桜の蕾はまだ色濃く硬く、ほころぶ兆しを見せないでいた。  
 
上空で風が鳴っている。薄鼠色の雲が駆け、時折割れ目から青い色が覗いては、  
また流れてきた雲に埋められ、押し流されていく。  
3月の終わりはまだ風が冷たい。  
人気のない中庭ですれ違った在校生は、マフラーを何重にも巻き、吹き下ろす  
風に首をすくめながら歩いていた。こいつはどうして制服じゃないのだろう、  
と不思議そうにこちらを見遣るのが解ったが、一瞬後にはマフラーに顎を埋め、  
視線を投げたことも忘れたように足早に通り過ぎていく。  
 
長袖のシャツに黒のジーンズの上着を羽織った黒鋼は、足を止め、今し方出てきた  
ばかりの部室の方角を振り返った。  
 
ずっと前に後輩に貸した漫画本を取りに来たが、いつの間にか部室の共有物のように  
なっているのを見ると、持ち帰るのも何故か憚られて、そのまま置いてきた。  
部室などいつでも来られると思っていたが、これからはそうもいかない。  
来たとしても、じきに知った顔はなくなる。これで最後だ、と思えば、  
多少の感傷が湧いて、すぐには立ち去れそうになかった。  
 
足を留めるものはもうひとつある。  
校舎を振り仰ぐ。風雨に晒されやや黒ずんだ白壁に、窓硝子が列をなしている。  
自分の教室があった棟は、別の棟に隠れて見えない。手前の2階が職員室。  
3階に理科室と、併設された化学の教科準備室。  
 
鍵の掛かる棚が並んだその小部屋を使っていた女教師はもういない。  
入試後の登校日はおろか卒業式にも姿を見せず、彼女はひっそりと退職した。  
黒鋼がそれを知ったのは、入試結果の報告に学校を訪れた時だった。  
彼女の席はすでに、産休明けの女教師が埋めていた。  
退職の理由は、一身上の都合としか聞かされなかった。  
彼女とさほど年の変わらないもと担任は、黙り込んだ黒鋼を、伊達だという噂の  
眼鏡の奥から憐れむように眺めた。  
穏やかな笑顔を絶やさないまま、全ての事情を察しているかのような視線に、  
黒鋼はもともと虫の好かなかった義眼の男をますます嫌いになった。  
 
卒業して出て行くのは自分ばかりだと思っていた。彼女の気持ちがどうであれ、  
これまでのように自分が足を向ければ、そこにいるものだと。  
今もまだ、現実感がない。  
 
3階の窓に小さな人影が現れ、目は自然とそれを追った。人影は理科室の辺り  
で歩みを止め、部屋の奥に姿を消した。  
 
どこか懐かしい感覚が既視感だと気付いた瞬間、黒鋼の体は意識するより早く  
動いた。一番近くに見えた入り口から校舎に飛び込み、3段飛ばしで階段を  
駆け上がる。修了式も過ぎ、人気のない廊下に、土足のまま足音を響かせて走る  
黒鋼を見咎める者はなかった。  
教科準備室の扉に手を掛け、一瞬躊躇ってから勢いよく引いた。窓際の後ろ姿が  
振り返った。  
 
「あれー? そんなに急いで、どうしたの?」  
 
黒鋼は言葉も出ず、女を睨んだ。荒々しい自分の呼気が耳につく。なぜ突然  
学校を辞めた。どうして自分に何も言わなかった。  
そして、この晴れやかな笑顔は何だ。  
ファイの表情が僅かに翳った。  
コツ、コツ、と足音が響き、ゆっくりと目の前に立った女は、黒鋼を見上げて  
「ごめんね」と言った。何に対しての謝罪か解らないまま、黒鋼は黙って相手を  
見返した。照明を点けない部屋の中は外の薄曇りと相まって薄暗く、青い目の  
色濃い影にも底が見えなかった。  
 
「謝るくらいなら、辞めた理由を言え」  
 
精一杯刺を込めた科白に、ファイは困った表情を浮かべた。本当のことを  
言う気はないと、それを見た途端直感した。  
「もともと産休の代替教員だからねー。初めからそんなに長く勤める予定は  
なかったんだよ」  
 
