急なくしゃみを、噂話をされていると称したのは、一体誰が最初なのだろうか。  
 もちろん、科学的な根拠など無く、民間の伝承にすら起源が怪しい。  
 別にそれが何だと言うわけではないのだが――  
「……っくしゅ!」  
 ――パナビア・トーネイドは、起きて早々、急なくしゃみに襲われた。  
 ずず、と、小さく鼻をすすり、こんこんと咳をする。  
 嫌な予感はしていたのだが、どうも的中してしまったらしい。  
「……風邪、かな」  
 体が少しだるい気がする。あんなごつごつしたところで寝転ぶからだ。  
 背筋が寒い気がする。暖かくなってきたとはいえ、外で寝るからだ。  
 頭が少し痛い気がする。ええと、ええと――  
「ああもう、全部ナノカのせいよ……」  
 そうつぶやいて、ふとナノカも同じような条件だった事を思い出す。  
 あの子はどうだろうか。自分のようになってはいないだろうか。  
「……アホらし。今は自分のこと……」  
 ふらふらと、ベッドから身を乗り出す。今の時刻は――十時を大きく回っていた。  
 体の端々に痛みを感じながら、こういった時のために用意してある薬と栄養剤を取り出して飲む。  
 食事など作る気にはなれない。だが、これを飲んでおけば、とりあえずは大丈夫だろう。  
 そのままベッドに戻ろうとした時だった。不意に玄関のドアがノックされる。  
「……本当に、嫌な時に客って来るのよね」  
 ぶつくさと言いながらも、一応玄関に向かう。そう言えば、本日休業の看板も出しておかないと。  
「どうせ借り工房なんだから、無視しちゃってもいいんだけど」  
 とは言ったものの、いちいち応対は出来ない。とりあえずこの客には断りを入れて、改めて看板を出そう。  
「はいはい、すいませんけれど、今日は休業――」  
 言いながら扉を開けると、でっかいトンカチの後輩と目が合った。  
「……今日は休業よ」  
「……みたいですね」  
 パナビアの顔を見て、ナノカは小さく苦笑いを浮かべて答えた。  
 
「すいません、先輩。私のせいで」  
 濡れタオルをきゅ、と絞り、パナビアの額に丁寧に置く。  
 冷たいタオルの快感に目を細め、パナビアは小さく息を吐いた。  
「何であんたは大丈夫なわけ……」  
 責めるよりも先に、そちらのほうが気になった。  
 条件はほぼ同じ。いや、むしろ本格的に寝に入った彼女のほうが悪いと言えるのに、何故ぴんぴんしているのだろう。  
 まあ、少々責めるような口調になったのは、この際置いておく。  
「いやあ、何といいますか……頑丈な体に生んでくれた両親に感謝です」  
 つまり、別に何をしたわけでもないということらしい。  
 こんなところですらスペックの違いを見せ付けられ、パナビアは泣きたい気分になった。  
 それとも、最近の自分が調子を崩し気味なのだろうか。いや、多分そうだ。そうに違いない。  
「はあ……もう分かったから、帰りなさい。移るわよ」  
「え、でも……」  
「いいから。これで移ったら笑い話よ。あんたのお供にも迷惑かかるでしょ」  
 そう言って目を閉じる。この後輩はお節介焼きなので、突き放してやらないと諦めない。  
「何か用事なら、明日また聞いてあげるから。今日は帰って自分の仕事、してなさい」  
 自分の仕事、という単語を出せば、引き下がるだろう。  
 彼女も、自分にとっては目の上のたんこぶだが、逆を言えばその程度には工房士だ。自分の仕事には誇りを持っているだろう。  
 他の誰かならばともかく、同じ工房士である自分から出た言葉なら。そう考えての言葉に――  
「……仕事は、今日はお休みです」  
 何か重いものを開くようなその口調に、パナビアは耳を疑って視線を向けた。  
 視線の先ではナノカが、少し困ったような笑顔を浮かべ――  
「だから、今日は先輩の看病、しちゃいますね」  
 すぐに、いつもの笑顔に変わる。  
 ただ、その笑顔はどこか空虚に見えた。  
 らしくない。そう思うが、彼女を気遣ってやれる余裕が今の自分には無いことを、パナビアは少し悔しく感じた。  
 
