空調が静かに暖かい空気を吐き出し続ける中、キータイプの軽い音が断続的に響く。  
14インチのディスプレイに白いエディタを映しながら、ファイは脇に置いた  
金属製のカップに手を伸ばした。冷めてしまったティーバッグの紅茶を飲み干し、  
ちらりと腕時計に目を遣る。  
ノートの提出期限を今日の18時にしたのは1年生の3クラス。ひと組は、気の付く  
生徒が終わりのHRで呼びかけ、早々に全員分を取り纏めて持ってきた。  
もうひと組は、HR後から数人ずつ職員室を訪れては、ここがよく解らないの、  
居眠りした頁は字が汚いから見ないで欲しいのと喋っている間に次の生徒が現れる  
といった調子で、人の訪れがやっと途切れたのは30分ほど前だった。  
生徒との会話はいつでも楽しいものの、これでは作業が捗らないと、ノート型  
パソコンを抱えて教科の準備室に移動してきた。  
後で職員室を訪れる生徒は、「席外し中」の札を開いた卓上カレンダーと  
手書きのメモに迎えられるはずだ。  
時計の針はそろそろ期限の18時を指そうとしている。  
曇り硝子の窓越しに、灯りの点いていない廊下の仄暗さが際立つ。  
そろそろ様子を見に戻る時間かと見切りを付け、カップをシンクに置いたとき、  
人気のない廊下で足音がした。硝子に人影が映り、ノックもなく無遠慮な音を  
立てて引き戸が開いた。  
ファイは一瞬顔を上げ、直ぐに視線を手元に戻した。  
 
「……君だったんだ」  
「俺じゃ悪いみてぇな口振りだな」  
「――別に、意外だと思っただけー……。3年生はもう、登校日しか来なくて  
良いんでしょう」  
 
蛇口を捻ると、手を切るように冷たい水がカップを満たし、乾いたシンクを  
濡らして排水溝に流れていく。カップひとつ洗い終わる間に指先が軽く痺れた。  
水を止めてハンカチで手を拭く。指先は仄かに血の色が差していた。  
溜息を押し殺し、振り返る。  
少年は、長身を閉め直した扉に軽く凭せ掛けるようにして立っていた。  
 
「こんな時間に何か用?」  
黒鋼は無言でファイを見返した。  
精悍さと剣呑さの入り交じった体育会系の長身から見下ろされる無愛想な視線には、  
若いからと一笑に付すことのできない威圧感がある。  
不快を覚えながらも、圧されて俯いたのはファイの方だった。  
私物のカップを引き出しに片付け、端末の電源を落とす。  
「……これから職員室に戻るから、質問なら向こうで聞くけど」  
沈黙に耐えかねて押し出した言葉は、自分の耳にさえ上滑りに聞こえた。  
黒鋼はこちらの不実などお見通しだ、とでも言いたげに皮肉な眼差しを投げたが、  
口から出たのは別の言葉だった。  
「だったらここで待つ」  
「ここはもう、閉めるから」  
黒鋼は制服のポケットから、皺だらけの紙を引っ張り出し、机の上に放った。  
鉛筆であらかた書き込まれ、朱書きの付いたそのプリントは、随分前に授業で  
与えた課題の一部だった。  
「それはもう、とっくに採点して返した筈だけどー……?」  
「解らねぇから教えろよ」  
質の悪い藁半紙の空欄には何度も書いて消した跡が残り、欄外には公式に則った  
計算式が斜めに走り書きされていた。最後の定期考査で、学年前半の化学の低迷が  
冗談だったかのような得点をあげた彼は、もともと機械弄りが好きで、  
理工系の学部を視野に入れているのだと担任から聞いた。  
受験対策の課外授業の後に、日々書き込みの増える参考書ひとつ小脇に抱えて  
教科準備室に姿を現す少年を突っぱねることはファイにはできなかったし、  
その度にひとつずつ、決して人に明かせない秘密が積み重ねられてきたのだった。  
それも、2月に入り3年生が登校しなくなってから互いに顔を合わせる機会も  
なくなり、密かに安堵していたというのに、登校日でもない夕刻遅くにふらりと  
姿を見せて「教えろ」などと。  
「試験日は」  
「明後日」  
ファイは唇を噛んだ。  
「……座って」  
 
