銃口がぶれた。  
耳の奥でアラートが鳴り響く。  
今ので自分の位置は知られてしまっただろう。  
 
*  
 
それは彼女が教皇庁国務聖省調査部の新米職員として、教師役と呼ぶにはいささか  
疑問の残る長身の巡回神父と組んでの何度目かになる任務中に起きた。  
その晩の宿を取りそびれただけでなく暗い森の中に迷い込んでしまい、  
「せめて山小屋を」と川沿いを目指して求め歩いているところを狙われたのである。  
しかも相手が悪い。金品目当ての山賊のような、言葉の通じる相手ならまだしも……。  
 
抗戦中の今一人の仲間の援護にあたろうと、年若い尼僧は太腿から愛用の散弾銃を  
引き出す。  
月明かりに浮かぶ二体の影が次の攻撃に移る直前、味方を巻き込まぬ程度に充分  
距離を空けた隙を突いたつもりだった、のだが――。  
 
*  
 
結局はまたも足手まといとして終わるのだろうか?  
 
再び照準を合わせる猶予も与えられず、尼僧――エステル・ブランシェの耳を  
風切音が突く。  
「伏せて!」  
切羽詰まった叫び声に、白い衣の裾を翻して反射的にしゃがみこむと、相手と自分の間を  
遮っていた木が薙ぎ倒されるのが見えた。エステルの体に折れた枝や木片が降りかかる。  
同時に覆いかぶさるように迫る殺気を感じ、背中にいやな汗が噴き出した。  
そっと窺い見ると――一瞬前まで無かったはずの四つ足の影が突如目前に現れていた。  
 
「!!」  
知性の無い生き物とは思えないどす黒い明確な殺意に身が竦み、エステルは  
反撃どころか防御の姿勢を取ることすらままならない。長い毛を逆立たせた、  
彼女の4倍ほどもありそうな体躯は、重さをまったく感じさせない素早さで  
牙を振るう……それを目にしているだけに。  
燃える燐の色をした瞳が細められた。  
前脚に力が入るのが見て取れる。  
 
――喰われる。  
 
だが絶望が頭を占めそうになるその一瞬、闇を貫いて銃声が轟いた。  
的確に急所を射抜かれた獣はエステルの足元に倒れ込み、小刻みに痙攣を  
繰り返した末に動かなくなった。  
 
「大丈夫ですか!? エステルさん!」  
旧式回転拳銃を携え、倒木を乗り越えて駆け付けた銀髪の神父――  
アベル・ナイトロードが真っ先に自分の安否を問うてくるのに、  
胸を押さえて動悸を鎮めながら「神父さまこそ……」と返すのがやっとだった。  
「私は大事ありません、それよりどこにもお怪我はありませんか」  
差し出された手につかまりながら、エステルはどこにも痛みが無いと伝えるが、  
神父はなおも不安そうに尼僧の無事を確かめている。  
重ねて「ほんとうに大丈夫です」と告げ、ようやく「ああ良かった」と場違いなまでに  
にこやかに笑った神父の姿を確認したエステルは、だがアベルとは逆にその細い眉を  
ひそめた。  
 
「神父さま、その肩のところ――」  
黒い僧衣には肩のみならず、他に何箇所も裂け目がある。  
噛み傷とおぼしき、夜目にもわかる赤黒い染みもそこかしこに。  
「あたしのせいですね、また」  
俯いて唇を噛んだ。  
「ち、違いますよ! こんなまっ暗な中、足元の悪い場所で襲ってこられたせい  
 ですって!」  
ぶんぶんと両手を振り回して抗弁するいつも通りの神父の気づかいに、  
エステルの口元はゆるんだ。これ以上己を責める言葉を連ねても、  
誰に対しても優しい神父に言葉を尽くして慰められるだけだ。  
それを知っているエステルは気持ちを切り替えて背中を伸ばした。  
「とにかく、ありがとうございました!! ……それにしてもこれ、  
 なんなんでしょうね」  
気味が悪そうに獣の死骸に目をやる。  
「さあ……顔だけならば熊に似てますけどねぇ……」  
念のため上にも報告しておきましょうと言い置いて、アベルは別の何かに気を  
取られたのか、がさがさと周囲を歩き回っている。  
その音にエステルも顔を上げた。  
「――さ、それじゃあ宿を見つけなくちゃいけませんわ、そこで神父さまの  
 手当てをしましょう」  
「あ、それならもう見つけましたよ」  
「……へ?」  
何を言ってるんだと眉をしかめたエステルに、  
「ほら、あそこ」  
 