「はーい、風邪の時にばっちり、プロスペロ流スタミナおかゆですよー」  
 小さい鍋を片手に、そんな事を言いながら部屋に戻ってくる。  
 朝食は栄養剤で誤魔化したと答えたら、何やら張り切って厨房へ向かっていった。  
 止めようにもそんな体力は無かったので、仕方なく待っていたら案の定、と言う奴だ。  
「……変なもん入ってないでしょうね」  
 憎まれ口を叩きながら上半身を起こす。  
 折角作ってもらったものだ、いただくつもりではあるが、やっぱりこういうセリフを吐かないことには、自分らしくない。  
「大丈夫ですよぉ、天然物しか使ってませんから。ケミカルゼロパーセントです」  
「……そういう意味じゃないんだけど……まあいいわ」  
 どうも意味を取り違えているようだ。そもそも食塩などの一部調味料はケミカルではないのかなどとも思うが、あえて突っ込まないでおく。  
 とりあえず受け取ろうとして――ナノカが妙な動きをしていることに気付く。  
 スプーンでおかゆを一匙すくい、軽く息を吹きかけ――  
「はい、先輩。あーん」  
「…………」  
 眩いばかりの笑顔で、そんな事をしてくる。  
 さっきの暗い笑顔はなんだったんだとか、そんな恥ずかしい事が出来るかとか、色々な言葉が脳裏に浮かび上がり――  
「……あーん……」  
 結局、やたらと眩しい後輩の笑顔に押し負けてしまう。  
 風邪で弱っていたのも多分にあるはずだ。いつもなら突っぱねている。多分。  
「おいしいですか?」  
 口の中で、ふわりと漂う塩と卵の味に、そのまま溶けて消えていくような食感。  
 卵と塩だけではないようだが、何が入っているのだろう。生姜か何かだろうか。  
 ともかく、おかゆとしてはかなり出来のいいものだ。さすがのパナビアも、ナノカの問いには首を縦に振る事にした。  
「よかった。まだまだありますから、どんどん食べちゃってくださいね」  
 そう言いながら、また一匙すくい、差し出してくる。ええい、ままよ。どうせ他には誰もいない。  
 恥ずかしいのを我慢して、食べさせてもらう事にする。程なくしておかゆは、全てパナビアの胃袋に収まった。  
 
「じゃじゃーん。更に玉子酒でーす」  
「……いや、うん。別にいいんだけど」  
 そんな得意気に出されても、という言葉を飲み込む。  
 折角作ってくれたのだ、もらっておこう。  
 ナノカからコップを受け取り、一啜り。  
「どうです?」  
「……これもおじいさんから?」  
 そう聞き返し、口をつけることで質問に答える。  
「はい。私が風邪で倒れた時、作ってもらったことがありまして」  
「……あんたでもそういうこと、あるのね」  
 そんな言葉を返して、玉子酒を飲み干す。  
 一応この後輩でも、風邪を引いたりして倒れる事があるのだと知って、ちょっと得した気分になる。  
「最近はなかなかお世話になることはありませんけど」  
「まあ、それが一番なんだけどね」  
 ナノカにコップを返して、横になる。  
 玉子酒の効果だろうか、体がぽかぽかと暖かくなってきた。  
「ん、ありがと。おかげで眠れそうだわ」  
「えへへ。それじゃ、片付けてきますね」  
「あ……」  
 くるりと踵を返すナノカに、パナビアは思わず声をかけてしまった。  
「? 何ですか?」  
 ドアに手をかけたままで振り返り、聞いてくる。  
 だが、パナビアは小さく首を振って、なんでもないと返した。  
 言えない。言えるわけが無い。  
 眠るまでいて欲しいだなんて、恥ずかしくて言えっこない。自分がこんなに弱気になるなんて。  
「それじゃ先輩、おやすみなさい」  
「ええ……」  
 ドアの閉じる音を聞きながら、パナビアはゆっくりとまどろみの中に意識を落としていった。  
 