腕時計の秒針が単調に時を刻む。  
教科書を開き、プリントの余白に計算過程を書きながらの説明を黒鋼は黙って  
聞いていた。説明の間中、ファイは一度も黒鋼を見なかった。それでも時折、  
相手の視線が手元の紙から離れ、自分の横顔に当てられているのを感じた。  
「……解った?」  
少年は短く肯定した。他には、と尋ねれば「今更やっても間に合わねぇだろ」  
などと冷めた口をきく。  
ならばこのプリントはどうなのかと言いかけて、ファイは口を噤んだ。  
生意気な口や態度がどうであれ、一度提出して返ってきた課題にわざわざ手を入れ、  
解けなかった問題を残らず潰そうとする努力は、出題した側へのまぎれもない  
誠意の表れだった。  
その年相応の素直さがひどく好ましいと思った。同時に、胸の奥にわだかまり  
続ける悔恨の念が疼く。  
「……もう遅いから帰りなさい」  
ペンの蓋を閉めながらファイは促した。紙を折りポケットに突っ込んだ少年は  
無言のまま、腰を上げる様子もない。  
顔を上げたファイは、黒鋼がじっと机の表面を見つめているのに気付いた。  
 
「――俺が卒業して、大学にも受かっていたら」  
 
黒鋼はそこで、言い澱むように言葉を切った。  
上げられた眼差しに、ファイは体が竦むのを感じた。  
思慕と欲情と期待の中に鬱屈と鋭い不信が入り交じり、それらが隠しもせず  
真っ直ぐ突き付けられる先に自分が居る。  
 
――彼を見誤っていた。あんな真似をするべきではなかった。  
 
幾つも年上の女、しかも一歩学校を出てしまえば関わりなどない教師相手に、  
こんな目を向けるなどと思ってもみなかった。  
 
常にどこか剣呑な空気や自分を避けるあからさまな態度は、むしろ更に距離の  
開くイメージを抱かせた。だからこそファイもただ一度の交情と思いこそすれ、  
その先が続くことなど考えもしなかったのだった。  
危ないところを助けられたことへの好意や、人と馴れ合わない背中への  
少女めいた憧れなど、思い返せばどれほどのものでもない。  
こちらを避ける素振りへの意地の悪い好奇心だって。  
好きな人いるの、とあの日自分は笑って訊いた。  
教師と生徒のあるべき姿を歪め、同年代の友人や恋人と年相応に過ごしていた  
筈の時間を奪って今がある。それを思うと、罪の意識で胸の奥が震えた。  
 
「何を言いたいか解らないよー……。何にしても、合格してからの話だよね」  
 
「……そうかよ」  
黒鋼は低く吐き捨てた。パイプ椅子が板張りの床を擦って音を立てた。  
密かにファイが体の力を抜いた瞬間、大きな手に手首をぐいと掴まれた。  
「――離して。そんなことしてる場合じゃないでしょー……」  
「鎖の奴に惚れてるからか」  
「あの人は関係ない。ねぇ、痛いよー……それに今アレだから汚すと困る……」  
黒鋼は「前にもそう言ってたな」と目を眇めた。スカートの裾から中へ這い、  
布地の上から乱暴に其処を弄る手の動きにファイの体が強張った。下着の脇から  
硬い指が入り込み、乾いた奥を荒々しく撫でて出て行った。  
屈辱に頬がカッと熱くなった。  
「……血なんざ付いてるようにゃ見えねぇがな」  
突き付けられた指から目を逸らし、ファイは俯いた。  
頭上で押し殺した呟きが漏れた。  
「てめぇの言葉は嘘ばっかりで、何が本当か判らねぇ。教師が聞いて呆れるぜ」  
 
