エレベーターに乗り込みキーを回す
本来そこまでしか存在しないはずのB2階を通り越し、ゴウンと大きな音を立てて機械は停止した
扉が開くと見張り役の部下が仰々しく礼をしてきたので、ご苦労さんと声をかける
地下は初夏に差しかかろうかというこの時期になってもうすら寒く、
薄暗い廊下にはコツコツという乾いた靴の音が響き渡る
俺は目的の部屋の前に差し掛かると、敢えて大袈裟に扉をノックした
「入るよ」
扉を開けて中に入ると同時にベッドの上の人影がこちらを睨み付ける
切れ長の瞳に腰まで伸びた艶やかな黒髪、頭には猫の耳を模したヘアバンド
足には枷が付けられ、そこから伸びた鎖は壁と繋がっており自由に歩き回ることも出来なくなっている
まだ幼いその少女−葉月クルミ−は、ただ無言で、射抜くような視線でこちらを睨み続ける
「そんなに怖い顔しないでくれよ、せっかくの可愛い顔が台無しだ。
部下には丁重に扱うように伝えてあるけど、不自由はないかい?」
「不自由? ないように見えるとしたらアンタ相当なバカね!
早くここから出しなさいよ!」
少女は凛とした声で、その可愛らしい容姿からは想像も出来ない口調で怒鳴りつける
ここに閉じ込められて何日も経つというのに、このような異常な状況下でも大した精神力だ
だが… 我々の組織の邪魔になる以上、殺しはしないまでもその心は折っておく必要がある
「残念だけど、まだ出してあげることは出来ないな。
君のエンジェルボム…だっけ、あの能力は天使の涙を手に入れるにあたって非常に厄介なんでね。」
「ふん! お姉さま達を甘く見ないことね!
きっとすぐにここに助けにきてくれるわ! せいぜい首を洗って待ってなさい!」
「ええと、残りの二人…
レッドエンジェル水無月遥とブルーエンジェル神無月葵か。」
二人の名前を出した途端クルミの表情が強張る
「…!
なんでお姉さま達の正体を…!」
「我々の組織力を甘く見ないで欲しいね。
…というか顔見えだし。
で、その二人はほんとに君を助けに来てくれるのかな?」
「な、何言ってるのよ! 当たり前じゃない!」
「さて… どうだろう。
調べによると君は随分と水無月遥に嫌がらせをしているようだね。
転校初日から初対面の相手の胸倉を掴んで怒鳴りつけるとは、大したもんだ。
他にも…。」
「な、何でそんな事まで知ってるのよ!」
「言ったろう、我々の組織力を甘く見ないで欲しい、と。
で、それだけ嫌がらせをしていた君を水無月遥は助けに来てくれるのかな?
それに、調べによれば水無月遥と神無月葵は家族も同然の仲だ。
…そんな二人の中に割って入ってきた君を神無月葵も快く思っていないかもしれないね。」
「そんな… そんなわけない!」
そう、当然そんなはずはない
データで知る二人の性格からいっても、今でもクルミを血眼になって探しているだろう事は間違いない
だが、クルミの表情にはそれまでとは違う明らかな動揺が見て取れる
この程度のブラフに揺れるとは、如何に気が強いとはいえまだ子供だ
「まぁ君はこのまま我々が天使の涙を手に入れるまで大人しくしてくれてればいい。」
「うるさいっ! バカっ!
アンタに一体お姉さま達の何がわかるっていうのよ!
絶対来てくれる! そしたらアンタ達なんか一捻りなんだから!」
「はは、助けに来てくれればいいんだけど。」
「そしたらアンタ達絶対許さない!
私を怒らせたこと後悔させてやるんだから!」
「君たちはあのポケてんとかいうのが無いと変身できないんだろう?
君のポケてんは我々が既に預かっている。
後悔させるって、どうやって?」
「うるさいっ! 黙りなさいよっ!」
クルミは半狂乱になりながら叫び続ける
地下に監禁され行動の自由を奪われるという異常な状況下で幼い少女が己を保てていたのは
「二人が助けに来てくれる」という確信があったからこそだろう
だが、確信が疑念に変わった今、少女を支える柱は崩れかけている
…もう一押し
「アンタ達なんか絶対やっつけてやる! やっつけてやるんだか…」
パシン
乾いた音が薄暗い地下室に響き渡る
クルミは一瞬何が起こったのか理解できず、呆然として目をしぱたかせていた
暫くして頬をはたかれたのだと理解すると、俺をきっと睨み付けそれまで以上の大声で叫び始めた
「痛いじゃないっ! 何するのよっ!」
パシン
だが、俺は何も答えず、代わりにクルミの頬を平手ではたく
「痛っ!」
パシン
右の頬を
「痛いって言ってるでしょ!」
パシン
左の頬を
「痛いっ! やめて… よっ…!」
パシン
罵声を浴びせるわけでもない、脅すわけでもない
ただ無言ではたき続ける
「やめてっ…! やめなさいよ…っ!」
パシン
それほど力を込めているわけではない
手首のスナップを利かせ、音だけは派手に鳴るようにする
過剰に肉体的苦痛を与える必要はない、「頬をはたかれ続ける」という事実が重要なのだ
パシン
「おねが… いっ…! やめ… てっ…」
俺は何も答えず、赤くなってきた頬を執拗にはたき続ける
パシン
パシン
パシン
パシン
「おねが… い… もぅ… ぶた… ないで…」
それまでの威勢の良さは完全に潰え、クルミは涙をぽろぽろと零しながら哀願する
赤く腫れ上がった頬が痛々しい
もうこの時点でも効果は十分だが、俺は最後の仕上げにかかる
「威勢がいいのは嫌いじゃないが、君はもう少し自分の立場を理解した方がいいな。
元々、天使の涙さえ手に入れれば君に用はない、解放してあげるつもりだったんだけど…。」
敢えてこれ以上無いと言えるほどの優しい笑顔と声色で囁きかける
「ここは俺達の組織の中でも一部の人間しか知らない場所なんだ。
わかるかな、何が起きても誰も気が付かない。
君がそういう態度を取り続けるのなら…」
一呼吸置いてクルミの耳元に口を寄せ続ける
「…もうおうちに帰れないかもしれないね?」
クルミの体が一瞬びくんと強張る
部下には乱暴に扱わないように徹底したこともあり、およそ最悪の事態は想像していなかったのだろう
いや、自分を保つために敢えて想像していなかったと言うべきか
「家に帰れない」その意味を察した幼い少女の体はがくがくと震えだし、ぽろぽろと大粒の涙を零す
「ひ…っ…!
い… やぁ… おねがい… します…
かえり… たいです…」
「さて… どうしようか。」
「おねがい… します…
なんでもいうこと… きく… から…
ゆるして… ください…」
クルミは泣きじゃくりながらそれまで憎まれ口を叩いていた俺に哀願する
体を震わせながら涙を流す少女に、最初の面影はどこにもない
「なら、ここで大人しくしている事だ、できるね?」
「は…い…」
「あぁ、いい子だ。」
泣き続けるクルミの頭を撫でようと手をかざすと、それに反応してビクンと体を反らす
またはたかれると思ったのだろう
−完全に折れた−
そう確信した俺はクルミに声をかける
「また来るからね。」
クルミはこちらを見る事もせず、目を伏せたままで涙を流し続けている
確かな手応えを感じた俺は部屋を後にする
見張りの部下に変わらず丁重に扱うように伝えると、俺はエレベーターに向かって歩き出した
薄暗い廊下には相変わらず乾いた靴の音だけがコツコツと響いていた