 先輩、と呼ばれる事は、別に珍しい事ではない。  
 少なくとも、生徒会長を任せられる程度の年次ではあったし、後輩もいないわけではない。  
 だが、自分の得意分野――それなりの自負を持っていた分野に入り込み、自分の位置を奪い去った後輩は、彼女一人だ。  
 それから自分は、その後輩に対抗心を持ち始めた。  
 あの後輩が現れるまでは、自分がその分野の――少なくともアカデミー内では――トップだった。  
 それを全て、掻っ攫われた。初めて奪われたその日から、ずっと自分の上に居座られた。  
 その日から自分は、彼女に勝つためだけに己の腕を磨いてきた。  
 結果は――惨敗だった。  
 姑息な手まで使ったと言うのに。使えるものは全て使ったのに。  
 目指すはトップ。だが、その道の前には常に彼女がいる。  
 追いかけても追いかけても、常に一歩届かない。  
 いつからだろう。彼女に勝つという目的に、工房術が関係なくなったのは。  
 とにかく何でもいい。ナノカに勝ちたい。  
 何時の間にか自分の中で、ナノカという存在が大きな部分を占めることに気付いたのは、いつだろうか。  
 そもそも自分は、彼女に勝った後の道を、考えているのだろうか。  
 本当は自分は、彼女に振り向いて欲しかっただけなのでは――  
(…………夢)  
 変な夢だ。ぼんやりと、自分が存在する夢。  
 ただ自問を繰り返すだけの、空虚な夢。ゆっくりと意識だけが浮かび上がる。  
(何か、暗い?)  
 ぼんやりとした意識の中で、影が差すのを感じる。  
 ゆっくりと瞼を開く。目の前に、近づいてくる後輩の顔――  
(……ばか)  
 胸中で罵って、後輩の唇を受け入れる。  
 本当にこいつは、人の場所に入り込む。人の心に入り込む。  
 不思議な後輩だ。大嫌いだけど――  
「風邪、移るわよ?」  
 驚いたような後輩の顔。そう、その顔が見たかったのよ、と、パナビアは胸中でつぶやいた。  
 
「あ、えっと、これは、そのぅ……」  
 しどろもどろになりながら、言葉を探す。が、結局見つからなかったのか、ナノカはそのまま押し黙ってしまった。  
 思いのほか楽になった体を起こして、その様子に苦笑する。  
 そういうことかと、頭のどこか冷静な部分が勝手に納得するのを感じた。  
「言い訳が思いつかないなら、しなきゃいいのに」  
 そう言ってやると、ナノカは顔を赤くして俯いてしまった。  
 分かっていたのだ。自問しようとして、結果が出ることが怖くて止めていた事。  
 自惚れでなければ、自分と彼女は同じ事を想っている。  
 そして、出来れば自惚れであって欲しい。  
「……先輩」  
「うん?」  
 意を決したかのように口を開くナノカに、聞き返してやる。  
 ナノカは俯いたまま、顔を上げずにそのまま後を続けはじめた。  
「私、変なんです。多分、昨日から」  
「うん」  
「ホントは、追い出されてきたんです。今の私じゃ、仕事は出来ないからって」  
「うん」  
「昨日から、先輩の事考えると、何かおかしいんです。  
 胸がもやもやするって言うか……でも多分、この気持ちって昨日からじゃないんです」  
 私だってきっとそうだ――胸中でそう言い返す。  
「昨日までだって、そんなつもりのセリフじゃなかったはずなんです。  
 でも、そういうつもりだったから、あんなセリフが出たのかもしれません」  
 私だって、多分そうでなきゃ、あんなセリフは吐いたりしないし、あんなことは思わない。  
 でも。  
「私、ネネちゃんに謝らなくちゃいけません」  
 でも、それはダメだ。それは、許されない。  
「私、先輩のこと――」  
 ナノカのセリフを遮るように、パナビアはその口を無理矢理塞いでやった。  
 
 ゆっくりと唇を離して、後輩の目を見据える。  
 驚いたような、戸惑っているような顔をしている憎たらしい後輩の顔を、パナビアは両手でしっかりと掴んでやった。  
「言ったわよね、あんたにそういう相手が出来るまでは、面倒見てやってもいいって」  
 その言葉に、ナノカの肩がぴくりと動く。どういう意味かは分かったようだ。  
「でも、そこから先は、私は約束していない。分かるわね?」  
「……はい」  
 目を逸らさないことだけは、褒めてやってもいいかと思う。  
 自分だって、このセリフを吐くのに、どれだけの思いをしているのか。  
 気付いてしまった。いや、多分とっくに気付いていて、目を逸らしていただけなのだろう。  
 けど、それだけは許されない。その想いを認めることだけは、許してはいけない。  
 何故なら、それを認めてしまえば、今までの自分が無くなってしまうから。  
「だからその想いは、捨てなさい。  
 持った事を忘れろ、とまでは言わないわ。けれど、捨ててしまいなさい」  
 まだ自分は、彼女に追いついていない。追い越していない。  
 手を緩めるつもりは無い。でも、受け入れてしまったら、変わってしまう。  
 それでは、意味が無いのだ。  
 稀代の天才ナノカ・フランカを、その先輩、パナビア・トーネイドが破る。そうでなくては、いけないのだ。  
 受け入れたら、何もかもが変わってしまう。それでは、ダメなのだ。  
「先輩は、私のこと――」  
 聞かないで欲しかった。  
 だからこいつは、大嫌いなんだ。  
「お互いのために、ならないから。聞き分けなさい」  
 大嫌いだ。あっさりと人の立場を奪って、涼しい顔して先を歩いて、何食わぬ顔で人の心に入り込んで――  
「私も、捨てるから」  
 ――こんな想いまでさせてくる。  
 ナノカ・フランカなんて大嫌いだ。そうでなくちゃいけないのだ。  
 