 
シャツの釦がひとつずつ外されていく。アイボリーのジャケットは椅子の背に  
放り出してあった。  
パソコンや教科書を押し遣った後の机に浅く腰掛けさせられたまま、ファイは  
自分の肌を少しずつ露わにしていく指を眺めていた。  
臍の上まで釦を外したコットンのシャツがぐいと左右にはだけられる。  
柔らかく突き出した乳房が外気に晒され、レースの下着越しに少年の無遠慮な  
視線に撫でられるのを感じ、居たたまれなさに顔を背けた。  
乾いて温かい掌が重い膨らみを包み、円を描くようにそっと撫でる。  
快感と隣り合わせのもどかしい擽ったさに身動いだ。  
喉元から鎖骨、胸の谷間へと執拗なキスが辿り、脇腹から背中に回った手が  
ホックを外すのを感じながら、黒鋼が腹の底に抱えている筈の怒りや苛立ちを  
ぼんやりと思った。  
力で抑え付け性欲を満たすことも、或いは暴力で鬱屈を晴らすことも容易いのに、  
そうしないのは、壊れるものがあることに気付いているからだろう。  
あっさり教師と生徒の関係を壊してしまった自分と比べて理性的だと思う一方、  
まだ惜しむほど価値のある何かが残っているのかと不思議にも思った。  
熱い息が乳首に触れ、大きく食むように銜えた。温かく濡れた舌が輪郭をなぞり、  
硬くなった突起を押し潰す傍ら、大きな手がもう片方の乳房を掴み上げる。  
じわりと体の奥で熱いものが沁みだした。気付かれないよう吐息を零した  
つもりなのに、責め苛むような刺激は強くなった。  
喉が鳴ったのがいけなかったのかもしれない。  
或いは、机の端を握り締めて白くなった指か。  
太腿をゆっくりと撫でさする手がスカートの奥に伸び、下着の湿り気を触って  
確かめた。顔を上げた黒鋼の食い入るような視線を感じた。  
「……脱げよ」  
「ねぇ、このくらいにしようよー……。後は口でしてあげる」  
「俺が厭ならはっきりそう言やいいだろう。――言わねぇんなら」  
ぐい、と布地越しに押され、呻き声が漏れた。下着の上からあやすような動きで  
指が上下する。  
 
彼に退く気はさらさらないのだと悟った。のろのろと腰を浮かすようにすると、  
骨の太い指がするりと下着を抜き取った。下腹を直に擦るスカートの生地と外気に、  
羞恥と心許なさが込み上げて、目を瞑り俯いた。  
黒鋼の手が膝を押し開く。  
「お願い、今日は避妊してー……」  
返事はない。何かが奥に当たった。あ、と思った瞬間、熱い息とともに生温い  
肉が体液の溢れ出す合わせ目を擦り、こじ開けて自身をねじ込んだ。  
「ぁ、や……! 離して、お願いだからそんなことしないで……!」  
咄嗟に見開いた視界の正面、太腿の上まで捲れ上がったスカート越しに、  
黒髪が見えた。脚を閉じようと身を捩る。それより早く大きな手が逃げる腰を  
押さえ付けた。大きく開いた脚の間の赤い瞳と目があった。  
 
「声出すな。……目逸らすんじゃねえぞ」  
 
「――やめ……!」  
硬い髪が内腿を擽る感触に体が震えた。肉厚の舌が襞をかき分け、探るように  
ゆっくりと進む。頭の重くなるような情欲の匂いが立ち上る。濡れた入り口の周りを  
舌はゆるゆると強弱を付けて行き来した。  
這い上がってきた舌先が肉の突起を突き、鋭い衝撃で腰が震えた。目を背けると  
内腿を軽く噛まれ、無理に注意を引き戻される。  
片方の腕に腰を抱かれ、もう片方の手に尻や太腿を撫でられながら、好き勝手に  
這い回る舌に追い詰められていく。水音を立てて吸い付かれる感触に、知らず  
睫毛が濡れた。  
体中がうだるように熱く、体の芯から脳まで溶かされるよう。  
禁忌の行き着く先が見えない。溺れている自分が怖い。  
泣きたい気持ちで目を瞑った瞬間、とろけて溢れ出す奥を舌が深くかき回し、  
耳を覆いたくなるような声が漏れた。  
「……アァ……ッ……!」  
 
