(小狼くん……)  
   
サクラは皿洗いをしながら、昨晩のことを思い出していた。  
小狼と黒鋼のコンビが鬼児狩りという職業を始めてから数日経つが、最近毎日と言って良いくらい、  
小狼は傷を負って帰って来る。  
喫茶「猫の目」には、先ほど来ていたカップルを最後に客はいない。  
がらんとした店内にサクラの皿を洗う音だけが響いている。  
   
(また……わたしの羽根を探して……怪我しちゃってるのかな……?)  
   
じっと待つだけの日々が辛かった。  
自分のために誰かが傷つく、それをただ待っているというだけの身は本当に辛かった。  
しかし、サクラにはどうしたらそれをやめさせることができるのか、わからなかった。  
ぼうっとしたまま皿を洗っていたサクラは、洗剤で手から皿が滑り落ちるのに気づかない。  
   
ぱしっ!   
   
物音に気づいて、サクラが足元に目をやると、ファイが倒れていた。  
   
「かんいっぱぁつー♪」  
「ふぁ、ファイさん!!」  
   
よく見れば、ファイはただ倒れているだけではなく、その手にしっかりサクラの落とした皿を  
掴んでいた。床に落ちる前に滑り込んでキャッチしたらしい。  
ファイは軽い身のこなしで立ち上がると、サクラに問いかけた。  
   
「どうしたのー? ぼうっとしちゃって。」  
「ご、ごめんなさい……。」  
「いいよー。オレ、気にしてないから。」  
   
ファイは服についたホコリをぱたぱたと払って、皿をサクラに渡した。  
サクラは両手でしっかりと落とさないように皿を受け取る。  
 
「小狼くんのことが心配?」  
「は、はい……。」  
「そっかあ。まあ、危ない仕事しちゃってるもんねー。一応黒わんこもついてるけどー。」  
「それはそうなんですけど……。」  
   
うつむいて、サクラは洗いかけの皿をシンクに戻した。  
一呼吸おいてサクラがまた話し出す。  
   
「わたし……どうしても思い出せないんです。小狼くんのこと。  
 小狼くんはわたしの羽根のためにあんなに頑張ってくれてるんだから、  
 せめてわたし……少しでも小狼くんのこと、思い出したいのに……。」  
   
ファイは先日、サクラが小狼の記憶を取り戻そうとして、何かの力に妨害され、  
気を失ったのを思い出す。次元の魔女に差し出された対価は、そう簡単に  
戻ってくるものではない。ファイはそのとき改めてそのことを実感したのだった。  
ファイは身をかがめ、サクラの視線と同じ位置に自分の視線を合わせる。  
   
「ねえ、サクラちゃん。サクラちゃんは小狼くんのこと、どう考えてるの?」  
「ど、どうって……?」  
「たとえば、好き?」  
   
サクラは赤面してうつむいてしまった。ファイはにやりと微笑む。  
   
「好きなんだー。」  
「ふぁ、ファイさん……そ、その……。」  
「違うの?」  
「そ、そう、そうなんですっ……けど……。」  
   
皿を持っていなくて良かったが、スポンジは握っていたので、サクラが慌てふためくたびに  
洗剤の泡が周りに飛び散る。  
ファイはなんだか嬉しくなって来た。  
ファイは知っている。目を覚まさないサクラを心から心配し、ずっと泣きそうな顔をしながら  
じっと堪えていた小狼の姿を。  
たとえ自分のことを忘れられてしまって、二度と元の関係に戻れないとわかっても、  
それでもその関係性よりもサクラの命を選んだ小狼の決意を。  
 
「無理に思い出そうとしなくたって良いんじゃない? 小狼くんのこと。」  
「え……?」  
「だって、今の二人にとって、大事なのは過去の気持ちじゃなくて、現在なんだよ。」  
   