「あ……」  
 ようやくそれに思い至ったかのように、ナノカが小さく声を上げる。  
 この状況でこの返事は、もう白状したようなものだ。  
 だから――  
「ごめん、なさい」  
 泣きたいのはこっちのほうだと、泣き始めた後輩に胸中で毒づく。  
 けれど、パナビア・トーネイドは、こんなところでライバルと肩を寄せ合って泣くなんて、絶対しない。  
 代わりに、その泣き顔を胸に抱いてやる。  
「私、自分のこと、ばっかり……」  
「勘違いしないでよね。まだあんたに勝ってもないのに、これ以上馴れ合うなんてごめんなんだから。  
 それに、私の栄光のロードに、あんたって存在はど真ん中に立ってて邪魔なのよ。おわかり?」  
「……はい」  
「とりあえずまあ、あんたにそういう相手が出来るまでは、面倒見てやってもいいから。  
 だから早くそういう男捕まえて、私の荷物軽くしてよね。結構重いんだから」  
「……善処します」  
「その代わり、たまには逆に持ってもらうわよ。  
 言わばギブアンドテイクって奴。そういう関係で我慢なさい。いいわね?」  
「……先輩、ずるいです」  
「何とでも言いなさい。今まで散々我侭聞いてやったでしょ。  
 それで、早速だけど――」  
 全くもって恥ずかしい。顔が熱いのは、何も風邪のせいだけではないはずだ。  
 それでもパナビアは精一杯平静を装って、けれど顔ごと視線を逸らして後を続けた。  
「誰かさんのせいで変な起きかたして、折角良くなってきた風邪がまた悪化しそうなのよね。  
 出来れば湯たんぽの代わりになる――そうね、抱き枕辺りが欲しいんだけど?」  
 そう言って、ぽんぽんと自分の隣を軽く叩く。  
「先輩ってずるいけど……優しいですよね」  
 そのセリフは、聞いていない事にした。  
 
「何か……恥ずかしいですね」  
「……私なんか、顔から火が出そうなんだけど」  
 ベッドの中で寄り添って、そんな事を言い合う。  
 制服のままだと寝汗でぐちゃぐちゃになるからと、ナノカにワイシャツを貸してやった。  
 まだ時間は昼下がり。ようやく二時に差しかかろうかといったところだ。昼寝には丁度いい時間と言える。  
「今更改めて言うと何だか恥ずかしいですけれど……まだしばらくは、先輩にお世話になると思います」  
「ああ、うん、でも今日は勘弁してよね。そんな体力無いから」  
「私だって、さすがにそこまで節操無しじゃ……無いと思います、はい」  
 そこは自信無さ気に言わないで欲しかった。  
「今日だって別に、そういうつもりじゃなくて……会って色々、確かめたかったんです。多分」  
「多分て何よ、多分て」  
「よく分からないですけど、会えば何か分かるかなって思ってました。  
 ……会って先輩の寝顔とか見てたら、何か色々ぶわーって出てきちゃって、自分でもよく分からないんですけど」  
 それであの不意打ちか。いや、それより前にも色々とあったけれど。  
「ただ、自分の中で一区切りついたような気がします。あと、やっぱり――」  
 えへへ、と、いつもの笑顔を向けてくる。その笑顔は反則だ。それに何度やられたことか。  
「ちょっと悲しいですけれど、それよりも嬉しい気持ちで一杯なんです」  
「……あんまりこっち見ないで。恥ずかしいから」  
 思い出せば思い出すだけ、顔が熱くなっていくのを感じる。  
 だからあまり会いたくなかったのだ。いつかこんな日が来るだろうと、心のどこかで分かっていたから。  
 分かってたから、考えないようにしてたのに。  
「ねえ、先輩」  
「……何よ?」  
「帝都に帰ったら、何か一緒に企画立てて、イベントしましょう」  
 ナノカのその提案に、パナビアは自然と苦笑が漏れ出すのを感じた。  
 さっきまであんな状態だったのに、解消したらすぐこれか。でも、まあ――  
「それも悪くないかもね。ただし、主導は私。いいわね?」  
「はい。ご指導、お願いしますね」  
 そんなナノカの返事に、パナビアはこの笑顔が見れたからいいかと、少しだけ素直に思うことにした。  
 恥ずかしいから、やっぱり口には出せないけれど。  
 

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