体が跳ねたのに合わせて乳房が揺れた。じくじくと滴る疼きが止まらない。  
蹲っていた黒鋼が身を起こす気配がした。火照った頬に、学生服の硬い肩が触れる。  
まともに顔など見られない。大きく開いた脚の間に伸し掛かるように腰が  
押し付けられた。押し入ってくる予感に背筋が強張る。  
指が陰毛を手荒く撫でつけた後に、熱い塊が襞をかき分けて密着し、ぬるりと動いた。  
「……ぁ……や、何……ァ、あ!」  
硬く勃起した陰茎はそれ自身で女陰を外から擦り上げ、充血した小さな突起を突く。  
時折雄の先端が潤む入り口を抉るように滑ったが、それ以上押し入ることはなかった。  
擦り合わされる性器の間で、とろとろと流れ出し続けるぬめりが絶え間なく  
水音を立てる。  
胸元を痛いほど強く吸われ、獣のような荒い息が煩いほど聴覚を犯す中、  
脳裏から離れないのは先刻の自分自身の言葉だった。  
(――避妊して、って言ったから)  
そうとしか考えられなかった。黒鋼は挿入の代わりに、疑似セックスで自身を  
宥めようとしている。避妊具を持ち合わせていないのは、ここに来る時にその  
つもりがなかったからだ。  
卒業して大学に合格したら、と彼は言った。その答えを聞けば、きっと帰る  
筈だったのだ。  
求められているものに気付きながら、自分は答えを躱した。  
誘っておいて今更逃げる女に苛立ち、不信を露わにしながら、それでも歯を  
食いしばって暴力を堪え、「もういい」と放り出さないのはどうしてだろう……。  
「……ッ! ……あァ、ッ……ん、……、ハ……」  
堪えきれなくなる喘ぎ声に合わせて、抉るような圧迫が一層強くなった。  
射精のタイミングによっては妊娠するかもしれないと思ったが、そうなったら  
その時だと思った。  
快楽でも何でも、望まれるものに近い形で与えたい。  
脈打つ男性器に片手を添え、指を這わせた。掌の中は濡れてじっとりと熱く、  
擽ると耳のすぐ横で微かな呻き声がした。  
ひやりとした空気が薄く汗ばんだ肩を撫でた。  
 
何気なく視線を上げ、滲む視界に瞬いた時、ファイは背筋がぞくりと凍りつくのを  
感じた。  
いつの間にか引き戸に細い隙間が空き、その向こうに黒々とした闇が口を開けていた。  
冷えた空気はその奥から流れ込み、扉一枚の向こうに息を殺して立ち竦む誰かの  
心音が聞こえる気がした。  
目の前に見えていた絶頂感は跡形もなく消し飛んだ。諦めにも似た絶望感が、  
虚ろに空いた胸郭をひたひたと満たした。今はもう、互いを求めあうその行為すら  
苦痛だった。  
黒鋼がふと顔を上げこちらを覗き込んだ。様子が変わったのを訝しんだのだろうか。  
そんなふうに、眉間に皺を寄せる必要なんか何もないというのに。  
「声出すなって、君が言ったじゃないー……」  
精一杯の笑みを浮かべ、後ろ手に体を支えていた腕を少年の首に絡めて引き寄せた。  
絶対に振り向かないで、と念じながら、汗の玉の浮いた額に口接ける。  
背をかき抱く腕の力が強くなり、押し付けられた腰の動きが速くなる。  
 
感じ続けている振りをするのは、言葉で嘘を吐くより容易い。  
 
黒鋼が低い呻き声と共に下腹部に精をぶちまけ、忙しない息が耳元で次第に  
緩くなっていくのを聞きながら、ファイは汚れた手を机に突いて体重を支え、  
肩に抱き寄せた後頭部の硬い髪をゆっくりと梳いていた。  
 