ファイはサクラのスポンジを握った手を優しく包み、微笑んだ。  
   
「ね?」  
「は、はい……。」  
「今度、二人で話す機会があったら、小狼くんに伝えてあげてよ。今のサクラちゃんの気持ち。」  
「はい!」  
   
サクラの元気な笑顔が見られるのは、ファイにとってもうれしいことだった。  
 
サクラは皿洗いを済ませ、テーブルなどの掃除をしにいく。  
ファイは料理の仕込みのため、厨房に残った。  
それまでどこにいたのか、モコナがファイの後ろから背中を上ってきた。  
ファイが肩まで上ったモコナに話しかける。  
   
「サクラちゃんって本当にいい子だよねえ。」  
「うん! サクラ、いい子!」  
「オレも……もしあのことが無ければ……サクラちゃんを好きになっていたかもしれないなあ。」  
   
遠い目をするファイ。  
   
「ファイ……。」  
   
モコナが少し寂しそうな声でファイに呼びかける。  
   
「ん? なーに?」  
   
モコナは意外と人の気持ちに敏感で、優しいところがある。  
ひょっとして、自分の言葉に何か寂しさでも紛れていて、それに気づかれたのだろうか?   
ファイはじっとモコナの言葉を待った。  
   
「ファイ、そうなったらロリコン!」  
   
滅多に怒った表情など見せないファイが眉間に少し皺を寄せた。  
 
 
二人で話す機会は、案外早いうちに訪れた。  
夜になって黒鋼と小狼が共に帰ってくると、ファイが気を使い、二人っきりに  
させたのだった。  
   
「おかえりなさい、小狼くん。」  
「はい、ただいま帰りました。サクラ姫。」  
   
見れば、小狼の右手から血が垂れていた。  
サクラはその手をそっと両手で包み込み、優しく撫でた。  
   
「……また怪我してる。」  
「大したことはありません。」  
「でも……痛いでしょ? 無理しないで。」  
「サクラ姫……。」  
   
小狼は思い出してしまう。クロウ国時代のサクラの一言を。  
   
『わたしに心配させたくないなら辛いの隠さないで』  
   
まるで自分が痛い思いをしているかのようなサクラの辛そうな顔が忘れられない。  
忘れられるはずもない。小狼にとってもサクラは特別な存在だった。  
   
「手当てしてあげる。小狼くんの部屋で良い?」  
「……ありがとうございます。」  
   
そして二人は、小狼の寝室に向かった。  
 
 
サクラの手が小狼の手に包帯を巻いていく。  
その優しくて暖かな感触に、小狼はされるがままになっていた。  
二人は寝台に腰かけ、サクラが小狼の手当てをしていた。  
   
「今日ね、ファイさんとお買い物に行って、この薬草買ってきたの。  
 お店の人がよく効くお薬だって言ってたの。『エリクサー』って言うんだって。」  
   
その名前はどこかで耳にしたことがあるような気がしたのだが、小狼には思い出せない。  
話題にあげたその薬草をサクラが小狼の手に巻くと、なんだか力が湧いてくるような気がして、  
小狼は思わずじっとその薬草を見つめた。  
   
「ありがとうございます。姫。」  
   
窓から入る月の光で、明かりのついていない部屋でもお互いの顔はよく見える。  
小狼の感謝の言葉とその柔らかな笑顔に、サクラの胸が高鳴る。  
   
「ね、ねえ、小狼くん。小狼くんはどうしてわたしに敬語を使うの?」  
   
サクラは声を振り絞る。大して重要な質問というわけではなかった。  
ただ、鼓動の大きさを紛らわせたくて言葉を発しただけだ。  
だが、小狼は、サクラのその問いに何がしか特別なものを感じたようだった。  
目を大きく見開き、サクラの顔をじっと見つめる。  
   
