逃げないでね、と彼女は言った。顔を見たくないがために授業をサボり続けた  
ツケが、ここにきて回ってきた。教室前の廊下で背を向けていた自分は相手の  
接近に気付かなかったのだ。単位不足で卒業できなかったら困るのは君だよ、  
と肘を掴んで化学の担当教師は念を押した。  
 
そうして、今の状況に至る。  
 
黒板に文字を書き付ける硬質の音が響く。時計の針は六時半を指していた。  
最後の化学式を書き終えたところで教師は振り返り、黒鋼がノートすらとって  
いないのを見ると、困った顔をした。  
「うわぁ、ホント困ったさんだねー。そんなに化学が嫌い?」  
「煩ぇ。一応こうやって補講受けてんだろうが。見たくねぇのはてめぇの面だ」  
「そう言われましてもー。授業をサボるならサボるで、せめてテストで赤点を  
とらないようにしてくれなきゃ。折角部活の功績に免じて補講とレポートで何とか  
することになったんだから、最後の一時間くらい真面目に聞いて欲しかったよぅ。  
どうせこの先は受験対策しかしないんだからさー…」  
聞きようによっては辛辣な嫌味を苦笑混じりに呟き、彼女は教卓を離れて、  
黒鋼の席へと近付いてきた。目の前の椅子を引いて腰掛け、身を乗り出すように  
黒鋼を見上げる。タイトスカートから伸びた脚が音もなく組まれるのが、  
嫌でも視界の端に入った。咄嗟に目を逸らすと、覗き込む青い目とぶつかる。  
薄く色付いた唇に艶やかな笑みが浮かんでいる。  
「嫌われて残念」  
「…自覚があるなら寄んな」  
「半年前、助けてくれたよね」  
「知るか。人違いだ」  
「憶えてるよ。君は剣道の部活の帰りで、人通りのなくなった駐車場を  
通りかかった。車の陰でレイプされる寸前の教師を助けてくれた」  
「適当なこと言うんじゃねぇ。だいたい見分けつくわけねぇだろ、あんな…」  
「…陽も落ちて暗いなかで?」  
 
いつの間にか、響いていた部活の声も消え、校舎全体を静寂が包んでいた。  
最後の残照が僅かに雲を染め、窓から見える別棟に疎らに灯りが点っている。  
時計の秒針がやけに耳に付いた。  
ファイは静かに席を立ち、黒鋼が言葉もなく見守る中照明のスイッチに指を伸ばして、  
パチン、パチンと照明を落とした。  
瞬く間に教室は宵闇に呑まれ、窓の外の覚束ない余光だけが光源になった。  
「あれからずっと避けられてるのはどうして…?」  
静まりかえった木の床が細いヒールの音を跳ね返す。  
音を立てて椅子から立ち上がった黒鋼は、戻ってきたファイと向かい合った。  
見上げるファイの身長は黒鋼の肩の辺りまでしかない。  
黒鋼の頬をひやりとした指先が撫で、軽く肩を押し戻された。  
柔らかな吐息が耳元を擽り、椅子にだらしなく掛けた学生服の脚に華奢な膝頭が触れた。  
そのままファイは黒鋼の片脚を跨ぐように椅子に黒いストッキングの片膝を突き、  
ゆっくりと首に両腕を巻き付け、顔を伏せた。  
柔らかな膨らみが押しつけられ、二つの身体の間で重たげに形を変えた。  
仄かな甘い香りが鼻孔をかすめた。  
「ねえ…、黒鋼?」  
黒鋼は歯を食いしばった。強張った顎の輪郭を指が辿る。  
緩やかに何度か往復した後、暖かく湿った吐息が首筋に触れ、息を詰めた。  
耳朶を軽く啄まれ、揶揄うように舐められて、背筋がぞくりと粟立つ。  
首に絡みついた片手が宥めるように後頭部の髪を梳く。  
黒鋼の意思に反して、身体の一点に血液が集中し始めた。じりじりと理性が  
灼き焦がされていく感覚に、噛み締めた奥歯がギリ、と音を立てた。  
「てめぇ、いい加減にしろ…!」  
「お静かにー…」  
ファイが窘めるように黒鋼の顔を覗き込む。濡れたような艶の唇が声もなく  
笑っているのが薄闇を透かして見えた。動揺すれば負けだ。髪を梳いていた指が  
窘めるように唇を押さえてから、爪が食い込むほど握りしめた拳を軽く撫で、  
膝頭に手を置いた。  
「動かないでね」  
 