何が『初めから』だ。いつもいつも、嘘を嘘だと知っていて聞かされることは  
ひどく不快だ。都合の悪いことは巧く誤魔化してやり過ごすのも気に食わない。  
一体どうしてそんな真似ができるのだ。向こうが大人の女で、こちらが図体ばかり  
でかい青二才だと舐めてかかっているからか。  
「すごく怖い顔してるよー」  
何が楽しいのか、ファイはこちらを見つめてふと目を細めた。  
「……私服を見るのは初めてだね。遅くなったけど、卒業おめでとー……」  
 
職員室に寄って鍵を返すから、と言った女を、黒鋼は裏門で待っていた。  
 
残った私物を取りに来ただけなのだと明かした彼女は、黒鋼が学校に来た理由を  
聞いて「偶然だねぇ」と笑った。  
その偶然がなければ、ファイは黙って学校を去り、黒鋼も進学のために実家を  
離れて、二度と顔を合わせる機会もなかったはずだ。  
雲は厚みを増し、途切れ途切れに見えていた青色も今は見えない。  
 
自分はなぜ、この冷たくざらついた石の壁に背を預けて立っているのか。  
柔らかい女の体に未練があるのは間違いないにしても、単純にヤれる相手なら  
それでいいのかと自分自身に問えば、答えはノーだった。  
性欲を解消するだけなら、女の不誠実などどうでもいい。  
苛立つのは体だけでは飽き足らないからで、しかも嘘や誤魔化しさえなければ  
それで気が済むわけでもなく、いったい何がどうなれば満たされるのか、黒鋼には  
ひどく曖昧にしか掴めないのだった。  
 
静かな空気に、タイヤが格子状の溝蓋を踏む金属音が響いた。速度を落とした  
車が目の前で止まった。  
「お待たせ。乗って」  
促されるまま助手席に乗り込むと、彼女は慣れた手つきでギアを入れ替え、  
車は滑るように走り出した。  
「どこへ行くんだ」  
「行くところがあるなら送ってあげるよ。どこでも」  
唐突な言葉に困惑する。そもそも、これから先のことなど考えていない。  
ただ時間が欲しかった。車から降りればこれまでの全てが何もなかったことになる、  
そんな終わり方でない区切りを掴むための時間が。  
車内を沈黙が満たす。彼女がカーステレオの電源を入れ、絞ったボリュームで  
どこかのFM局の音楽番組が流れ出した。  
ややあって、ファイが口を開いた。  
「……もし、後の予定がないなら少しだけ付き合ってくれる?」  
黒鋼に異論はなかった。むしろ女の方からの誘いに少し驚いた。  
どこへ、と問うと、ファイは「行けば分かるよー」と口元を弛めた。  
「あ、でもあんまり怒らないで欲しいなぁー……」  
 
「なんだそりゃ」  
思わず漏れた声にも彼女はただ楽しそうに笑みを零したので、黒鋼の追求する  
気は失せてしまった。顔を背け、窓枠に肘を突いて外を眺める。そういえば、  
黒鋼の前でこんな風に笑ったことがあっただろうか。何気ない動作や呼吸から、  
いつにない機嫌の良さが感じ取れる。  
 
彼女の何かが変わったのだろうか。学校を辞めたからか、自分がもう生徒では  
ないからか。その両方か。  
そんなことを漠然と思う自分はサイドミラーの中で、何が気に食わないのかというような、  
相変わらずの顰め面だ。  
 
ギアチェンジの音に思考を遮られる。  
彼女の運転はスムースで、走り出す時の圧迫感も停止時の揺れもない。  
ウィンカーの音、サイドブレーキとギアの操作音だけが、時折音楽に混じる  
唯一の物音だった。  
「もうすぐ着きまーす」  
ハンドルを切りながらファイが沈黙を破った。濃い灰色の空を背景に、巨大な  
鉄の建造物が見えた。ひょっとして、と思っているうちにファイはがら空きの  
駐車場の端に車を止めた。これから帰っていくのだろう、駐車場には数組の  
親子連れの姿があった。  
「……遊園地かよ」  
ファイは軽く笑って、閉園に間に合ったよ、と言った。女に続き車を降りる。  
チケット売り場で黒鋼が尻ポケットから財布を出している間に、彼女が入場券を  
2枚買った。先に立って歩き出した彼女に追いつき「幾らだ」と言うと、  
ファイは「無理に付き合って貰ったんだから、これくらいさせてよぅ」と  
困った顔をした。渋面になったのが自分でも分かる。手の甲にそっと指が触れた。  
 