「それは……姫は一国のお姫様ですから。」  
   
目を伏せて小狼が答える。その胸には遠い思い出の中のサクラの声が響いている。  
   
『敬語、やだって言った。』  
『わたしのことも「さくら」って呼んで。ね、小狼。』  
 
サクラには二度とその記憶は戻らない。  
親しい仲だという証に、敬語をやめたり、名前で呼び合ったりしていたときの二人の記憶。  
それはもう次元の魔女に対価として渡してしまっていて、二度とサクラには戻らないのだ。  
その過酷な運命を実感したときから小狼は決めていた。  
サクラとの思い出は自分ひとりの胸の中にだけ仕舞うことを。  
もう昔のサクラとの関係は取り戻せないのだから、以前と同じようには接しないことを。  
   
「でも、今はわたしたち、身分なんて関係ないよ。ただ一緒に旅をしている仲間じゃない。  
 ファイさんだって、わたしのこと、『サクラちゃん』って呼んでるもの。  
 わたしに敬語を使っているのは小狼くんだけだよ?」  
   
サクラは無邪気に問い詰める。何も知らないからだ。  
小狼が決めた覚悟も、覚悟を決めるまでの辛く苦しい思いも。  
そして、小狼が今、サクラのその問いにどれだけ心を揺さぶられているかということも。  
   
「わたし、小狼くんともっと仲良くなりたい。近づきたいの。だから、わたしに敬語なんて……。」  
   
急にその胸に抱きしめられ、サクラは一瞬まばたきの仕方も呼吸の仕方も忘れた。  
温かい体。かすかに自分の背中に、巻いたばかりの包帯の形を感じる。  
体中から熱が集まってくるような感覚に、サクラはぽうっとなってその身を任せた。  
   
「それ以上、言わないでください。姫。俺はもう……。」  
   
小狼の体を通して、言葉にならない思いが伝わってくる。  
それに、なんだか今にも泣き出しそうな声が抑えられている。  
サクラは実感した。この人は自分を大切に思っている。何よりも。誰よりも。  
そして今、何か限界のようなものが来ているということがサクラにもわかった。  
だったら、もう我慢なんてしなくていい。  
その合図を示すかのように、サクラは小狼の額に軽くキスをした。  
   
「わたし、小狼くんのことが好き。」  
   
何が起こったのかわからないと言った顔の小狼に、サクラは畳み掛ける。  
   
「以前のことは思い出せないけど、わたしは今、小狼くんが好きなの。」  
   
緊張のあまり声が震えるのがわかる。でも、どうしても今言わなければならない気がした。  
サクラはまっすぐに小狼の瞳を見つめ、言った。  
   
「わたしのこと、『さくら』って呼んで。ね? 小狼。」  
   
その言葉の響きに、小狼は思わず立場も何もかも忘れ、気がつけばサクラの唇を奪っていた。  
 
「辛くないですか? 姫。」  
   
自分の下にいるサクラに小狼は問いかける。  
   
「『さくら』って呼んで。」  
「す、すみませ……じゃ、じゃなくて、えっと、ごめん、さくら。」  
   
サクラはくすくすと笑った。お互い裸になり、こうして抱き合っていても、  
小狼はまだなんだか姫の忠実な騎士と言った態度で接してくる。  
   
「辛くないよ。重くもないの。もっと強く抱いて、小狼。」  
「で、でも……。」  
「いいの。もっと小狼を感じたい。」  
「うん……。」  
   
サクラの小さな胎内に、小狼の体の一部はたどり着いていた。  
だが、どちらも初めての経験であまり勝手がわからない。  
ただ体が勝手に動くままに動き、触れたいと思う欲望のままに触れてみる。  
唇は何度重ねただろう。体の記憶に刻み付けるように大切に味わう、優しいキス。  
サクラは満足していた。  
破瓜の痛みや苦しさは想像を絶するものだったが、サクラにとっては大好きな相手が  
自分の素肌に触れている、その事実だけで十分それを上回ることのできる幸せだった。  
   
だが、小狼は落ち着かない。  
なんとなく気分でこのような事態になってしまっていたが、自分の体で  
サクラに痛みを負わせているというのはとんでもない罪悪感に苛まれるものだ。  
   