重ねられた薄い掌が時間をかけて筋肉を辿り、太腿の付け根まできて、そのまま  
内腿を膝まで戻っていく。執拗に何度も繰り返される内に、じわじわと堪え  
ようのない熱が蓄積していく。思わず漏れた呼気に黒鋼は失敗を悟った。  
からかい混じりの囁きが頬を擽る。  
「もしかして、もう勃ってるー…?」  
不自然に生地を押し上げた強張りを、白い指が柔らかい動きで揉みしだく。  
一度荒くなった呼吸はもう隠せなかった。強いかと思えば弱い、もどかしい  
刺激が苦痛だ。甘い香りと押しつけられた肢体の重みを意識した。  
ねぇ、とファイが耳元で囁いた。  
「好きな人いるの? こういうこと、してくれるー…?」  
一瞬頭の中が空白になる。ファイは黒鋼の首に絡めていた腕を解き、絡ませた  
腕を離して硬い床に膝を突いた。ベルトの金具を外し、顔を熱の籠もる股間に  
埋めた。  
「…ッ、やめろ…」  
直接的な刺激と歯でジッパーを下ろす音が生々しく、黒鋼の制止は上擦った  
呻き声となって空気に溶ける。下着ごとズボンを中途半端に引き下ろされ、  
引っ張り出されたグロテスクな屹立はひやりとした外気に震え、内に籠もる熱量を  
否が応にも自覚した。黒鋼の表情を上目遣いに見上げたファイは微かに笑い、  
ちらりと覗かせた舌で先端を舐めた。生暖かく濡れた感触の擽るような動きに  
息が詰まる。ファイは強張った太腿を哀れむように撫で、張りつめた先端を銜えて  
そのままぬめる口内に呑み込んでいく。ぐちゅ、と唾液の音を立てて吸い上げる  
刺激に腹筋がビクリと緊張した。思わず上下する金髪を掴むと、ファイは顔を  
上げた。離した唇から唾液が糸を引く。  
「出していいよー…。飲んであげる…」  
やめろ。  
声を上げる前にファイは再び股間に顔を伏せた。目を背けたいと思いながら、  
息を詰め凝視する矛盾は何なのか。舌先が鈴口を割る。荒い息が食いしばった  
歯から零れ、包み込む柔らかく熱い粘膜とぬめる舌、太く浮いた血管に沿わせた指、  
下腹を擽る髪の感触が全てになる。チュウ、と音を立ててひときわ強く吸われた  
瞬間、堪えきれず黒鋼は吐精した。  
 
