黒鋼の左手の傷は、皆が思っていたよりももっと重いものであった。
本人もその痛みの強さからそのことを自覚していた。
だからその夜、天照や知世、蘇摩が一人の新たな老医者を連れて黒鋼の寝室にやってきても、黒鋼は対した驚きを感じなかった。
「おうおう、どうしたんだ?こんな夜中に人の寝室にぞろぞろと」
「黒鋼、その傷はお前が考えているより重いものだ」
天照の言葉をその医者が引き継ぐ、
「左様。その腕が切られたのは普通の空間においてではない。故に傷の癒えが遅く、このままでは傷が化膿してお前さんの命が危なくなりますのじゃ。」
「ほう。」
何ともないふうに装う黒鋼だが、その黒鋼を見つめる皆の視線の真剣さに思わずたじろいだ。
だがそんな中、いつもなら誰よりも真っすぐに彼を見つめる知世は、彼と目を合わせようとはしなかった。
(妙だな…)
そう思いつつも、黒鋼は尋ねた。
「それで?俺はこのまま死ぬのか?」
「いや、一つだけ治す薬があるのじゃ。」
「だったら話ははええ。さっさとそれを飲ませろ。」
「それがその薬はちと厄介な代物でな、普通に飲用したのでは効かんのじゃ。」
「?」
「唯一の飲用方法は“口うつし”、それも神官またはそれになる資格を持つ女子の、な。」
「はぁ?」
黒鋼は自分の耳を疑った。今この国でその条件を満たす者は二人しかいない。一人はサクラ、もう一人は…知世だ。しかしサクラがあのような状態にある中では、当然一人に絞られてくる。
「知世しかいないであろう。」
天照が淡々とした口調で言った。
「な、何ぃ!?」
思わず知世を見つめると、顔を赤らめてうつむいている知世の姿があった。
「ば、ばか野郎!!そんなことできるか!と、知世と口づけだと?ふざけるじゃ…」
「知世様はもうご承知して下さったのだぞ!!」
蘇摩のその一言で黒鋼の罵りが止んだ。
「なん…だと」
「それをお前は、知世様の心を踏みにじるようなことを!!」
「う、いや…それは」
「とにかく今は急を要するのじゃ。知世姫様、お願い致しますぞ。」
「…はい。」
一呼吸おいて知世が返事をした。
黒鋼が信じられないというように知世を見つめるが、知世はその目を見ようとはしない。
そして、医者から薬の液体を受け取った。
平静を装っているようだが、その手が震えていることに黒鋼は気づいた。
知世は液体を口にふくんだ。
「知世…」
黒鋼が小さくつぶやいた時、初めて二人の視線が絡みあった。
その一瞬の後、知世は目を閉じると、今だ驚きを隠せない黒鋼の唇に、自らの唇を近づけていく。
……っ
軽い音をたてて、二人の唇が重なった。知世の口から、彼女の体温で少し温かくなった薬が、ゆっくりと注がれていく…。
…やがて二人の唇は離れた。
「はぁっ…」
知世はふらついてその場にへたり込みそうになったが、なんとか柱に手をついてこらえ、走って部屋を出ていった。
「…コホン。ふむ、終わったようじゃの。」
それまで夢を見ているかのような表情をしていた黒鋼が、この言葉でやっと我に返った。
「あ、ああ。ふぅ、これで治るんだな。」
照れ隠しに髪の毛をかいて、必死に平静を装おうとする。
「ばかもの。誰がそのようなことを言った!」
「何!?」
「少なくとも一週間は続けねばならぬ。それも一日三回、の。」
「な、なんだとぉ〜っ!?」
黒鋼の蜜のような毎日が、これから始まろうとしていた。
【終わり】