305 名前:名無しさん@ピンキー 投稿日:2007/04/14(土) 00:26:42 ID:gUqktpKj
「……この国にも桜があるのか」
どこまでも続く薄紅色の光景に、いつもの渋面をほんの少し和らげたのは
黒鋼さんだった。
「黒鋼、ホームシックなの!」
「ほーむし……?」
「黒様、寂しがりやさんだー」
「誰がだ!」
「あのー……」
放っておくといつまでも続きそうなやりとりを遮って、おれは指さした。
「あれはお祭りでしょうか?」
桜並木の続く街道の両脇に、小さな店が立ち並ぶ。
まだ火の入っていない提灯が満開の花の前で揺れ、大勢の人が笑いさざめき
ながら店の前で立ち止まり、また通り過ぎてゆく。
テントの屋根、人の肩にはらはらと花弁が舞い落ちる。
「ありゃ露店だな。俺のいた日本国では桜の時期にあちこちで見た」
桜祭りー、とモコナが弾んだ声を上げ、さくらが「楽しそうですね」と
羨ましそうにそちらを見遣った。
揚げ物、甘味のいい匂いが風にのって運ばれてくる。
「お腹も空いたし、行ってみようよー。ね?」
「箸巻きー、たこ焼きー、ポテトフーライ!」
モコナが妙な節を付けて、呪文のような言葉を唱えた。
「買ってもらっちゃった!」
さくらが頬を染め、弾んだ足取りで戻ってきた。手には何か黒い棒のような
ものを握っている。
旅に出た頃の抜け殻のような姿をふと思い浮かべ、今の明るい表情とまったく
重ならないことを確認して、おれはとても嬉しくなった。
――ここは平和で、気候も爽やかだし、今日は良い日だ。
「姫、それは何ですか?」
「チョコバナナっていうの、露店が出る時はどこでも売ってるんだって」
さくらは両手でスティックを握り、チョコのかかったバナナを上からそっと
銜えた。伏せた睫毛が淡い影を落とす。上気した頬が膨らみ、赤い舌が
ちらりと覗いて黒い表面を撫で、すぐに見えなくなった。
――う……。
「小狼君、お腹が痛いの?」
急にそわそわと前屈みになったおれを、さくらは心配そうに覗き込んだ。
「いえ、何でもありません。――姫、それ早く食べないと溶けますよ」
姫は心配そうな顔をしながらも、水滴の汗をかいているチョコの表面を
ペロリと舐めた。赤い舌の通った跡に、てらてらと濡れて光る筋が残った。
「……!」
「どうしたのー、小狼君」
救いを求めて振り返ったおれは、後ろから覗き込むファイさんの目に
からかうような光が宿るのを見た。
「――ああ、人混みでのぼせちゃったー? ちょっとその辺に座ろうか」
「は、はい……あの」
「お父さーん、かき氷買ってきてよぅー」
「なんで俺が」
顔を顰めた黒鋼さんは、不審そうにおれの様子を眺め、次いでバナナを頬張る
さくらに目を遣った。――にやり、とその顔に理解の表情が浮かんだ。
「――わかった、かき氷だな」
「いえ、おれ要りませんから……」
「小僧が食わねぇでも、姫が片付けるだろ」
「やっぱり練乳だよねー?」
「当然だ」
妙に息の合った二人の会話に、おれはぎょっと息を呑んだ。
屋台にすたすたと向かっていく黒鋼さんの背中に、モコナが叫んだ。
「なるべく白くて濃いのをたっぷりかけてー!」
――大人なんて……!
(End)