「遅い……。」  
   
独り言を漏らしてしまってから、自分の声に驚いて、嵐は口を押さえた。  
最近は仕事が忙しいのか、空汰の帰る時間が日に日に遅くなっていた。  
温かい夕食を作っても、空汰の帰って来る頃には既に冷めてしまっている。  
それでも、空汰は嵐の作った料理を美味しそうに食べてくれるのだが……。  
いっそ夕食など作らない方が良いのだろうか……?   
嵐はそう思うようになってきていたが、今日もまたいつものように空汰のための  
夕食を作ってしまっている。  
   
今日の嵐には一つだけ計画があった。  
大した計画ではない。ただ、ある一言を空汰に告げるだけ。  
でも、その一言は嵐にとってはもっとも口に出しにくい言葉に思えた。  
   
(別に……早く帰って来て欲しいなんて思ってるわけじゃない……。)  
   
何かそわそわして落ち着かない気分になっている自分がイヤだ。  
意味も無く打ち方の速くなっている鼓動がイヤだ。  
震えそうなほど、しびれそうなほど、緊張の走っている指先がイヤだ。  
   
そんなことを思いながらも、嵐は作ったばかりの夕食が、  
少しでも冷めにくいようにと、ラップをかけていく。  
   
「たっだいまー! ハニー! 遅くなってすまんかったなぁ。」  
   
(なんてタイミングの悪い人。)  
   
嵐が最後の皿にラップをかけ終わったところで、空汰が到着した。  
空汰はいつものように満面の笑みを浮かべながら、嵐に駆け寄る。  
   
「おかえりのチューして、チュー!」  
   
自分のほほを突き出し、指でとんとんと叩いて、催促する。  
嵐はそんな空汰を冷ややかな瞳でしばし見つめた後、  
何も無かったかのように、無言で背を向け、皿にかけたばかりのラップを剥がし始める。  
   
「おかえりなさい。冷めないうちに召し上がってください。」  
   
空汰は、嵐の背中越しに夕食の支度ができていることを確認すると、  
まあいつものことかと苦笑しながら顔をぽりぽりとかいた。  
   
(いけない。こんなつもりじゃなかったのに……。)  
   
剥がしたラップを小さくたたんでいる嵐の脳裏に、  
昼間の近所の主婦たちとの井戸端会議がよみがえる。   
 
「やっぱりさぁ、『愛してる』なんてなかなか言わないわよねぇ。」  
「私は毎日でも言ってるわよぉ。ヒロくーん、愛してるぅって。」  
「あんたのところは新婚だからでしょ。でも、うちなんか今更ねぇ。」  
「あらぁ。結婚してから何年経っても『愛してる』って言い合える夫婦って素敵じゃない。ねえ?」  
「いやよぉ。今更そんなこと言うのって恥ずかしいじゃない。」  
   
どういう流れだったのかは忘れたが、ともかく、主婦たちは  
こんな他愛も無い話題で異様なほどに盛り上がっていた。  
   
「有栖川さんのところはど〜ぉ? まだあなたのところも新婚さんでしょ?」  
   
会話についていけなかった嵐に主婦の一人が問いかけた。  
この会議では、四、五人の主婦たちが話に花を咲かせていたが、  
嵐が言葉を発するのは、社交辞令の挨拶をしたとき以来のことだ。  
   
「うちは……その……。」  
   
問いかけられて初めて、嵐は自分が空汰に愛の言葉を言ったことがないことに気付いた。  
一度もない。出会ってから結婚するまでにも、結婚した後にも、ただの一度も。  
空汰にプロポーズを受けたときも、ただ首を縦に振っただけ。  
言葉に出して愛を伝えたことなど無かった。  
   
「すみません。用事を思い出しました。失礼します。」  
   
そうして、質問の答えには曖昧に濁したまま、嵐はその場から立ち去ったのだった。  
ただ、その胸に一つの決意を抱いて。  
   
『愛してる』  
   
その言葉を空汰に伝えてみよう。  
それが、嵐の計画だった。  
 
(たまには、言ってみても良いかな?)  
   