「…ッ……ゲホッ………………ん……」  
蹲っていたファイがゆっくりと身を起こした。唇を軽く舐め、未だ犬のように  
息の収まらない黒鋼の頭を抱き寄せて、あやすように髪を梳く。  
細身のジャケットの生地を窮屈そうに押し上げる膨らみが、目の前で秘やかに息づいている。  
身を寄せなければ分からない程の仄かな香りに酩酊した心地で、黒鋼は女の身体を  
ぐいと引き寄せた。バランスを崩す形で腕の中に倒れ込んだファイは黒鋼を見上げ、  
何を考えているか分からない表情でただ微笑んだ。  
これは禁忌だ。  
脳裏で冷静に指弾する声を黒鋼は無視した。  
罪というなら、疾うに手遅れだ。  
黄昏に沈む駐車場で四肢を拘束されレイプされる寸前の女教師を助けた夜、  
黒鋼は夢の中で彼女を犯した。その後も彼女は姿を変え、設定を変えて夢に、  
時には自慰の妄想に忍び込んでは眼差しと指先で黒鋼を翻弄し続け、  
黒鋼もまた最後には見栄も屈辱もかなぐり捨てて細い肢体を組み敷いた。  
現実のファイの姿を目にする度に覚えた後ろめたさすら興奮と裏表でしかなく、  
目覚めた後狼狽えるほどに生々しい夢を何度も見た。  
これは、黒鋼が妄想の中で様々に玩び続けた姿が単に実体を伴ったに過ぎなかったし、  
ファイの挑発は黒鋼の青い情欲に感応した結果だということも、からかうような  
底意地の悪い笑みを見ればわかることだった。  
黒鋼は中途半端に凭れた身体を抱き直し、腰を跨いで座らせた。タイトスカートが  
太腿の上まで捲れ上がり、太腿を締め付けるストッキングのレースとその上に  
続く細いストラップが覗き、グラビアで男を挑発するモデルを連想させる。  
ファイの顎を掴んで顔を寄せるが、触れる寸前で体温の低い指先に阻まれた。  
「…キスはだめー…」  
「なんでだ」  
「君の味がするけどいいの?」  
嫌な顔が気配で伝わったのか、ファイは可笑しそうに肩を揺らした。  
真面目に答える気がないのが見て取れて舌打ちが漏れる。ファイの片腕が首に回り、  
空いた片手が黒鋼の手をとった。微熱を帯びた声が黒鋼の脳髄を浸食する。  
「ねえ…、ちょっとでいいから触って」  
 
導かれた手は薄手のジャケットの上から胸に触れた。掌に鼓動が伝わる。  
重なる指の強請るまま緩やかに手を動かすと、ファイは目を閉じ吐息を漏らした。  
それにしても、これだけ細身のスーツで身体を締め付けて苦しくないものか。  
強調されたメリハリこそが目の毒だと思いながらジャケットの釦を外し、シャツの  
釦を上から一つずつ外していく。  
肌とレースを半端に隠すシャツが目障りで脱がせたかったが、  
相手の腕が黒鋼の首に絡みつき、全く協力的でないので諦める。  
女物の下着というのは見た目の割に手触りが硬かった。  
揉み上げる無骨な手の動きに、大きく開けられて露出した肩から胸にかけての曲線が  
緩やかに喘ぐ。  
膝立ちさせて目の前に来た胸の頂点をレースの上から舌先で押すと、  
初めて甘えるような声が漏れた。首に縋る手に力が籠もる。  
下着の肩紐をずらし、無理矢理引きずり下ろすと、白い乳房が零れ出た。  
ツンと上を向く乳首を口に含み舌で嬲ると、腕の中の身体がビクリと仰け反る。  
すかさず白い喉元に吸い付き、舌を這わせた。  
乳房を玩ぶ掌と肌をなぞる舌に、ファイが擽ったそうに髪を揺らす。  
「あ、ちょっと…痕は残さないでよ」  
「うるせぇ。服か何かで隠せ」  
薄い皮膚の下で脈打つ血管を鎖骨まで辿ると、細い鎖に行き当たる。  
トップに小さな飾りが付いていた。雑誌で似たものを見たことがある。  
イニシャルを彫り込む類のやつだ。黒鋼の視線に気付いたファイが、苦笑した。  
「これねー、似合わない? …綺麗だから捨てるに捨てられなくて」  
「………」  
もうお終い? とファイが小さく呟いた。黒鋼は黙って手の動きを再開する。  
ファイは黒鋼の肩に顔を伏せ、時折漏れる掠れた声と震える肢体、肩から胸の  
筋肉を這いシャツの上から乳首に悪戯を仕掛ける指が、黒鋼の一度は収まった  
熱を腹の底からジワジワと煽り続けた。  
撫でさすり、舌を這わせ、時には歯を立てる肌がしっとりと掌に吸い付くように  
汗ばんできた頃、ファイが荒い息を吐きながら半勃ちの雄に指を絡ませた。  
「お願い………、触って…」  
 