そうして再び戸口に目を遣ったとき、引き戸はぴったりと隙間なく閉まり、蟠  
る闇の気配はどこにもなかった。  
 
 
遠くから室内履きの足音が近付いてくる。  
音はどこか陰鬱に廊下を這い、教科準備室の前で止まった。板一枚の向こうで  
幾らか躊躇う気配がした後、ガラガラと音を立てて引き戸が開いた。  
 
「先生……」  
 
引き戸を開けた同僚の男性教師は後ろ手に扉を閉め、忙しなく室内を見回した。  
ファイ一人が普段と変わらない様子で椅子に掛けているのを見てとると、一瞬  
安堵の表情が浮かび、それもすぐに困惑と猜疑に取って代わられた。  
熱血漢の好青年が、耳に入った同僚の不祥事を信じかねて、とにかく事の次第を  
問い質しにきたのか。ひとまず声を掛けたものの、何を言えばよいのかと  
言いたげな顔色に、ふと憐憫の感情が沸き起こった。  
「そんなに急いで、どうかされたんですかー?」  
「いや、あの……先生は、ここで何を」  
血の気の多い彼らしくない、まずは慎重な一言だった。  
そんな当たり障りのない質問では、逃げ道を与えているとしか思えない。尤も、  
この人の善さが生徒からとても好かれているのも知っている。  
そんな状況ではないのに、思わず笑みが零れた。相手の表情が僅かに歪んだ。  
「黙ってないで、答えて下さい」  
「見たとおりですよー。授業の準備のために来たとしかー」  
「どうして職員室じゃ駄目なんです」  
「机の上はノートが山積みで、パソコンを置く場所がなくってー」  
嘯いてから、そういえばノートを提出するクラスの中には、彼が担任のクラスも  
入っていたのを思い出した。まだ提出に来ていなかった最後のひと組だ。  
彼は絶対に情報の出所を言わないだろうが、職員室に不在なのを見てこちらに  
質問に来た彼のクラスの生徒が居たのかと思えば、概ね腑に落ちた。  
相手は暫く俯いた後、口に出すのも躊躇われるといった様子で口を開いた。  
「この部屋で、……先生が男子生徒と、その……」  
 
「ひょっとしてー、生徒と淫らな行為に及んでいました、って?」  
「見たと言うんです。見間違いだ、冗談にしてもそんなこと言う奴があるかと  
叱ったんですが……絶対に間違いないと言い張るので」  
「……いったい誰を相手にー?」  
「顔は判らないが3年生の上履きだったと……登校日でもないのに、やっぱり  
あいつの勘違いなんだ。そうですよね、先生?」  
ファイは無言で同僚を見返した。正義感に溢れ、仕事仲間を信じて疑わない  
善良な男を裏切るのは、黒鋼相手にあからさまな嘘を吐くより遙かに苦痛だった。  
けれど、露見したことを今更取り繕ってもどうしようもない。  
 
沈黙に、男の顔をふと不安の色が過ぎった。  
 
「……登校日じゃなくても、生徒が訪ねてくることってありますよねー……。  
合格の報告だったり、自主学習のためだったり……」  
「先生? ――まさか」  
信じられないという表情で、相手は一歩ファイに詰め寄った。  
「本当なんですか? あんたって人は――相手は誰なんです」  
ファイはゆっくりと首を振った。  
「誤魔化さずに答えて下さい! 教師が子供相手に何考えてるんだ」  
「名前は言えません。相手が誰かなんて、大した問題じゃない。だって、こっちは  
誰でも良かったんですからー……」  
男は、友人の正体が実は化け物だったことに気付いた顔でファイを見た。  
「たまたま目に付いた生徒を誘惑したんです。向こうにしてみたら、通り魔に  
遭ったようなものかもー」  
「ふざけるな! ――なんでそんな馬鹿げた事を……!」  
ファイは椅子から立ち上がり、ゆっくりと男の前に進み出た。硬い足音が板張りの床に  
反響する。憤りを露わにした相手は、僅かにたじろぎ、一歩後退った。  
「ずっと寂しかったんですー……。誰かに一緒に居て欲しくて」  
 