最初はこんな程度の軽い気持ちだったのに、少し口に出して練習してみていただけで、  
なんだかそれが物凄く重い意味を持つように思えてきてしまい、  
嵐は必要以上に気恥ずかしさを感じていた。  
   
(落ち着け。落ち着け、私の心臓。)  
   
空汰の突然の帰宅に驚いたのか、緊張のせいかわからないが、  
嵐の心臓はますます激しく血液を全身に送り出していた。  
鼓動が胸を締め付けるように速く叩き続けている。  
   
「んー。やっぱ、今日もおかえりのチューはなしかぁ。」  
   
空汰の残念そうな声が胸に突き刺さる。  
嵐は背後の空汰に振り返って、両手で空汰の両腕の袖を軽く掴み、  
空汰を見上げた。  
   
「ん……? なんや?」  
   
いつになく真剣な眼差しの妻に、空汰の心臓の鼓動も、その速さを増した。  
二人の視線が絡み合い、ほんの数秒の時間さえも何十時間のように感じる中、  
嵐がその小さな唇を開いた。  
   
「あ……い……してる……。」  
   
消え入りそうな声で嵐は呟いた。  
それは、聞き取って文字にすることすらできないほどの小さな声だった。  
だが、空汰にはその唇の動きで嵐が何を言いたいのかがわかってしまった。  
   
「ん? 今なんて?」  
   
空汰は口元が緩みそうになるのを堪えて、聞き返した。  
その言葉を、もう一度言って欲しい。しっかりとした声で聞きたい。  
 
しかし、嵐は口を閉ざしてしまった。今のでも十分勇気を出して言ったのだ。  
それ以上はもう言えない。  
嵐は視線をそらし、袖を握っていた指先を緩やかに開き、空汰から離れようとする。  
そんな手をしっかり掴み、空汰が嵐の顔に自分の顔を寄せる。  
   
「わい、耳遠いんかなあ? よく聞こえんかってん。もう一回言ってくれへん? 嵐。」  
   
滅多にされない呼び方をされ、嵐の心臓はもう爆発寸前だ。  
空汰がそういう呼び方をするときは、本気で嵐のことを口説き落とそうとするときだ。  
嵐は掴まれた手を振り解こうともするが、しっかり掴まれたそれは離れない。  
   
「言ってくれへんのやったら、このままキスしたる。」  
   
嵐は湯気が出そうなほど真っ赤になった。ゆでだこのように真っ赤だ。  
だが、そんな状態になりながらも、必死に抵抗する。  
   
「い、言わない……。もう言いませんっ……。」  
   
嵐は後悔した。なんであんなことを思いついてしまったのだろう?   
小声だとはいえ、なんであんなことを言ってしまったのだろう?   
しかし、一度口にしてしまったものはもう取り消せない。  
空汰の顔が一段と大きく迫り、嵐は恐くなって目を瞑った。  
その唇に優しく唇が当てられる。そして、ほどなく離される。  
 
あまりにあっさりとした軽いキスに、嵐は驚いて目を開いてしまう。  
すると、更にもう一度、今度は熱を伝えるかのようなしっかりとしたキスが与えられる。  
そして、唇をノックするように舌で叩かれ、思わず嵐が口を開くと、  
その舌がねじ込むように押し込まれ、嵐の口腔内を蹂躙し始めた。  
   
「強情やなあ……。ハニー。ほな、今度はどうしよかな?」  
   
何分間もそうして嵐の唇をもてあそんだ空汰は、今度は嵐の背に両手を回している。  
ワンピース姿の嵐は、その背にあるチャックを下ろされてしまったら、  
ほとんど服を脱がされたも同然だ。  
そして、運の悪いことに、今日着けているブラジャーは、  
簡単にホックを外せてしまう不良品だった。  
嵐の背筋にすうっと冷たいものが走る。  
   