神父が指を指した先にあったものは、流れの穏やかな小さな川と、人の手が  
あまり入ってはいないもののなんとか山小屋の外観を保っている建物だった。  
一帯の草木が薙ぎ倒されたせいで先まで見通せるようになったのだろうが、  
さすがに上手く事が運び過ぎではないか? と複雑な顔で見上げた尼僧に、  
不安を払拭させる笑みを神父が向けた。  
 
「薪、これで足りますかね」  
「充分ですわ。むしろ次にここに来る人の分までありそうな量ですよ」  
「暴れましたからねえ、あいつ……。顔は怖かったですが面倒見のいい奴です」  
「……それってなんだか違う気がしますけれど……」  
他愛も無い会話に、見知らぬ地で気を張っていたエステルの気も休まった。  
アベルがそれを意識してやっているのかどうかまでは知らないが。  
 
都合よく存在した山小屋は、やはりというか最後までそう上手くは行かず、  
雨露をしのげる程度のものでしかなかった。だが水や燃料は存分にある。  
煮沸した湯でエステルはアベルの傷をひとつひとつ検めていった。  
「ありがとうございますエステルさん、でももう自分でやりますから結構で――  
 おや?」  
「何か?」  
手当てで腕を取られていた神父の視線が一点で止まる。  
「エステルさん、ここここ」  
「あっ」  
神父に指摘されるまでエステルは白い尼僧服についた血痕に気づかなかった。  
「ちょっとお待ちください」  
「え? ナイトロード神父、どこへ――」  
扉の向こうに消えた背中は、あまり間を置かずに戻って来た時には濡れた  
手拭いを持っている。  
「ささ、これをどうぞ。私のと違って白いと目立ちますからねー」  
 
狭い小屋は上背のある神父にはいかにも窮屈そうだ。重たげな裾を払って屈みこんだ  
アベルが差し出す布を、エステルは当惑顔で受け取った。  
「冷たい……」  
どこへ行ったかと思えば、わざわざ川で濡らしてきたものらしい。  
「お湯だとかえって落ちませんから、血液は」  
神父の言葉に頷き、エステルはスカート部分に飛んだ獣の返り血を軽く押さえる。  
幸い、染みはそれほど大きくない。  
「まあ水でも色が滲むばかりでほとんど落ちないんですがねえ……やっぱり洗うしかないか。  
 いっそ私みたいに黒ならば見ないことにしちゃえるんですが」  
「……見ないことって。でもお心遣い感謝します、ナイトロード神父。――あいにく  
 きちんと落とせるようなものは持ってきてないんですけど、着替えもあるし、街に出れば  
 なんとかなるでしょう」  
許容量いっぱいに荷物の詰まった鞄を横目で見て、エステルは染みを叩き続けた。  
「それよりも神父さま、いくら黒でも穴は目立ちますわ。あとで貸してくださいませ」  
しかしそんな尼僧の着衣も頭巾も、神父の黒衣に負けず劣らずの様相を呈していた。  
支給された当初は青い縁取りが映えた純白の尼僧服には、汚れやほころびのみならず  
彼女が決して護られるだけの立場に甘んじていない証に、繕われた鉤裂きの跡が無数にある。  
少し悲しげな神父の青い瞳がそこに向けられているのに気づき、  
「え、ええっと――これは違うんです、単にあたしが粗忽者なだけで……ほら、何もない  
 ところでつまずいたり、ただ道を歩いているだけなのに邪魔にされたり、露店で物乞いと  
 間違われて犬をけしかけられたり、まあいろいろと……」  
それはまさにどこかのダメ神父の日常だったが、エステルは両手で手拭いを揉みしぼり  
ながら何かから逃げるように言い訳を並べ立てた。  
 