「いいの。これが小狼なんだって思えるのが嬉しい。」  
   
サクラはそう言って、まだ成長途中の小ぶりの自分の胸に小狼の包帯の巻かれた手を導く。  
   
「触って。」  
   
言われるままに小狼はサクラの胸に触れてみる。  
それは温かくて、柔らかくて、少し力を入れればその指に沿って形を変える。  
そして、滑らかな肌の感触は絡みつくようで、吸い寄せられるようで、  
ずっと触っていたいと思ってしまう。  
   
「あっ……んふっ……小狼っ……くんっ……。」  
   
小狼が胸に触れながらサクラの首筋に吸い付いたので、思わずサクラは甘い声をあげた。  
その呼ばれ方に、小狼は目ざとく気づいて、くすりと小さな笑みを漏らす。  
   
「さくらも呼び方、まだ慣れないみたいだな。」  
「う、うん……。そうだったね、ごめん、小狼。」  
「いいよ。俺はどんな風に呼ばれても構わないから。」  
「わたしは、さくらって呼んで欲しいの……。」  
「わかったよ、さくら。」  
   
そしてお互い、裸の胸を押し付けあうように抱きしめた。  
体温や鼓動が肌を通して伝わるのがとても心地良い。  
まるで今まで失くしていた体の半分が戻ってきたかのような安心感に、  
二人は生まれてきて初めて感じたというくらいの幸せな気持ちになれた。  
 
「ねえ……。どうしても、行くの? わたしの羽根を探しに……。」  
   
朝、寝台の上で目覚めたサクラが小狼に尋ねた。  
小狼は、数分前まで同じ寝台の上で眠っていたが、今はその温かな寝床から抜け出し、  
服を着て準備を整えている。  
   
「行くよ。」  
「わたし……もう十分だよ? もう、羽根が全部集まらなくたって、わたし……。  
 ちょっと眠くなりやすいだけで、もう平気だもん……。」  
「それだけじゃない。」  
   
小狼は寝台の近くにより、サクラの顔がよく見える位置までひざまずいた。  
   
「サクラの羽根は、それひとつだけでかなり大きな力なんだ。だから、サクラの羽根を  
 悪い奴が手に入れたら、どうなると思う?」  
   
サクラがはっとして小狼の顔を見つめる。小狼は辛そうな顔で思い出していた。  
   
「高麗国の領主様みたいに……?」  
「そう。高麗国の人たちみたいに、苦しむ人をこれ以上増やしちゃいけない……。  
 サクラの羽根はサクラのものだ。オレの大事なサクラの一部を、そんな奴らに渡したくない。」  
「小狼……。」  
   
小狼がおもむろに立ち上がり、部屋を出ようとサクラに背を向ける。  
サクラは寝台の上に身を起こす。  
   
「わかった。でもね、自分のことも大事にしてね?」  
   
ドアノブに手をかけていた小狼が振り返った。  
体には薄い掛け布団だけを身にまとったサクラが寝台の上でちょこんと座っている。  
心なしか、顔に赤みが差しているように見える。差し込んでいる朝陽のせいかもしれない。  
   
「わたしの一番は……小狼なの……。」  
   
その言葉を発した唇を布の端で隠し、サクラは瞳を横にそらした。  
小狼は微笑んで、言った。  
   
「わかった。気をつける。それじゃ、行って来るよ、さくら。」  
   
バタン、と扉の閉まる音。  
一人取り残されたサクラは少し寂しい気持ちを抱いたが、さすがにずっと離れないで  
いられるなんて不可能なこと。そう自分に言い聞かせ、一筋流れ落ちた涙をぬぐった。  
枕元にふと目をやると、昨日小狼巻いてあげたはずの包帯が残っていた。  
外れてしまったのだろうか? それともわざと……?   
サクラは包帯を拾い上げると、それを頬に当て、静かに目を閉じた。  
朝陽は段々その光の強さを増してくる。  
サクラは寝台から降りた。  
   
「絶対、大丈夫だよね。」  
   
ファイの手伝いをしなければならない。自分は自分のできることをやろう。  
床にしっかりと足をつけたサクラは、大きく背伸びをした。  
 

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