどかしさをなかなか形にできないアベルに、エステルはなおも意地を張る。  
「……でしたら、あたし以外の護衛は他の方に頼みます」  
「……本気ですか? 言っておきますがAxは私以外みんな出払ってますよ」  
神父も珍しく険のある物言いになってしまう。しかし、おかげで彼は思い出した。  
メンフィス伯に付いて帝国に渡ろうとしているのは、誰にも明かせないアベル・  
ナイトロード個人の目的もあるからなのだ。  
だからこうして食い下がるのは、何かに固執してのことではない。決して。  
 
「――わかりました。ならば遠慮なく申し上げましょう」  
アベルは灯火の映りこむ青金石の瞳をひたと見据える。少女が後ずさる気配を  
見せたが、それでも声をしぼり出した。その表情は限りなく苦い。  
「……メンフィス伯の護衛も親書の受け渡しも、あなたの手には余る仕事です。  
 お願いですからここはひとつどうか冷静になって、私以外への影響も考慮なさって  
 ください」  
「……っ」  
自覚していても、神父の口から放たれたというだけでそれは若い尼僧の胸を深く抉った。  
エステルは無力感と恥ずかしさとでこぼれ落ちそうになる涙を、肩を震わせて  
こらえている。  
その姿を見た瞬間、罪悪感とそれ以上の何かが――人命のために今は敢えて  
非情であれと自制していたアベルを、まったくの逆方向に衝き動かした。  
顔を覆い身を翻したエステルの腕を、アベルは火傷の痛みも忘れてきつくつかんでいた。  
 
**  
   
艦内のシャワールームでは当然、水の無駄使いは厳禁とされている。船体の大きさ  
からも知れるように貯蔵スペースは充分に取られていたが、滞空が長期に渡る場合は  
補給もままならず、循環使用も消毒後の匂いなどの問題で限界があるからだ。  
だがアベルが長時間水をかぶり続けているのは、乗員数と短い航程のおかげで遠慮なく  
使えるという理由からではなかった。  
 
アベルは押し殺した声で呻いて脱力した。痛む手を壁につき、水量を最大位置まで  
上げる。勢いよく迸り出た冷水が全身を叩いて、反芻した記憶ごと洗い流した。  
「――――はは……何をやってるんですか私は…………こんな昼間から」  
不死ゆえに種の引継ぎを不要とする体になって以来、アベルは自分からはとうに  
その機能も欲求も失われたと思っていた。  
唯一の救いとも言えるのは、クドラクとは違いその捕食者である“彼ら”に  
自然発生の生命への感染の危険がないことだ。  
「……だから……?」  
だからといって、自分のしたことが赦されるとはアベルも思わない。  
たとえ目覚めた少女に責められなくとも。  
 
「…………リ……ス」  
“かつての世界の敵”は救いを求めるようにその名を呟くと天を仰いだ。  
 

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