「お仕事……辛くないですか」  
静かな声でおもむろに投げかけられたのは、意外なような――それでいてどこか  
待ち構えていたような質問であったので、エステルは「まさか!」とことさらに明るく  
笑ってみせた。  
「あたしが望んで、あたしなりにしんどい思いもして、就いた職ですもの。そりゃ、  
 楽しいことばかりじゃありませんけど。たとえば、底なしの胃袋を備えた神父さまとの  
 出張時なんて、少ない予算でどうやりくりしようかしら、とか」  
その笑顔にどことなくほっとした様子の神父が、手を打って立ち上がる。  
「ああっ、そういえばエステルさん、死ぬほどお腹が空きましたよ私!?  
 おお、主よ、ひもじさに苦しむ我々にどうか山のような食材を…………外のあいつ、  
 焼いてみたらなんとかなりませんかねえ? ――あーいえいえ、わかってますよ、  
 そうでしたね仕事、そう仕事です! ケイトさんもそろそろこの辺に来ているころ  
 でしょうか、さっきの報告上げとかなきゃ。細かいことでも遅れるとどんなお小言が  
 降ってくるか……なんてかわいそうなんでしょ私」  
ひとりで愚痴を完結させると、アベルはうそ寒げに肩を竦めてイヤーカフスを弾いた。  
 
*  
 
一体、彼ら派遣執行官とはどんな秘密を抱えているのだろう。  
通信先のケイトにいい年をして迷子になったことを叱られてでもいるのか、涙声で  
必死に弁解を続けるアベルを見るともなしに見ながらエステルは考えていた。  
実際に派遣先に赴いてみれば揉め事の性質はさまざまだが、そのほとんどに吸血鬼――  
長生種が関与しているという点以外には、表向き共通要素など無いかのように見える。  
だが実戦経験を積むうちに、エステルはそれら独立して見える事件の背後に実は何か  
もっと大きなものの意図が働いているのではないかと疑い始めていた。  
そしてそれこそがおそらくはAxのメンバーが、中でもアベルとスフォルツァ枢機卿が  
共有しているであろう最高機密とやらにも関わってくる問題ではあるまいか。  
「……だめだ」  
原因不明の胸の痛みを振り切るようにエステルは想像の行き過ぎを自らに戒めた。  
アベルと行動を共にしていると錯覚しかねないのだが、自分は教皇庁では『その他  
一スタッフ』の身分に過ぎないのだ、今のところは……。  
 
「もしもーし? あれ? エステルさーん? もしかして目を開けたまま寝ちゃい  
 ましたかあ?」  
間延びした呼びかけに、尼僧は漂わせていた意識をひっつかんで強制的に現実に戻した。  
「うーむ……まさかとは思いますが、私の姿に見とれておられた……?」  
「なっ!? そ、そんなわけあるかっ! ……じゃなくて、ありますかっ!!」  
シスターとしての慎みをかなぐり捨てて反論したものの、事実神父の顔を注視して  
いたようだ。ぎょっと見開かれた丸眼鏡の内側から逃げるように目を逸らし、エステルは  
役目を終えた手拭いを限界まで小さくたたみつつ慌てて言いつくろった。  
「あ、あれを見ていただけですわ、どうしてあたしが神父さまに見とれなくちゃ  
 いけないんですの!? 大災厄がもう一度起きてもありえないことです!」  
苦しまぎれに尼僧が示した南向きの小窓にはうっすらと赤い光の端が覗く。局地的に  
開けた森の上空には、前夜までは生い茂る葉で目隠しされていた星空が広がっていた。  
昼夜を隔てず天空を我が物と主張する二つ目の月――エステルの白い指を追った神父の  
表情がわずかに翳ったのは、彼女の気のせいだっただろうか。  
 

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