「もう一回、なんて言ったんか教えてくれたら許したってもええけど。」  
   
嵐はそれでも首を横に振った。  
   
「もう言いません。言えません、二度と。」  
   
その声は震えていたが、どこか嬉しそうな響きでもあった。  
 
背中から解放感が伝わり、嵐は瞬時に気付いた。  
外された、と。  
   
「そんないけずなこと言わんともういっぺんでええからゆうてほしいなあ。」  
   
体を抱き締め、首筋にほお擦りをしながら空汰が囁く。  
服を着た状態のまま、ブラジャーを外されるというのは何とも心もとないものだ。  
どんなに体型に合ったものを着けていても、締め付けられる圧迫感は皆無というわけにはいかず、  
風呂に入るときなどに外す瞬間はいつだって解放感にほっとするものだが、  
今感じているのはそんな解放感だけではない。  
体をまさぐられる不快感のようなものに、本能的に湧き上がって来る激しい拒絶の感情。  
そして、心の片隅のどこかにくすぶっている期待感。  
   
「あの……そ、空汰さん……ご飯にしましょう? 冷めてしまいます……。」  
「あー、悪いなあ。けど、後でええわ。」  
「え、そ、それじゃ、お風呂……。」  
「後でええよ。」  
「ええ……? そ、そんな……。」  
   
嵐が震える声で提案しても、空汰は聞き入れようともしない。  
ただ、嵐の体を全身で愛そうとしているのがわかる。  
嵐は体をこわばらせながらその愛撫を受ける。  
ワンピースが徐々に脱がされ、きめ細かな肌が露わになる。  
 
「ひゃう!」  
   
乳首のすぐ近く辺りを撫でられた嵐は、たまらず声をあげた。  
まっすぐな線を引くように、指先がその場所をかすめた。  
そして、手のひら全体で乳房を包まれ、揉みしだかれる。  
   
「いつ見ても綺麗な肌やなあ。触り心地もええし。」  
   
首筋に、耳元に、様々な場所に口付けながら、空汰は感嘆の声を漏らした。  
透き通るほどに白い胸には、薄紅色の乳首が二つ、上品に乗っている。  
小さな花のつぼみのような可愛らしいそれを口に含めば、嵐は切ない声をかすかに漏らす。  
近所に聞こえないように気を使っているのか、それとも空汰にさえ聞かせたくないのか、  
嵐は喘ぎ声が出そうになるとぐっと堪えている。  
声帯を出来る限り通さないようにして、大量の吐息の中にかすかに混じる程度の声を出す。  
だが、素直に声に出さない分は、表情に出てしまうのだ。  
端正な作りの嵐の顔が快楽に歪む。  
その色気溢れる表情を見てしまうと、ますます空汰の男の部分についた火が燃え盛る。  
   
「だ……だめ……です……。あぁ……許して……。」  
「さっき言おうとしてたこと、またゆってくれたらええよ。」  
「い、言いません……。でも……。はぁ……いやぁ……。」  
   
容赦なく襲い来る快感は全身を駆け巡る。  
ワンピースがばさりと床に落ちる。  
嵐はショーツ一枚だけの姿となり、ネクタイを少し緩めただけで未だスーツ姿の空汰に抱かれていた。  
   
(私ばっかり脱いじゃっているなんて、ずるい。)  
   
嵐はスーツのボタンに手をかけた。  
実は、嵐が言葉で嫌がっているのは、形式のようなものだ。  
女の方から積極的に求めるのは、はしたないことではないかと彼女は考えている。  
だが、瞳は正直なもので、空汰をうっとりと見つめてしまっている。  
それに気付いているからこそ、空汰も構わず嵐を剥いていくのだ。  
 
時折濃厚な口付けを交わしながら、空汰も少しずつ着ているものを脱ぎ捨てていく。  
背中を撫でていた空汰の手が、そのまま滑り下りるようにショーツの中に入ってきて、  
嵐はびくっと身を固めたが、抵抗はせず、空汰の胸の中に身をゆだねる。  
体の中心は既に熱く火照っていて、じんわりと濡れている。  
これから受けるであろう接触が待ち切れない。  
嵐は重なった唇の中で一層激しく舌を絡める。  
空汰はショーツの上から、嵐の脚の間の敏感な部分をそっと叩いた。  
   