どこを、と訊くほどの余裕もいつしか失われ、黒鋼の手は扇情的な太腿から  
スカートの中へそろりと這う。明らかに濡れた薄い布地は肌に張り付き、  
指先で触れた瞬間、細い腰が大きく揺れた。二度、三度と指がぬめる下着の上から  
そこを擦るたびにファイの身体が震え、濡れた音が聴覚を犯した。  
「あ…ァ……、ッ………も……」  
焦れたように頭が揺れ、汗で湿った金髪が項を叩く。黒鋼の股間を煽る指先の  
動きが止まり、思い出したように彷徨い出す。腰骨にかかる下着のサイドに  
指をかけ引き下ろし、片脚を浮かせて抜き取た。ヒールに続く足首の片方にだけ  
下着を絡みつかせた姿は情欲をどこまでもかき立てはしたが、縋り付く腕の震えに  
ほんの一瞬庇護欲めいた感情をそそられて、黒鋼は歯を食いしばった。  
(…キスはだめー…)  
(…綺麗だから捨てるに捨てられなくて)  
「あ! …あァ、ハ………ん…ッ………ぁ……」  
濡れた陰毛をかき分け、初めて触れる女の其処は溢れ出した体液でぬめり、  
柔らかく、熱いとすら感じた。探る指を導くようにファイの腰が揺れる。  
言葉にならなくとも、どこに触れて欲しいと望んでいるかは分かった。  
強請られるまま小さな突起に触れ、指の腹で転がすのに合わせて細い身体が震える。  
宛った指を呑み込ませていくと、捕らえた異物の形を確かめるように内壁がうねり、  
熱い体液が伝い落ちた。爪で傷付けることを危惧しつつも、かき立てられるように  
中を弄るたび、耳元で啜り泣きに似た声が漏れる。  
「も、やめ……」  
乱れた前髪の下からファイの視線が黒鋼を射た。互いに限界は直ぐそこだった。  
掻き乱す指を抜き、震える身体を抱え直して先端を熱く潤む中心に押し当てる。  
眼差しを絡め合ったまま、女は緩やかに腰を揺らめかせて自分の体内に黒鋼の  
雄を呑み込んでゆく。ファイが時折きつく眉根を寄せて動きを止めるたびに  
突き上げたい衝動を、黒鋼は奥歯を噛んで堪えた。自分と同じだけ、相手も  
きっと苦しい。震える息を零し、噛んだ唇を何度も湿す仕草に視線が止まる。  
(…キスはだめー…)  
鎖骨にかかる細い鎖が鈍い光を弾く。胸の奥が不愉快にざらつき、  
輪郭のぶれきった思考が少しだけクリアになる。  
 
「ん……」  
時間をかけて屹立を奥まで呑み込んだファイが肩に頭を預けて喘ぐ。その背を  
軽く撫で、そのまま下ろした手が華奢な尻を鷲掴んだ。ファイが息を呑んで  
顔を上げた。  
「…っあァ! …ッ、ん、…、ハ、あぁ、あァア……!」  
ネイルが生地の上から背に食い込んで痛みを覚えた。腰を引きつけ打ち付ける  
たびに、貫いた肢体がガクガクと震えた。  
尻の肉を揉み、乳首に唇を寄せ、下腹を撫でれば締め付けが強まり、  
混ざり合った体液が止めどなく押し出される。  
淡い香水と青臭い性の匂いに嗅覚が麻痺しそうな気分で、それでもなお熱く  
狭く柔らかい肉を穿ち、擦り上げずにいられない。大きく捲れ上がったタイト  
スカートの影、繋がった部分から溶け合った一つの生き物のように沈み、うねり、  
突き上げ、押し付ける。  
「ぁ…黒鋼、くろがね………」  
焦点の暈けた瞳が至近距離で呼ぶ。  
もう少しで届く、と思ったとき、ファイが瞼を閉じた。薄い皮膚の滑らかさに  
抑えの効かない震えが腰を貫き、あっけなく黒鋼は弾けた。同時に腕の中の  
肢体が大きく震え、注ぎ込まれる熱を待ちかねたように絞り上げ、ヒクヒクと  
蠢いた。  
 
 
 
荒い二つの呼吸が静止した部屋の空気に溶け、拡散していく。肩に預けられた  
頭の重みを感じていた。クシャクシャに皺の寄った衣服から半ばさらけ出した  
背を撫で、湿った金髪を梳いてやると、ファイは小さく身震いして顔を上げた。  
 