「……ね、早く行こうよ」  
 
緩く絡んだ指先に引かれるようにして歩いた。大時計を見れば閉園30分前で、  
園内の人影も疎らだった。彼女は時折顔を上げて方向を確認しながら、まっすぐ  
ひとつの影を目指しているように見えた。やがて全体を表したその遊具は、  
卵形のゴンドラを鉄筋で組んだ輪の縁にぶら下げ、太い支柱に支えられて  
一定の速度でのろのろと回転を続けていた。  
ファイはさっさと係員に二人分の料金を払い、黒鋼を振り返った。  
「なんで観覧車なんだ」  
 
「子供っぽい?」  
 
薄化粧をしてパンツスーツに細身のトレンチコートを羽織り、踵の高い靴を履いた  
彼女は少しはにかんだように見えた。引っ張られ通しだった指を握り返すと、  
ファイは曖昧な表情で黒鋼を見返した。  
係員がゴンドラの扉を開け、「足下に気を付けて」と言った。  
 
眼下の視界が広がっていく中、向かい合わせに座った女は一度照れ臭そうに  
肩をすくめた。それきり黙って硝子窓の外を眺める先には、見覚えのある街並みが  
薄闇に沈みかけていた。薄汚れたコンクリートの校舎も通い続けた通学路も、  
あの中にある。女の表情を盗み見たが、眼差しはゆるく跳ねた髪の陰になって  
どこに焦点を定めているか判らず、そういえばなんで観覧車なんだという  
疑問への答えもないままだった。女がこちらの視線に振り向く様子はなく、  
黒鋼は彼女が眺めているのと逆の窓から暗い外を見下ろした。  
 
窓硝子に自分の影が映っている。眼下の風景がゆっくりと移ろう。  
なんで俺はここにいるんだ、と、校門に立っていた時にも自問したことを繰り返した。  
学校を離れた今、自分とこの女の間に何の関係がある。なんのために。  
 
いつの間にか頂上も過ぎ、徐々に地上が近付いていた。金属の軋みを聞きながら、  
この小さな空間を出た後のことを考えた。  
彼女はおそらく、もう帰りなさい、また今度ね、と言うだろう。見え透いた嘘はもううんざりだ。  
曖昧さや誤魔化しのきかないものだけあればいい。例えば――携帯電話の番号のような。  
 
視界の端に人影が差した。向かいの席から大きく身を乗り出したファイが、  
黒鋼の膝に手を掛けて顔を覗き込んだ。地表がもう近い。  
「キスしていい?」  
「……駄目なのはそっちだろう」  
「意地悪言うねぇー……」  
ファイは薄く笑って目を伏せた。近付いた髪が額と頬を擽り、暖かく湿った吐息が  
唇を撫でた。膝にかかる掌の重みが、初めての時のことを思い出させる。  
焦らしているつもりか、と薄目を開けて見れば、固く閉じた白い瞼の先で  
金の睫毛が微かに震えていた。  
ずきりと下腹で血管が脈打った。ここがどこかも忘れて掴み寄せようとした時、  
ファイは素早く身を退いた。  
 
「残念、時間切れだよぅー……」  
 
――てめえ、ふざけるのもいい加減にしやがれ。  
 
鍵を外す音に続き、係員が開けた扉から外に出た。続いて降りてきた女の腕を掴む。  
イルミネーションの灯りがぼんやりと届く薄闇で、女が笑う気配がした。  
係の人に見えちゃったかなぁ、という囁きが耳元を擽った。  
彼女が自分の腕に軽く寄りかかるようにしてゲートを潜り、人気のない駐車場に戻った。  
乗り込んだ車で照明が点くと、外界から隔絶されたような心地になった。  
「今日は付き合ってくれてありがと」  
エンジンをかけながらファイが言った。声の端にはまだ弾むような調子が残っている。  
何気ない単語が耳に残り、自意識の無様な過剰さに内心舌打ちした。  
それでも――ゲートを潜ったときの二人の姿はまるで≪付き合っている≫ようだ。  
そう思った途端、心臓の辺りをふわりと得体の知れない熱が過ぎった。  
 