相手は無言だった。体の脇に握り締めた拳が僅かに震えていた。  
もう一歩踏み出した。相手の背が引き戸にぶつかり、ガタンと鳴った。  
彼自身が閉ざした扉だ。もう、下がれない。  
男の肩に頭を凭せ掛けるようにそっと体重を預けた。頭上で息を呑む音がした。  
「ッ、よせ……」  
慌てたように彼の腕が泳いだ。空いた体に両腕を回した。男の体が強張った。  
――ねぇ、浮いた手をどうしますか、先生。  
心の中で呟いた声は、我ながら酷く意地が悪いと思った。  
「……ひとつだけお願いがあります。生徒のことは明かさないで……」  
ギリ、と歯噛みする音が聞こえた。押し殺した声が、できない、と言った。  
「お願いします。生徒は悪くない……」  
「そんなことを言うくらいなら、最初から手を出したりしなきゃ良かったんだ」  
両肩を掴んで揺さぶる手に、ファイは顔を上げた。相手の言う通りだ。そして、  
いくら悔やんでも、もう取り返しは付かない。  
縋り付く腕にそっと力を込めた。押し付けた胸が撓む。  
胸元に顔を伏せ、息苦しさそのままに呟いた。  
「貴方しか、頼れる人がいないんですー……。助けて下さい。お願い……」  
肩に食い込む指の力が緩んだ。苦しげに彼は呻いた。  
「話だけは聞く。でも、俺の気を変えられると思わないで下さい」  
黙って頷いた。ふと、黒鋼の言葉が脳裏に蘇る。  
(てめぇの言葉は嘘ばっかりで、何が本当か判らねぇ)  
自嘲の笑みが零れる。ファイ自身にもよく判らないのだから当然だ。  
肩を掴んだ手が扱いに困ったように、おずおずと背に回るのを感じた。  
 
「ねぇ、話はここじゃなくて、……誰も居ない場所で、二人きりでー……」  
 
 
底冷えのする朝だった。  
招き入れられた理事長室は、革張りの豪華な応接セットを備え、静かな明るさに満ち、  
適度に空調が効いていた。ブラインドの隙間から漏れる陽の光が、観葉植物の葉の上で  
ちろちろと踊っていて、その目まぐるしさに眩暈がした。  
大きな窓を背に中央のデスクに着いた女は、蝶の透かし彫りの扇子を片手に、  
前に立つファイと同僚の男性教師を無言で眺めていた。  
「――話にならないわ」  
パシリと扇子が乾いた音を立てて閉じられた。  
「教師が学園内で生徒を誘惑して淫行を働きました、でも相手は明かせません、  
とはね。一体何の報告をしているつもりなの」  
ファイはただ言葉もなく、女の視線を避けて目を伏せた。日本人形を思わせる  
前髪の陰から、光らない瞳が探るようにじっと見ている。どれほど経ったか、  
女はファイに向けていた視線を、おもむろに隣に移した。  
「もう一度訊くわ。貴方が現場を見たと言ったわね。本当に誰だか判らないの」  
「……後ろ姿で、顔は見えませんでした」  
「どうしてその場で確かめなかったの」  
「動転していたので、その……」  
「顔を上げなさいな。貴方、本当に自分で見たの?」  
「――……そうです」  
女はファイと同僚の男性教師を見比べた。白い頬を侮蔑の色が過ぎったように  
見えた。男に向けて、淡々と冷ややかな声がかかった。  
「もう貴方に訊くことはないわ。仕事に戻って結構よ」  
苦悩の表情を隠せずにいた男ははっと顔を上げ、何か言いたげに女とファイに  
視線を走らせたが、言うべき言葉が見つからないというように項垂れ、黙って  
部屋を出て行った。  
後には二人の女が残された。  
「彼と寝たの? そうやって口裏を合わせるよう頼んだのかしら」  
「……いえ」  
「彼が自発的に吐いた嘘だと?」  
 