「言ってくれんのやったらしゃあないなあ。ほな、ここもらうで。」  
   
ショーツの中に指先が入り込み、茂みを掻き分け、  
雫が滴り落ちそうなほど濡れている部分を、かき混ぜるかのように撫でてきた。  
   
「ああん……いや……だめ……。」  
   
それまで以上の強い感覚に、嵐は立ったままの姿勢を保つことができず、  
空汰の胸にもたれかかりながら畳の上に崩れ落ちる。  
合わせるように空汰も膝を折り、愛撫の手を離さないように、休めないようにする。  
体を横たえても続く刺激に、堪え切ることができない嵐の喘ぎ声が漏れる。  
熱い息遣い、嵐の喘ぎ声に混じって、犬が水を飲んでいるときのような音が狭い部屋の中に響く。  
   
「ほんまにいやなんか? いやならさっきの台詞言ってくれんと。」  
   
意地の悪い言葉に、嵐は少し口の先を尖らせた。  
そして、もうほとんど意味をなしていない、身についた最後の一枚の布を自分で脱いでしまう。  
空汰はそれを見ながら、身につけていた全てのものを脱ぎ捨て、  
嵐が仰向けに横たわる上に覆いかぶさる。  
   
「強情やなあ。ま、そんなところも可愛いんやけど。」  
   
そして、自身の男としての武器を手にとり、嵐の最も大事な部分に狙いを定めた。  
 
こんな痴態を晒していても、嵐は気高さを失ってはいなかった。  
一点の穢れも知らぬ清らかな少女のような表情が、空汰の鼓動を激しく高める。  
「美人は三日で飽きる」なんて言葉は、空虚なものにしか思えない。  
突き上げられて歪める顔もまた、高貴な美しさを放っているのだった。  
   
「あ……くっ……はぁっ……くふっ……はぁ……。」  
   
何度も挿入を経験している嵐の体は、貪欲に空汰の怒張を飲み込んで行った。  
前後に揺らしてやればそのリズムを刻むかのように荒い呼吸音が響く。  
本当は大声を出してよがりたいのだろうに、頑固にも息を殺そうとする嵐に対して、  
ますます空汰は欲情するのだった。  
   
「え、ええ加減に……素直になり……。」  
   
空汰の言葉に、嵐ははっとしてきつく瞑っていた目を見開いた。  
そして、白く細い腕を伸ばして空汰の首に回す。  
何か言いたげな瞳に気付いた空汰は、嵐の口元に耳を寄せた。  
 
「愛してるわ……空汰さん……。」  
   
透き通るような声で嵐がささやいた。ようやく。この時点で。  
その声は決して大きなものではなかったが、空汰の胸にはどんな言葉よりも重く響いた。  
   
「マイハニー! わいもめっちゃ愛しとるでぇ!! ぬおおおおおおお!!!」  
   
ゆっくりとしていたストロークが動きの早いものになり、ぐっと膣の奥の方まで突かれる感覚に、  
嵐がたまらず大きく声を上げ始めた。  
それまでより遥かに高く、短く響く声が、空汰の聴覚を刺激する。  
   
「あんっ! ああっ! ああんっ! あっ! あああっ!」  
   
射出の際の感覚があまりにも鮮明で、二人はほとんど同時に頭が真っ白になるという体験をした。  
そして、荒く息を吐きながら、空汰はゆっくりと嵐の胸に倒れ込んだ。  
   
「どう……やった?」  
「はぁ……凄かったです……。」  
   
素直に感想を述べる妻の頭を抱き、髪を梳くように撫でてやった。  
頬を赤く染めて微笑む嵐は、いたいけな少女のようだ。  
   
「もう一度聞きたいわ。あの言葉。」  
   
指先で空汰の乳首をもてあそんでいた嵐は視線をあげた。  
そして、まっすぐに空汰を見つめると、なぜか嬉しそうに微笑んだ。  
   
「もう言いません。」  
   
嵐はそれっきり口をつぐんでしまった。  
まったく、この天邪鬼を素直にさせるには容易なことではないらしい。  
だが、そのままでも良いかと空汰は思うのだった。  
自分の腕の中に彼女がいるという事実、それだけで空汰には十分過ぎるほどの幸せ。  
それ以上は望むまいと思いながら、空汰は愛しい妻の体を抱き直した。  
   
                               (終わり)  
 

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