「調子に乗りすぎたー…ごめんね」  
「………」  
 
それは、どういう意味だ。  
 
無言で凝視する黒鋼にへらりと笑いかけて、ファイは億劫そうに身を起こす。  
繋がっていた部分が濡れた音をたてて離れ、精液がとろりと溢れた。  
陰茎を汚す体液を取り出したハンカチで丁寧に拭い、自分の下腹部も拭いて、  
濡れて使い物にならなくなった下着を足首から抜いてその中に包む。  
「さすがに職員室に戻るのは無理ー…。君も、もう着ていいよ」  
白い太腿もガーターベルトのストラップも、裾を下ろしたスカートに隠れて  
もう見えない。つい先刻まで自分の手の中に収まっていた乳房もレースの下着に  
包まれ、皺になったシャツが肌を覆い隠していく。  
黒鋼の目の前で、初めから、何もなかったように。  
のろのろと乱れた服を整えながら、視線でその姿を追う。  
ファイはジャケットまできちんと着込み、黒鋼を待つように机に軽く凭れて立っていた。  
身繕いが終わったと見ると、彼女は照明を付けた。暗がりに慣れた目に、  
明るい電灯の光が突き刺さる。  
濃密な残り香と服の皺、僅かな肌の上気以外に、情事の名残を示すものはない。  
その残り香も、ファイが次々と開け放った窓から吹き込む夜気に希釈され、  
押し流されていく。  
「補講はとりあえず今日でお終い。レポートの課題は後日渡すから、真面目に  
書いて提出すること」  
帰ろっか、と微かな笑みを浮かべ仰ぎ見る女を前に黒鋼は立ち尽くす。  
「黒鋼……?」  
 
ごめんね、とファイはもう一度目を伏せて囁いた。  
後悔が滲んだ声音に、瞬間的に頭に血が上った。二の腕を掴み、乱暴に引く。  
ファイは抵抗せず、されるがままに蹌踉めいて、それが余計に黒鋼の激情を煽った。  
謝ってどうする気だ。素知らぬ振りで被害者の顔をしろと言うつもりか。  
それとも、忘れろとでも言いたいのか。ただの気まぐれだから、と。  
 
だったら、なぜこんな真似をした。  
 
喉元の細い鎖が視界の端に映る。どうしようもなく目障りだった。  
顔を寄せ、後退ろうとする身体を逃がさず項に鼻先を押し付ける。  
やはり甘い肌の香りを嗅ぎ、舌先を滑らせ、触れた金属を一気に歯で引き千切った。  
「ッ! ……何を」  
あっけにとられた表情が怒りに変わるのを見ながら鎖を吐き捨て、無理矢理  
唇を奪う。くぐもった苦鳴が漏れる中、捻り込んだ舌を尖った歯が掠め、  
鋭い痛みと共に金臭い血の味が広がって、全身で藻掻いていたファイは怯えた  
ように目を見開いた。強張った身体から力が抜け、唇がゆっくりと離れる。  
薄い唇を濡らす唾液には朱が混じっていて、もう後戻りできないと囁く本能を  
黒鋼は受け入れた。  
後悔したいなら望むだけさせてやる。  
余裕の笑みをかなぐり捨てて、怒り、怯え、忘れようにも忘れられなくなればいい。  
手首を掴む指を振り払い、ファイは身を翻して教室から出て行った。  
後には補講の痕跡の残る黒板と黒鋼、それに千切れた細い鎖が残された。  
床からそれを拾い上げ、夜風の吹き込む窓から思い切り外へ投げる。  
物音もしなかったし、落ちた先も見えない。  
明日は喉元を隠してくるだろうか。黒鋼を見て、顔色の一つも変えるだろうか。  
丁寧に黒板を消し、開け放たれた窓を一つずつ閉めていく。  
疼く舌先を上顎に擦り付ければ、濃い血の味が滲む。  
最後の一つを閉める時、冷えきった夜風に乗って、静まりかえった校内のどこかで  
自動車のエンジン音が遠く響いた。  
<了>  
 

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