違う、と口を突いて出かけた否定をファイは呑み込む。  
女は長い黒髪を僅かに揺らして首を傾げた。  
「言えないなら、それでも良いわ。――ねぇ、貴女」  
女は冷厳な眼差しをひたとファイに向けた。  
「きちんと調べれば、本当の目撃者はすぐに判る。貴女の相手だって、調べが  
付くでしょう。貴女が意地を張って名前を言わないことに何の意味があるの」  
「こちらが誘惑したんですー……生徒に罪はありません」  
「――誘惑、ね」  
女は片眉を上げて、長い睫毛の下からファイを見上げた。革張りの椅子が僅かに軋む。  
磨かれた床に、硬いヒールの音が反響した。  
モデルめいた立ち姿で、女の細い指先が胸の頂をそっと突く。  
「では、どうやって誘惑したの?」  
ファイは眉を顰めた。女は右手をファイの心臓の上に当てたまま、扇子の先端で  
腰骨から太腿の半ばまでをゆっくりと撫で下ろした。薄い木片がスカートの  
裾を軽く浮かす。太腿を締め付ける黒のレースが覗き、女は苦笑を漏らした。  
「あらあら、若い子に見せるには少し刺激的じゃない?」  
扇子はそろそろと頭をもたげ、タイトスカートの陰を暴いていく。ガーターベルトの  
ストラップが露わになり、肌が見え、最後に下着が視線の前に晒された。  
レースを配した布地の頼りなさに奥歯を噛む。  
硬い扇子の端は少しの間、からかうように股間の周りを彷徨った。緩い刺激に、  
くすぐったさに似た快感がじわりと沸き起こり、ファイは羞恥に顔を背けた。  
胸に触れていた手が離れ、顎を捕らえて正面を向かせた。見た目の通り、ひどく  
体温の低い指先だった。  
「佳い顔」  
「……ぁ……」  
女の手が肩を軽く押した。後退ったふくらはぎに、革張りのソファーの肘掛けが  
当たる。崩れるように腰を下ろしたファイの前に、女は身を屈めた。  
「貴女が何も話さないからよ。――早く気が変わってくれると嬉しいわ」  
ファイは息を詰めた。  
 
扇子を置いた女の指が、ぷつりと軽い音を立ててファイのジャケットの釦を外す。  
爪を桜色に染めた指先はシャツの釦も外し、喉元から鎖骨を辿って、乳房の  
膨らみをそっと撫でた。  
「痕が付いてるわ。随分情熱的だこと。付けたのはどっち? さっきの彼?」  
「先生は関係ありませ――……ッ!」  
ビリ、と乳首に鋭い痛みが走り、声が途切れた。女は下着越しに抓り上げた指を離し、  
「あら、ごめんなさいね」と肩をすくめた。  
「痛くする気はなかったのよ。余程その子は優しかったのね」  
抓んだ跡を円を描いて行き来する指先に、熱を持ち痛みを訴える乳首がじんと疼く。  
女の指は執拗で、羽毛のように優しかった。時折爪が尖りを引っ掻き、  
そのたびに呼吸が少し乱れた。  
「苦しいんじゃない? そんな風に締め付けて」  
白い指がぐいと下着のフロントを引っかけて引き上げ、肌を擦る痛みと共に、  
包み隠されていた乳房が女の前で露わになった。胸元を抑えられた息苦しさが  
募る。女はさほど関心のない様子で、不規則に上下する胸に視線を落とした。  
抓られて充血した部分に触れる指の冷たさに、肌が粟立った。  
 
「ねぇ、あたしは貴女を虐めたい訳じゃないの。そろそろ話す気にならない?」  
「……そう言われてもー……」  
 
思わず苦笑気味に返した声は、語尾が微かに震えていた。女はくすりとも笑わず、  
「そう。残念ね」と呟いた。  
乳首を執拗に弄っていた指が離れ、ストッキングの膝頭に触れた。両膝を割り  
奥に這い進む手の体温の低さに、本当にこの女は生きているのかと疑いたくなる。  
それとも、こちらの体が熱い所為でそう思うのか。それにしても、と思った途端、  
強い刺激に腰が跳ね、一瞬思考が途切れた。  
「……あァ……! ッ……ハ」  
生理的な涙で視界が滲む。近頃こんなことばかり。自ら掘った穴に足をすくわれ、  
嘘を隠すために人を騙して、更に自分を追い詰めている。  
「あ……、や……ッ、ク……、…………!」  
 