「結構暗くなっちゃったねぇ。家の近くまで送るよ」  
「いらねぇ」  
「そう言わないでー……」  
「それよりお前の部屋がいい」  
 
空気が止まった。女はハンドルを握る手に視線を落としたまま息を殺し、  
こちらを見なかった。  
無限にも思われる沈黙が続いた後、彼女は呻くように呟いた。  
「……帰りが遅くなってもいいのー……?」  
自分から言っておいて、悪いもクソもあるか。  
なだめるか、誤魔化すか。そう思って見つめる先、ファイは顔を上げた。  
青い目に迷いの色はなく、見返された自分が息を詰める番だった。  
僅かに微笑んだ唇が言葉を紡いだ。  
「いいよ。行こう」  
 
ぱらぱらと雨が降り出した。車は途中で一度、ショッピングセンターに寄り道をした。  
黒鋼を車内に残して建物に駆け込んだ彼女は、野菜や小さな紙包みの入った  
ビニール袋を下げて戻ってきた。  
「食べ物の好き嫌いはある?」  
 
言うか言うまいか迷った挙げ句、「牛乳」と答えるとファイは一瞬キョトンとして、  
それから軽く吹き出した。  
「うわぁ意外……、じゃあ一体どうやってそんなに大きくなったの」  
「うるせぇ。関係ねぇだろ」  
マンションの駐車場に車を止め、入り口のオートロックを解除する間も、  
他愛ない遣り取りが続いた。彼女は生魚が食べられず、甘い物が好きだという。  
こんなところまで相容れない。  
 
エレベータで階上に上がり部屋の鍵を開けると、彼女は「ちょっとだけ待っててねぇ」と  
黒鋼をドアの前に残して一旦中へ引っ込み、数分後顔を出した時にはスーツを脱いで、  
ラフなシャツとジーンズに着替えていた。  
ボタンをいい加減に留めたらしい薄手の白シャツの奥には下着の色が透けて見え、  
ジーンズのフロントホックの上には乳白色の肌が覗いていた。部屋の灯りが目を射す。  
 
「どうぞ、上がって。狭いけどー」  
 
彼女が扉を開き、自分を招く。実際に招き入れられるのは初めてのことだが、  
何度も繰り返してきたような懐かしさを覚えて、黒鋼は黙って従った。  
ワンルームの床に黒鋼を座らせ、ファイは「何か作るから待ってて」と言い置いて  
キッチンに引っ込んだ。正直、飯なんかどうでもいい、という気はしたが、  
あまりがっついていると見られるのも格好悪い。  
 
手持ち無沙汰に眺め回した部屋の中は、「一人暮らしの女の部屋」という言葉の  
イメージからは意外なほどに物が無かった。ベッドと背の低い棚、折りたたみの  
テーブル、アルミのハンガーラックに観葉植物に小型のノートパソコン。  
棚の3段ある空間のうち、2つを化学の教科書や参考書、紙ファイルに辞書が  
占めている。ベッドの方は整えられ、窪みや膨らみの一つも見当たらないが、  
寝具のなめらかな光沢は、女の寝起きする姿や夜半の衣擦れ、秘やかな溜息を  
否応なく想像させて、黒鋼は妙に落ち着かなくなった。  
女の居るキッチンに向かう。  
狭いコンロの脇に皿を並べながら、背を向けたままファイは「もうすぐだよー」と言った。  
バターと香草の香りが漂ってきた。  
 
こんな情景は想像すらしたことがなかった。モノクロの無声映画だと思いこんで  
いたものが、実はカラーで音声付きなのだと突然知らされたみたいだ。  
 
「お待たせー。お気に召すかどうかは分からないけど」  
二人分のパスタとサラダをテーブルに並べ、女は黒鋼の向かいに座った。  
窓の外の暗がりに中の明るさが漏れ出している。パスタは美味かった。  
素材の味がよくわかる作りは黒鋼の好みに合っていた。黙々とフォークを動かす黒鋼を、  
ファイは途中からテーブルに頬杖を付いて、笑みを浮かべながら眺めていた。  
「作った奴がちゃんと食え」  
「何だか君が食べるのを見てて、お腹が一杯になっちゃったよー」  
黒鋼は空になった皿にフォークを置いた。  
「お代わりはいい? じゃあ、珈琲かお茶でも淹れてくるね」  
 
空の皿を手に、ファイが立ち上がろうとした。黒鋼は手を伸ばして、女の肘を掴んだ。  
 
女の動きが止まった。  
電灯がジジ、と小さく鳴いた。  
女は皿を静かにテーブルに戻した。掴んだ腕を引く。彼女は逆らわなかった。  
ゆっくりと引き倒すように力を込めた。床に金色の髪が広がる。  
青い目が瞬きもせず黒鋼を見上げた。  
「……ベッドに行かないのー……?」  
「ここでいい」  
相手は良くないだろうという思いが脳裏を掠めたが、それも一瞬だった。  
我慢はもう十分した。一度は誘惑した相手を部屋に上げたのはそっちだ。  
獲物にのし掛かるように体を屈める。彼女は小さく笑みを浮かべた。  
薄く色付いた下唇に吸い付く。温かい。ひどく柔らかい。  
 
――キスは駄目だと拒んだくせに、なぜ、今日は。  
 
そんなことも、彼女の口から細い喘ぎ声が零れ、かすかにほころんだ唇から  
覗いた舌先が黒鋼の口の端をそろりと舐めた瞬間、突き上げる欲情の波に呑まれ  
どうでもよくなった。  
唇の隙間から舌を割り込ませる。挑発しては逃げる舌先を絡め取ろうとして  
捉えきれず、もどかしさに苛立ちが募る。舌を伸ばして上顎の表面をゆっくりと  
なぞった。ファイが苦しげに呻き、弾力のある舌が黒鋼の舌を押し遣る。  
荒い呼吸が空間に熱を撒いていた。  
「……手を、放して」  
 
いつの間にか腕を掴む手にひどく力がこもっていた。強張った指から力を抜くと、  
彼女は一瞬痛みを堪えるような顔をしてから、黒鋼の首に両腕を回した。  
引き寄せる力のまま再び身を屈める。  
唇よりも、濡れた舌先同士が触れあう方が早かった。もつれるように抱き合い、  
息を荒げ体を擦り付け合って、何度も角度を変え温かい口腔を蹂躙した。  
「……っ、……」  
飲み下しきれず溢れた唾液が顎を伝い落ちるのを、ファイの袖が拭った。  
もう一度、誘われるままに唇を重ねながら、手探りで這わせた指先に  
シャツのボタンが触る。引きちぎるように一つ、二つと外した隙間から片手を突っ込み、  
レースの下着ごと乳房を掴み上げた。  
女が小さく呻く。金の睫毛が微かに震えた。  
柔らかく丸い脂肪の塊が、黒鋼の掌の中で撓み、なすがままに弾む。  
 
――突然、軽快な電子音が静かな部屋に鳴り響いた。  
 
ファイの体がびくりと震えた。恍惚とした表情が消え、視線が一瞬虚空をさまよう。  
黒鋼の首に縋り付く腕は離れないが、鳴り続けるメロディに、明らかに  
気を散じているのが分かった。  
 
10コール分ほど鳴り続けた挙げ句、着信音は止んだ。動きを止めた掌の下で、  
ファイの鼓動が鳴っている。  
彼女は黒鋼の胸に手を突き、押し退けるようにゆっくりと身を起こした。  
「どこへ行く」  
女は無言で部屋の隅のバッグを取り上げ、携帯電話を出した。青い光が明滅している。  
カチリとパネルを開く音の数秒後に、再び硬い音が響き、彼女はすべてのライトが消えた  
携帯電話をバッグの中に放り出した。  
「……ごめんねー……」  
また、それか。眉間の皺を抑えられない黒鋼を、女は宥めるように見上げた。  
「そんな顔しないでー。今更止めようなんて言わないよ。……食器も片付けて  
ないし、続きはシャワーを浴びてからでもいいでしょー……?」  
「……後で何を言おうが、これで終わると思うなよ」  
 
意外にも、ファイの目元が和んだ。続く言葉は悪戯っぽい響きを帯びていた。  
「覚悟して待ってるよー。早く戻ってきて、ベッドの中で君の好きにして」  
<LOST-1・了>  
 

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