すべての発端が自分なのだから、すがるべき相手はいない。絵に描いたような  
悪循環を笑い飛ばすこともできず、いっそ、何もかもを切り捨ててしまえたらと  
思いながら、それもできない自分が居る。  
薄い布地越しの刺激に腰が揺れ続ける。女の冷徹な視線が突き刺さる。  
「ッ……、もうやめて……、……っぁ、や、アァ!」  
濡れた目の縁が沁みてひりひりと痛んだ。脇から滑り込んだ指が突起を押し潰し、  
潤む中心を押し広げる。  
細い硝子の棒に犯されているようだった。熱い体内で、濡れた音を立てて蠢く  
指の異質な冷たさだけが、ファイの意識を繋ぎ止める。  
黒鋼に抱かれているときに感じる、底の見えない苦痛はここにはなかった。  
畏れや悔恨と一体の、泣きたくなるような幸福感も。  
あるのは、美しい女の姿をした破滅を目の前に、絶頂を求めて一人身を捩る  
虚無感ばかり。  
 
「貴女の言うことが事実なら、生徒は被害者よ。なおさら秘匿は許されない」  
熱さで聴覚さえ茫洋とするなか、女の声は暗闇に射す薄明かりめいて響いた。  
 
「なんなら彼を呼び戻して、もう一度尋ねましょうか?」  
「あの人は何も知らない……、騙して……、……嘘を吐かせたんです……」  
「そう。では、別の目撃者がいるという訳ね」  
「……ッ、あ、や……!」  
「早く楽になりなさいな。どうせすぐ判るのに、どうして隠す必要があるの?」  
「彼は悪くな……、ッ、ァ、これ以上巻き込むのは嫌……」  
「生徒には何も訊かないし、処分もないわ。事実を把握するだけ。それでどう」  
言葉もなくファイはただ頭を振った。  
女の慈悲がたとえ真実でも、名を明かすことが少年の内面と将来に及ぼすかも  
しれない影響を思うと、どうしようもなく怖かった。逃げ道など初めからなく、  
犯した過ちの正しく結実する先はそこしかないと解っていても。  
 
「困ったヒトね」  
乱れて頬に張り付いた髪をそっと払う手の冷たさが、ひどく心地よかった。  
脚の間では同じ女の指が今もファイを犯し、絶頂の寸前で嬲り続けている。  
「非論理的だし、道理もない。まるで盲目だわ。――そんなに好きになったの」  
憐れむように付け加えられた言葉に、体の芯が震えた。  
「違……っ、ぁ、寂しくて誰でも良かったから……、ッ!」  
「その子は貴女が初めて? 貴女のことをどう思っているのかしら」  
「……きっと何とも……! ッ、や、……、ア」  
「貴女の胸をお気に入りなのは判ったけれど。それだけで我慢できたの?」  
「痛ッ、あ、……! …………ん……、…ッ、ふ……」  
「こんなふうに指だけじゃ物足りないでしょう。その子のモノが欲しい?」  
「ッ、やめ……! っ、ちが、あッ、……」  
「それとも、……この指がその子だったら、って思わない?」  
「……ぁ、あァ、ハ、や、……ッ! ……くろが……、ァ、っあぁ!」  
 
自分の声が頭の中で残響し、つかの間、ファイは呼吸も忘れて呆然とした。  
 
血管が脈打ち、こめかみがズキズキと鳴っている。溢れた体液が窪みをとろり  
とろりと伝い落ちる感覚に身震いした。  
急速に体温が下がっていく。暖かいはずの空調が汗を冷やし、不快さに  
吐き気が込み上げる。  
指をファイの中に埋めたまま、女の乾いた片手が優しく髪を梳いた。  
 
「生徒に悪いようにはしないと言ったでしょう。約束は守るわ。泣かないで」  
 
立ち込める官能の匂いに、花のように甘い女の香水が混じり込む。  
見開いた目から、止めようと思う間もなく生温い水がこぼれ落ちた。  
<GUILTY・了>  
 

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